雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

時間と付き合う ・ 小さな小さな物語 ( 909 )

2017-04-22 13:34:39 | 小さな小さな物語 第十六部
アメリカの大統領選挙は大変な混戦となっているようです。
一時は勝負あったかのように見えた時期もありましたが、FBI長官の発言から再び接戦となってきたのですが、ここに来て、訴追にあたらない旨の発言があったので、これがどの程度影響するのが興味深いと思っています。それにしても、選挙終盤で、捜査当局の長官がこのような発言をすることは、わが国では相当の問題になるのではないでしょうか。
アメリカの場合、期日前投票はわが国より比率が高いようですから、この長官の捜査再開の発言から訴追見送り発言までの間に期日前投票した人に、どの程度の影響を与えているのでしょうか。
時間という代物は、取り消しも取り返しも取り替えも出来ないという、付き合いにくい一面を持っていることがよく分かる出来事のようです。

アメリカの大統領選挙は独特の制度のもとで行われています。それに関して少し勉強して見ようと思った途中で、サマータイムについての記事が目につきました。
日照時間の長い時期に、時計を一時間ばかり早めるというのをサマータイムというはずですから、「サマー」つまり夏の間に実施されることだと考えていましたが、実はアメリカのサマータイムは、三月の第二日曜日から十一月の第一日曜日まで行われているそうですから、その期間の長さに驚きました。これだと、この期間の方が通常の時間と考えるべきではないのでしょうか。
もっとも、「サマータイム」という言い方はイギリスなどのヨーロッパの国の言い方のようで、アメリカでは「デイライト・セービング・タイム」と言うそうですから、私たちが考えるサマータイムとは、時間との付き合い方が違うのかもしれません。

サマータイムは、わが国でも米軍の施政下にあった昭和二十三年に実施されています。ただ、わが国ではどうも不人気だったようで、四年ほどで廃止になっています。
この制度の是非については、現在でも賛否両論があります。また、それぞれの国の地理的な条件にもよりますでしょうし、国民性にも影響されるような気がします。
最近でも、わが国もこの制度を導入すべきだという意見があるようですが、あまり支持を得ていないようです。私の個人の意見としましては、わざわざ時計を一時間早めたりしてもらわなくても、頭と感覚で上手に時間と付き合いますよ、と思っているので、反対です。

私たちの祖先は、つい江戸時代までは、時間の流れを日照時間で定めていました。
落語の時蕎麦で有名ですが、「今、何刻だい」という「刻(トキ/コク)」は、時間あるいは時間の単位を指します。一般に一刻は二時間ぐらいとされますが、江戸時代の一般庶民は、不定時法により一日の時間の流れと付き合っていました。不定時法は、日の出から日の入までを昼として、それを六等分したもの、あるいは、夜の部分も六等分したものを一刻としていました。春分・秋分の頃は、一刻はほぼ二時間になりますが、夏は、昼の一刻はとても長く、夜の一刻はとても短いことになります。冬はその反対です。
つまり、私たちの先人たちは、サマータイムどころかウインタータイムも加えたオールラウンドの時間の流れを体感で得ていたのです。
私たちの日常においても、同じ一時間といっても、その場面場面で長さが異なって感じることはよく経験することです。さらに、観念といいますか、想像の世界では、現世ばかりか、前世も来世も時間の範疇として思い描くことが出来ます。
この、何とも掴みにくく、それでいて常に共にある不思議な存在である時間を、針を動かせることなどで支配されることなく、何とか仲良く穏やかに付き合っていきたいものです。

( 2016.11.08 )
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トランプの時代 ・ 小さな小さな物語 ( 910 )

2017-04-22 13:31:20 | 小さな小さな物語 第十六部
アメリカの大統領選挙は、大方の予想に反しトランプ氏が勝利しました。
選挙中は、わが国の選挙では致命的と思われるようなスキャンダルが明るみに出たり、そこまで言っていいのか、と思われるような暴言を再三どころが四六時中振りまきながら、根強い支持層をがっちりつかんでいたのでしょうか、接戦州と言われていた州をことごとく勝利するという予想外の展開を見せつけてくれました。
何はともあれ、来年からの四年間は、アメリカという世界の最強国であり、わが国にとって最も影響の大きいこの超大国は、トランプ氏という人物をリーダーに選んだわけです。

