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南英世の 「くろねこ日記」

コリアタウン見学

 大阪府私学人研第5部会秋期新任教員研修会が11月19日(金)に行われた。今回は鶴橋周辺のコリアタウンのフィールドワークである。

コリアタウン
 午後2時、第5部会の教員約60名が環状線の鶴橋駅に集合し、金隆一氏(清教学園教諭 数学)の案内のもとでコリアタウンを見学した。最初に鶴橋国際商店街を案内していただいた。ここは鶴橋駅に直結する商店街で、幅が2~3メートルしかない細い路地裏に韓国料理を売る店がひしめいている。キムチのにおいが辺り一面に漂い、韓国語の会話が飛び交って、大変活気がある。「冬ソナ」ブームのあと、多くの日本人がここを訪れるようになったという。中にはこの地域をコリアタウンと思っている人がいるが、それは誤解である。本当のコリアタウンは、もう少し南寄りにある御幸森神社から東に延びる約300メートルの通りである(写真)。ここには、韓国料理店のほか、日用雑貨やチマチョゴリを売る店、韓国式結婚式の衣装を売る店など、たくさんの店が並んでいる。

               


 大阪市生野区は人口13万5千人のうち3万3千人が外国籍であると言われる。在日の人たちは、日本に永く住み所得を得て税金を納めているにもかかわらず、選挙権は認められていない。また、町会長やPTA会長には在日の人はなれない。民団(韓国籍の人の団体)と朝鮮総連(北朝鮮籍の人の団体)の交流もほとんどない。子どもたちが通う学校も韓国籍の人と北朝鮮籍の人では別々だ。コリアタウンには二つの小学校が隣接して建っている。北朝鮮籍の子どもが通う朝鮮第四初級学校と、韓国籍の子どもが通う御幸森小学校だ。御幸森小学校の在日の割合は半分以上であり、ここでは在日のほうがマジョリティである。朝鮮第四初級学校の建物の質素なつくりに比べて、御幸森小学校の豪華なつくりが印象に残った。通りに張られた垂れ幕には「共生の町」と書いてあるが、まだまだ課題は多い。

二つの文化
 1945年以前に朝鮮半島から来日した人々を在日コリアン1世という。その子供が2世、3世、4世である。案内してくれた金氏は在日コリアン2世で、現在われわれが中学・高校で教える生徒達は在日3世、4世である。金氏自身もそうであるが、在日コリアンの多くは日本と韓国(朝鮮)の二つの文化を持っている。家の外に出たら日本の文化、家に帰ってくると韓国(朝鮮)の文化というわけである。

金成元氏の講演

               
 フィールドワークのあと、韓国クリスチャンセンター(KCC)の金成元氏の講演を聴いた。金成元氏の父は斉州島の地主で裕福な生活をしていたが、1910年に日本が韓国併合をした際、日本が行った土地調査で土地登録をしなかったために朝鮮総督府に土地を取り上げられ、生活に困って仕方なく岸和田にやってきたという。当時、日本は軽工業が発展し、朝鮮の女性は「鮮女(せんじょ)」といわれ、日本人の半分くらいの給料でがまん強く働くので重宝された。1909年当時の在日コリアンは約700人であった。多くは朝鮮王朝が派遣した留学生である。1945年に在日コリアンの数は230万人にふくれあがったが、このなかには日本の強制連行で連れてこられた人たちが約70万人いた。ただし、私の回りには強制連行で連れてこられた人は全くいない。生野に住む在日は、日本の底辺労働者としてやってきた人たちである。生野の在日はサンダル産業を興した。アメリカからもらった古タイヤに鼻緒をつけて売り出したら飛ぶように売れた。それでも在日の失業率は高かった。国籍条項があり、在日は国民健康保険にも入れなかった。義務教育する受けることができなかった。

 しかし、1970年代から在日に対する差別撤廃運動が盛んになり、状況が変わり始めた。とくに学校の先生が果たした役割は大きかった。就職差別撤廃に取り組んでくれた。NTTに在日を就職させてくれたときはうれしかった。現在は、差別撤廃から一歩進んで、自分たちも社会を構成している一員として、この地域をどう支え、社会福祉などの面でどのように地域に貢献していくかと考えるようになり、活動の輪が広がっている。また、最近、帰化する人が増えている。年間で約7000人くらいが帰化している。在日コリアンの7割から8割は日本人と結婚する。日本人と結婚して生まれてくる子供は当然日本国籍となる。そのためもあって、在日コリアンの数は統計上どんどん減ってきている。日本人と在日の壁がしだいに取り払われつつある。
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