375's MUSIC BOX/魅惑のひとときを求めて

想い出の歌謡曲と国内・海外のPOPS、そしてJAZZ・クラシックに至るまで、未来へ伝えたい名盤を紹介していきます。

●歌姫たちの名盤(17) 黛ジュン 『天使の誘惑 黛ジュンのすべて』

2013年06月24日 | 歌姫② 60-80S 歌謡POPS系


黛ジュン 『天使の誘惑  黛ジュンのすべて
(2004年4月20日発売) COCP-31131 *オリジナル盤発売日:1969年2月10日

収録曲 01.黛ジュンによるナレーション 02.天使の誘惑 03.夕月 04.恋のハレルヤ 05.霧のかなたに 06.ツイスト・アンド・シャウト 07.バラと太陽 08.私の愛にこたえて 09. 愛の奇蹟 10.乙女の祈り 11.八木節 12.ダンス天国 13.淋しくて 淋しくて 14.ブラック・ルーム 15.つめたい耳


1968年度のレコード大賞に輝いた「天使の誘惑」をフューチャーした記念アルバム。この曲も小学校高学年時代の想い出を鮮明に思い起こさせる名曲だ。しかも単に懐かしいだけでなく、今聴いても十分新鮮でワクワクするという点では、同時代の歌謡曲の中でも5本の指に入るのではないだろうか。

この曲がヒットしていた当時、小学生に最も人気があったのはピンキーとキラーズの「恋の季節」 だった。これももちろん名曲であることは間違いないのだが、歳月を経て中高年にさしかかった今では、もっと大人の香りのする「天使の誘惑」のほうが懐かしく思える。黛ジュンもヴォーカリストとして素晴らしい。レコード大賞を受賞したのは20歳になったばかりの時で、これは女性ソロ歌手としては史上最年少だった(1996年に安室奈美恵が19歳で受賞するまで同賞の最年少受賞記録を保持)。そのくらいの年齢であれば、現代ならアイドル歌手の扱いになってしまうだろうが、当時は全くそうではなく、れっきとした大人の歌手と見なされていた。

この時代の歌手の多くは、デビュー年齢が若くとも、それ以前に下積みシンガーとしての十分なキャリアがあった。幼少の頃から米軍キャンプや高級クラブでジャズをはじめとするあらゆるジャンルの曲を歌い、大人の観客向けのステージマナーを身につけた上でメジャーデビューするわけだから、出てきた時点で、すでにプロフェッショナルの完成された歌手なのである。黛ジュンの場合も例外ではなく、中学校卒業後から米軍キャンプでジャズ・シンガーとして武者修行を積んでいた。

1964年(当時16歳)の最初のデビューは本名の渡辺順子名義だったが、この時はヒットが出ず、3年後の1967年に黛ジュンの名で東芝レコードから再デビューする。ここから本格的なブレイクが始まった。それ以降は同じ東芝に所属する奥村チヨ、小川知子とともに「東芝3人娘」として全盛期を築くことになる。

この当時はグループサウンズが流行した時期でもあり、小学生の女子の間でもタイガースとテンプターズが人気を2分していた。 黛ジュンは「ひとりGS」と呼ばれる独自のスタイル、ミニにこだわった洋風衣装で若者の支持を得た。同世代の奥村チヨともども、時代の最先端を行くファッションリーダーの役割りを果たしていた。そういう背景からも、1967年でのブルー・コメッツ、1968年での黛ジュンのレコード大賞受賞は「時代を映す鏡」として大きな意味を持つのである。

さて、レコード大賞受賞の翌年2月に発売されたこの記念アルバムでは、黛ジュン自身のメッセージが冒頭に収録されている。その内容は初々しさと同時に、プロの歌手としてすでに長いキャリアを積んでいることを感じさせる。米軍キャンプで歌っていた時の思い出を走馬灯のように懐かしく振りかえりながらも、明日への夢に向かって新たな一歩を踏み出す決意。予想に反してグループサウンズの時代はあっけなく終わってしまい、歌手の世代交代も急速に進んでいくことになるのだが、そうであったとしても、あの時輝いていた笑顔は忘れることができない・・・というのが同時期に青春時代を過ごした人たちの共通の思いではないだろうか。