この長期にわたる選挙戦は、私たちに多くのことを示唆してくれたように思われます。
まず、世界中の、大手の報道機関やシンクタンクなどといわれる所の選挙予想は、必ずしも正確ではないということが世間に知られてしまいました。隠れトランプといったような理由づけはいろいろ示されているようですが、イギリスのEU離脱の国民投票の結果がそうであったように、先進国の自由な意思で投票できる人々の動向を、ごく限られた知識や経験などでは、そうそう簡単にはつかみ切れないということがはっきりしてきたのではないでしょうか。つまり、この種の予想においては、今後は相当の誤差の範囲を設けなくてはならなくなるでしょう。

もっと本質的なことを考えるとすれば、知識不足を承知で申し上げるのですが、世界の多くの国や地域で、ヒラリー的な価値観からトランプ的な価値観への変化が、かなりのスピードで起こっているのではないでしょうか。
第二次世界大戦後、アメリカを中心として築かれてきたと考えられる秩序や正義や価値観といったものの尺度を、この二人で代表させるのには無理があると思いますが、隣国での政治の混乱などもそうした動きの一つのように思われるのです。

トランプ氏を支持した有力な層は、社会の繁栄から置き去りにされたと考えている白人だといわれています。激しすぎるほどの他人種や密入国者などへの攻撃的な発言は、明らかにそうした層へのアピールだったはずです。つまり、一国の繁栄は、ややもするとトータル的な係数によって評価されがちですが、その国には一人一人の生活があり、時には国家の繁栄以上に個人の生活基盤が重要だということを、為政者はもっと知る必要があるような気がするのです。
世界で最も豊かで、世界の民主主義をリードしていると考えられるアメリカでさえ、その国内には複雑な問題があり、個々の生活を守っていくことは容易なことではないようです。そして、選挙によってリーダーを選ぶ制度を持っている国家は、そうした人たちの声を無視することは出来なくなってきており、一部の経済人や知識人や長年のボスを味方にしただけでは、政治的なリーダーになれない時代がやって来たように思われます。
もしかすると、この数年を、そうした価値観が大きく変化する「トランプの時代」と呼ばれることになるような予感がするのです。

( 2016.11.11 )
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ポピュリズム ・ 小さな小さな物語 ( 911 )

2017-04-22 13:30:00 | 小さな小さな物語 第十六部
『イギリスのEUからの離脱を問う国民投票に続いて、アメリカの大統領選挙もポピュリズムに屈した。自由民主主義の危機である』といった記事を、再三目にしました。
アメリカ大統領選挙におけるトランプ氏の勝利がよほど意外だったのでしょうが、誰が決めたのか知りませんが、知識人とされる人が談話や記事として、意見を述べています。中には、「ポピュリズム」=「衆愚政治」と説明して、民主主義の危機を述べている人さえいました。

「ポピュリズム」の正しい説明は、付け焼刃的に調べた知識では困難ですので勘弁いただきますが、本来は、「人民主義」と訳され、「ナショナリズム(国民主義)」に対する言葉のようです。
一般的には、政治的な手法として用いられる場合には、理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し支持を求める手法、あるいは、そうした大衆に基盤とする運動を指すようです。つまり、エリートに対する大衆といった対立軸を意識して用いられることが多いようです。

