おかげさまで生きてます

日々の暮らしのなかで

見える部分が全てではないはず

2023年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム
雑誌や新聞の記事を読んでいると、
カッコ書きで表示されている部分に気づく

文章でのスペースは限られているので、
記事に抽出した前後の文脈を簡易的に知らせるために
アレとかソレが何を指している事なのかを
カッコ書きするのだ

会話も流れがあって、
前後の、もっと言えばそれまでの「前」の
部分が分からないと、伝わらない時がある

先日、秋祭りが行われた時、
散らばって宴会をしている中から、
同級生を探していた時、その同級生がいると
思われた一団の中で、名前を知っているのは
一人だけだった

同級生は居なかったので、その知っている奴の名前を呼ぶと

「◯◯も居るよ!」と声がした

その人のその言葉に大した意味があるわけでも
ないかも知れないが、
私としては、

「たくさん居られる中で、私が名前を存じ上げるのは・・・」

を省いただけであって、その他の人を無視した訳ではない

最近、有名人がSNSのあり方に対して意見する場面があり、
誹謗中傷は別の問題として、番組の作り方に対しての意見でも
それを言われると、お笑い番組が死んでしまう!と
反論もされる

匿名性の高いSNSでの批判は、
顔を出して活動しているタレントさんの方が不利だし、
卑怯な手口だと素人の私も思う

ただ

そう言うタレントさん達も、
闇雲にSNSでの批判に反論している訳でも
ないと思う

耳障りの悪い、居心地の悪い意見も当然あるが、
それを自分への叱咤激励と受け取る人もいるだろう
度を過ぎれば怒ることは当然だが、
SNSのコメントの中には、建設的な意見もある

それを真摯に受け止めた上で、
それでも必要以上に叩いてくる人への
反論なのだろうと思う

全てを話していると、長くなる

カッコ書きに隠された部分を理解する能力を
身につける必要がある
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