本人のメッセージに続いて最も有名な初期のヒット曲「天使の誘惑」(第4シングル) 、「夕月」(第5シングル)、「恋のハレルヤ」(第1シングル)が続く。「霧のかなたに」(第2シングル)もややマイナーながら渋い名曲。この後はお得意の洋楽ナンバー「ツイスト・アンド・シャウト」となり、本格的なロックンロールのシャウトを聴かせる。前半の残り2曲はアルバムでしか聴けない「バラと太陽」と「私の愛にこたえて」。どちらも「天使の誘惑」と同じ作詞・なかにし礼、作曲・鈴木邦彦のコンビによるもので、洋楽テイストを取り入れたナウい佳曲となっている。

後半は一転してドラマチックな歌謡曲「愛の奇蹟」(「夕月」のB面) から始まる。そしてリアルタイムで飽きるほど耳にした「乙女の祈り」(第3シングル)。これ、もしかすると自宅にレコードがあったのでは・・・と今にしてみれば思う。父親が黛ジュンのファンとは聞いていなかったのだが、もしかすると密かに好きだったのかもしれない。続いて「八木節」のライブ音源。和風ナンバーのあ・うんの呼吸も堂々としたものだ。ここからは再び洋風ロックンロール・テイストになり、イェイ!の掛け声がキマッている「ダンス天国」、なかにし礼・鈴木邦彦コンビのバラード「淋しくて 淋しくて」(「乙女の祈り」のB面)、ドラムとエレキサウンドが冴えわたるリズミカルな名曲「ブラック・ルーム」(「天使の誘惑」のB面)を経て、幻の名曲ともいわれる「つめたい耳」のスケールの大きな歌唱で締めくくる。

黛ジュンといえば、実兄が作曲家の三木たかしであることでも知られる。兄による歌の指導は厳しかったらしく、2009年に三木たかしが逝去した時、「私は兄に褒められたくて一生懸命歌ってきた。これから先、どうやって歌ったらいいのか、考えられません」と涙ながらに語っていた。2人の才能・実力を考えれば、まさに黄金の兄妹である。

黛ジュンは更年期障害で苦しんだ時期があり(体験本を出版している)、また一時期は原因不明の喉の病気で声が出なくなり、半ば引退していた時期もあったが、最近になって歌手活動を再開したようだ。年齢的にはまだ60代なので、ぜひとも同世代を代表するスター歌手の一人として活躍を続けてほしいものである。

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●歌姫たちの名盤(8) 奥村チヨ 『ナイトクラブの奥村チヨ』

2013年02月24日 | 歌姫② 60-80S 歌謡POPS系


奥村チヨ 『ナイトクラブの奥村チヨ
(2006年9月6日発売) TOCT-11137

収録曲 01.オープニング〔恋の奴隷〕 02.恋狂い 03.女の意地 04.夢は夜ひらく 05.ルック・オブ・ラブ 06.ラブ・ミー・トゥナイト 07.木遣りくずし 08.お座敷小唄 09. くやしいけれど幸せよ 10.嘘でもいいから 11.恋泥棒 12.恋の奴隷


奥村チヨが18歳の若さで「あなたがいなくても」という曲でデビューしたのは東京五輪の翌年、1965年3月のことだった。この時のB面曲「私を愛して」がシルヴィ・バルタンのカバーだったこともあって「和製シルヴィ・バルタン」として売り出されることになった。その翌年の1966年には4枚目のシングル「ごめんね・・・ジロー」がヒット、さらに翌年の1967年にはベンチャーズ歌謡の先駆となった「北国の青い空」が大ヒットとなり、同じ時期に19歳でデビューした黛ジュン(「恋のハレルヤ」)、小川知子(「ゆうべの秘密」)とともに東芝3人娘として活躍するようになる。