「ポピュリズム」には、危険な要素が含まれているとは確かなようです。たとえば、ある出来事に対して、実態以上に危機をあおり、不安感や絶望感などに訴えて支持を得るというやり方は、時には市民をミスリードしてしまうことになります。あるいは、実現困難なことを承知の上で、美味しい公約を列記するなどもよく見られる手法で、「大衆迎合」とか「大衆扇動」などと評されて、「ポピュリズム」を悪者、あるいは「愚者」といった立場にされがちです。
もっと厳しい人は、先に書きましたように、「ポピュリズム=衆愚政治」と断定する人さえいるわけです。もっとも、個人的な意見としては、こういう表現をされるのは、厳しい人というよりは、「衆愚政治」という言葉をうまく説明できないので「ポピュリズム」という言葉を使って格好をつけたか、「ポピュリズム」という言葉の意味や、今回の大統領選挙で起こっていることを理解できていない人だと思っているのですが。それに、大衆を愚か者とするのは、いつの時代の思考回路を有しているのかと、首をかしげてしまいます。

民主主義の根幹をなすものの一つに、「多数決による意思決定」という制度があると、当コラムでも再三述べてきましたが、間違っていないと思うのです。同時に、やはり何度も書かせていただいたように、多数決による意思決定は決して万能ではなく、多くの危険をはらんでいます。その最大のものは、少数意見が切り捨てられる可能性があり、ごく限られた部分の意見の一致が全体を動かせてしまう危険があるといったことではないでしょうか。
しかし、残念ながら私たちは、多数決に勝る意思決定方法を見つけ出すことが出来ていないのです。そうであれば、この意思決定方法をいかにうまく運用するかが知恵というものだと思うのです。
そして、アメリカの大統領選挙の制度や運動のあり方に様々問題があったとしても、トランプ氏の勝利を「ポピュリズム」という言葉を借りて、まるで衆愚政治の為せるわざのように言うのは、余りにも社会の変化に無知すぎるのではないでしょうか。一国の政治は、一握りのエリートの為ではなく、より多くの大衆の生活を守るべきものであることは、手法に差はあるとしても、動かせぬ原則ではないでしょうか。
イギリスに続きアメリカにおいても、わが国のエリートとされる多くの人が結果を読み間違えたのは、票読みを間違えたのではなく、もっと根本的な社会の変化を洞察することが出来なかったのではないでしょうか。
私たちはもっと謙虚に、この国の将来像を考えていく必要があるような気がするのです。

( 2016.11.14 )
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スーパームーン ・ 小さな小さな物語 ( 912 )

2017-04-22 13:28:40 | 小さな小さな物語 第十六部
今月の十四日の夜は、月が一年で最も地球に近づき満月が大きく見える「スーパームーン」でした。
残念ながら、私の住居地は雨模様で、その片鱗さえ見ることが出来ませんでしたが、翌日の「十六夜の月」はとても美しく見ることが出来ました。
報道によれば、今年の「スーパームーン」は、六十八年ぶりの接近だそうで、翌日の「十六夜の月」の時点でも、月と地球の距離はほとんど変わらず、通常月よりかなり大きく見えるそうで、実際にかなり明るいように思われました。

「スーパームーン」というのは、天文用語ではないそうで、占星術から生まれた用語だそうです。
月は、地球から見える天体の内で、太陽に次いで大きく見える物体です。当然のことながら、有史以来、というより、有史以前から、私たちの先人たちは太陽と同等というほどの影響を受けてきたようです。物理的といいますか、私たちの生命への関わりということでは、その影響は太陽に遠く及ばないのでしょうが、精神的な面での影響では、同等といえるほどの影響を受けてきたのではないでしょうか。

「スーパームーン」とは、地球を楕円軌道で回る月が、地球に最も接近した日が満月と重なる現象を指しますが、今年でいえば、今年最も離れていた四月の満月と比べると、直系で14%、面積で30%大きく見えたそうです。
海の干潮・満潮などは、月の引力による影響が大きく作用していることはよく知られていますが、海水に関わらず、空気やさまざまな地質にも影響を与えているそうです。大地震などの引き金になったのではないかという噂もあったそうで、その真偽はともかく、あらゆる面に何らかの影響があるとすれば、「スーパームーン」の時は、その影響が増すことは十分考えられることです。

