375's MUSIC BOX/魅惑のひとときを求めて

想い出の歌謡曲と国内・海外のPOPS、そしてJAZZ・クラシックに至るまで、未来へ伝えたい名盤を紹介していきます。

●歌姫たちの名盤(4) 日野美歌 『横浜フォール・イン・ラブ ~Premium version~』

2013年01月27日 | 歌姫① JAZZ・AOR・各種コラボ系


日野美歌 『横浜フォール・イン・ラブ ~Premium version~
(2012年10月10日発売) COCP-37537

収録曲 01.港が見える丘 02.横浜フォール・イン・ラブ 03.蘇州夜曲 04.別れのブルース 05.海を見ていた午後 06.横浜ホンキートンク・ブルース 07.秋の気配 08.氷雨(Jazz version) 09.Smile Again 10.横浜フォール・イン・ラブ(Instrumemtal)


横浜といえば、筆者が生まれてから6歳までの幼少期を過ごした街として、今もなお東京五輪前の昭和30年代後半の原風景が記憶の彼方に残っている。

住んでいたのは東横線にかつてあった高島町駅の近く。今でこそ殺風景なビルディングしか見当たらないビジネス・エリアだが、当時はそれなりに活気のある庶民の住宅地だった。駅のガードレール下には馴染みのパン屋や床屋などの商店が並び、自分と同年代の子供たちが遊ぶ姿も多く見られた。大通りには色とりどりの市電が縦横無尽に走っており、それを交番前の石段にすわって見物するのが幼き日の「趣味」でもあった。

そこから程遠くない場所に、異国的なロマンに誘われる場所として有名な横浜港があった。もともとは大人の憩いの場だった横浜港が若者たちの集まるディスティネーションとして発展したのは、むしろ平成以降かもしれない。特に2004年、地下鉄みなとみらい線が開通してからは都心からのアクセスが便利になリ、その恩恵で有名ブランド・ショップや遊園地・映画館などのエンターテイメント施設が進出するなど、急速に観光地化が進んでいったのである。

そして2009年、横浜港の開港150周年を記念してリリースされたのが、演歌の名曲「氷雨」で知られる日野美歌の新作アルバム『横浜フォール・イン・ラブ』だった。これは横浜をテーマにした数々の名曲を雰囲気あふれるジャズ・テイストでアレンジしたミニ・アルバムで、当初はオリジナルの新曲「横浜フォール・イン・ラブ」とカバー6曲を含む合計7曲が収録されていた。その後、2012年になって、新たに彼女自身が作詞したオリジナル曲「Smile Again」と名曲「氷雨」のジャズ・バージョンが追加収録され、『横浜フォール・イン・ラブ ~Premium version~』として大手コロムビアより再発売されたのである。

まず「横浜みなとみらい」の夜景を採用したジャケットがいい。1993年に完成した日本一の高さを誇る高層ビル・横浜ランドマーク・タワーが左端に建ち、コスモワールドの名物観覧車「コスモクロック21」が右側に見える構図はまさしく現代の横浜だが、それを墨絵のようにボカすことで過去の世界を憧憬することができるような効果を上げている。

アルバムの冒頭は1947年に平野愛子が歌った「港が見える丘」。この歌こそ、横浜山手にある「港の見える丘公園」の名前の由来となった曲である。1962年の開園時にはこの曲が流れる中で横浜市長によるテープカットが行なわれたという。続く2曲目がこのアルバムのタイトル・ナンバー「横浜フォール・イン・ラブ」。作詞者の歌凛は日野美歌の別名である。もともとは作曲家・馬飼野康二のすすめで作詞を始めたそうだが、さすがにセンス抜群で自身が歌うオリジナル曲のみならず、他のアーティストに提供している楽曲も多い(よく知られているところでは、華原朋美&コロッケの「ありがとね!」などがある)。この曲の歌詞中にある「タワーの灯りが切なく滲む」のフレーズが、まさにジャケット写真の横浜ランドマーク・タワーと二重写しになっている。

続く「蘇州夜曲」 は生粋の濱っ子だった渡辺はま子が霧島昇とともに1940年に録音したことから、このアルバムに採用されたようだ。もともとは李香蘭(山口淑子)主演の「支那の夜」の劇中歌で、今日に至るまで多くのアーティストにカバーされてきた名曲である。その次の「別れのブルース」も1937年に淡谷のり子が歌った往年のヒット曲。歌詞中のフレーズ「メリケン波止場の灯が見える」の「メリケン」は「アメリカン」に由来しており、異国の旅人が多く出入りする横浜や神戸にある波止場がそう呼ばれていた。そして、異国の旅人と日本女性との行きずりの恋と別れもまた多かったのである。

ユーミンが1974年に歌った「海を見ていた午後」も横浜が舞台。この曲が流行った当時は「山手のドルフィン」でわざわざソーダ水を頼む女性も多かったとか?

