田熊みうま会 尾道市因島から発信中

昭和40年度生まれで 田熊小学校・田熊中学校に通った人のブログ

田熊の神楽

2021年03月24日 | 令和3年因島・田熊・仲間の話題
田熊ではお宮の祭事や地域のお祭り、行事などで神楽の舞が奉納されることがあり、田熊神代神楽(たくまじんだいかぐら)は旧因島市(現尾道市)指定の貴重な無形文化財として継承されています。小学生の頃、地域の人に稽古をつけてもらった同級生らの発表を鑑賞した記憶があります。

神楽は雅楽の一種で、歌と舞があり、主に神事で用いられてきました。天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の鈿女の命(あめのうずめのみこと)をはじめ神々が集まり御心を慰めようと舞い歌ったのが始まりとされています。

田熊神代神楽の由来は、明治8年2月新調の神楽用小袖や明治12年8月新調の鎧が現存していることから、田熊の近代神楽は明治初頭に発祥したものと思われます。田熊村三ツ石(現田熊町中央区三ツ石)の村上某氏が、三原の山中村(現三原市中之町)の賀羅加波神社(からかわじんじゃ)の神官より伝授され現在の田熊の神楽の形が整ったと言い伝えられており、田熊の神楽は三原付近で舞われている備中神楽の系統に属しているものと思われます(文献によっては備後系統との記載もあり)。
※令和4年11月3日賀羅加波神にお参りしました
亀甲山田熊八幡宮(お宮)は天文年間(天文18年・1549年くらい)に、田熊村上氏の祖である村上直吉により現在のように整備されていますが、田熊の神楽については明治より前の古文書などの資料が未だ発見されていないことから、神楽の奉納は他地区に依頼したものと考えられます。

先日、田熊のお宮で開催された安政柑祭り(安政柑は田熊が発祥の地)でも神楽が奉納され、いくつかある演目の中から「悪魔祓い」「神迎え(い)」「八重垣の舞」「恵比寿の舞」が奉納・披露されましたので紹介します。約30分の舞は大変見ごたえがありました。

「悪魔祓い」
天照大御神から遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神である猿田彦神(サルタヒコノカミ)が勇壮な舞と勇ましい祝詞で悪魔を追い払う神楽です。猿田彦神はがっちりした体形で中々の男前だったようで、演者は天狗(の様な)面をつけています。
田熊のお宮では人々を導く神様として、先ず境内西側に鎮座する猿田彦神社をお参りするのが順路となっています。


「神迎え(い)」
氏子が神様をお迎え奉る優雅な祝詞と穏やかな舞が特徴です。全ての神様を神殿にお迎えする舞です。
氏子が舞うのでお面は着けていませんね。


「八重垣の舞」
御存知、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する演目です。

須戔鳴尊(すさのおのみこと)が、泣いている老父と老婆(足摩椎(あしなづち)と手名椎(てなづち))、小さな娘(奇稲田姫(くしいなだひめ))と出会い、話を聞くと「八岐大蛇に娘を差し出さねばならない」というところから始まります。

須戔鳴尊は老夫婦に強い酒を造らせます。酒造りのシーンは他の神楽では舞うことはない田熊独特の珍しい舞だそうです。

そして酒に酔ったオロチとの決戦。
※その際オロチの切った尾から見つけた剣は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
と名付けられ天照大御神に献上され、これが三種の神器のひとつ草薙剣(くさなぎのつるぎ)とされます。




オロチを退治した須戔鳴尊は奇稲田姫を妻とし国を治めました。


「恵比寿の舞」
宝物数々を神蔵に納めて舞い納め豊漁を祈念する目出度い神楽で、田熊では豆などの菓子を観劇者に振舞います。


地域の文化や文化財は人々の心と共に紡がれていき、地域の未来をより心豊かなものにしてくれるものと思います。。。

参考文献
田熊の文化財第8巻(田熊町文化財協会)
広島県の神楽(真下三郎著)
神楽の変容とその社会的基盤に関する研究(県立広島女子大学)
明治安田生命助成申請書(田熊神代神楽)

令和3年3月25日 加筆修正しました
令和4年12月2日 加筆修正しました
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