月が私たちの日常に影響があるとすれば、物理的なことより精神的な影響の方が遥かに大きいように思われます。
私たちの先人たちは、月を見ては歌を詠み、実らぬ恋に涙し、たぎる憎しみを柔らかな月光に心を鎮めてきたようです。ある女性は、「私は引き潮の時に生まれたので長生きできないといわれた」という言葉を抱きながら百余年の生涯を送りました。
このように、私たちにとって、お月さまは格別な存在であることは確かな事でしょう。
まあ、個人的には、ウサギさんが、「スーパームーン」などといって、拡大された姿を大勢の人に覗かれるので、のんびりとお餅をついているわけにもいかず、恥ずかしがっていないかが心配です。

( 2016.11.17 )
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社会秩序の再構築 ・ 小さな小さな物語 ( 913 )

2017-04-22 13:26:59 | 小さな小さな物語 第十六部
アメリカの大統領選挙は、多くの予想に反してトランプ氏が勝利しましたが、その余韻といいますか、余震のような物がまだ続いているようです。
アメリカ国内では、トランプ氏の大統領就任に反対するデモが数多く行われているようですが、選挙だけで決着できない人々も少なくないようで、少々意外な感じを持っています。
それに、今回の選挙は、同国の過去の大統領選挙に例を見ないほどの非難合戦であったようです。候補者本人への中傷合戦は、醜くはあっても、比較的後を引くものは限定的でしょうが、今回の場合は、人種や宗教をはじめ、私たちが理性で押さえてきていたけれど、本当は完全に身についていない様々な差別感情などを大っぴらに口にしてしまったのですから、この収束はなかなか大変なのではないでしょうか。
つまり、大きく傷つけられたこれまでの社会秩序を、どのような形で再構築するのか、世界を主導してきた国の知恵を見守りたいと思います。

社会秩序を、どのように定義するかは、辞書の説明だけではなかなか納得できない感があります。
今回のアメリカの大統領選挙に限って考えた場合、極端な論調をするものでは、トランプ氏の登場がこれまでの社会秩序を壊したというものさえあります。あるいは、史上最悪といわれる選挙戦が国民を二分させ、社会秩序に大きな傷跡を残してしまった、といった論調は、結構数多く見られました。
しかし、社会秩序を価値観を共有することにあると考えた場合、アメリカの、そして先進国のエリートとか知識人とかいわれ、これまで社会をリードしていたとされる人たちの多くが、今回の選挙結果を予測できなかったということは、社会の大層の価値観の変化を読み切れなかったということで、すでに社会秩序は大きく変化していたということではないでしょうか。

様々な意見はあるとしても、超大国アメリカの次期大統領は決定し、閣僚などの人事が進められており、何人かはすでに内定しているようです。何でも、大臣や補佐官や高級官僚を含めて、政治運営の上層部の四千人以上が交代するそうですから、留任はあるとしても、相当の変化があるのは当然と言えましょう。
そうした中で、わが国の首相は早々に次期大統領と会談しており、大変な関心が寄せられているようです。極めて薄い人脈の、再構築を進めているのでしょうが、この行動を好意的に評価している人が多い中、朝貢外交だと非難している人もいるようです。
政治的な立場、価値観の差からくる発言でしょうが、国際秩序が大きく変化しようとしていることを認識したうえでの発言なのでしょうか。

今年は、イギリスのEU離脱、アメリカの予想外の選挙結果、といった、民主主義の先進国と考えられる二か国で大変な変化、国家秩序の崩壊に近い変化が起きていることは無視すべきではないと思うのです。
規模も内容もかなり違いますが、近隣国の政治混乱も、直接原因は一握りの人物の犯罪行為だとしても、その根底には、社会秩序の変化があるのではないでしょうか。
昨今、数多くの国内犯罪や、社会の指導層たる人たちの犯罪・怠慢を数多く経験しているわが国ですが、世界の国々と比べれば、比較的安定していると考えられますし、多くの人がそう思っていると考えられます。
しかし、もしかすると、わが国においても、声が小さく主張も控えめの大きな層で、社会秩序の崩壊が進んでいる可能性も十分考えられるのではないでしょうか。

