375's MUSIC BOX/魅惑のひとときを求めて

想い出の歌謡曲と国内・海外のPOPS、そしてJAZZ・クラシックに至るまで、未来へ伝えたい名盤を紹介していきます。

名曲夜話(25) リャプノフ 交響曲第2番

2007年12月17日 | 名曲夜話① ロシア・旧ソ連編

リャプノフ 交響曲第2番 変ロ長調
エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮 フランス放送フィルハーモニー管弦楽団
録音:1998年11月27日 サン・ブレイレルでのライヴ録音
(NAIVE/V4974)
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クラシック音楽の愛聴盤を紹介する「名曲夜話(ロシア・旧ソ連編)」、久々の復活。やはり冬は、ロシア音楽を聴くのに適している季節だ。おりしも昨夜からの雪景色を窓から眺めながら、ロシア国民学派の知られざる大作、リャプノフの交響曲第2番を聴いてみる。

セルゲイ・ミハイロヴィッチ・リャプノフ(1859.11.30-1924.11.8)。モスクワ音楽院ではタネーエフに作曲を学び、リストの高弟カール・クリントヴォルトにピアノを学ぶ。卒業後、「ロシア5人組」のリーダー、バラキレフに出会い、その後は優れたピアニストとして活躍した。作曲活動も、ピアノ曲の分野が中心だったが、以前も名曲夜話で紹介したように、師であるバラキレフは、これから音楽を志そうとする弟子には、まず始めに、交響曲の作曲を勧めていた。リャプノフも、その例に漏れず、2曲の交響曲を残している。

交響曲第1番は、青年時代の1887年(28歳)に完成。師バラキレフや、5人組の同志ボロディンの感化を受けた、典型的なロシア国民学派の音楽。ただ、リャプノフにとって、交響曲作曲は、必ずしもメインストリームではなかったのだろう。ここに紹介する交響曲第2番が完成した時、すでに晩年の1917年(58歳)になっていた。

しかも、この1917年というのは、あのロシア革命が勃発した年。当時リャプノフは、サンクト・ペテルブルグ音楽院で教鞭を取っていたが、1923年にフランスのパリに亡命。当地でロシア亡命者のための音楽学校を組織し、その翌年に心臓発作で急死してしまった。

そういうわけで、この交響曲第2番は演奏されることなくお蔵入りとなってしまう。ようやく陽の目を見たのが、作曲後34年の1951年。エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮レニングラード・フィルの演奏で、ようやく実際の音となって鳴り響いたのである。

このCDは、世界初演を果たしたスヴェトラーノフ指揮による、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団とのライヴ録音。この演奏が行なわれた1998年は、なんとスヴェトラーノフ自身もロシア国立管弦楽団を「破門」され、西ヨーロッパに活動の場を移していた時期だった。(そのあたりの陰謀の裏話が、スヴェトラーノフによる手記の形で、このCDのブックレットに紹介されている)。

作曲者リャプノフが客死した、因縁の地パリでの演奏。フランスのオーケストラながら、スヴェトラーノフの棒のもと、ちゃんとロシアの音色を出しているのが興味深い。

第1楽章の開始では、バラキレフの交響曲第1番によく似たモチーフが、木管で静かに歌われる。悲劇的な主部を彩る、豪快なブラスの響きも心地よい。第2楽章スケルツォでは、怒涛のように打ち込まれるティンパニが物をいい、第3楽章では、待ってましたとばかりに、典型的なロシアン・アダージョが切々と歌われる。

第4楽章フィナーレは、リムスキー=コルサコフの「クリスマス・イヴ」あたりを連想させるような祝祭的な雰囲気。全体的には、リャプノフならではと言えるほどの独創性は確立しておらず、それゆえに、今後もメジャーな作曲家としての地位に昇格するのは難しいだろうが、ロシア国民学派の伝統を受け継ぐ最後の交響曲の一として、ロシア音楽ファン、あるいはスヴェトラ・ファンであれば、ぜひコレクションに加えておきたい一品である。


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