goo blog サービス終了のお知らせ 

週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

031.子羊たちはもう鳴き止んだか?a

2009年02月20日 | 映画を“読む”

-Movin' Movies #04-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 僕のSteamフレンドの一人、NAUSICAAさんが運営されているCS:Sのパブサバ、『CLUB THE GUN FIGHT』に二つ目のサバが設置されました。


CLUB THE GUN FIGHT

IPアドレス:121.112.117.206:27017
Tickレート:100
ゲームスタイル:ベーシックルール
FF:ON
ホスト人数:MAX18人
BOT:有り(MAX6体)
その他:8Rハーフ・1R1:45・zBlock

Blog0212_2  サバの名前は、以前にもこのブログで紹介させて頂いた既存のDMサバと同じですが、こちらはDMではなくベーシックルールのサバです。
 8Rハーフの16R制という点では綱島温泉に似ていますが、ラウンドタイムが1分45秒に設定されており、加えてBOTのレベルがやや高めに設定されているので、中級者~上級者レベルのHS率があり、ラウンドテンポはかなり速めです。
 綱島やBananaoutでは、BOTレベルが“簡単”程度なので、BOT相手だと正直練習にはならない(注:ただし、この二つのサバはどちらも人気が高く、クラン戦経験者がよく集まるサバなので、BOTを相手にする機会は少ない)んですが、こちらはフツーにプレーヤーさんを相手にしてる程度にHSをキメてくる上、ラウンドタイムも1分45秒に設定されており、クラン戦の実戦にかなり近い感覚で練習が出来るサバだと思います。
 こうやって書くと、初心者には敷居が高いように感じるかもしれませんが、そんな事はありません。
 事実、僕もこのサバに通い始めたばかりの頃は、BOT相手にやられまくってチームスコアで完封される事も珍しくありませんでしたが、ココ2週間ほどで、ようやくコツが掴めてきたらしく、コンスタントに勝てるようになってきました。通いつめれば必ず勝てるようになります!
 ちなみに、僕は現在、ハンドガンのニガテ克服のため、このサバで練習に勤しんでおります。(^ ^;)
 また、マップサイクルも、dust2やnuke、infernoといった、国内外のクラン戦でよく使用されるde系のマップが中心なので、クラン戦の練習には丁度良いサバになっていると思います。(注:↓の画像はnukeです)

Blog0213  実を言うと、つい最近、僕はNAUSICAAさんのご好意で彼が運営しているSteamコミュニティ、『CLUB THE GUN FIGHT』の管理者の一人にして頂いて、このサバの事も、年明け早々に設置したばかりのテスト版の頃に知らされ、テストプレイに参加してきましたが、最初の頃は問題も多く、スコアや所持金がリセットされない、チームチェンジしないなどの不具合が頻発していましたが、NAUSICAAさんの努力の甲斐あって、現在は快適にプレイ出来るサバになりました。
 NAUSICAAさんご本人は、「所持金の支給やBOTバンを導入したい」と言われており、現在はまだβ版という扱いですが、今でも十分遊べるサバだと思います。
 昨年の年末ぐらいから、CS:Sのパブサバでは『プレーヤーゼロ状態』が目立つようになり、一部のパブサバ以外は人が全然集まらない状況が増えてきているように感じます。
 しかし、MSZカップや、3月に開催されるJapan Championshipなどのクラン戦ワンデイトーナメントイベントが頻繁に開催されるようになってきており、決してCS:Sの人気が衰えたワケではないと思います。
 もちろん、L4D人気にCS:Sプレーヤーを取られた感はありますが、風のウワサでは、CS:Sでもようやく世界大会が開催されそうな動きがあるらしい(注:全くの未確認情報ですが、そういうウワサがあるらしい)し、CS:Sはまだまだ遊べるゲームです。皆さんも、どうぞこのサバに足を運んで頂いて、一緒に撃ち合って楽しみましょう。面白いようにヤられますから。僕が。(笑)
 昼間に、はちゅねさんのスプレーをしているプレーヤーを見かけたら、それが僕です。どうぞ気軽にお声をおかけ下さいませませ。



 さて今回は、またまたお久しぶり~の『映画を“読む”』のコーナー。
 今回ご紹介するのは、ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスの代表作にして、90年代のサイコスリラーブームの火付け役となったスリラー映画の金字塔、1991年公開の映画、『羊たちの沈黙(原題:the silence of the lambs)』です。


※注:以下には、映画『羊たちの沈黙』の重大なネタバレが多々記されています。未鑑賞の方は、先に映画本編を鑑賞される事をオススメします。


・Story

 山間部のアスレチックコースを走る一人の女性。
 彼女の名はクラリス・スターリング。若きFBIの訓練生だ。FBI捜査官になるため、彼女は厳しい訓練に明け暮れる毎日を送っていた。
 そんなある日、いつものようにトレーニングに励んでいると、訓練教官のジャック・クロフォードに呼び出される。
 何事かと彼のオフィスを訪ねるクラリス。そこで彼女は、クロフォードからある任務を課せられる。それは、彼が最近始めた収監中の過去の事件の容疑者たちの心理分析だ。こうしたデータを集め、今後の事件の捜査に生かすためである。
 そして、クラリスが課せられたのは、その中でも“大物”の一人、ハンニバル・レクターの様子を観察し、クロフォードが用意した質問状を渡してくる事だった。
 天才的な元精神科医で、受賞歴もあるレクター。しかし、彼は自分の患者を殺し、その肉を食べた食人嗜好を持ち、通称“ハンニバル・カニバル”と呼ばれる連続殺人犯だ。
 命令通り、レクターの下を訪れるクラリス。
 厳重な警備下に置かれた精神病院で、光も届かない地下牢のような隔離病棟。
 そこに、彼は、居た。

「おはよう。」

 背筋の伸びた姿勢、紳士的な風貌、穏やかな口調と声。
 とても殺人犯には見えない初老の男。
 クラリスは、初めての任務で緊張していた事もあり、レクターに敬意を示しつつ、当たり障りなく接する。
 しかし、レクターは協力を拒む。何故なら、レクターはクロフォードの目論見をお見通しだったからだ。
 バッファロー・ビル事件。
 若い女性ばかりを狙い、殺した上に生皮を剥いで死体を河に捨てるという、猟奇的な手口の連続殺人事件。クロフォードは、レクターにこの殺人事件の犯人のプロファイリングをさせようとしていたのだ。
 しかし、クラリスはレクターに協力させるために何度か彼の下を訪れる。
 するとレクターは、クラリスに向かってある提案をしてくる。それは、クラリス自身の個人的な過去を教えて欲しいと言うモノ。そして、それと引き換えに、バッファロー・ビルの犯人像を教えようと言う。

「捜査に協力するよ、クラリス。」

 そしてレクターは、バッファロー・ビルの犯人像を語り始めるのだが……。


 連続猟奇殺人事件の捜査という、サスペンスの定番モティーフを使い超一級のサイコスリラーに仕立てながら、クラリスとレクターの心理的な交流を丁寧に描き出した繊細なストーリーは、同ジャンルの他の作品とは一線を画する仕上がり。
 トマス・ハリスの世界的ベストセラー小説を、確かな演技力を持つキャストと実力派のスタッフが手がける事で、小説の魅力を損なう事なく見事に映像化した傑作。
 この作品は、まさにサイコスリラーの金字塔と呼ぶにふさわしい作品と言えるだろう。


・Cast&Staff

ジョディ・フォスター/クラリス・スターリング

 若き女性FBI訓練生、クラリスを演じたのは、80年代から90年代にかけて活躍し、今なお円熟した演技でファンを魅了し続けている名優、ジョディ・フォスターである。
 3歳の時、既に子役としてタレント事務所に籍を置いていた兄に付いて現場を訪れた際にスカウトされ、CMやTVドラマに子役として出演。
 1972年には、『Napoleon and Samantha』という作品で映画デビューを果たし、1976年の『タクシードライバー』(ロバート・デ・ニーロ主演、マーティン・スコセッシ監督作品)では、当時13歳にして12歳の少女娼婦という難しい役を好演し、助演女優賞でオスカー候補になり注目される。
 しかしこの直後、ジョン・ヒンクリーという熱狂的なファンを自称する人物が、1981年にレーガン大統領暗殺未遂事件を起こし、これに衝撃を受けたフォスターは、一時映画界から姿を消す事になる。(注:映画『セブン』で、「ジョディ・フォスターの声で大統領を撃ったヤツもいる」というセリフがあるが、コレがソレ)
 84年公開の『ホテル・ニューハンプシャー』で本格的に映画界復帰を果たした彼女は、1988年公開の『告発の行方』で、レイプ被害者の女性という難しい役を好演し、同年のアカデミー賞で主演女優賞を獲得。
 91年には、本作で再び主演女優賞を獲得し、その地位を確固たるモノにする。
 本作出演後は、同じく91年公開の『リトルマン・テイト』で監督にも挑戦。94年の『ネル』という作品では、自らが設立した映画製作会社、エッグ・ピクチャーズのプロデューサーとして製作も手がけている。またこの作品では、知的障害者の女性を演じ、その演技が高く評価され、オスカーやゴールデングローブ賞などでノミネートされている。
 この他にも、『マーヴェリック』(94年)、『コンタクト』(97年)、『アンナと王様』(99年)などに出演。97年には、TVドラマ『Xファイル』に声優としてゲスト出演していたりする。(注:元々、フォスター自身が『Xファイル』のファンだった事で実現したゲスト出演。フォスター自身は、女優として出演したがったが、スケジュールとギャラの都合が付かず、声優での出演になった。ちなみに、子役時代には『アダムス・ファミリー』のTVシリーズにも声優で出演している)
 また、日本では5年に渡ってホンダのシビックのTVCMに出演したり、カフェラッテ飲料のCMに出演したりしており、日本との縁も深い。
 98年と01年にそれぞれ男児を出産し、母親となって以降は、『パニック・ルーム』(02年)や『フライトプラン』(05年)といった母親役での映画出演が多くなるが、芯の強さと女性的な弱さを併せ持つ彼女の演技は、衰える事なく逆に磨きがかかっているように感じるほどである。


アンソニー・ホプキンス/ハンニバル・レクター

 本名、Sirフィリップ・アンソニー・ホプキンスCBE。
 本作の最も重要なキャラクターであるレクター博士を演じたのは、イギリス人俳優のアンソニー・ホプキンスである。
 パン屋の息子として生まれたホプキンスは、少年時代に演劇学校で学び、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・ドラマティック・アートに入って演技を学び、舞台俳優としてそのキャリアをスタートさせる。
 長い間舞台で活躍した後、1968年に『冬のライオン』という作品で銀幕デビュー。その後、74年の『人形の家』、78年の『インターナショナル・ベルベット』で卓越した演技を見せ、1980年には、デイヴィッド・リンチ監督の『エレファント・マン』(注:19世紀のイギリスで、“プロテウス症候群”という骨の発達異常による奇形のため、生まれつき醜悪な外見で見世物小屋で見世物にされていた実在の青年、ジョゼフ・メリックの半生を描いたフリークス映画の傑作。リンチは脚本も手がけており、ホプキンスはメリック青年を研究する外科医役で出演した)に出演。これが高く評価され、本作出演のキッカケを得る。
 本作に出演し、主演男優賞でオスカーを獲得したホプキンスは、92年の『ドラキュラ』を初め、『チャーリー』(92年)、『ニクソン』(95年)、『アミスタッド』(97年)、『マスク・オブ・ゾロ』(98年)、『M:I2』(00年)など、話題作、ヒット作に数多く出演し、本作同様の卓越した演技でファンを魅了している。
 ……まあ、99年には『タイタス』というよく分からない作品にも出演していたりするが。(笑)
 それはともかく、01年と02年には、本作の続編、及び前編となるハンニバル・レクター3部作の『ハンニバル』(01年)と『レッド・ドラゴン』(02年)にも、本作と同じくレクター博士役で出演し、レクター=ホプキンスのイメージを確固たるモノにする。
 しかし、そのイメージに囚われる事なく、上記のような様々な作品に出演しており、これは転じて、彼の演技力の幅広さと確かさを証明していると言えるだろう。
 また、この功績が認められ、英国王室より87年にコマンダー(CBE)、93年にはナイト(Sir)に叙勲されており、ショーン・コネリーと並ぶイギリスを代表する名優となっている。
 ちなみに、“何月何日が何曜日だったか”という、曜日計算(注:例えば、「ある年の5月は火曜と金曜が4回あった。この年の5月5日は何曜日か?」←ホプキンスはこれに答えられる)の特技を持っている。