( 2016.11.20 )
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天災は待ってくれない ・ 小さな小さな物語 ( 914 )

2017-04-22 13:25:44 | 小さな小さな物語 第十六部
二十二日早朝、東北地方で大地震が発生しました。
震源地は福島県沖約70km、深さ約30km、マグニチュード7.4、震度は最大で5弱、震度1は北海道から中国地方まで広がっているようです。さらに、青森県から房総半島まで、伊豆諸島などにも津波警報・注意報が出されたことで、東日本大震災を連想してしまいました。
怪我をされた方や船舶や家屋などに被害を受けた方には心よりお見舞い申し上げます。

被害を受けた方には申し訳ない言い方になりますが、幸いにも、まだ余震が心配されるとしても、東日本大震災の再来は免れたようです。(余震という言い方は適切ではないそうですが。)
テレビ報道の解説の先生の話によりますと、今回の地震の特徴としては、マグニチュード7.4の地震としては、揺れ(震度)は小さかったそうで、その代わりこの種の地震は津波の危険が大きいそうです。つまり、震度5弱程度の地震で1mを超えるような津波は大きい方になるようです。
いずれにしても、今回の地震発生以後のテレビ報道や、市町村などの対応、地域や住民などの行動は、かなりスムーズな対応が出来たようです。

「天災は忘れた頃にやって来る」という名言があります。誰が言い出した言葉か知りませんが、大災害が起きると、この言葉を聞いたり思い浮かべたりすることがあります。
しかし、考えてみますと、阪神淡路大地震からだけでも、大地震はいくつも発生しています。さらに、台風や集中豪雨による被害は、被害の範囲は大地震より狭いかもしれませんが、地域住民に実に大きな被害を与えています。自分一人だけを考えれば、「天災は忘れた頃にやって来る」などと言って、常に注意を心がけるか、あるいは達観してしまえば済むことかもしれませんが、少し範囲を広げれば、あるいは、天災と隣り合わせを運命づけられているわが国としては、そうそう達観しているわけにはいかないように思うのです。

つまり、私たちは、「天災は待ってはくれない」ということを肝に銘じるべきだと思うのです。「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉に教訓的な意味は認めるとしても、今日の私たちの国家を襲う天災は、忘れるまで待ってはくれないのです。
先日の博多駅前の道路陥没事故には驚きましたが、その復旧工事は見事なものでした。ごく限られた範囲だからこそ可能だったのでしょうが、天災で大きな被害を受けた地域の復興では、とても望めないスピードぶりでした。
規模が違うと言ってしまえば何の進歩もないわけで、何らかの対策はあると思うのです。
わが国は、地震・火山・台風などは、世界中の中でも有数の天災被害国です。どうこう言ってもこれは宿命なのですから、事前の対策強化はもちろんですが、被災地域の復興には、「予備費」などではない、明確な国家予算を計上するなど、他国に例のない対応を考え出してほしいものです。

( 2016.11.23 )
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自然に寄り添う ・ 小さな小さな物語 ( 915 )

2017-04-22 13:24:27 | 小さな小さな物語 第十六部
東京では、11月の降雪ということが話題になっています。何でも54年ぶりということですが、1962年(昭和37年)の場合は、雪は降ったのですが積もらなかったそうで、東京都心での積雪となれば、1875年(明治8年)の統計開始以来初めて、ということらしいですから、これはなかなか大変な記録といえましょう。

今回の東京都心における積雪量は「0センチ」だそうで、これは積雪があったということだそうです。
テレビ報道を適当に聞いていただけなのですが、何でも積雪量というものは、積雪がない場合は「積雪無し」となり、積雪がある場合は、「0センチ」「1センチ」「2センチ」といった具合に数えるそうです。
そこで、「積雪0センチ」というのはどんな状態を指すのかということになります。私自身は、「ミリ」の単位で四捨五入するのだと思っていたのですが、実は、観測地点の芝生の部分が半分以上白くなっていて、計器測定では「1センチ以下」の場合に、このように表すそうです。
この説明に間違いはないと思うのですが、なかなか人間的な測定方法で、何かうれしい気がします。