当初から小悪魔的ともいわれる独特のルックスが注目されていたが、人気に輪をかけて大ブレークするきっかけとなったのが、「あなた好みのぉ 女になりたい~」というフレーズが流行語となった傑作歌謡「恋の奴隷」(1969年)と、それに続く「恋泥棒」、「恋狂い」(1970年)の”恋3部作”だった。世の男性はすっかり、官能美を極めた奥村チヨの虜となってしまい、ファンによるストーカー騒ぎまで勃発する事態になったのである。

現代でもセクシー歌手といわれるシンガーはいるが、「小悪魔的」あるいは「コケティッシュ(coquettish)」というフランス語の形容詞(日本語でいえば「蠱惑的(こわくてき)」あたりのニュアンス)がこれほどぴったりくる歌手は思い当たらない。往年の海外女優でいえばブリジット・バルドーというところだろうか。単にセクシーでお色気があるだけではなく、知性の裏づけがあり、男心をそそるしとやかな気品が備わっているのである。

もちろん、そのあたりの奥深い魅力は当時まだ小学生だった筆者にわかろうはずもない。 当時は東芝3人娘のように10代でデビューしても、決して学芸会ご用達のアイドルではなく、れっきとした大人の歌手と見なされていた。歌謡曲は基本的に大人向けの娯楽という認識があり、22~23歳の奥村チヨが歌っていた”恋3部作”も、明らかに大人でなければ理解できない内容を持っていた。それだけに、それ相応の年輪を重ねた今、あらためて当時の男たちを惑わせた官能美を味わいたくなってくるのである。

そんな奥村チヨの魅力を伝える貴重な一枚として、昭和45年(1970年) 7月16日から18日にかけて「京都ベラミ」という名門ナイトクラブで録音された『ナイトクラブの奥村チヨ』というアルバムが残されているのはありがたい。ナイトクラブというのは昭和時代に流行した大人の社交場で、酒を飲みながら歌を聴くこともできるので、当然のことながら酔っ払いのオヤジもたくさんいる。そういう人たちのお相手をしながらショウを行なうことになるので、歌手のほうも適当に遊びを混ぜながらゲストを楽しませるという接客術が必要になってくる。

オープニングは最大のヒット曲「恋の奴隷」 のワン・コーラスで幕を開ける。続いて濃厚なフェロモン歌唱が炸裂する「恋狂い」。笑えるほどに大袈裟な表情をつけるのもライブならではの味であろう。これが終わると絶妙な「ためいき」を交えた奥村チヨの何とも色っぽい挨拶と、演奏を担当する北野タダオとアロージャズ・オーケストラの紹介がある。

続いて、苦しいばかりの女心を歌った「女の意地」 と、ジャズ・テイストの演奏が秀逸な「夢は夜ひらく」。この邦楽カバー2曲も彼女のオリジナル曲同様、ほとんどワン・フレーズごとに濃厚な味付けがされており、独自の悩殺ムード歌謡になっているところが興味深い。

前半のメインは洋楽カバー2曲。007シリーズの映画「カジノ・ロワイヤル」の主題歌となった「ルック・オブ・ラブ」(バート・バカラック作曲)と、ラテン・テイストの名曲でトム・ジョーンズが歌った「ラブ・ミー・トゥナイト」。それぞれ傾向の違う英語の曲を豊かな声量で歌いこなし、本格派シンガーとしての素養も垣間見せる。