スコット・グレン/ジャック・クロフォード

 クラリスの上司で、行動科学課の捜査官であるクロフォードを演じたのは、ピッツバーグ出身の個性派俳優、スコット・グレンである。
 幼少の頃、医者から「一生足を引きずるようになる」と言われるほど病弱だったグレンは、しかし絶え間ないトレーニングでそれを克服し、大学では英文学を学ぶ。
 大学卒業後、海軍に3年間所属。除隊後新聞社にリポーターとして就職し、作家を目指すようになるが、対話文が上手く書けなかったため、この苦手克服のために演劇を学ぶ。これが転機となり、グレンは演劇にのめり込んでいく。
 66年にニューヨークに移り住み、テレビや舞台に出演し、70年には映画デビューもしているが、長い下積み時代が続き、一時は俳優を断念しようかとも考えた。
 しかし、1983年に出演した映画『ライトスタッフ』(トム・ウルフ原作のドキュメンタリー小説の映画化作品。NASAの有人宇宙飛行計画、“マーキュリー計画”に参加した宇宙飛行士たちを描いた傑作。グレンは宇宙飛行士の一人を演じた。また、同作品には、当時まだ若手だったデニス・クエイドやランス・ヘンリクセン、ジェフ・ゴールドブラムなども出演している)が大ヒット。同時にグレンの演技も認められ、ようやく個性派俳優としての地位を確立していく。
 その後、『レッドオクトーバーを追え』(90年)、本作、『バックドラフト』(91年)、『ザ・プレイヤー』(92年)、『戦火の勇気』(96年)など、ヒット作に立て続けに出演し、名脇役としての地位を確実なモノにしていく。
 近年では、『バーティカル・リミット』(00年)、『トレーニング・デイ』(01年)、『ボーン・アルティメイタム』(07年)などに出演している。


テッド・レヴィン/バッファロー・ビル

 本作において、悪役ながら強烈なインパクトを見せつけた連続猟奇殺人犯、バッファロー・ビルを演じたのは、これまた個性的な俳優のテッド・レヴィンだ。
 クリープランドで生まれたレヴィンは、シカゴに移ってシカゴ大学に入学。ここで演劇に目覚め、シカゴの舞台に立つようになる。
 80年代にはTVにも多数出演するようになるが、一向に注目される事はなかった。
 87年には、『黄昏に燃えて』という作品で銀幕デビューを飾っているが、鳴かず飛ばずが続く。
 しかし、本作の出演をキッカケに一気に注目されるようになり、95年には『マングラー』、『ジョージア』、『ハード・ブレット/仁義なき銃弾』、『ヒート』の4作に立て続けに出演するほどの活躍をするようになる。
 その後、『マッド・シティ』(97年)、『ワイルド・ワイルド・ウェスト』(99年)などに出演するが、その大半が悪役や意地悪なキャラクターばかりだった。本作で見せた、あのバッファロー・ビルのキャラクターがあまりにもインパクトがあり過ぎたため、イメージが固定化してしまったからだった。
 しかし、01年の『エボリューション』(注:『ゴースト・バスターズ』シリーズのアイバン・ライトマン監督作品。『Xファイル』のデヴィッド・ドゥカブニー、『ハンニバル』のジュリアン・ムーア主演の、ライトマンらしいSFコメディ。レヴィンは軍のお偉いさん役で出演)や、『ワイルド・スピード』(注:レヴィンの役は警察官)などで、ようやくバッファロー・ビルとは異なる(比較的)善人役も演じられるようになった。
 近年では、05年にあの『SAYURI』にも出演している。


ジョナサン・デミ/監督

 本作の巧みなスリラー演出と、クラリスとレクターの奇妙な心の交流を見事な映像表現で描いたのは、かつてはドキュメンタリーも手がけた事があるジョナサン・デミである。
 74年に、『女刑務所・白昼の暴動』という、タイトルからしてにかにもB級感の漂う作品で監督デビュー。
 その後、『クレイジー・ママ』(75年)や『怒りの山河』(76年)を監督するが、ヒット作に恵まれる事はなかった。
 78年には、ピーター・フォーク主演の大人気TV映画シリーズ、『刑事コロンボ』シリーズの『美食の報酬』というエピソードを監督。さらに、84年にはロックバンドのトーキングヘッズのライブドキュメンタリー、『ストップ・メイキング・センス』を。翌85年には、イギリスのロックバンド、ニュー・オーダーの大ヒット曲、『パーフェクト・キス』のPVをそれぞれ監督し、高い評価を得る。
 これが足がかりとなり、その後『サムシング・ワイルド』(86年)や『愛されちゃって、マフィア』(88年)を監督し、90年に監督した本作では、アカデミー賞とベルリン国際映画祭で監督賞を受賞。瞬く間に注目される。
 本作監督後は、エイズ問題や同性愛差別をモティーフにした法廷ドラマ、『フィラデルフィア』(93年)を監督し再び注目されるが、その後はヒット作と縁がなく、監督作品も『愛されし者』(98年)、『シャレード』(02年)、『クライシス・オブ・アメリカ』(04年)と少なく、生産性が低くなっている。
 そのため、一発屋と思われがちだが、デミは決して一発屋などではない。
 元々、ヒッチコックの大ファンだったデミは、ヒッチコックのスリラー演出と、『ストップ・メイキング・センス』と『パーフェクト・キス』で培ったドキュメンタリー監督としての演出技術、そして、超どアップを多用する独自の映像表現を巧みに利用し、本作のサイコスリラー作品としての一面と、クラリスとレクターの心の交流というヒューマンドラマ作品としての一面とを見事に表現しきった名監督である。
 もちろん、その後彼の演出を発揮できる脚本と出会う事が出来ず、ヒット作に恵まれていないのは確かだが、本作のような優れた脚本、あるいはフォスターやホプキンスといった名優と出会う事が出来れば、デミはその手腕を如何なく発揮し、傑作映画を撮る事が出来るだろう。
 ちなみに、映画監督のテッド・デミ(注:マット・デイモン主演の『ラウンダーズ』の監督)は、デミの甥である。


・Behind the Scene

 本作は、小説家トマス・ハリスのベストセラー小説の映画化作品である。
 テネシー州ジャクソンに生まれ、テキサス州のベイラー大学を卒業したハリスは、ニューズ・トリビューン紙の新聞記者として働き、その後AP通信社のレポーター兼編集者になり、ジャーナリストとしての卓越した洞察力を養い、後の小説家業の基礎を築いていった。
 1975年、スーパーボールの会場にパレスチナゲリラが飛行船でテロ活動を行うという奇想天外なアイディアで、小説『ブラック・サンデー』を執筆。しかしこの作品が瞬く間に大ベストセラーとなり、77年にはアクション映画の巨匠、ジョン・フランケンハイマーの監督で映画化。大ヒット作品となった。
 81年には、本作にも登場するレクター博士が初登場した小説、『レッド・ドラゴン』を発表。86年には、これまたハードボイルドアクションの巨匠、マイケル・マン監督の手により映画化(注:公開時は『刑事グラハム/凍りついた欲望』というタイトルで、日本での公開は88年。ただし、後のビデオソフト化の際に『レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙』というタイトルに改題されている)され、これまたヒット。
 これが日本で公開されていた88年には、その続編として本作の原作となった小説、『羊たちの沈黙』を発表する。
 この作品に注目したテッド・タリーは、それまでの同ジャンルの映画にはなかった女性の主人公(注:70年代や80年代のサスペンス、スリラー、あるいはホラー映画を観ると、そのほとんどが男性キャラが主人公で、女性キャラは主人公の側でキャーキャー喚くだけの足手まといでしかなかった。基本的に、観客の恐怖心をあおるために配置されるキャラクターであり、同時に裸を見せて観客の性的欲求を満たすだけのお色気キャラである場合がほとんど。スリラーの巨匠、ヒッチコックですら、傑作『サイコ』で主演女優を映画開始から僅か30分足らずで、しかもシャワーシーンで殺してしまうという演出をしている)という設定と、複数の実在した連続猟奇殺人犯たちの特徴を複合させたバッファロー・ビルのキャラクター(注:ハリス自身が認めているワケではないが、バッファロー・ビルは明らかにテッド・バンディやエド・ゲイン、ジョン・ゲイシーなど、いずれも全米はもちろん、世界中にその名を轟かせた実在の連続猟奇殺人犯をモティーフにしていると思われる描写がそこかしこに見受けられる。また、レクター博士の食人嗜好は、これまたセンセーションを巻き起こした“パリの人肉食事件”、佐川一政を想起させる。あまりにもショッキングな内容なので、それぞれの詳細は割愛させて頂くが、いずれもWikipediaに詳細な記事があるので、興味のある方はそれぞれの名前でWikiって頂きたい)を「10年に一度の傑作」と評価し、魅了され、映画用の脚本の執筆を思い立つ。


 オライオン・ピクチャーズが映画化に名乗りを上げ、原作の映画化権を取得(注:これを、業界用語で「オプションする」と言う)。さらに、なんとあのジーン・ハックマンが監督兼主演に名乗りを上げ、ハックマンは25万ドルもの自己資金を投資した。
 こうして、本作の映画化は順調にスタートするかと思われた。
 が、ここで突如、プロジェクトが中止に追いやられる可能性が出てきた。上がってきた脚本を読んだハックマンが、「内容が暴力的過ぎる」として降板を申し出てきたのだ。
 しかし、タリーの脚本は完成度が高く、オライオンの重役はタリーに「書き続けろ」と指示。結局、オライオン・ピクチャーズはハックマンの25万ドルを返却し、代わりの監督とキャストを探す事になった。
 そうして白羽の矢が立ったのが、ジョナサン・デミであった。
 デミは、当初監督を固辞していたが、オライオンの重役陣に脚本を読むように勧められ、嫌々ながらもタリーの脚本に目を通した。
 すると、デミが求めていた繊細な心理描写がそこかしこにあり、しかも女性主人公という設定に魅力を感じ、デミは契約書にサインする。