そして、このアルバムの極めつけというべきは、1981年に松田優作が歌った「横浜ホンキートンク・ブルース」 。日野美歌がワンポイント・ライナーノーツで紹介しているように、まさしく「ディープな濱の名曲」。「ひとり飲む酒悲しくて 映るグラスはブルースの色」等々、歌詞のいたるところに男のロマンと挫折が滲み出ており、何度聴いても飽きることがない。

オフコース1977年の名曲「秋の気配」も発売された当時はよく聴いたものだ。「あれがあなたの 好きな場所 港が見下ろせる 小高い公園」のフレーズを聴くだけで、思いは一気に横浜山手に飛んでしまうのである。

もともと発売されたミニ・アルバムではここで「横浜フォール・イン・ラブ」のインストが流れて幕を閉じるが、2012年に再発売されたPremium versionでは、なんと「氷雨」のジャズ・バージョンが登場する。横浜に直接関係ある歌ではないが、まぁファン・サービスといったところだろうか。それにしてもジャズ・アレンジで聴いても、ほんとうに味のある名曲だ。というよりも、優れた演歌はすべて優れたジャズになりうるのではなかろうか。

ボーナス・トラックのもう一曲は、作詞・歌凛(=日野美歌)と作曲・馬飼野康二のコンビによる最新作「Smile Again」。汽笛が鳴り、船が出港したその夜、過ぎ去りし思い出を振り返りながらバーでひとりグラスを傾けるひとりの女。昔のハリウッド映画によく出てくるような別れの切ない情景が浮かんでくる。
「悲しげな顔は見せないで 笑って smile again」

きっと、このような大人の味を持った音楽こそ、人生後半の荒波を乗り越える力を与えてくれるに違いない。

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●歌姫たちの名盤(3) 青江三奈 『PASSION MINA IN N.Y.』

2013年01月20日 | 歌姫① JAZZ・AOR・各種コラボ系


青江三奈 『PASSION MINA IN N.Y.
(2007年8月24日発売) THCD-053 *オリジナル盤発売日:1995年12月1日

収録曲 01.オープニング"MOANIN'"~伊勢佐木町ブルース 02.長崎ブルース 03.池袋の夜 04.国際線待合室 05.NEW YORK STATE OF MIND 06.上を向いて歩こう 07.LOVE IS FOREVER~いつかまた~ 08.白樺の小径 09.淋しい時だけそばにいて 10.恍惚のブルース 11.女とお酒のぶるーす~エンディング"MOANIN'"


日本の歌謡曲の全盛時代といえば、やはり昭和40年代から50年代までの高度成長期、西暦でいえば1960年代後半から1980年代中盤までだったと思う(それ以降はレコード購買層の音楽嗜好が分散し、歌謡曲はもはや主流の音楽ではなくなってきた)。

特に筆者が小学生だった1960年代は、後年のような若年向けアイドルも存在せず、歌謡曲は「大人が聴く音楽」という認識だった。
事実、両親(特に母親)は子供の自分にあまり歌番組を見せたがらなかった。見せたくなかった理由は今となってみればわかる。あまりに色気のある女性歌手が多かったからである。

当時の紅白歌合戦の紅組出場メンバーを見ただけでも、その豪華さにめまいがするほどだが、中でも異彩を放っていたのが昭和41年(1966年)に「恍惚のブルース」でデビューし、「伊勢佐木町ブルース」(1968年)、「池袋の夜」(1969年)の大ヒットで押しも押されぬ人気を獲得していた青江三奈だった。当時としては珍しい金髪(白黒テレビでも金髪というのはわかった)、アイドル的な可愛いらしさに同居する大人の色気と独特のハスキー・ヴォイスは、テレビ画面に登場するたびにドキドキしたものだった。当時は歌がどうこうというよりも、歌う姿に魅力を感じていたのである。