そう言えば、気象に関する観測方法の中には、なかなか味のあるものがあるようです。
例えば、毎年、富士山の初冠雪がニュースになりますが、この初冠雪というのも、実際に富士山頂に雪が降った日を指すのではなく、気象庁の担当者が下界から見て「富士山が雪帽子をかぶったァー」と確認できた日が「初冠雪の日」になるそうです。つまり、雲がかかったり、大雪の為なので下からお山が見えない間は、初冠雪の宣言はなされないそうです。おそらく、先祖から語り継がれた麓の人々の知恵に基づいている部分があると思うのですが、粋な決め方だと思いませんか。
他にも、桜の開花もそうですが、タンポポの開化などの草花の生育や、トンボやセミなどの昆虫が姿を見せた時なども観測しているそうです。

渡り鳥などの観測もきっとしているのでしょうが、どうも人間の生態については観測対象にはなっていないようです。
私たちは、春夏秋冬に衣服を変えます。例えば、一枚のスナップ写真を見るだけで、おおよその季節が分かることは多いように思われます。ただ、そうだからと言って、人間の服装や行動パターンによって、気候の動向を予想しようと考える研究者はいないようです。
残念ながら、草花や鳥や虫は自らの本能によって花を咲かせたり地上に姿を見せたり、遠い地に向かって飛び立ったりしていますが、人間という奴は、雨が降るかどうかさえ天気予報を見ないと判断が出来ず、今日着ていく服も、気温の予想を聞かないことには判断できないのですから、どうも情けない話です。
風の匂いを感じ取って海外旅行をスタートするのは無理だとしても、私たちは、今少し自然に寄り添うのも良いのではないでしょうか。

( 2016.11.26 )
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お手頃価格 ・ 小さな小さな物語 ( 916 )

2017-04-22 13:23:00 | 小さな小さな物語 第十六部
「お手頃価格」って、どの程度のものを指すのでしょうか。
激安価格や、特別割引というほど値引きされているわけではないけれど、通常の価格よりも少しは廉価であったり、性能が良かったり、といった程度の期待を描いてしまう不思議な力を持っているように思うのですが、どうでしょうか。
中には、通常ではちょっと手を出しにくい高価な商品を売るために、やたら高性能であることをうたった上で、「今回は特別に『お手頃価格』で提供します」といった具合に、どうも、目くらましに使われることもあるのではないでしょうか。
どうも、疑問形の文章が続きましたが、私にとっては、「お手頃価格」というものの正体が分かりにくいのです。

「お手頃価格」という言葉は、当然ですが「手頃」という言葉から生まれたと思うのです。そこで、この「手頃」という言葉を辞書で調べてみますと、少々面白いことが分かりました。
辞書の説明の一番目には、「手に持つのに適していること」とあり、手頃なカタナ、ヤリ、テッポウなど、といった使われ方が書かれているのです。そして二番目に、「自分に相応であること」とあり、手頃なアイテ、ネダン、といった例が示されていました。
ある辞書からの引用ですので、学生さんなどを対象にした辞書の場合には少し内容が違うかもしれませんが、私などは、ほとんどの場合二番目の意味だけにに使っていたように思うのです。
そして、この一番目と二番目の意味を比べてみますと、一番目は、「自分が用いるのに最も適した物」といった感じで、能動的な感じを受けるのです。それに対して二番目の意味は、「この程度で辛抱しておきなさい」と言われているようで、少々卑下せざるを得ないような感じを受けてしまうのです。もっとも、これらの感じというのは、まったく私の個人的な性癖からくるものなのでしょうが。