 監督が決まると、今度はキャストの問題が持ち上がった。しかし、ここで思いがけない幸運が舞い込んでくる。映画化のウワサを聞きつけたジョディ・フォスターが、タリーに電話をかけてきたのだ。
 フォスターは、丁度『告発の行方』でオスカーを獲得したばかりだったが、本作のクラリスのキャラクターは自分が適役だと感じ、この役をやりたがった。
 だが監督のデミは、これに難色を示した。デミは、クラリス役にミシェル・ファイファーをと考えていたのだ。
 ところが、ファイファーは脚本を読んで、「内容が暴力的過ぎる」と、どこかの誰かが言ったような理由でオファーを辞退。結局、最後まで諦めなかったフォスターが、この役を射止めた。
 本作において、最も重要なキャラクターであるレクター博士役のキャスティングは、デミにはすでに考えがあった。そしてデミは、アンソニー・ホプキンスにコンタクトを取る。映画『エレファントマン』の演技を見て、デミはホプキンスこそ適役だと考えたのだ。
 脚本を読み、一生に一度あるかないかの役だと感じたホプキンスだったが、なぜ自分が選ばれたのか分からず、デミにその事を訊ねた。
 するとデミは、映画『エレファントマン』を観て決めたと答えた。「彼は善人だよ?」と聞き返すと、デミはこう答えた。
「レクター博士にもそういう一面が欲しい。」
 ホプキンスは、これを聞いて契約書にサインした。


 スタッフとキャストが決まり、本作はいよいよクランクインした。
 映画の舞台は、テネシーやワシントン、ウェストヴァージニアと多岐に渡るが、低予算の本作では、これら全てのロケを一箇所で行う必要があった。
 そこで候補にあがったのが、ピッツバーグであった。
 ピッツバーグは、炭鉱と鉄鋼で栄えた街だが、市の中心部でも郊外のような風景があり、特徴的な建物も多く、郊外には山並みや川辺の風景が広がり、映画向きのロケーションが望めた。
 しかも、これまで映画の撮影には使われた事が少なく、本作のロケーションには最適だった。
 本作の屋外のロケシーンと、FBI施設と隔離病棟を除く屋内のシーンは、そのほとんどがピッツバーグで撮影されている。
 本作の冒頭で、フォスター演じるクラリスが走っているアスレチックコースや、FBI施設内のシーン、及び訓練のシーンは、なんとその全てが、ヴァージニア州クワンティコに実際にあるFBIアカデミーで撮影されている。
 ロケーションの参考にするためにFBIアカデミーを訪れたスタッフは、FBIに協力を要請してみた。すると、FBI側は脚本を読み、二つ返事でこれを了承。施設内での撮影許可までくれた。
 実を言うと、当時FBIは人手不足に悩んでおり、特に女性捜査官の不足は深刻だった。本作の主人公が女性FBI訓練生だったため、FBI側は女性捜査官の募集に役立つだろうと考え、今回の全面協力に至ったワケだ。
 ちなみに、フォスターは役作りのためにアカデミーの訓練コースを数日間受けている。
 また、クロフォード役のスコット・グレンは、訓練教官の一人、ジョン・ダグラスを取材し、クロフォードの役作りの参考にした。
 さらに、アカデミーの実際の教官や訓練生たちも、エキストラとして映画に多数出演している。
 ところで、映画冒頭のクロフォードのオフィスのシーンで、部屋の壁一面に張られたバッファロー・ビル事件の現場写真は、全てこの映画のために2ndユニットが実際に撮影したモノである。
 秋の寒空の中、ほとんど全裸の被害者役の女優たちに特殊メイクを施し、冷たい川でずぶ濡れになって撮影した。
 その効果のほどは、映画を観ての通りである。


 この映画の視覚的な魅力の一つは、衣装と美術である。
 衣装を担当したコリーン・アトウッドは、本作の衣装に時代的なニュアンスを取り入れるのを嫌った。何故なら、アトウッドはこの映画が10年後でも通用する名作になると考えていたからだ。
 そこでアトウッドは、当時の流行にこだわる事なく比較的シンプルな衣装を選んだ。
 実際、今の時代にこの映画を観ても、本作の衣装に時代性を感じる事は少なく、それほど違和感を感じる事はないように思う。
 また、アトウッドがこだわったのは、レクターの衣装であった。
 映画を観てもらえば分かると思うが、隔離病棟のシーンでホプキンスが着ているブルーの囚人服のようなツナギや、後半の裁判所の檻の中で着ているTシャツなど、レクターが劇中で着ている服のほとんどは、設定上レクター本人の好みというワケではなく、病院や裁判所から支給されたモノである。しかし、その着こなしようは見事という他ないほどだ。
 まるで、フルオーダーメイドのようなピッタリとした着こなしは、レクターの紳士としての一面を見事に表現していると言える。
 また、本作はもちろん、続編の『ハンニバル』でも重要な小道具としてスクリーンに映し出され、強烈なインパクトを見せ付けているあのレクターのマスクは、試行錯誤の上に出来上がったモノである。
 フェンシングのマスクに始まり、メッシュ状や鉄格子状など、様々なパターンが試みられた結果、ファイバーグラス製のアイスホッケーのマスクに行き着いた。これを改造し、口元だけを覆うあのマスクが出来上がった。
 このマスクは、レクターの狂気の象徴として、続編の『ハンニバル』では映画の冒頭で再び登場する。
 本作の美術を担当したのは、女流美術デザイナーのクリスティ・ジーアである。
 ジーアは、古い工場の跡地に、レクターが収監されている精神病院の地下隔離病棟のセットを組んだ。
 まるで、中世の地下牢を思わせる石積み造りの地下牢は、ニュルンベルグ裁判の写真などを参考にデザインされたモノだが、ここで一つの問題が持ち上がる。独房にはめる鉄格子である。
 鉄格子の間隔を狭くすると、中に入っている役者の顔がよく見えない。広くすると、鉄格子としてのリアリティに欠ける。困った挙句、ジーアはレジがアクリルウィンドウで仕切られた都市部の酒屋の事を思い出し、他のスタッフに提案してみた。すると、このアイディアは支持され採用されたが、録音担当だけは猛反対した。アクリルウィンドウでは、音声が伝播しないためホプキンスの声を録音出来なくなってしまうからだ。
 そこでジーアは、アクリルウィンドウに穴を開ける事を提案する。これは、意外にもホプキンスの演技に影響を与え、レクターがクラリスの匂いを嗅ぐあの印象的なシーンが出来上がった。
 ちなみに、映画の前半、クラリスが初めてレクターを訊ねるこのシーンで、レクターは独房の中央に立ってクラリスを迎えているが、この演出はホプキンスのアイディアによるモノだそうだ。
 ホプキンス曰く、「彼女の匂いを嗅ぎつけて待っていたんだ」との事。 ホプキンスのレクターに対する解釈がよく分かる逸話である。
 また、本作の後半で登場する裁判所の檻は、ジーアがフランシス・ベーコン(注:過去の名画を狂気に満ちた画風でパロディするのを得意とした画家。17世紀のスペインの宮廷画家、ディエゴ・ベラスケスの描いたローマ教皇、インノケンティウス10世の肖像画のパロディはあまりにも有名。ちなみに、16世紀に活躍した同名のイギリスの哲学者の末裔にあたり、彼の半生を描いた映画が、『愛の悪魔/フランシス・ベーコンの歪んだ肖像』というタイトルで98年に公開されている。ちなみに、音楽は坂本龍一)という20世紀の具象画家(92年没)に影響を受けてデザインしたモノだ。
 僕は、たまたま本作とは全く無関係のリサーチでベーコンの作品をいくつか知っていたが、言われてみれば確かにその印象がある。特に、レクターが脱出した直後の変わり果てた檻のデコレーションは、まさにベーコンの絵画そのモノである。
 興味のある方は、ベーコンの名前でググってみる事をオススメする。が、極めて強烈なインパクトのある作品ばかりなので、怖いモノが苦手な方にはオススメしない。(笑)
 本作の終盤にて、その全貌がようやく明らかになるバッファロー・ビルの家の地下室だが、これも全てセットである。
 地上階の家はロケだが、この家には些細な地下室しかなかったのでセットが組まれた。
 誘拐された女性が入れられる井戸がある部屋を中心に、全ての部屋が回廊状にこれを取り囲むデザインがなされており、映画ではクラリスがこの地下室をほぼ一周する。
 このシーンのみならず、この地下室が写るほとんどのシーンや、クラリスがバッファロー・ビルと対峙し、彼を犯人だと確信するキッカケとなった重要な“小道具”である“蛾”は、専門のスタッフによって温室で管理されたホンモノの蛾が使われている。
 ワシントン条約などの関係上、ホンモノのガイコツ模様を持つ蛾は輸入出来なかったため、実際には似た種にメイクを施したモノが使われたが、これは本作のテーマにも通じる重要なモティーフとして頻繁にスクリーンに映し出されている。


 もう一つ、本作のプロダクションで欠かせない要素と言えば、やはり音楽である。
 本作の音楽を担当したのは、カナダ人作曲家のハワード・ショアである。
 ショアは、同じカナダ人映画監督のデヴィッド・クローネンバーグ(『ザ・フライ』、『クラッシュ』、『イグジステンズ』など)とのコンビが有名で、クローネンバーグ作品のほとんどの音楽を手がけ、さらに本作以降は、デイヴィッド・フィンチャー監督(『セブン』、『ゲーム』、『パニック・ルーム』)やターセム監督(『ザ・セル』)など、個性的な映画監督と組む事が多い。また近年では、ピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの全ての楽曲を手がけ、同作品ではオスカーも獲得している映画音楽コンポーザーである。
 映画『ザ・フライ』や『セブン』、『ザ・セル』などで聴かせている独特のサウンドワークは、もちろん本作にもいかんなく発揮されているが、それよりもショアは、レクターとクラリスの心の交流、特に、クラリスの心理描写に重点を置いて作曲した。
 そうして生まれたのが、映画の冒頭で流れる情緒的なあのメインテーマ曲である。
 クラリスの、男性社会で頑張ろうとしている芯の強さ、そして、それとは相反する女性的な弱さを、フォスターは演技で。ショアは音楽で、それぞれ見事に表現している。
 また、監督のデミは、日系人撮影監督のタク・フジモトと共に、スクリーンいっぱいに映し出される超どアップで、フォスターの細かな表情の変化を撮影する事で、これを見事に映像化した。
 確かな才能と技術、そして知識と経験を併せ持つ一流のスタッフとキャストが力を合わせて作られた本作は、単なるサイコサスペンス、単なるサイコスリラーとは一線を画する情感溢れる作品に仕上がっている。
 そして、それを支えたのは、紛れもなく一流のスタッフとキャストたちなのである。