彼女が最も輝いていたと思われたのは1970年前半くらいまでで、それ以降は新しい世代の台頭に押されてやや勢いがなくなってきたかな・・・という印象がある。1980年代中盤になると常連だった紅白歌合戦にも選ばれなくなった。この時期に発売されたレコードのジャケット写真を見ると、髪型を当時の流行に合わせてイメチェンを図ろうとしているものの、今ひとつピンと来ない感じがする。歌謡界も完全にアイドル時代になり、大人の色気を持った歌手が生き延びるのは容易ではなくなってしまったように思われた。

ところが1990年代になって、大歌手・青江三奈は見事に復活する。歌手生活25周年を記念して発売されたアルバム『レディ・ブルース ~女・無言歌~』が1990年の日本レコード大賞で優秀アルバム賞を受賞し、7年ぶりに紅白歌合戦に復帰。そして1993年にはなんとニューヨークに渡り、初の全曲英語のジャズ・アルバム『The Shadow of Love ~気がつけば別れ~』を録音するのである。

青江三奈は他の多くの歌謡曲歌手がそうであったように、デビュー前は銀座の高級クラブなどで歌うジャズ・シンガーだった。つまりジャズのアルバムを出すというのは彼女にとって原点回帰であり、長年暖めていた夢でもあったのだろう。1枚目のジャズ・アルバムの成功を受けて、1995年にはここに紹介する2枚目のニューヨーク録音アルバム『PASSION MINA IN N.Y.』を発表。いよいよ本格的に新境地へ踏み出すことになったのである。

このアルバムは基本的にはスタジオ録音なのだが、部分的にレインボー・ルームでのライヴ音源も取り入れており、本場ニューヨークでのライヴの雰囲気を味わえるところが面白い。共演ミュージシャンもニューヨークを舞台に活躍する一流のジャズメンたちで、はるばる日本からやってきた伝説の歌姫を歓迎し、楽しそうにプレイしている様子がうかがえる。

マンハッタンの夜を思わせる喧騒からジャズメンたちの演奏する"MOANIN'"のオープニングを経て、司会者によるイベントの紹介が始まる。この年、デビュー30周年を迎えた Ms. MINA AOE がニューヨークのGreatest Musicians と共演するMost Special Ocasion。期待がいやがおうにも高まる(ちなみにこの時期、筆者もニューヨーク在住だったのだが、2年前に生まれた子供の育児に忙しく、仕事も新しい職場に配属されたばかりで音楽どころではなかった。情報網も現在ほど発達していなかったので、青江三奈がニューヨークに来ていたことは、だいぶ後になってから知ったのである)。

司会者の紹介が終わると、ジャズのオープニングから一転して耳慣れたナンバー「伊勢佐木町ブルース」、「長崎ブルース」、「池袋の夜」、「国際線待合室」と続く。昭和40年代の日本にタイムスリップした気分になっていると、おもむろにビリー・ジョエルの「NEW YORK STATE OF MIND」が始まり、聴衆をニューヨークの現実に連れ戻す。このあたりの場面転換はなかなか鮮やかだ。そして次はアメリカ人にもよく知られているスキヤキ・ソング、坂本九の「上を向いて歩こう」が登場。会場(おそらく大半がご年配の日本人か?)は感涙の場面となる。

続く「LOVE IS FOREVER~いつかまた~」、「白樺の小径」、「淋しい時だけそばにいて」は、いずれも情感豊かな「大人のラヴソング」の佳曲。繰り返し聴くたびに心にしみるものがある。歌唱力もさることながら、やはりそれなりの人生経験を重ねていかないと、このような曲を歌いこなすことはできないだろう。

そして最後の2曲は「この曲で青江三奈になりました」と彼女自身が紹介する「恍惚のブルース」と、デビュー30周年記念曲の「女とお酒のぶるーす」で締めくくる。そう、彼女はデビュー曲から一貫してブルース一筋だった。アメリカのジャズ・テイストを隠し味にした独自の青江ブルース。単なる想像なのだが、それを日本の地で目指したのが青江三奈の出発点であり、それをニューヨークの地で完結させるのが究極の最終目標だったのではなかろうか。

このアルバムを聴きながら、ふと、昭和40年代のデビュー当時、金髪で歌っていた若き日の青江三奈を思い出した。きっと、あの頃から心の中ではニューヨーカーだったのかもしれない。

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●歌姫たちの名盤(2) 由紀さおり & ピンク・マルティーニ 『1969』

