ミャスコフスキー 交響曲第15番ニ短調(作品38)+交響曲第27番ハ短調(作品85)
エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮 ロシア国立交響楽団
録音:1991-93年 (ALTO/ALC1021)
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今年(2007年)になって、ロシア=ソヴィエト音楽ファンにとっては、無視することのできない出来事があった。ロシアの名指揮者スヴェトラーノフが生前、私財を投げ打って完成したレコーディング・プロジェクト、「ミャスコフスキー交響曲全集」の分売が、ついに再開されたのである。もともとのレーベル(英オリンピア)の倒産によって中断していたものが、アメリカのレコード会社(MUSICAL CONCEPTS)に引き継がれ、同じジャケットデザインで継続リリースが実現される運びとなったのだ。
ニコライ・ヤコブレヴィッチ・ミャスコフスキー(1881.4.20-1950.8.8)。近年再評価が進んでいるものの、実際には、演奏会のプログラムに載ることがほとんどないマイナーな作曲家、というのが、一般のクラシック・ファンにとっての認識だろう。
ところが生前、少なくとも1940年代までは、ペテルスブルク音楽院時代からの親友・プロコフィエフと同等の知名度があり、100年後の将来も名声が続くと期待された「人気作曲家」だった。1921年以降はモスクワ音楽院の作曲科教授として教鞭を取り、ハチャトゥリアンやカバレフスキーなどの大物門下生を指導するほどの実力者。それが、1948年のソ連当局による有名な「ジダーノフ批判」を境にして、意図的に抹殺され、すっかり「忘れられた作曲家」になってしまったのである。
ミャスコフスキーの書き残した交響曲は、全部で27曲。近代においては、異例とも言える数だ。いったい、偉大な作曲家なのか。それほどでもないのか。評価もまちまちで、今ひとつ輪郭がつかめない。とにかく、一度自分の耳で聴いてみるしかないだろう、ということで、ようやく重い腰を上げて(?)、未知の大山脈に登頂する第1歩を踏み出すことにした。
まずは、今回リリースされた、第15番と第27番を聴いてみる。その感想は…?
いわゆる「不気味系」が好きな人には、イケるかもしれない、というのが実感。全体的に後期ドイツ・ロマン派風の暗い音色とポリフォニックな曲想、自己矛盾的に揺れ動く気分の変転に特徴がある。マーラーをもっと暗くしたような作風と言えようか。まだ、この2曲しか聴いていないので、この特徴がすべてではないだろうが、これ以外の作品も聴いてみたいという興味は、間違いなくそそられてくる。少なくとも、第27番に関しては、音楽史に残るべき名曲の域に達しており、今後も愛聴曲として聴き続けていくことになるだろう。
CDの前半に収録された第15番は、1933年から34年(52歳から53歳)にかけての時期に書かれた、4楽章構成の作品。
第1楽章では、古びたロシア正教会のような暗い雰囲気から、激しい戦闘の場面まで、変幻自在に移り変わる曲想が聴きどころ。
第2楽章は、死者に聴かせるような、暗く陰鬱な子守唄が延々と歌われ、中間部では恐ろしい地獄の怪物が正体を現わす。
第3楽章はワルツ。ここでも暗い雰囲気が支配的。まるで死神と踊っているかのようだ。
第4楽章は一転して、夜明けの音楽。悪夢は過ぎ去り、小鳥たちの歌う平和な森がよみがえる。最後は「苦しみから勝利へ」のテーマを強調するかのように、異様な盛り上がりを見せて終結する。
第27番は、最晩年の1949年(68歳)に書かれた、3楽章構成の作品。
第1楽章は、地下世界から湧き上がるような暗い情念のほとばしりが聴きどころ。木管のソロが、まるでこの世の思い出を振り返るように懐かしく響き、思わず涙を誘われる。
第2楽章は、音楽史上屈指のロシアン・アダージョ。浄化された魂が、遥かな天空に昇っていくような感動がある。中間部では場違いとも思える勇壮なマーチが響き、「あれっ?」と拍子抜けするが、それ以外の箇所は、マーラーの交響曲第9番の終楽章にも匹敵する素晴らしさだ。
第3楽章は、ロシア国民学派のルーツに立ち戻るかのような、土俗的なフィナーレ。27曲(40年間)に及ぶ、ミャスコフスキー・シンフォニー・マラソンのゴールを祝宴するかように、圧倒的な勝利の行進で幕を閉じる。
今のところ2008年のコンサートではまだ採り上げられる予定がないようなのが残念です。
寿老人さんのホームページは、ミャスコフスキーに関する資料から、中国神秘思想に至るまで、味わい深い内容ですね。今後とも、たびたび訪問させていただきます^^