オリジナルLPでB面となる後半部は、小唄調の節回しが冴える「木遣りくずし」と「お座敷小唄」で始まり、最新のオリジナル曲「くやしいけれど幸せよ」 、「嘘でもいいから」(ともに筒美京平作曲)と続く。この2曲のオリジナル曲は、どちらも奥村チヨの妖艶な魅力を最大限に引き出そうとした曲作りをしており、彼女も期待に応えて、まさに究極ともいえるフェロモンを発揮している。純粋に「声のみ」でこれほどの色気を感じさせる歌手というのは、空前にして絶後であろう。

曲の合間にあちこちで「チヨちゃん!」という掛け声も飛ぶ。性的快楽を求める男性客がほとんどかと思いきや、意外に女性のファンも多い。奥村チヨは時代の先端を行くファッション・リーダーでもあったので、女性にとっても憧れの存在だったのだ。

ラストはお馴染みの「恋泥棒」 、そしてアンコールの「恋の奴隷」で締めくくる。曲の途中で酔った男性客にマイクを向けたりするので「あなた好みの あなた好みの」のところがすごいことになっているが、これはまぁナイトクラブならではのお遊びということで許してあげてもいいだろう。

とにかく一人の男性としては、「この人の歌は何が何でも全部聴かなければならない」 というのが結論である。

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●歌姫たちの名盤(7) 渚ゆう子 『ナイトクラブの渚ゆう子』

2013年02月17日 | 歌姫② 60-80S 歌謡POPS系


渚ゆう子 『ナイトクラブの渚ゆう子
(2005年6月1日発売) VSCD-3470

収録曲 01.京都の恋 02.愛にぬれたギター 03.風の日のバラード 04.アカシアの雨がやむ時 05.女のみち 06.何処へ 07.長崎慕情 08.名月赤城山 09. 妻恋道中 10.ダヒル・サヨ~サンパギータ 11.ラハイナ・ルナ 12.京都慕情 13.東京に三日 田舎に四日 14.雨の日のブルース 15.さいはて慕情 16.グッドバイ・ホノルル 17.早くキスして 18.カイマナ・ヒラ


渚ゆう子が「京都の恋」と「京都慕情」の連続ヒットで押しも押されぬ人気歌手となったのは1970年(昭和45年)。リアルタイムで体験した人はよくご存知のように、日本で初めての万国博覧会が開催された年であり、日本中が万博ブームであふれかえっていた。筆者が通っていた学校のクラスメートの間でも「万博に行った」という奴がいれば、皆から羨望の眼差しで見られたものである。

自分は当時まだ中学1年だったので、日帰りで戻ってくることが不可能な大阪府の万博会場まで一人で旅行することなど、もちろん許されるはずがなかった。結局夏休みの時期に父、弟と3人連れで行くことになった。日程はたしか2泊3日くらいだったので、今になって考えてみれば万博1本に絞っておいたほうがよかったのだが、うちの家族にとっては関西に行くこと自体これが初めてということもあって、ついでに京都も訪問してみようということになった。そうなると当然のことながら強行軍のスケジュールとなり、万博は事実上1日のみの滞在となったのである。

初めて訪れた京都の印象は・・・といっても、やはり日本情緒とか歴史的価値などがわかっていない中学生に好印象を期待するほうが無理であろう。あえていえば、学校の教科書にも出てくる有名な金閣寺や銀閣寺、清水寺などを一通り参拝し、とりあえず足跡を残すことができたという一点に意義があったかもしれない。それから2年後の1972年にも修学旅行で再び京都を訪れる機会があり、どこかのお寺で聴いたお坊さんの説教が面白かったという思い出が残るものの、街の印象としては特に付け加えるようなものはなかった。その後は京都に再訪することもなく、40年以上の歳月が流れた。おそらく歳を重ねた今になれば、古都・平安京の良さもそれなりに実感できるだろうけれども。

自分が2度の京都訪問を実現した中学生時代(1970年~1973年)は、まさに渚ゆう子のブレーク期間と重なっていた。自分の中での京都のイメージは、実際に自分の目で見た京都よりも、渚ゆう子の歌に出てくる京都のほうが強いかもしれない。特に京都シリーズの第2弾となった「京都慕情」では「夕焼けの高瀬川」、「夕やみの東山」などの具体的な固有名詞が出てくることもあって、聴くたびにリアルな叙情に思いを馳せることができる。