・Point of View

 本作のテーマは、間違いなく“ヒトの心理的二面性”である。
 本作を丹念に観ていくと、映画のそこかしこにこのテーマを示唆するモティーフが散りばめられている事に気付く。
 例えば、映画の冒頭、ダサいジャージ姿で、髪を振り乱し、汗だくになってアスレチックコースを走るクラリス。しかし、その数分後には、整ったストレートのヘアスタイルと知性的なスーツ、さらに化粧までした若く美しい女性としてスクリーンに映し出される。
 この“変身”は、もちろん女性ならではの美を際立たせるモノでもあるが、クラリスは自分の美貌を武器にするような事はしない。
 多くのホラーやサイコスリラー、あるいはアクションやコメディでも、美しい女性キャラクターはお色気で男性キャラクターを手玉に取るのが通例(注:007シリーズのボンドガールを思い出せ!)だが、クラリスはそうした“女の武器”を使う事なく、男性キャラクターに真っ向から立ち向かう芯の強い女性である。
 と、するならば、上記の彼女の“変身”は、一体何を意味するのか?
 さらに、クラリスが訪れた精神病院は、外観こそレンガ造りの清潔感のある建物だが、その地下室、レクターが収監されている隔離病棟は、それとは対照的に無骨な石造りで病院とは思えないほど清潔感のない、薄暗い空間である。
 移送後のレクターが収監される裁判所の檻もまた、裁判所(注:実際には、ロケ地にある古い戦史博物館。映画を良く観ると、部屋の壁に古い軍旗や当時の写真、あるいは肖像のような絵が見て取れる)という厳格かつ清潔な環境とは思えない無骨な造りの檻があり、しかもレクター逃亡時には、まるで地獄の鬼達が罪人たちに行っている拷問のような光景に“変身”する。
 そして、その究極とも言えるのが、バッファロー・ビルの自宅である。
 地上階や外観は、郊外の住宅地によくある中流階級のフツーの家である。しかし、ひとたび地下室に足を踏み入れると、そこはまるで連続猟奇殺人犯のバッファロー・ビル本人の心の中を覗いているかのような異様な空間が広がっている。
 そして、その地下室の中を飛び回っているのは、幼虫からサナギ、そして成虫へと“変身”を繰り返す蛾である。
 これら、二律背反のように相反する要素を持つ二つが、繰り返し繰り返し交互にスクリーンに映し出される。
 そして、観客は知らず知らずの内に、入り込んでいく。映画に、ではなく、映画が描き出すキャラクターたちの、心の中に。
 これら二面性を持つモティーフは、そのままレクターやバッファロー・ビル、そしてクラリスの心理的二面性の表れである。
 レクターというキャラクターは、囚人服ですら見事に着こなす紳士として、初めてスクリーンに映し出される。しかし、その風貌のまま、彼の口から語られるのは、とても紳士とは思えない猟奇殺人犯としての一面、すなわち「肝臓を食ってやったよ。そら豆と一緒に、ワインのつまみに。」である。
 バッファロー・ビルは、何処にでもいるフツーの一般市民のような風貌をしており、普段の彼の言動や表情、そして物腰もまた、極めてフツーの一般市民のようである。
 しかし、ひとたびその仮面が剥がれると、彼は躊躇う事なく猟奇殺人犯に変貌する。そして、被害者達の生皮を剥いで全身を覆う服を作ろうとしている。
 クラリスもまた、普段は男性社会で女性としての“女の武器”を使う事なく、真っ向から立ち向かって成功しようと頑張っている芯の強い女性である。
 しかし、その過去は父親の死という悲劇に見舞われ、引き取り先の親族の家で夜中に聞いた子羊の鳴き声が、今だトラウマとなって彼女の精神を苦しめており、彼女はその恐怖から逃れようとしている女性的な弱さの一面を垣間見せる。
 もちろん、このような心理的二面性というのは、映画のキャラクターのような特別な人たちだけに見られるモノではなく、僕らのようなフツーの人たちにも現実に見られるモノであり、決して特別な心理作用というワケではない。
 しかし、本作ではそれをレクターやバッファロー・ビル、そしてクラリスのように誇張した、極端な例を見せる事で、ヒトの心理的二面性というモノを分かり易く表現している。
 ただし、間違えてはいけないのは、この様な心理的二面性、すなわち心の中の陰と陽は、誇張された極端な例だけが、反転してフツーの一般市民を連続猟奇殺人犯にするのではなく、誰の心の中にもこの陰と陽があり、何かのキッカケで反転する可能性があるのだ(レクター「切望は何から始まる? 目の前のモノを欲しがる事からだ。」 クラリス「それも毎日ね。」)。
 こうして、フツーの一般市民が反転した結果生まれたのが、先に記した実在の連続猟奇殺人犯たちである。
 ジョン・ゲイシーは、町内の行事にもピエロ姿で参加する良き市民だった。エド・ゲインや佐川一政も、見た目はとても殺人犯には見えない何処にでもいるフツーの一般市民だ。
 日本国内でも、時折り猟奇的な殺人事件が報道される事があるが、一部の犯人を除き、容疑者として逮捕された人々は、とても殺人犯には見えないような風貌だったり、普段は良き市民として生活していたりする(「いや、普段はホントに良い人ですよ? それがまさか、あんな事件を起こすなんてねぇ~。」←よくある隣人のインタビュー)。
 以前にも、このコーナーでは映画『エクソシスト』の時に似たような事を書いたが、ヒトの心理的二面性というモノは、映画の中だけの事ではなく、それを観ている僕や皆さんの心の中にもある事である。
 もちろん、それに負けて陰と陽が反転するような事はあってはならないし、それを肯定するようなつもりもない。
 しかし、人は誰しも、その反転衝動に負けそうになる瞬間がある。その時負けないようにするには、どうしたら良いのだろうか?
 神に祈る?
 それとも自殺でもする?
 この映画では、そんな事は一言も言っていない。
 この映画が語るのは、その心の暗部と向き合いなさいという“答え”である。
 映画の終盤、移送されて裁判所の檻に収監されたレクターをクラリスが訪ねるシーン。このシーンの二人のやりとりは、今記した“答え”そのモノである。
 犯人の名前を知りたがるクラリス。しかし、レクターはなかなか答えてくれない。そして始まるいつもの質問ごっこ。そしてレクターは、クラリスの心の中に潜んでいたクラリスの心の暗部、心理的二面性、すなわち“鳴き止まない子羊の鳴き声”を聞き出す。
 クラリスは、もしも被害者を助け出せれば、あの時助けられなかった子羊を助け出し、“鳴き止まない子羊の鳴き声”を止められると思っている。しかし、彼女はそれを表に出さず、さも昇進のために頑張っているだけのように装っている。
 だが、天才精神科医でもあるレクターは、鋭い洞察力でそれを見抜き、クラリス自身に彼女の心の中に潜む心の暗部を見せ付けた。
 こうして、自らの心の暗部と正面から向かい合ったクラリスは、トラウマを克服し、見事事件を解決した功労者として成功するのである。
 心の暗部は、暗いだけに本人にもなかなか見る事の出来ない部分である。しかし、本人自身がそれと真正面から向かい合う事で、その人は自らの心の中に潜む闇を克服する事が出来るのである。


 それとはあまり関係ないが、本作はクラリスとレクターのラブストーリーでもあったりする。
 クラリスはどう思っているのかはよく分からないが、少なくとも敬意は示している。しかし、レクターは明らかにクラリスにぞっこんだ。
 もちろん、映画を観てもらっても分かるように、二人はキスどころか手も繋がないほど肉体的な距離感のある関係を維持し続けているが、その二人が一瞬だが極めて近い肉体的距離感になるシーンがある。
 先に記した映画の終盤、チルトン博士に割り込まれてレクターとの接見を強制的に終わらされて部屋を出て行きそうになるクラリスに、レクターは借りた事件資料を返そうと、鉄格子の隙間から手を伸ばす。
 クラリスは、チルトンの手を振り解き、レクターが差し出した資料を手に取る。←ココッ!!
 その瞬間、それまで触れる事すらなかった二人は、人差し指一本だけ、触れ合う。
 しかもこの行為は、“レクターの側から”行われている。
 これはもう、レクターがクラリスに惚れていると考えて間違いのない“証拠”である。
 さらに述べるなら、続編の『ハンニバル』では、さらに直接的な表現(注:ただし、レクター博士らしいやり方で)で、二人のラブストーリーが描かれているシーンがあったりする。
 しかし、二人の立場的な関係上、このラブストーリーは決して成就しない。てゆーかムリ。
 とは言え、もしも二人のラブストーリーが成就したら? を想像するのは、僕たち観客の特権である。皆さんも、ぜひ一度想像してみてほしい。(笑)
 ……いや、『さかなとねこ』のオチだけはカンベンしてくれ。(笑)


to be continued...

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

023.コードギアスはなぜ駄作に終わったのか?

2008年12月19日 | 映画を“読む”

-Movin' Movies Extra Edition-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 突然ですが、

買ったぞゴルァァァァァァァァァァッッ!!!!\(゜Д゜)/

 ……何を買ったのかと言うと、コチラでございますドンッ!

Blog0167  モバイルPC買いました♪\(^O^)/
 左はセットの内容物全部。実を言うと、メーカー製PCを買うのは実に十数年振りなので、バックアップ用のバンドルディスクの多さに驚きました。(笑)
 右は現在のデスクトップの仕様。メインマシンのデスクトップPCとほぼ同じ仕様(注:デスクトップPCの方はOSがXPですが、ヴィジュアルスタイルの導入でインターフェースがVista仕様になっている。一応、ウィンドウの半透明化やフリップ3Dも可能。サイドバーは導入していない)にしました。
 ちなみに、マウスとマウスパッドは某ヤマ電で買ってきました。どちらもそこそこ使い易いです。
 モバイルPCはずっと前から欲しかったんですが、金銭的な理由でなかなか買えず、今年の春頃に「今年こそは買う!」と決めたはいいんですが、何だかんだで結局年の瀬も押し迫ったこの時期に買うことになりました。DELLのXPS-M1530です。
 最初、ソニーのVAIOを買おうと思っていたんですが、何をどう頑張っても予算オーバーしてしまうために断念。ならば、安さがウリのDELLならどうだ? という事で調べてみると、これがかなり安い事が判明。具体的には、ソニーの製品と比較してみると、ほぼ同スペックでなんと10万円も安い!

マジッスカ!?Σ(゜Д゜)

 もちろん、その分ハードのデザインがあまりよろしくない(注:ソニーはこーゆートコロをしっかり作り込んでいる。OA機器と言うよりAV機器みたいでカッコE)、バンドルソフトがない(注:基本的にOSのみ。アプリケーションは全てオプションで有料)、オンライン通販のみなどのデメリットもありますが、デザインが良くないのは、まあ仕方のない事と諦め、バンドルソフトがないは、元々必要なかったのでどうでもいいし、オンライン通販なのは逆にありがたいぐらいなのでDELLに決定。ウェブサイトで色々な製品の詳細をチェックし、好みの製品を探す。
 最初、17インチクラスのディスプレイがいいなぁと思って探していたんですが、ディスプレイが17インチというだけで(基本セットで)確実に予算オーバーしてしまうため、仕方なく15インチ(注:正確には15.4インチワイド)モデルにしました。が、これで正解でした。これ以上デカいと自前のキャリングバッグ(いわゆるA4サイズ対応)に入りません。
 また、限定カラーのボディや基本スペックが高めの『PRODUCTS』というモデルがいいなぁと思っていたんですが、これまた予算オーバー&生産終了のため断念。結局、XPSの15インチモデルになりました。
 XPSは、デスクトップ、モバイル共に、ゲーマー向けのハイスペックなシリーズです。
 DELLの製品は、基本セットをベースにCPUやメモリ、VGAなどをカスタマイズ(有料)出来るオーダーシステムが採用されているので、これを使って予算内に収まるように抜き差し組み換えでベストな組み合わせを模索する。
 何度か試した後、何とか予算内で収まる形で納得出来るスペック&仕様になったので早速オーダー。いわゆる“お急ぎ便”(有料)でオーダーしたため、2000円ぐらい予算オーバーしてしまいましたが、まあこれぐらいは良しとしよう。
 んで、最終的に決まったスペックは以下のようになっております。

OS:Windows Vista Ultimate SP1 32ビット
CPU:intel Core2Duo T9300
    (L2キャッシュ6MB、2.5GHz、FBS800MHz)
ディスプレイ:15.4インチワイドTFT、1440×900pix
VGA:nVidia GeForce8600GT256MB
メモリ:2GB×2デュアルチャンネル
HDD:320GB SATA5400rpm
光学ドライブ:DVD+/-RWスーパーマルチ
その他:ワイヤレスLAN/Bluetooth/2Mpixウェブカメラ

 だいたいこんなカンジの仕様です。
 マシンスペック的には、もちろんメインマシンのデスクトップより良いんですが、そこはやはりモバイル。もしかしたらデスクトップよりも遅いかも? と思って、試しに『A列車で行こう8』のベンチマークテストをかけてみたところ、なんとぉッ!?

