アメリカの大統領選挙は大変な混戦となっているようです。
一時は勝負あったかのように見えた時期もありましたが、FBI長官の発言から再び接戦となってきたのですが、ここに来て、訴追にあたらない旨の発言があったので、これがどの程度影響するのが興味深いと思っています。それにしても、選挙終盤で、捜査当局の長官がこのような発言をすることは、わが国では相当の問題になるのではないでしょうか。
アメリカの場合、期日前投票はわが国より比率が高いようですから、この長官の捜査再開の発言から訴追見送り発言までの間に期日前投票した人に、どの程度の影響を与えているのでしょうか。
時間という代物は、取り消しも取り返しも取り替えも出来ないという、付き合いにくい一面を持っていることがよく分かる出来事のようです。
アメリカの大統領選挙は独特の制度のもとで行われています。それに関して少し勉強して見ようと思った途中で、サマータイムについての記事が目につきました。
日照時間の長い時期に、時計を一時間ばかり早めるというのをサマータイムというはずですから、「サマー」つまり夏の間に実施されることだと考えていましたが、実はアメリカのサマータイムは、三月の第二日曜日から十一月の第一日曜日まで行われているそうですから、その期間の長さに驚きました。これだと、この期間の方が通常の時間と考えるべきではないのでしょうか。
もっとも、「サマータイム」という言い方はイギリスなどのヨーロッパの国の言い方のようで、アメリカでは「デイライト・セービング・タイム」と言うそうですから、私たちが考えるサマータイムとは、時間との付き合い方が違うのかもしれません。
サマータイムは、わが国でも米軍の施政下にあった昭和二十三年に実施されています。ただ、わが国ではどうも不人気だったようで、四年ほどで廃止になっています。
この制度の是非については、現在でも賛否両論があります。また、それぞれの国の地理的な条件にもよりますでしょうし、国民性にも影響されるような気がします。
最近でも、わが国もこの制度を導入すべきだという意見があるようですが、あまり支持を得ていないようです。私の個人の意見としましては、わざわざ時計を一時間早めたりしてもらわなくても、頭と感覚で上手に時間と付き合いますよ、と思っているので、反対です。
私たちの祖先は、つい江戸時代までは、時間の流れを日照時間で定めていました。
落語の時蕎麦で有名ですが、「今、何刻だい」という「刻(トキ/コク)」は、時間あるいは時間の単位を指します。一般に一刻は二時間ぐらいとされますが、江戸時代の一般庶民は、不定時法により一日の時間の流れと付き合っていました。不定時法は、日の出から日の入までを昼として、それを六等分したもの、あるいは、夜の部分も六等分したものを一刻としていました。春分・秋分の頃は、一刻はほぼ二時間になりますが、夏は、昼の一刻はとても長く、夜の一刻はとても短いことになります。冬はその反対です。
つまり、私たちの先人たちは、サマータイムどころかウインタータイムも加えたオールラウンドの時間の流れを体感で得ていたのです。
私たちの日常においても、同じ一時間といっても、その場面場面で長さが異なって感じることはよく経験することです。さらに、観念といいますか、想像の世界では、現世ばかりか、前世も来世も時間の範疇として思い描くことが出来ます。
この、何とも掴みにくく、それでいて常に共にある不思議な存在である時間を、針を動かせることなどで支配されることなく、何とか仲良く穏やかに付き合っていきたいものです。
( 2016.11.08 )
一時は勝負あったかのように見えた時期もありましたが、FBI長官の発言から再び接戦となってきたのですが、ここに来て、訴追にあたらない旨の発言があったので、これがどの程度影響するのが興味深いと思っています。それにしても、選挙終盤で、捜査当局の長官がこのような発言をすることは、わが国では相当の問題になるのではないでしょうか。
アメリカの場合、期日前投票はわが国より比率が高いようですから、この長官の捜査再開の発言から訴追見送り発言までの間に期日前投票した人に、どの程度の影響を与えているのでしょうか。
時間という代物は、取り消しも取り返しも取り替えも出来ないという、付き合いにくい一面を持っていることがよく分かる出来事のようです。
アメリカの大統領選挙は独特の制度のもとで行われています。それに関して少し勉強して見ようと思った途中で、サマータイムについての記事が目につきました。
日照時間の長い時期に、時計を一時間ばかり早めるというのをサマータイムというはずですから、「サマー」つまり夏の間に実施されることだと考えていましたが、実はアメリカのサマータイムは、三月の第二日曜日から十一月の第一日曜日まで行われているそうですから、その期間の長さに驚きました。これだと、この期間の方が通常の時間と考えるべきではないのでしょうか。
もっとも、「サマータイム」という言い方はイギリスなどのヨーロッパの国の言い方のようで、アメリカでは「デイライト・セービング・タイム」と言うそうですから、私たちが考えるサマータイムとは、時間との付き合い方が違うのかもしれません。
サマータイムは、わが国でも米軍の施政下にあった昭和二十三年に実施されています。ただ、わが国ではどうも不人気だったようで、四年ほどで廃止になっています。
この制度の是非については、現在でも賛否両論があります。また、それぞれの国の地理的な条件にもよりますでしょうし、国民性にも影響されるような気がします。
最近でも、わが国もこの制度を導入すべきだという意見があるようですが、あまり支持を得ていないようです。私の個人の意見としましては、わざわざ時計を一時間早めたりしてもらわなくても、頭と感覚で上手に時間と付き合いますよ、と思っているので、反対です。
私たちの祖先は、つい江戸時代までは、時間の流れを日照時間で定めていました。
落語の時蕎麦で有名ですが、「今、何刻だい」という「刻(トキ/コク)」は、時間あるいは時間の単位を指します。一般に一刻は二時間ぐらいとされますが、江戸時代の一般庶民は、不定時法により一日の時間の流れと付き合っていました。不定時法は、日の出から日の入までを昼として、それを六等分したもの、あるいは、夜の部分も六等分したものを一刻としていました。春分・秋分の頃は、一刻はほぼ二時間になりますが、夏は、昼の一刻はとても長く、夜の一刻はとても短いことになります。冬はその反対です。
つまり、私たちの先人たちは、サマータイムどころかウインタータイムも加えたオールラウンドの時間の流れを体感で得ていたのです。
私たちの日常においても、同じ一時間といっても、その場面場面で長さが異なって感じることはよく経験することです。さらに、観念といいますか、想像の世界では、現世ばかりか、前世も来世も時間の範疇として思い描くことが出来ます。
この、何とも掴みにくく、それでいて常に共にある不思議な存在である時間を、針を動かせることなどで支配されることなく、何とか仲良く穏やかに付き合っていきたいものです。
( 2016.11.08 )