さて、ここに紹介する『ナイトクラブの渚ゆう子』 は1973年7月13日から14日にかけて「広島ホノルル」というナイトクラブで実況録音されたライヴ盤である。ナイトクラブというのは食事をしたりお酒を飲んだりしながらダンスなども楽しむことができる大人向けの社交場で、当時人気の娯楽施設だった(アメリカでいえば南部の地域にある「Saloon」のような雰囲気。昭和40年代の時期は、学生や若い人が遊ぶというイメージがあまりなく、それを反映してほとんどの娯楽施設は大人向け、もしくは家族向けだったように思う)。司会者のMCや会場のざわめきもそのまま録音されているので、当時のナイトクラブの様子が手に取るように伝わってくるところが面白い。

ショウの前半は「渚ゆう子の歌う新しい日本の叙情」 と題して、彼女自身のヒット曲といわゆる日本のスタンダード曲が歌われる。オープニングを飾るのが琴の伴奏でゆるやかに始まる「京都の恋」。ベンチャーズのエレキ・サウンドに日本語の叙情的な歌詞を乗せるという斬新な試みによって、画期的な大ヒットとなった名曲だ。ちょうど万博が開催されたこの年、日本人の意識が今までになくワールドワイド指向になりはじめていたことも、和洋合作のコラボレーションが見事に成功した要因だったかもしれない。

それにも増して新鮮な叙情を満喫できるのが「風の日のバラード」 。この曲は中ヒット程度だったと記憶しているが、個人的には渚ゆう子の代表作にあげてもいい名曲だと思う。オリジナル曲に続く日本の名曲コーナーでは、当時ビッグ・セールスを記録した「女のみち」も登場。ワン・コーラスが終わってからいったん中断し、会場のお客さんたちを舞台に上げてもういちど一緒に歌い始めるなど、ナイトクラブならではのアットホームなサービスぶりも楽しめる。それにしても、どの曲を歌っても声質が明るく、高音がさわやかに伸びていく。おそらく沖縄出身の母親の影響で幼少時から沖縄民謡を学んでいたのと、芸能界の初期にハワイアンを歌ったことで、このような透明感のある発声法が身についたのだろう。

後半の部は日本的な叙情から一転して、そのハワイアンの名曲「ダヒル・サヨ~サンパギータ」 と全編ハワイ語の「ラハイナ・ルナ」で幕を明ける。これがまた、これまでよりも歌唱レベルが一段階上がったのではないかと思えるほど素晴らしい。どうやら、渚ゆう子の影のない南国的な声質にはハワイアンが抜群に相性がいいようだ。

以下は前半同様オリジナルのパレードとなり、いわずと知れた叙情歌謡曲の名作「京都慕情」、1973年時点での最新曲「東京に三日 田舎に四日」、切れのいいリズムが心地よい「雨の日のブルース」、レコード大賞歌唱賞を受賞した「さいはて慕情」と続く。前半の部と合わせると彼女の代表的なヒット曲はほぼ網羅されているといってもいい。

そして最後を飾るのが、お得意のハワイアン「グッドバイ・ホノルル」。ナイトクラブの名前が「ホノルル」なので奇しくもお別れの曲にふさわしい選曲となる。アンコールも2曲のハワイアン。渚ゆう子名義でのデビュー曲となった「早くキスして」とハワイアン・スタンダードの「カイマナ・ヒラ」。どちらも完全に彼女独自の音楽性を100%体現した歌いっぷりで、容易に他の追従を許さないレベルに達している。これぞ魅惑のハワイアン・ドリーム! 居ながらにして、常夏のワイキキ・ビーチの見果てぬ夢を実感させてくれるのである。

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