デスクトップが負けました。Σ(゜Д゜)

 デスクトップの平均fpsが50前後だったのに対し、モバイルの方は60平均でした。(注:ただし、解像度はデスクトップが1220×1024。モバイルが1440×900で計測)
 Nベンチや3Dマークを試していないので何とも言えませんが、さすが“ゲーマー向け”を謳っているXPSだけの事はあります。ゲームとの相性は良いみたいです。
 しかし、アプリケーションのインストールやファイルのコピーなどは、やはりHDDが5400rpmという低速仕様なので、デスクトップに比べて極端に遅いです。(注:デスクトップのHDDは7200rpm) また、Vistaの仕様のためか、起動もかなり遅いです。一旦立ち上がれば、デスクトップ並に軽快ではありますが……。
 ちなみに、モバイルを買う事を見越して、ワイヤレスLANルーターをすでに導入していたので、これを使えばモバイルでもインターネットし放題。寝っ転がってゲームやったりDVD観たりもし放題。実に自堕落な生活を送っておりまする。(笑)
 モバイルPCのみならず、デスクトップPCも含めて“買い替え”をお考えの方は、選択肢にDELLを入れてみても良いのではないでしょうか?


DELLジャパン公式サイト
※DELLの日本法人公式サイトです。このサイトからオンライン通販出来ますが、ゲストカスタマーとしてオーダーすればアカウントの取得は不要です。

A列車で行こう8公式サイト
※アートディンクのA8公式サイトです。このサイトから、A8のベンチマークソフトがDL出来ます。



 それはさておき、今週はそろそろ2008年も終わりが近付いてきたという事で、『映画を“読む”-特別編』と題し、今年最大の話題作となったTVアニメ、『コードギアス-反逆のルルーシュR2』の“テラ批判”を、1stシーズンも含めてお届けします。
 実を言うと、このネタは本記事ではなく増刊号の形でやろうと思っていました。何せ解説や考察、好評の類ではなく、“テラ批判”だからです。
 しかし、仕事や本記事の執筆などで忙しく、増刊号を書いてるような時間がないので、思い切って本記事でやってしまう事にしました。
 てゆーか、批判的な記事など本当は書きたくありません。ブログが荒れる可能性(荒れるほどユーザーがいるかどうかはともかくとして^ ^;)もあるし、皆さんも、特にこの作品が大好きな人は批判記事なんか読みたくないでしょう。
 でもホラ、この時期になると「今年の汚れ今年のウチに♪」ってCMでもよく言ってるじゃないですか。だから、やっぱり今年のウチに掃き出す(吐き出す)モノは掃き出しておかないと、ね?
 とゆーワケで、以下にはTVアニメ『コードギアス』シリーズの重大なネタバレ、及び極めて批判的な内容が多々含まれております。……ってゆーか批判オンリーです。(笑) TVアニメ『コードギアス』シリーズLOVE☆な方は、閲覧をご遠慮頂く事をオススメします。(←オイオイ)
 ちなみに、“特別編”なのでいつもの『映画を“読む”』とは記事の書き方も違います。
 いつものような記事を期待されないようにお願い致します。m(_ _)m


・リアルSFの崩壊

 本作は、本来はリアルSFにカテゴライズされるべき作品である。
 1970年代から1980年代にかけて、それまでのアンリアルSF、あるいはスーパーロボットモノ的なSFから脱却した、“リアリティ追求型SF”スタイルのアニメが台頭を始めた。その代表格とも言えるのが、やはり『機動戦士ガンダム』シリーズであろう。
 宇宙での生活を実現した人類間での戦争という、現在の宇宙開発の延長線上に位置する超未来の世界観は、スペースコロニー、ミノフスキー粒子、モビルスーツというSFならではのモティーフを使いながらも、“現実的にあり得る”世界を描き出し、しかもストーリーの根底にあるのは、「戦争とは何か?」あるいは「戦争の愚かしさ」を明確に、且つ極めて深いレベルにまで突っ込んで描いており、この作品のリアリティを支えていると言える。
 事実、昨年発足した『国際ガンダム学会』は、この作品における宇宙時代が現実に到来した時に発生し得る問題点を洗い出し、今からその時のために備えようという、至極マジメな学会であるが、こうした学会が発足する事が出来たのも、やはりこの作品のリアリティに極めて高い価値があったからだし、これはそのまま、この作品のリアリティ度の裏付けになっていると思われる。
 さらに言うなら、現在NASA=アメリカ航空宇宙局を中心にした国際的な宇宙開発プロジェクトであるISS=国際宇宙ステーションの建設は、まさにこの作品に描かれていたスペースコロニー実現への足がかりとなる重要なプロジェクトであり、現在NASAが単独で計画中の月基地建設計画や火星有人探査計画(注:どちらも正式なスタートはISSの完成後になる予定)は、火星植民地化計画の足がかりとなる重要なプロジェクトであり、この結果いかんによっては、今世紀中の火星移民も可能となる事は間違いない。
 すなわち、ガンダムで描かれていた“宇宙世紀”は、リアルでももうすぐそこまで来ているのだ。
 喩えが悪いかもしれないが、2000年のアメリカ同時多発テロで、我々はついに現実がフィクションに追いついた事を知った。(注:崩壊するワールドトレードセンターの映像を見て、一体どれほどの人が「この映画見てぇ!」と思った事だろう?)
 それと同様に、紙のように薄いディスプレイ(有機ELディスプレイ)や、手の平に収まるほど小さな携帯電話、人工衛星を使った位置探査システム(カーナビ)、たった一枚で数十GBのデジタルデータを記録出来るディスク(ブルーレイディスク)など、科学の進歩と共に、現実は常にフィクションを追いかけ続け、どんどんSFに追いついて行っている。
 と、するならば、ガンダムで描かれていた“宇宙世紀”は、いつか必ずやってくるハズだ。そして、それが本当にやって来た時、フィクションの世界でそれをいち早く描き切ったガンダムは、その先見性を改めて評価される事になるだろう。
 しかも、これを補完、あるいは追従する形で、80年代から90年代のアニメは、リアルロボットに限らずリアルSFにカテゴライズされる作品が増えていった。
 例えば、『機動警察パトレイバー』では、ロボットに桜の代紋やナンバープレートを付けたり、出動する度にボロボロに壊れたり、はたまた法律や政治、一般社会との関係を描くなど、我々の極めて身近にあるモティーフを積極的に描く事で、“ロボットの在る日常”を描く事に成功した。
 士郎正宗原作の『攻殻機動隊』では、コンピュータシステムとヒトの脳を直接接続する“電脳化技術”を極めて正しい表現で明確に描き出した初めての作品であり、この作品とは方向性が異なるものの、リアルでも既に本格的な電脳化技術の実用化が、もうすぐそこまで来ている。(注:今年の夏に、日本の大学の研究チームにより、脳波で一般的なPCをコントロールするシステムが開発され、実験に成功した。精度面でまだ不足があるが、この作品における電脳化技術の実現への大きな足がかりとなるだろう)
 もちろん、『新世紀エヴァンゲリオン』や『南海奇皇』のような超科学、あるいはスーパーロボットモノに分類されるべきアニメ作品(注:前者はSFよりはギリシャ神話とキリスト教神話をミックスした世界観がベーシックにあるため、SFよりはファンタジーに近い。後者もそれと同じく、独自の神話体系が描かれているが、ファンタジーよりは怪獣モノに近い。「司令部は、対象を“MM”と呼称するそうです。」「“怪獣”で、いいだろう。」)も少なからず製作され、それぞれ独自の世界観を有する作品世界を展開させているが、どれも現代、あるいは極めて現代に近い年代が設定されていたり、主人公を中心とした日常生活を描く事で、現実とはかけ離れた作品世界にリアルSFのようなリアリティを導入している。
 しかしながら、それとは異なるアンリアルSF、あるいはスーパーロボットモノとしてのアニメ作品(『エウレカセブン』や『ぼくらの』など。どちらも駄作)も平行して製作されているが、日本のアニメ作品はガンダムを境にアンリアルSFからリアルSFへとその志向を変化させているのが傾向として読み取れるハズだ。
 そんな時代にあって、『コードギアス』はリアルSFの世界観を有する作品としてスタートしている。
 本作中に登場するロボット=ナイトメア・フレーム(以下KMF)は、外見のデザインはともかくとして、設定的には極めて現実的なリアリティを有する設定がなされている、
 例えば、KMFのサイズ。ガンダムと比較するとかなり小さい。
 設定資料などに目を通したワケではないので定かではないが、TV画面に映し出されているのを見る限りは、全高4~5メートル程度である。一般的な日本人男子の平均身長の2~2.5倍程度というサイズは、ガンダムに比べてかなり小さい。(注:ガンダムは一番小さなF91でも15メートルほどある)
 しかし、これはロボット工学的には極めて現実的なサイズである。
 想像してみてほしい。全高10メートルを超える巨大ロボットが街中を闊歩する姿を。その重量のため、道路は踏み潰され、家屋はなぎ倒され、超高層ビルはもたれかかっただけで倒壊する。これが何十機、何百機も集まって市街戦をする様は、まさにゴジラも裸足で逃げ出す怪獣大決戦である。
 加えて、これだけ大きな金属のカタマリは、自重で足が潰れてしまうだろう。(注:ガンダムの場合、これを回避するために“ガンダリウム合金”などの超科学が設定されている。また、宇宙空間で戦闘が行われる事を考えると、ビグザムやジオングでもかなり“小さい”兵器である)
 本作がリアルのどの年代に相当するのかは分からないが、今世紀末から来世紀中頃までと見て間違いはないだろう。と、するならば、ガンダムのような宇宙世紀はまだ始まっていないだろうし(注:火星有人探査は行われているだろうが、テラフォーミングが完了していないハズなので)、本作のような世界情勢になるまでに必要な時間(注:ブリタニア帝国立国から世界の1/3を支配するまで)からかんがみて、それぐらいが妥当と思われるが、このぐらいの年代になれば、確かに有人二足歩行ロボットが存在してもおかしくはないし、かといって全高10メートルオーバーの巨大ロボットが存在しているかと言うと、そうでもない。また、一般的な社会生活様式的側面、あるいは都市建設計画的側面から考えても、片側1車線道路よりも大きなロボットが開発される事は考え難い。ロボットというカタチは、空を飛ぶには極めて不向きなため陸上を歩行、あるいは移動用車両に積載して移動する方が効率がいいからだ。(注:『パトレイバー』を思い出せ!)
 しかも、KMFは基本的に飛べない、あるいは飛ぶのが非常に難しい兵器であるし、搭乗員の人命を最優先にした設計(注:脱出ポッド)がなされているのも、現在の航空兵器のコンセプトに近いモノがあり、極めて現実的な考察に基づく設定と言える。
 もちろん、化石燃料に代わる鉱物エネルギー資源であるサクラダイトのような超科学が描かれているが、これはリアルSFを崩壊させる要因にはなり得ない。何故なら、この資源が“日本で大量に採掘出来る”ために、日本は東西の大国にとって重要な戦略拠点となり得たために、ブリタニアは真っ先に日本を占領し、中華連邦やインドはブリタニアに対抗するために日本(黒の騎士団)に協力する。つまり、日本という極東の島国を重要な戦略拠点にして大国との戦争に巻き込むためには、サクラダイトという設定が必要なのである。(注:ガンダムのミノフスキー粒子みたいなモノ。宇宙空間のような極めて広大な空間でロボットのような小さな兵器を活躍させるためには、広域レーダーを無効化する超科学が必要だったから)
 また、ブリタニアや中華連邦、EUといった本作の世界地図は、アメリカがブリタニアになっただけで、そのまま現在の世界地図の延長線上にある設定である。(注:EUが統一通貨ユーロの導入で経済的国境が無くなった事で、将来的にEUが一つの大きな国になる可能性は非常に高い。そうなると、これに対抗するためにアメリカはカナダやアラスカを含めて南北統一を図るだろうし、アジア圏でも中国が東南アジア各国を吸収する可能性がある。また、中央アジアはイスラム諸国が統一するだろうし、アフリカは大陸全土が統一するだろう。ロシアと日本がどうなるか予想出来ないのだが、ロシアが中国に併合されるような事があると非常にマズい。余談だが、同様の世界観設定を初めて採用した作品は、スクウェアのSFCゲーム、『フロント・ミッション』である。『コードギアス』との違いは国の名前だけ。ただし、不憫なので“パクリ”と呼ぶのは避けておく)
 このように、本作は現在の科学、経済、政治の延長線上にある、現実的考察に基づく極めてリアルな世界観が設定されており、“リアルSF”と呼んでも差し支えのない作品と言える。
 ……と、思っていた。1stシーズンの頃までは……。
 シリーズが2ndシーズンである『R2』に入ると、このリアルSF路線はことごとく裏切られ始める。
 空を飛ぶ。
 変形する。
 飛行ユニットと空中合体。

あり得ねぇッ!!Σ(゜Д゜;)

 いっその事雲を突き抜け星になってしまえ!
 てゆーかむしろ、

スタッフマジで自重しろッ!!