折から、四年後の東京オリンピックの会場等の選定が話題を集めています。今日も注目されている会議が開かれるようです。
最近そのことに関して気になっていることは、やたら、「アスリートファースト」という言葉であり、「レガシー」という言葉です。おそらく、大変意義のある使い方をされている場合もあるのでしょうが、どうも私には、特定の人や団体の都合から使われているような気がしてならないのです。
都知事が言われているように、オリンピックに関わる予算が「二チョウ、三チョウと、豆腐じゃないんですから」といった状態になっていて、当初の予算は何だったのか、よほど無知な人が担当したのか、もともと国民やIOCを騙すつもりだったのか、などと考えてしまいます。

まあ、二兆円かかろうが三兆円かかろうが、東京都はお金が有り余っているそうですし、国家も財政赤字がいくら膨大でも、この程度で揺らぐこともないでしょう。それに、いくらお金を使うといっても税金から回せばいいわけですから、それぞれの好きなようにしてあげるのも一つの方法でしょう。
ただ一つ申し上げるとすれば、わが国がようやく敗戦の痛手から立ち上がろうとしていた前回の東京オリンピックと同じように、箱モノを造るのを「レガシー」などと言うのだけは勘弁してほしいと思うのです。
激安価格で設備を整えてほしいなどとは思っていませんが、せめて、「お手頃価格」での大会運営を行ってほしいと思っているのは私だけではないはずです。
ただ、どの程度が「お手頃価格」かとなりますと、それが難しいんですよねぇ。

( 2016.11.29 )
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正常な判断 ・ 小さな小さな物語 ( 917 )

2017-04-22 13:21:13 | 小さな小さな物語 第十六部
覚せい剤使用の疑いで、有名人が逮捕されたというニュースがテレビを賑わせています。
今回の件は、いわゆる大物とされている人物であり、再犯であることも関係してか、微に入り細に入っての報道ぶりをどう受け取ればよいのかと考えながらも、結構引き込まれています。
今回の場合、某番組の中で、キャスターと被疑者が電話で会話するシーンがありました。なかなか迫力のあるもので、その会話の内容の真否・レベルはともかく、二人の会話は完全に成り立っており、極めて正常な会話に感じました。ただ、その数時間後に、被疑者は任意同行を求められ、逮捕に至ったことを考え合わせますと、どう判断すればよいのかと考えさせられてしまいました。

「正常な判断」をどう定義すればよいのかうまく説明できないのですが、例えば、高熱など体調が極めて不調な場合には、判断が若干揺らぐことは経験することではないでしょうか。また、利害が絡んでいる場合などにも「正常な判断」を下すことがなかなか難しいことは、議会の討議などを見ますと、こちらは誰にでもわかる事例と言えます。
私たちは、日常生活において、少々オーバーかもしれませんが、常に判断しながら生きているともいえます。右に行くか左に行くか、魚を買うか肉にするか、なども、その意識は無いとしても懸命に「正常な判断」を求めているはずです。
覚せい剤などの薬物依存の恐ろしさは、肉体的な健康被害もさることながら、幻覚や妄想などの精神的な障害が特に深刻で、「正常な判断」を蝕んでいくそうです。

昨今、禁止薬物に関する事件をよく耳にします。もっともそれは派手に報道されることが多くなったためで、この種の違反や犯罪は、何十年も前から社会問題化しています。
それでいて、残念ながら、この種の事件や犯罪は減少することなく(正しいデーターは確認していませんが)、むしろ、青少年や、一般家庭にまで浸透してきているといわれています。
今年だけでも、何人かの著名人が犯罪者となり、中には、選挙運動で医療用としての使用許可を公約として立候補し、実は自分がその使用者であったという、ばかばかしくなってしまう事件さえありました。
そして、覚せい剤に依存する状態に陥った場合、完治する方法がないというのが、何より怖いことと言えます。

