南英世の 「くろねこ日記」

官僚と政治家の関係

以前書いた「なんでも官邸団」というブログで、官僚が政治家の顔色をうかがいながら忖度行政を行っていると書いた。今回は官僚と政治家の関係について、もう少し深堀して書いてみたい。

政治家は憲法15条で「全体の奉仕者」と規定されている。したがって、「地元のために働く」というのは厳密に言えば憲法違反である。ましてや、政治献金をしてくれた企業のために働くなどもってのほかである。

しかし、きれいごとを言っていても次の選挙で当選できない。選挙で勝つためには「カネ」と「票」が必要だ。結局、政治家は結果として弱者や少数者より、強者や多数者に寄り添った政治を行うことになる。「全体の奉仕者」ではなく、「一部の奉仕者」となるのである。

「全体の奉仕者」という点では、政治家よりも官僚のほうが向いている。官僚は選挙を気にする必要はない。純粋に国民のための政策を立案することが可能である。実際、日本が高度経済成長をしていたころは、官僚が中心になって政策の立案を行っていた。

政治家も心得たもので、例えば田中角栄のように官僚に対して「頭は君たちのほうがいい。ワシを使って日本をよくしてくれ。責任はワシがとる」と、官僚をうまく使いこなす政治家もいた。一方、官僚のほうも腹の底では政治家を見下してはいたかもしれないが、うまく政治家を利用していた。

一般的に、官僚と政治家の関係を考えるとき、選挙で選ばれたわけでもない官僚が主導して政治を行っていいはずがない。本来は選挙で選ばれた政治家が中心となって政治を行うべきである。そうしたことから、次第に「官僚主導」から「政治主導」へということが言われるようになった。小泉内閣のときである。

2014年に内閣人事局が設置され、部長・審議官級以上の700近い官僚のポストを政治家(実質は官房長官)が握るようになった。それ以降、政治主導の傾向は一層強くなった。政治家は能力では官僚に劣るので、権力をかさに人事で脅し、ときには怒鳴りつけて官僚をおさえにかかった。官邸の意向に逆らえば露骨に左遷され、首がすげ替えられた。

政治家の最大の関心事は選挙に勝つことである。日本のことより、まず自分の利益になるかどうかで判断する。その結果、「全体の奉仕者」たるべき政治家が「一部の奉仕者」として暴走し、憲法を無視した政治が横行するようになった。

これにストップをかけることができるのは、国民の声しかない。しかし、世論などというものは、情報操作によってどのようにでもなる。国は「偏っていると判断された場合は、国が放送局に電波停止命令を出す」と脅しをかけてマスコミに圧力をかけ、政府批判を抑え込んでしまった。日本学術会議の任命問題では学問の世界にまで口を出し、安保法制・共謀罪・特定秘密保護法などに反対した学者を任命しないということまで行なった。これでは中国のやり方と大差ない。

なぜ、こんな事態に陥ってしまったのか。根本的には「一部の奉仕者」である政治家が力を持ちすぎてしまったことに原因がある。選挙で勝てば何をしても許されるのか。憲法を無視した政治も許されるのか。決してそんなことはないはずだ。

政治家に「全体の奉仕者であれ」と求めるのは「木に縁りて魚を求む」ようなものである。ここは、官僚の力を復活させて、官僚と政治家のバランスの回復を図るべきなのではないか。せっかくの官僚の能力をうまく使わないのはもったいないことである。

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