 最早リアルSFは崩壊し、『コードギアス』はスーパーロボットモノの仲間入りを果たした。
 これに一体どのような魅力を感じろと?
 これに一体どのような面白さを見出せと?
 ……いやいや待て待て。本作の制作スタジオはサンライズだ。しかも、メインスポンサーはバンダイだ。
 バンダイがプラモデルを作り易い“ネタ”を提供すれば、スポンサーは快くお金を出してくれるだろうし、それによって製作予算が確保出来るなら、これぐらいの犠牲は安いモノだ。きっと、視聴者サマだって納得してくれるハズだ。てゆーか、プラモ出たらお前らだって結局買うんだろ? ならお互い様じゃん?

……僕は買わないけどね。

 そうだよ! 大事なのはストーリーだ。そして、物語によって描かれるテーマだ。これさえハズしていなければ、リアルSFじゃなくてもちゃんと傑作になる。書いてるのはプロなんだから、それぐらいはきっと徹頭徹尾貫き通してくれるさ。それがプロとしてのプライドってモンだ。
 まだ大丈夫。
 きっと大丈夫。
 最後まで付き合える。


・テーマの喪失

 この作品では、実に多くのテーマを扱っている。
 シリーズの長い作品であれば、登場人物が多くなり、世界観や人間関係、あるいはそれぞれのキャラクターが主張する事柄が増えるため、必然的に描かなければならない要素(注:それぞれのキャラクター毎のストーリーを完結させる必要があるので)が多くなり、それに伴って描くべきテーマも複雑かつ大量になる。
 この作品の場合、世界観が全世界規模と広大なため、ハナから20数話程度で完結するような規模の小さな作品にはなり得ない。そのため、2ndシーズンである『R2』が製作されたワケだが、どうやら3rdシーズンに続くらしい。(注:未確認情報です。2ndシーズンは途中までしか観ていないので)
 それはともかく、このように壮大なスケールの作品なので、この作品のテーマを語ろうとするとそれだけでモノスゴいテキスト量になってしまいそうなので、ココでは本作のテーマの中でもストーリーの中核、及びベーシックとなっている二つに絞って考察する事にしよう。
 まず、本作のストーリーには『独裁政治の打倒』というテーマがベーシックとして存在している。
 VVによって極めて強力なギアス能力を手に入れたブリタニア皇帝は、ギアス能力を使って強大な権力を握り、帝国を立国する。そして、武力を以って近隣国を併合しながら領土拡大を続け、その野望は“世界征服”を成し遂げるまで尽きる事はない。
 しかし、国の中枢であるブリタニア帝国政府は、そのメンバーのほとんどが皇帝の血族によって構成されており、皇帝の絶対的な権力を中心として機能している。すなわち、これは皇帝の一存で国の存亡が左右される事を意味し、それはつまり、極めて一個人の感情に国の行く末を任せる独裁政権と見る事が出来、国民の意思によって選ばれた代議士による議会制度とは真逆の非民主主義国家と言える。
 そこには“話し合いによる平和的な解決”という、民主主義国家が掲げる大儀は一切無く、全ては皇帝のサジ加減一つで決まると言っても過言ではない。
 歴史的に見ても、このような国家は常に打倒されるべき存在である。
 ローマ帝国、ロシア王朝、スターリン、そしてヒトラー。
 中でもヒトラーのドイツ第三帝国と本作は、極めて密接な関係にある。
 ヒトラーはポーランドを占領したのをキッカケに、ポーランドに住む全てのユダヤ人に対して非人道的な圧政を強いる。
 ブリタニアは、日本を占領すると国の名前を『エリア11』と称し、日本人を『イレブン』と呼び、非人道的な差別の対象とする。
 ポーランド全土に住む約1万人のユダヤ人に移動命令が下され、ポーランドのクラクフに設置されたユダヤ人居住区、『ゲットー』に押し込める。
 エリア11の新宿区を『新宿ゲットー』と呼び、イレブン居住区として多くのイレブンが押し込められた。
 ユダヤ人は強制労働を強いられた挙句、謂れのない理由で虐殺され、その数は第二次世界大戦終結までに、累計実に600万人にまで及んだ。(これを『ホロコースト』と呼ぶ)
 1stシーズンの終盤、『行政特区日本』を提唱したユフィは、集まったイレブンを(ルルーシュのギアス能力の暴走があったとは言え)虐殺する。
 ナチス党員でありドイツ人であるオスカー・シンドラーは、強制労働に従事するユダヤ人を救うため、強制収容所の外にある自分の工場の従業員としてユダヤ人たちを雇い入れ、大戦終結まで彼らを守る。その数は、実に1100人以上に上る。
 偶然の出会いからギアス能力を手に入れたルルーシュは、ブリタニア人でありながらこの独裁政権に対抗するため、イレブンの反乱組織を利用して抵抗活動を始める。
 これらの類似が物語るのは、本作がブリタニア皇帝を頂点とした独裁政治打倒を大儀としたルルーシュの英雄譚だという事だ。
 それはつまり、独裁政権は打倒されるべき存在であり、議会政治による民主主義こそが国家の理想である事を意味している。
 ちなみに、ユフィが提唱した行政特区日本は、中国における香港の存在に似ている。
 1997年、99年間のイギリス租借から中国に返還された香港は、しかしイギリスの資本主義と民主主義が定着しており、共産国家の中国にとっては扱い難い存在であった。
 そこで中国の中央政府は、香港を『経済特区』として例外的に資本主義を認め、今まで通りの生活を市民に約束した。
 これにより、中国は香港を窓口にした外貨獲得手段を手に入れ、国家の経済的発展の足がかりとした。
 が、香港側にとってみれば、これは中央政府の主権侵害と受け取る事が出来、体の良い搾取手段にしか見えない。
 行政特区日本もこれと同じで、市民に主権を預けるように見せかけただけの中央政府の搾取手段にしか見えない。ユフィから相談を受けたシュナイゼルが、二つ返事でこれを了承したのは上記のような理由があったからだと考えるのが妥当である。
 そうとは知らないユフィは、シュナイゼルの越権的行為を好意的に受け取り、行政特区日本を提唱する。結局、ユフィはシュナイゼルの捨て駒にされたかのごとく死ぬ事になるが、ある意味自業自得である。何故なら、ユフィは世界の全てが優しさで出来ていると思い込んでいるからだ。詐欺師にコロっと騙され易いタイプだからだ。そして、シュナイゼルは間違いなく詐欺師だからだ。
 それはともかく、ルルーシュが再三言う通り、間違っているのはルルーシュではなく世界であり、それを証明するためにはエリア11が日本としてブリタニアから独立を勝ち取る必要がある。そのための切り札として必要なのが、日本が産出国第一位になっているサクラダイトという鉱物資源であり、キョウト六家の後ろ盾なのである。
 もちろん、ルルーシュの行動を“エディプス・コンプレックス”(注:男の子が父親を“母親を奪う存在”として敵視する傾向、またはその心理作用の事。ギリシャ神話のオイディプス神話に由来する。命名したのは心理学の父、シグムント・フロイト)と見る事も出来る。真相がどうであれ、自分から母親を奪ったのは実の父であるブリタニア皇帝だからだ。
 しかし、“本当のトコロ”はどうであれ、表向きは独裁政権の打倒という大儀を掲げている以上、ルルーシュはその目的のために戦い続ける。
 それはまるで、ユダヤ人を救うために戦い続けたシンドラーのようである。
 もう一つ、これに関連して本作の重要なテーマとなっているのが、先にも記した『世界の間違いを正す』である。
 上記までに散々っぱら説明した通り、大国による独裁政権は、民主主義から外れた間違った国の在り方であり、それを実行したドイツ第三帝国は連合国軍によって打倒された。それは、ドイツ第三帝国が目指した世界の理想が間違っていたからであり、歴史が民主主義の正統性を証明した証拠と言える。
 ルルーシュの行動もこれと同じで、世界が独裁政権に飲み込まれようとしている時、偶然の出会いからこれに対抗し得る力を手に入れ、世界の間違いを正すために戦う。
 さらに、2ndシーズンに入ると、このテーマはさらに発展し、『想いは世界を変えられる』という、素晴らしいテーマに昇華する。
 『想い』とは、言い換えれば『意思の力』である。
 ヒトが二本足で歩き、道具を使う事でヒトが意識出来るようになった『想い』というこころの作用は、ヒトを何らかの行動へと駆り立てる原動力となる。
 フロイトは、これを『リビドー』と呼んで説明しようとした。
 ユングは、これを『無意識』と呼んで説明しようとした。
 しかし、言葉が違うだけでそれが『想い』である事に間違いはなく、ヒトは行動の原動力として『想い』を意識する事で『意志の力』をより大きく、そしてより強くするのである。
 これを明確に説明しているのが、僕の大好きな同人ヴィジュアルノベル、『ひぐらしのなく頃に』である。
 この作品の中で、極めて強固な『意志の力』を持つ鷹野三四に対抗するため、前原圭一や古手梨花といった主人公達は、一人一人の小さな『意志のカケラ』を集めて、一つの大きな『意志の力』に変え、鷹野三四に戦いを挑む。
 どこかで間違ってしまった世界を変えるためには、『意志の力』という名の『想い』が必要なのだ。
 本作でもそれは同じで、極めて強力な権力と武力と『意志の力』を持つブリタニア(の皇帝)に対抗するため、ルルーシュは仲間を集め、『黒の騎士団』を結成する。それは、自分だけの小さない『意志の力』では敵わない事を知ったからであり、仲間達の小さな『意志のカケラ』を集める事で、一つの大きな『意志の力』に変えるためだ。
 中華連邦を味方に引き入れる事に成功したルルーシュは、一瞬その事を忘れてしまう。事があまりにも順調に進み過ぎたからだろう。
 しかし、その時偶然電話をかけてきたシャーリーに諭され、『想いは世界を変えられる』事を思い出し、天子とシンクーの関係を認める。こうして、二人の世界は、二人の『意思の力』によって変えられた。今度は、ルルーシュ自身の番だ。
 しかし……。
 ……あ~~、ココからは書くのもイヤになってくる。先ほどのリアルSFの時と同じく、この素晴らしいテーマは最悪の形でブチ壊される。
 念願叶ってルルーシュと両思いになれたシャーリー。彼女は、彼女の自身の『意志の力』で自らの世界を変えた。
 ところが、この直後に作品の世界観を根底から覆すような復活オレンジのギアスキャンセラーでルルーシュとゼロが同一人物であった事を思い出す。彼女の世界は、もう一度元に戻ってしまったのだ。

「ヤヴァイ……。」

 直感的にそう思った。リアルSFに続いてテーマまで壊されるのか? 壊してしまうのか大河内!?(←本作のメイン脚本家)
 ところが、その予想を良い意味で裏切ってくれる屈指の名シーンが直後にやってくる。
 2ndシーズン第13話、「過去からの刺客」。
 過去を思い出したシャーリーとスザクの会話。

スザク「……許せないんだ。」
シャーリー「それは、スザク君が許さないだけだよ。」
スザク「………。」
シャーリー「私は許したよ?」

キターーーーーーー(゜∀゜)ーーーーーッッッ!!!!!


