本編を観た時には、関連グッズのことなど頭にありませんでした。映画鑑賞後しばらくしてから、公式ホームページを開いてみたら、癒しの壁紙がダウンロードできることや、その他、数々の関連グッズを販売していることに気づきました。私は携帯アクセサリーには目がないのです。公式ホームページでも、グッズ販売はしているのですが、2~3日ぐずぐずしていたら、私のお目当ての携帯ストラップは、あっという間に「品切れ」の表示に切り替わっていました。その携帯ストラップ欲しさに、「星になった少年」の上映館を(大泉学園付近や吉祥寺…出張の帰り道なので、わざわざではありませんが、でもまぁ、わざわざ…と言えないこともないですネ。)梯子しましたが、どこでも完売でした。「もうどこにもないんだなぁ…」と気落ちしながらも、それでもと思って、新宿の上映館に電話をしてみたら、在庫があったのです。「早めに来ていただかないと、もうすぐになくなります。」と言われたのですが、灯台下暗しとはこういうことを言うのでしょうか?写真で見るよりは実物のほうが数段ステキです。でも、パンフレットの写真のストラップの方が、またそれよりもさらに数段美しく撮影されています。何はともあれ、「あって良かった!」欲しかったものが手に入いるということは本当に嬉しいものです。幸せな気持ちになります。「星になった少年」は今、私の中では一番のマイブームです。
気功教室が始まる前に、ある人が「『スターウオーズ』は気功の映画だと思う。」という言葉をぽろっと洩らしたのです。通常なら、この手の映画を観るために劇場にまで足を運ぶなどということはまず絶対にない私ですが、‘気功’の映画を見逃すわけにはいかないと思い、心わくわくと映画館に出かけました。結果は、惨憺たるものでした。宇宙的な場面や、気功の世界を髣髴とさせる、それらしい言葉も時々は出てくるのですが、私にとっては、この映画は「大画面・大音響の豪華スペクタクル巨編」以外の何ものでもなかったのです。片や、「星になった少年」は、観る前は、さして期待もせずにいたのですが…予想に反して、その雄大さのレベルからみると衝撃的ともいえる感動的な映像の連なりの作品でした。一つの作品として、この映画を‘好き’かと問われれば、首を縦に振るには、いま一つちょっと違うものを感じてはしまうのですが…。何故なら、この映画の中で描かれている「家族愛」とか「少年の夢の実現」とか「動物たちとの触れ合い」とかのキャッチフレーズには、さして心が動かないからです。一つの作品として‘好き’なのではなく、一つの場面場面、一つずつの映像に限りない無限(夢幻)の美しさや宇宙的な雄大さを感じて、心が揺さぶられたということなのです。ランディという小象と出会ったことがきっかけで、少年は、自分が象の言葉や気持ちが読めることに気づき、象との交流にのめり込んでいくようになります。象は遠く離れていても、仲間の気持ちや仲間の危機を感じ取れる動物だそうです。ランディの顔面には3つの白斑があります。私には、それは単に色素が抜けただけにしか見えないのですが、少年にはその白い部分が3つの星に見えて、ランディの顔に宇宙を感じ取るのです。少年の母親が「あの子はどんどん普通ではなくなっていく。」とつぶやく場面があるのですが、私はその時思いました。人が本質に近づいていけばいくほど、世俗の見方からすると、普通でなくなっていくのは当たり前のことかもしれない、と。この少年は、象使いになるために、タイのチェンマイ北部に1年半強滞在するのですが、1年半経ってやっと「少しは神様と仲良しになれた気がする。」と語ります。しかも、彼は「ただ好きなだけじゃダメなんだ。生きていくための(人間との共存のための)ルールを教えなくては…」という、象に対する愛ある厳しい一面をも忘れてはいません。こちらの映画の方がよほど、‘気功’の世界を感じさせてくれる内容でした。私はこの映画の筋を追うつもりはありませんので、説明不足だらけで、結局何が言いたいのかが不明確で申し訳ないのですが、一つだけはっきりと言えることは、柳楽優弥君の見事な象使いぶりを見られるだけでも、この映画を必見の価値ありと推薦できる気がしているのです。とにかくすごい!チェンマイでの象の背に乗っての、象使いたち(その中の一人に柳楽君がいます。)のゆったりとした川下りの場面は圧巻です。それにもう一つ、坂本龍一氏の音楽の素晴らしさも見逃せません。悠久の時の流れを感じさせてくれます。タイトルがまたいいのです。「星になった少年Shining Boy & Little Randy」なのですから…。星になった主人公の哲夢君は本当にShining Boyとしか言いようがありません。
理由は分かりません。が、矢も立てもたまらず、何かにお参りせずにはいられないような気持ちに駆られて、明治神宮へ行ってきました。最寄り駅は原宿ですから、その地は、都会の喧騒のど真ん中に位置しているわけなのですが、鳥居の中に一歩足を踏み入れれば、そこはまるで別天地なのです。サンダルを履いていたので、玉砂利が敷き詰められた参道を歩くのがちょっと大変でしたが、うっそうとした木々の合間から覗く空がとても高いところにあるように感じられ、いつもなら空を見上げるなどということもないのに、見上げても見上げても、空が遠くに…遠くに…感じられてとても不思議でした。外国人の参拝客がちらほら歩いているだけの時空の中にいたからでしょうか?時間が贅沢なほどゆっくりとしか進まないし、自分の存在もいつもよりも、より一層小さく感じられてしまったのです。森を歩いている時などは、その空間軸がただひたすらに、縦に…縦に…長く伸びていて、天まで届くかの如くでしたので、何かにひよいと乗っかれば、私自身が天まで昇っていかれそうなほどでした。本殿では、お賽銭を投げた時に、賽銭箱の付近だけに気持ちのいい涼風が吹いていましたので、霊験あらたかな敬虔な気分にもなったのですが、もしかしたらそこだけ冷房が効いていたのかもしれません。何を願うというのでもなく、ただ手を合わせて、踝を返したのですが、お墓参りをした時と同じように、「本当に私はちゃんとお参りできていたのだろうか?」何かをまだし足りていない…し残している。心の中にクエスチョンマークを残したままでいる、そんな気分に襲われてしまうのでした。私は何をし残しているのでしょう?日常生活において、‘感謝’の気持ちがまだ十分には満ちていないから…だから、神仏に呼ばれているような感覚を知るようになったのでしょうか?でも見方を変えれば、そういう世界と交信できるようになりたいと思うようになったこと自体が、もしかしたら、‘気功’の影響なのかもしれません。(上の写真は、森を抜けて視界が開けた本殿近くの映像ですので、空の高さよりも、空間の拡がりを感じさせてくれる写真となりました。)
①沸騰したたっぷりのお湯に麺(うどん)を入れ3分くらい茹でます。②茹で上がった麺をざるにあけ、流水にさらし、氷水で冷やします。③水切りした麺をどんぶりに入れ、鰹だしのきいたつゆをうどんが浸るくらいの量(少量というところがお洒落で、この献立のみそです。)だけかけて、その上にたっぷりの柚子大根と多すぎるくらいの刻んだ白ねぎをかけて召し上がってください。きざみのり少々。わけぎ少々。すだち1/2個などを加えても美味しくいただけます。手間いらずで簡単な「食欲のない時」の献立をあれこれ考えています。