2013年01月13日 | 歌姫① JAZZ・AOR・各種コラボ系


由紀さおり & ピンク・マルティーニ 『1969
(2011年10月12日発売) TOCT-27098

収録曲 01.ブルー・ライト・ヨコハマ 02.真夜中のボサ・ノバ 03.さらば夏の日 04.パフ 05.いいじゃないの幸せならば 06.夕月 07.夜明けのスキャット 08.マシュ・ケ・ナダ 09.イズ・ザット・オール・ゼア・イズ? 10.私もあなたと泣いていい? 11.わすれたいのに 12.季節の足音


1969年といえば・・・早いもので、もう44年も昔になる。巷では高度成長時代と騒がれていたが、現実にはカラーテレビがようやく登場したばかりの時代。決して裕福ではなかった自宅のテレビは当然、まだ白黒だった。

ある日のこと、当時小学校6年生だった自分は、今は亡き父に連れられて後楽園球場(東京ドームの前身)に巨人vs大洋戦を見に行った。試合は劣勢の巨人が9回裏に猛反撃し、1点差まで追い上げるという白熱した内容だった。現役時代の王、長嶋のプレーに接することのできた貴重な思い出・・・と言いたいところだが、スーパースターだったはずの彼らの姿はなぜかおぼろげな印象しか残っていない。それよりも未だに忘れられないのは、むしろ試合が始まる前、選手たちがグラウンドに登場するまでの待ち時間に、球場に流れていた歌声だった。

「るーるるるるー」で始まるその透き通った歌声は、夜空を照らすスタジアムの灯りの中で、次第に神秘な輝きを増していった。

今まで聴いたことのないような不思議な曲だった。何を言っているのかわからないような歌詞だったが、メロディは異常なほど美しく聴こえた。もちろんまだ子供だったので、そんなに多くの歌謡曲を聴き込んでいるわけではなかったが、それでもその曲の新鮮さは十分に感じ取ることができたのである。

由紀さおりの「夜明けのスキャット」。1969年の年間売り上げランキングで第1位を記録。
しかしこの年のレコード大賞はこの曲ではなく、年末近くになって現われた別の曲だった。

1969年の暮れ、岩手県盛岡市に住む母方の祖母が危篤になったという報を受けて、家族そろって夜行列車で盛岡へ向かった。当時は東北新幹線などという便利な超特急列車はなかったので、田舎へ里帰りするには寝台列車で10時間以上揺られなければならなかった。今の感覚でいえばニューヨークから日本に帰国するようなものである。

盛岡に到着すると祖母はすでに亡くなっていたため、さっそく葬式が執り行われた。葬式というものを体験したのはこれが初めてだったこともあって、子供心には珍しいイベントを楽しむことができたし、それ以上に普段なかなか会うことのできない従兄弟たちと交流することができたのは何よりも楽しい思い出となった。その従兄弟の一人が、テレビのプロレス中継(ジャイアント馬場vs鉄の爪エリック戦)を見ている時だったか、何かのゲームをやっている時だったか、よく覚えていないのだが、何気なく「現代風な感覚の新曲」を口ずさんでいるのを聞き逃さなかった。それがまさしく、数日後の大晦日でレコード大賞を受賞することになる佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」だったのである。

「夜明けのスキャット」 にしろ「いいじゃないの幸せならば」にしろ、さらには、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」にしろ、リアルタイムで出合った名曲は、その時その時の人生の一場面と密接にリンクしている。そういう意味では、それらの流行歌は思い出を呼び起こす貴重なタイム・カプセルの役割りを果たしているともいえるだろう。

2011年に発売され、世界中で記録的な大ヒットとなった『1969』は、その名の通り1969年、あるいはその前後の期間にヒットした内外の流行歌を集めたカバー・アルバムで、由紀さおり&ピンク・マルティーニという異色のコラボレーションが大きな話題となった。上にあげた3つのヒット曲はもちろんのこと、同じようにリアルタイムでよく耳にした黛ジュンの「夕月」 や、ヒデとロザンナの「真夜中のボサ・ノバ」といった往年の名曲が、新鮮なアレンジで現代に蘇ったのは画期的な出来事であるといえる。

それら日本の歌謡曲にも増して素晴らしいのが、当時流行の洋楽ナンバーとして加えられた名曲の数々。個人的な思い入れとしては、やはりピーター、ポール&メアリーのヒット曲『Puff, the Magic Dragon』の楽しくも哀しいファンタジーの世界が忘れられないのだが、何といっても極めつけは往年の大歌手ペギー・リーが歌っていた『Is that all there is?』。これはあらゆる人生の修羅場を「そんなもんよ」と言い捨てながら諦観の境地に達していくヒロインの心境をつづった歌芝居で、並みの表現力ではとうてい太刀打ちできない難曲なのだが、由紀さおりはそれを情感たっぷりに、大女優の風格を感じさせるようなゆとりのある境地で歌い上げている。これを聴くと、つくづくすごい歌手に成長したものだな・・・と思ってしまう。