 完璧!
 文句なしの名シーン!
 過去を思い出し、ルルーシュはゼロで、ゼロは父の仇である事を知ったハズのシャーリーは、しかし自らの『想い』を信じ、ルルーシュを孤独から救いたいと願う。
 それはまさに、シャーリーに単なる恋心とは異なる新たな『想い』が生まれた瞬間であり、彼女に新たな『意志の力』が宿った瞬間だ。
 これでもう安心。
 一度は壊れかけたシャーリーの世界は、しかし彼女自身の『想い』によって、変えられる。少なくとも、変えられる可能性が出来た。

「やってくれるな大河内?」

 僕は、トリハダが立つほど感動した。
 が。
 ……有り得ない。
 何でそうなる?
 何でそうする?
 意味が分からない。
 理解出来ない。
 『想い』は世界を変えられるんじゃなかったのか?
 『意志の力』は、世界を変えられるんじゃないのか?
 どうしてシャーリーの『想い』は届かない?
 どうして、シャーリーの『意志の力』が負ける?
 それじゃあ、『ひぐらしのなく頃に』で鷹野の『意志の力』に勝てなかった梨花みたいじゃないか。
 何も出来なくて、ただあぅあぅ言ってるだけの羽入みたいじゃないか。
 なんで?
 どうして?

何故シャーリーが死ななければならない?


 彼女の『想い』が世界を変えられないのなら、ルルーシュの『想い』だって、世界を変えられないじゃないか。
 それがスザクであっても、ナナリーであっても、ユフィであっても同じだ。ガキンチョの小さな『意志の力』では、世界は変えられないって事? てゆー事はつまり、「ガキは大人しくオトナの言う事聞いてりゃいいんだよ!」って事? なんだそれ。世界はオトナの理屈だけで出来てて、ガキンチョの『意志の力』なんて道端に転がっている小石と同じって事?
 ………………。

ふざけるな?


 お前それでもプロの脚本家か? 脚本の基礎技術、ちゃんと分かってんのか? 脚本の基本中の基本は、主人公が意志を貫き通すか逆転するかだぞ? この場合は前者しかねぇだろ? 逆転してどーするんだよ! それじゃあ物語終わらせるためにはルルーシュが死ぬしかないじゃん! 「世界は間違ってなくて、間違っていたのはルルーシュだ」って事になっちゃうじゃん! そんな物語の何処が面白いよ? そんな物語に何の意味があるよ? お前のプロとしてのプライドはそんなモノなのか? もう一度言ってやろうか?

ふざけるなよ? マジで。


 あ、そうか。分かったよ。お前、この作品のラストシーン知らねぇんだろ? ラストシーン頭に思い浮かんでねぇんだろ? 最後のセリフ、決めてねぇんだろ? お前ホントにプロか? そんな行き当たりばったりでどーすんよ? 続けるためか? 視聴者にDVD買わせ続けるためか? だから途中で分かんなくなって、1stシーズンで2回も総集編やったのか? 2ndシーズンでも特番入れてるよな? つか、コミックス版のアレ何だよ。ノベルゲームでももうちょっと世界観統一してるぞ? 全然違う作品になってるじゃねぇか。脚本の書き方も知らねぇで、よく“プロ”なんて言ってられんな? この程度の作品なら、

オレダッテカケチャウヨ?

 新井先生ゴメンなさい。
 今の日本のアニメ業界は、この程度のヤツが“プロ”を名乗っています。
 もういいや。この時点で『コードギアス』は駄作決定。もう観る価値ありません。てゆーか観たくもありません。全く以って時間のムダです。
 何はともあれ、以上のような理由で本作、『コードギアス』シリーズは、「最も売れた駄作」になった。近年のTVアニメでは、史上稀に見る超駄作である。
 例えば、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『Gunslinger Girl』(注:1stシーズンのみ)、『Kanon』(京アニ版)、『Air』、『あずまんが大王』、『ひだまりスケッチ』、『苺ましまろ』、『魔法少女リリカルなのは』など、近年でも極めて優れた作品が多い傍ら、このような作品が『大ヒット』を記録している現在のTVアニメ業界の七不思議を誰か説明して下さい。僕には理解出来ません。
 ……キャラクター原案がCLAMPだから?
 スタジオがサンライズだから?
 ……ネームバリュー売りですか?



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで……は、頂けてませんよね? 僕自身、何だか書いててヘコんできちゃったし。
 まあ、とにかくご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。異論、反論バッチこい! 皆さんにケンカを売ってるワケではありませんが、僕のこの認識を変えられるモノなら変えてみて下さい。てゆーか変えて下さい。そして、僕に続き(R2、14話以降)を見させる原動力を与えて下さい。そうでなければ、この作品は僕にとって本当に駄作になってしまいます。
 どうか、誰か、お願いだから……。
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



きょーのはちゅねさん♪


㌧マイ。

Th3024 Thanks for youre reading,
See you next week!


-参考資料-
※今回の記事では、以下のウェブサイト、及び書籍のの記事を適宜参照しました。

・ウィキペディア日本語版
 検索ワード:コードギアス 反逆のルルーシュ
※このページ内のリンクから開けるページもいくつか参照しました。合わせてご覧下さい。

シナリオの基礎技術/新井一著
※僕が最も尊敬する5人の脚本家の内の一人、新井一が記した脚本の書き方指南本。1968年の初版発行から、実に40年を経た今なお脚本の書き方指南本としては“バイブル”に君臨し続けている名著。物書きを目指す全ての人にオススメの一冊です。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

021.The Future is History

2008年12月05日 | 映画を“読む”

-Movin' Movies #03-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 突然ですが、

 緊 急 告 知~~ッ!!

 日頃はヲタク兼ヘタレゲーマーのブログ、『週刊! 朝水日記』をご愛顧頂き誠にありがとうございます。
 ご存知のように、当ブログは毎週金曜日に更新させて頂いておりますが、誠に勝手ながら、近々“休載日”を頂こうかと考えております。
 休載予定日は以下の通りです。

 休載予定日:2009年1月2日(金)

 何で休載させて頂くかと言うと、新年を迎えるに当たって、このブログをリニューアルしようかなと考えているためです。
 と言うのも、これにものっぺきならねぇ深刻な理由がありまして、これも以前に書きましたが、当ブログは僕が加入しているインターネットプロバイダー、OCNのブログサービス、『ブログ人』を利用していますが、ブログ人にはサービス内容の異なる4種類の料金プランが設定されており、現在僕は無料プランを利用しています。
 この無料プランは、OCNに加入している事が条件(注:加入していなくても利用はできるが、その場合は有料となる)ですが、とりあえず“ブログ”というモノを始めたかっただけだし、ディスク容量も100MBあるのでしばらくはこれでいいかなぁ~? と、思っていたんですが、前回の記事をうp後、残りのディスク容量を確認してみたらなんと!

残り、18MB切ってました……ッ!Σ(゜Д゜;)

 そう、7月からスタートしたこのブログは、僅か5ヶ月、20回で80MB以上を使い切ってしまったのです。
 当初の目論見では、最低でも10ヶ月程度はもつだろうと思っていたんですが、実際にはその半分程度しかもたない事が判明したワケです。

「ヤーヴァイ! コレヤーヴァイ!」└(゜Д゜)┘

 やっぱCS:Sのクラン戦リプレイで画像うpり過ぎたかなぁ~?
 ディスクを整理してもスズメの涙程度にしか回復しない。
 かと言って、過去の記事を消すのはイヤだ。
 しかし、ブログは来年も続けたい。
 と、いうワケで、仕方なく有料プランへのアップデートを決断。当ブログをリニューアルする事にしました。
 まあ、新年を迎えるタイミングだし、心機一転するのも悪くない。つか、いい加減アクセスカウンターを導入したい。(注:ブログ人では、アクセスカウンターを導入出来るのは有料プランのみ)
 それに、来月はブログを始めて丁度半年の節目に当たるし、色々と丁度良い時期なのではないかなと。
 というワケで、新年一発目は一週お休みを頂いて1月9日の予定です。どんな風にリニューアルするかまだ決めてませんが、頑張って間に合わせたいと思います。(笑)
 お楽しみに!(注:年内は休まず営業いたします!(`・ω・´)/)



 それはさて置き、今週は『映画を“読む”』の第3弾。
 今回ご紹介するのは、アメリカ人でありながらアンチ・ハリウッド派の映画監督として有名なテリー・ギリアム監督の傑作中の傑作。ブルース・ウィリス、マデリーン・ストゥ、ブラッド・ピット出演のSFミステリーの傑作、『12モンキーズ』です!


※注:以下には、映画『12モンキーズ』の重大なネタバレが多々記されています。未鑑賞の方は、先に映画本編を鑑賞される事をオススメします。


・Story

 2035年――。
 人間だけに感染する強力な殺人ウィルスの蔓延により、人類は地下での生活を余儀なくされていた。
 社会に適応できない犯罪者として刑務所に服役していたジェームズ(ブルース・ウィリス)は、眠る度にいつも同じ夢ばかり見ていた。
 場所は空港。
 人の波をかき分けながら走る男。
 それを追う男。
 取り乱す女。
 そして、その光景を見つめる一人の少年。
 夢の中では、ジェームズは少年だった。
 そんな夢にうなされる毎日。
 そして、“ボランティア”と呼ばれる地上での危険な調査任務。それは、ウィルスが蔓延する地上に出て、ウィルスに感染しない虫や動物のサンプルを採取する任務だ。
 その任務中、ジェームズは看板に書かれた奇妙な落書きを見つける。

“We did it!(やったのはオレたちだ!)”