今回逮捕された人物の、逮捕直前のテレビ報道での会話を聞いていますと、私には、全く何の異常も感じられませんでした。使用疑惑をきっぱりと否定していて、その言動は「正常な判断」に基づいているように見受けられました。もしあれが、演技であり、あるいは薬物の影響下にあったものだとすれば、人間の「正常な判断」というものが、どういう構成下にあるのかと考えてしまいます。
もちろん、人間の神経や判断などはおそらく複雑多岐で、多くの部分で異常をきたしていても、ある部分だけは、図抜けた輝きを見せるということがあるのかもしれません。過去の名高い画家などの芸術家にはそのようなエピソードが残されています。
いずれにしても、凡人の身としては、異常なまでの輝きを求めて、おかしな薬物やそれに類する物に手を出すことは慎みたいと思うのです。

( 2016.12.02 )
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忘れ物 ・ 小さな小さな物語 ( 918 )

2017-04-22 13:19:51 | 小さな小さな物語 第十六部
「師走(シワス)」という言葉は、まだ死語にはなっていないと思われます。
「睦月、如月・・・」と続く、各月の異称は、日常生活で頻繁に使われるわけではないのでしょうが、いずれもまだ折々に活躍している言葉のように思われます。その中でも、むしろ「師走」は使われる機会が多い言葉ではないでしょうか。
しかし、確かに十二月となれば、通常月にはない行事もあって慌ただしい面はあるとしても、「師走」という言葉のように、坊さんが走り回るほどの慌ただしさはあるのでしょうか。

そうした中で、「やはり師走らしい話題だな」と思ったのは、十二月は「忘れ物・落とし物」の数が増えるそうです。手元に何らかのデーターを持っているわけではないのですが、以前何かで見たものによれば、十二月に限りませんが、電車の中での「忘れ物」の数は相当な数なのだそうです。相当な数というのがどのくらいなのか、あてずっぽうでも示すことが出来ないのですが、とんでもない物も含まれていて、しかも、届けられたり受け取りに来ない物の数も相当に上るそうです。その中には、かなり高額な物や現金もあるそうで、極端な物としては、遺骨もあったそうです。
遺骨を受け取りに来ないとなれば、これは「忘れ物」というよりは、「捨てられた物」ではないかと思われ、不謹慎ですが、死んだ後でも捨てられた人の生涯を覗いてみたいような気もします。

ところで、「忘れ物」と「落とし物」とはどう違うのでしょうか。
紛失したものが発見された場合には、その区別ははっきりするでしょうが、無くなった瞬間には、「盗まれた」というのも含めて、紛失の理由ははっきりしないことが多いのではないのでしょうか。
因みに辞書で調べてみますと、「忘れ物・・・置き忘れたもの。持ってくるのを忘れた品物。」とあり、「落とし物・・・うっかり気づかずに落とした物。遺失物。」とありました。まあ、わざわざ辞書で調べるほどのことではないのですが、この二つには歴然とした差があることが分かります。

わが国は、「忘れ物」や「落とし物」が持ち主のもとに返ってくる確率が大変高い国柄だそうです。この国民性は実にすばらしいことで、絶対に守り続けたいものです。以前、私もとても大切な物をある所で置き忘れたことがありました。一時間近くたってから置き忘れたことに気が付いたのですが、人の出入りの激しい場所だったので半分諦めていたのですが、見つけた人が届け出てくれていて助かったことがありました。あの嬉しかったことを思えば、わが国のこのすばらしい国民性は長く保っていきたいと心底から思います。
さて、坊さんは走らないとしても、師走も後半になれば何かと気ぜわしくなってきます。「忘れ物」や「落とし物」は少し注意すれば防げそうですが、もっと別の形のものを、今年も数多く、忘れたり、落としたりしてきたように思います。こちらの方は、いくら善意の人が多いといっても届けてくれるはずもなく、年の瀬が近付くにしたがって、少々気が沈みます。
物品でないものは、一度失えば取り戻すことは難しいのがほとんどですが、せめて、年の瀬に当たり、失った大切な物を思い返して、いくら苦くとも噛みしめてみたいと思っています。

( 2016.12.05 )
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