優れた選曲とアレンジ、優れた歌唱力、 そして優れた録音の3拍子がそろった名盤。
評判通り、いつまでも手元に置いておきたいと思わせるアルバムである。

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●歌姫たちの名盤(1) 八代亜紀 『夜のアルバム』

2013年01月06日 | 歌姫① JAZZ・AOR・各種コラボ系


八代亜紀 『夜のアルバム
(2012年10月10日発売) UCCJ-2105

収録曲 01.フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン 02.クライ・ミー・ア・リバー 03.ジャニー・ギター 04.五木の子守唄~いそしぎ 05.サマータイム 06.枯葉 07.スウェイ 08.私は泣いています 09.ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー 10.再会 11.ただそれだけのこと 12.虹の彼方に


日本を代表する歌姫たち、いわゆるJ-DIVAの名盤を紹介する新シリーズの第1回は、「舟唄」、「雨の慕情」といった大ヒット曲で知られている演歌歌手・八代亜紀が初めて録音したジャズ・アルバム。これは購入する前から興味津々だった。

演歌は演歌でも、いわゆるこぶしの利いた「ド演歌」というのは元来あまり得意ではないのだが、八代亜紀の演歌は情感豊かな湿っぽいニュアンスと官能的なハスキー・ヴォイスに魅力があり、昔からけっこう好きだったりする。この種の歌声は日々の仕事に明け暮れる労働者にとっては癒しにもなり、クラブやバーで一杯やりながら聴くのにはうってつけと思わせるものがあるのだが、実際、演歌歌手でデビューする前の彼女は米軍キャンプや銀座のナイトクラブで歌うジャズシンガーだったそうである。

演歌歌手でデビューしたのは、他の多くの歌手と同様、レコード会社の方針だったのだろう。そして彼女のように成功してしまうと、しばらくはその路線で行かなければならなくなる。「作られたイメージ」というのはなかなか崩すことができないし、崩そうとしてもタイミングが難しい。ほんとうにやりたいことを実現させるには「時」を待たなければならない。それは実社会に生きるわれわれも同じだと思う。

八代亜紀にとって、その「時」は21世紀にめぐってきた。その前後にリリースされているCDの内容を見ると、これまでの演歌路線とは異なった方向を模索し始めているのがわかる。1998年には今回のジャズ・アルバムの先駆けとなるライヴ盤『八代亜紀と素敵な紳士の音楽会』を出しているし、2001年にはPOPS系アーティストたちの楽曲を集めた『MOOD』というアルバムで、ラップ調の「舟唄」なども収録している。そのような準備をしながら少しづつ転換を始め、ようやく2012年になって、本格的なジャズ・アルバムを発表することで原点回帰に足を踏み出した、ということができそうだ。

こうしてできあがったアルバムを聴いてみると、全体的にとてもゆったりした雰囲気に満ちあふれている。ジャズクラブで一杯やりながら聴き入る労働者たちに微笑みかける彼女が目に浮かぶような、リラックスした空気がある。

「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」に始まる最初の3曲はジャズのスタンダード・ナンバーとしてお馴染みの名曲。英語の歌詞に日本語のフレーズも交えて叙情味たっぷりに聴かせる。八代演歌で聞き覚えのある独特の節回しが顔を出すのも微笑ましい。

続く「五木の子守唄~いそしぎ」の和洋2曲を合体したアレンジも面白く、同じ曲の表・裏であるかのように錯覚するほどだ。りりィの名曲「私は泣いています」もジャズ・アレンジで聴くと、さびれた情感が胸に迫ってくるし、シャンソン系の歌手が好んで採り上げる「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」や「再会」で歌われる人生模様も、それぞれの喜びと悲しみの場面が目に浮かぶようである。

そしてラストを締めくくるのは映画『オズの魔法使い』の主題歌「虹の彼方に」。
熟成されたソフトな歌声が、聴く人を文字通り虹の彼方に連れて行ってくれる。

歌を聴きながら夢見るような想像の翼を広げることができるのも、ジャズ・テイストの編曲ならではの味といえるだろう。


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