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南英世の 「くろねこ日記」

太平洋戦争を読み解く

半藤一利の『戦争というもの』を読んだ。この本は戦争を知らない世代に対するメッセジーとして書き残した半藤の最後の著書でもある。以下、琴線に触れたことを要約する。

 

◆バスに乗り遅れるな

当時のバスというのはヒトラーのナチス・ドイツである。ヒトラーは開戦以来、目を見張るような勢いで英仏軍を撃破していた。イギリスはほうほうの体で本国に逃げ帰り(ダンケルクの奇跡)、パリは1940年6月14日に無血占領された。日本はこれを南進のチャンスととらえ、9月に北部仏印に進駐、日独伊三国同盟の締結を実行した。

これに対してアメリカは屑鉄の対日輸出全面禁止で応じた。さらに1941年8月には石油の全面的禁輸という強硬な政策をとってきた。当時、日本が輸入していた石油の9割はアメリカからである。石油を止められたら大艦隊は1か月で動くことができなくなる。日本は一気に対米英戦争に傾き始めた。新聞もこれを煽った。石油が来なくなったら、4か月以内に東南アジアの資源を求めて立ち上がるか、米英に屈服するしかない。さあ、どっちを選ぶ。

こうして国民的熱狂が作られていった。「早く戦争を始めてくれ、アメリカをガーンと一発やってくれ」これが当時の国民の正直な気持であった。

1941年11月段階の軍部の目論見は、自力で米英を降伏させることはできないにしても、ドイツがソ連を降伏させ、イギリス本土上陸に成功すれば、日本はアメリカに対して栄光ある講和に持ち込むことができるはずだ、というものであった。昭和天皇は『独白録』の中で、「私が開戦にノーと言ったならばたぶん幽閉されるか、殺されたかもしれなかった」という意味のことを語っている。

 

◆八月や6日9日15日

東京・大阪など都市という都市が焼け野原になった時、最後の望みがソ連であった。1941年に締結した日ソ中立条約の有効期間は1946年までの5年間。当時の政治指導層が、ソ連を仲介とする和平工作に全面的に頼っていたという事実がある。ソ連はドイツとの戦いで多大な損害を受けた。だからその傷が癒されぬままに対日参戦はないだろう。これが軍部の読みであった。しかし、ソ連はこの時国境線に陸軍157万人、戦車等1500両、攻撃機4650機を終結させていたのである。

 

◆人間の眼は歴史を学ぶことで初めて開くものである

 3月10日の東京大空襲では「逃げ場を失って地に身を伏せた人間は、瞬時にして、乾燥しきった芋俵に火が付くように燃え上がった。女性の長い髪の毛は、火のついたおが屑のようであった」という。

太平洋戦争では、延べ1千万人の日本人が兵士あるいは軍属として戦い、戦死240万人(うち70%が広義の餓死)、死んだ民間人は70万人を超えた。

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