 そして、その言葉と共に描かれていたのは、12匹のサルがデザインされた謎の集団、“12モンキーズ”のシンボルだった。
 地下に戻ったジェームズは、ウィルスを研究する科学者達に呼ばれる。ジェームズの優秀な能力を高く評価した科学者達が、彼にある提案を持ちかけるためだ。

「報酬として、あなたに特赦が与えられるかもしれませんよ?」

 そう言って、ジェームズを“ある任務”に誘う科学者たち。
 彼らの目的は、地上で蔓延する殺人ウィルスのルーツを探り、その治療法を開発する事だ。そして、その調査を行うために、ジェームズをウィルスが蔓延し始める前の時代、すなわち20世紀末の時代、1996年にタイムトリップさせようと言うのである。
 かくして時代を遡ったジェームズだったが、科学者達の手違いで別の時代、1990年に送られてしまう。
 だがそこで、ジェームズは二つの重要な出会いを果たす。
 一つ目の出会いの相手は女性。名前はキャサリン・ライリー(マデリーン・ストゥ)。若く、美しく、そして知性に溢れた精神科医だ。
 警察に逮捕され、ウィルスだの人類の滅亡だのを喚くジェームズは、狂人扱いされて精神科医と面談する事になる。その精神科医が、キャサリンだった。
 ジェームズをひと目見て、治療が必要な“患者”と判断したキャサリン。しかし、彼女はジェームズに奇妙な親近感を抱く。
 キャサリンの判断により、精神病院に送られる事になったジェームズ。しかしそこで、彼は二つ目の出会いを果たす。
 相手の名はジェフリー・ゴインズ(ブラッド・ピット)。重度の躁病を患った精神病患者で、ジェームズと同じく精神病院の入院患者だ。
 狂人たちに囲まれ、薬漬けにされるジェームズ。しかし、ジェフリーは細菌学者の父親の手を借り、病院から脱走する手筈を整え、鉄格子のカギをジェームズに渡す。

「さあ逃げろ! 自由を掴め!」

 彼が手渡されたのは、自由への扉を開くカギなのか?
 それとも、12モンキーズの謎を解くカギなのか?
 そして、やったのは一体誰なのか……?

 SFでは既に古典になりつつあるタイムトリップモノでありがら、サイバーパンクやサイコスリラー、ミステリー、そしてラブロマンスの要素を内包する複雑極まりない秀逸なストーリー。
 そして、とても低予算映画とは思えない革新的なヴィジュアルと映像センスは、まさにテリー・ギリアム監督がその奇才ぶりを発揮した凄まじいまでのインパクトを有しており、ブルース・ウィリス、マデリーン・ストゥ、ブラッド・ピットというビッグスターの確かな演技が、荒唐無稽だが哲学的なストーリーを支えているこの作品は、紛れも無く傑作中の傑作だ!


・Cast&Staff

ブルース・ウィリス/ジェームズ・コール

 最早説明するまでもないほどのビッグスターでありながら、低予算映画である本作に自ら出演を名乗り出て主人公のジェームズを演じたのは、ハリウッドきってのタフガイ、ブルース・ウィリスである。
 1955年、当時の西ドイツに生まれ、2歳の時にアメリカ、ニュージャージー州に移住。
 1984年にTVシリーズ版の『マイアミバイス』に出演したのがキッカケとなり、1985年から『こちらブルームーン探偵社』というTVシリーズに主演し、注目される。
 1984年には、ブレイク・エドワーズ監督の『ブラインド・デート』に主演し銀幕デビュー。この作品の出演がジョン・マクティアナン監督の目に留まり、翌85年に、あの『ダイ・ハード』のシリーズ1作目に主演。これが世界的な大ヒットとなり、一躍トップスターとなる。
 その後、『ダイ・ハード2』、『ハドソン・ホーク』、『ラスト・ボーイスカウト』、『スリー・リバーズ』など、アクションスターらしいタフガイぶりを発揮する作品に出演する傍ら、『ベイビー・トーク』シリーズ、『永遠に美しく…』、『フォー・ルームス』などのコメディ作品や、『薔薇の素顔』のようなエロティックモノ、『パルプ・フィクション』のような異色作品に至るまで、様々な作品で幅広い演技を見せている。
 本作出演後も、『ラストマン・スタンディング』、『ジャッカル』、『アルマゲドン』、『ダイハード4.0』のような、“本職”と言えるタフガイぶりを大いに発揮するアクション作品はもちろんのこと、『フィフス・エレメント』や『隣のヒットマン』シリーズのようなコメディタッチの作品から、『マーキュリー・ライジング』、『シックス・センス』といったシリアスな路線にも挑戦し、多彩な演技に磨きをかけている。
 ちなみに、日本ではNTTドコモやスバル、ENEOSなどのTVCMキャラクターとしても有名である。


マデリーン・ストゥ/キャサリン・ライリー

 本作でヒロインの女性精神科医を演じたのは、アメリカ人の父とコスタリカ人の母を親に持つマデリーン・ストゥである。
 幼少の頃からピアノの素養があり、演奏者としてコンサートの舞台に立つまでになるが、彼女にピアノを教えていた教師が亡くなった事がキッカケであっさりピアノを諦めてしまう。
 南カリフォルニア大学で映画とジャーナリズムを専攻する傍ら、ビバリーヒルズのソラリ劇場で実習生になる。そこで、彼女は俳優のリチャード・ドレイファス(注:名優。代表作はスティーブン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』や『未知との遭遇』など)と出会い、演技の才能を見出されて舞台に出演。その後TVシリーズ作品の出演で注目され、ドレイファスが主演した87年の作品、『張り込み』でスクリーンデビューを果たす。
 その後、90年にはジャック・ニコルソン主演の『黄昏のチャイナタウン』。同じく90年のケビン・コスナー主演作『リベンジ』。92年にはダニエル・デイ=ルイス主演の『ラスト・オブ・モヒカン』と、共演者と作品に恵まれ、順調にキャリアを重ねる。
 1993年には、ジュリアン・ムーア、リリ・テイラー、ロバート・ダウニーJr、ティム・ロビンス、ピーター・ギャラガーといった名だたる名優が出演したロバート・アルトマン監督の群像劇、『ショート・カッツ』に出演。この演技が絶賛され、同年の全米批評家協会賞の助演女優賞を受賞している。
 本作出演後は、『マイ・ハート マイ・ラブ』、『将軍の娘/エリザベス・キャンベル』などに出演しているが、プライベートとの両立のためか、出演作は少ない。
 ちなみに、プライベートでは1982年に結婚した俳優のブライアン・ベンベンとの間に儲けた二児の母親でもある。


ブラッド・ピット/ジェフリー・ゴインズ

 本作ではそれまでの二枚目俳優路線から脱却し、彼の本領発揮とも言える“キレキャラ”のジェフリー・ゴインズを見事に演じ切ったのは、最早説明するまでもないほどのビッグスターとなったブラッド・ピットである。
 筆者自身、彼は最も好きな5人の俳優の内の一人だが、ここでの紹介は過去の記事と内容が重複するため割愛する。
 ブラピについての詳細は、当ブログの記事、『007.キミはタイラー・ダーデンを知ってるか?』(08/8/29うp)を参照の事。


テリー・ギリアム/監督

 本作の荒唐無稽で難解なストーリーを、鮮烈なヴィジュアルと繊細な映像で見事に映画化したのは、アンチ・ハリウッド派の監督して有名な奇才、テリー・ギリアム監督である。
 学生時代、学内誌の編集に励む傍ら、卒業間際に書いたマンガが『MAD MAGAZINEIN』の編集長、ハーヴェイ・カーツマンの目に留まり、『HELP!』という雑誌の編集アシスタントとして就職。この時、ジョン・クリースと出会い67年に渡英。イギリスの名高いコメディ集団、『モンティ・パイソン』にアニメーターとして参加し、演出や脚本で注目を集める。
 71年からは、80年代までに『モンティ・パイソン・アンド・ナウ』を初めとした『モンティ・パイソン』の劇場版5作を監督。さらに、81年には元ビートルズのジョージ・ハリスンが製作総指揮を手がけた作品、『バンデッドQ』を監督。(注:脚本と製作も手がけている) その映像表現が高く評価され、イギリス映画界での地位を確実なモノにする。
 この実績を買われ、本作と同じユニバーサルの誘いで、85年には『未来世紀ブラジル』で念願のハリウッドデビューを果たす。が、ここでギリアムは、かつてない屈辱を味わう事になる。
 ハリウッド映画界には、製作された映画に対する“最終編集権”という権利がある。これは、撮影されたフィルムを編集し、劇場公開する編集バージョンの最終決定権の事だが、監督にはこの権利が与えられない場合が多い。
 そのため、試写会などで監督やスタッフが編集したバージョンの受けが悪いと、スタジオ側が最終編集権を行使して受けの悪いシーンやエンディングをカットしたり差し替えたりする事が出来る。
 当然、監督やスタッフの望んだ作品とは異なる作品が出来上がる事になるが、映画はそのまま公開される事になる。
 この作品でもそれは同じで、ギリアムは契約上最終編集権を持っておらず、試写会の結果が芳しくなかったため、スタジオ側が最終編集権を行使し、エンディングが差し替えられた。
 そのため、ギリアムとスタジオが対立。ギリアムはインタビューなどでスタジオを公然と批判し、スタジオ側は誤ったキャンペーンで映画を宣伝。当然のように、映画興行は大失敗に終わった。(注:ただし、この作品はその後ディレクターズカット版がリリースされ、再評価された今では、ギリアム監督の代表作の一つとなっている)
 その後、88年の『バロン』、91年の『フィッシャー・キング』でも同じような失敗が続き、ギリアム監督はアンチ・ハリウッド派を自ら名乗り、一時映画界から姿を消す。(注:ただし、現在はどちらも再評価されてカルト的な人気を博す傑作になっている)
 しかし、1995年、意外なトコロから急にお呼びがかかる。
 10年前、『未来世紀ブラジル』でギリアム監督と浅からぬ因縁が生まれたユニバーサルだ。そこで彼は、本作の監督を要請される。
 当時、『未来世紀ブラジル』のディレクターズカット版が再評価されていた頃で、ギリアム監督の映像表現が高い評価を受けてたためになされた要請だった。
 ギリアム監督は、しかし脚本の持つ鮮烈なイメージに魅了されこれを了承。その手腕を如何なく発揮する事になったのは、言うまでもないと思う。
 本作監督後は、『ラスベガスをやっつけろ』、『ブラザーズ・グリム』などを監督するが、一方では相変わらずのアンチ・ハリウッド派で、頓挫した映画は数知れず。2001年に、その内の一本である『ドンキホーテを殺した男』(未完成)では、『ロスト・イン・ラ・マンチャ』というこの作品のメイキングドキュメンタリー映画に出演している。
 また、アラン・ムーア原作の『ウォッチメン』の映画版や、『ゴジラ』のハリウッドリメイク版の監督に指名された事もあったが、いずれも実現には至っていない。(注:前者はザック・スナイダー監督により2009年春に公開予定。後者は1998年にローランド・エメリッヒ監督の手により映画化された)


・Behind the Scene

 本作は、実は完全なオリジナル作品というワケではない。
 1960年代に製作されたフランスの短編映画、『ラ・ジュテ』という作品が原典である。
 この作品を観た脚本家のピープルズ夫妻は、“自分の死を目撃する男”という設定に魅了された。そこで、これを原典とした脚本の執筆に取り掛かる。
 ちなみに、ピープルズ夫妻の夫、デヴィッド・ピープルズは、1980年代から活躍する映画脚本家で、1983年には、ハリソン・フォード主演、リドリー・スコット監督作品の『ブレードランナー』の脚本も手がけている実力派である。
 妻のジャネットと共に書き上げた本作の脚本の第1稿を手に、プロデューサーのチャールズ・ローヴェンを訪ね、映画化を持ちかける。ローヴェンは、脚本を大いに気に入り、これを映画化できるスタジオと監督を探した。
 ユニバーサルが映画化に興味を示したが、問題は監督だった。荒唐無稽で難解なストーリーを、正確に映像化できる監督を探すのは難しい仕事だった。しかし、ローヴェンは一人の監督の事を思い出す。それが、テリー・ギリアムだった。
 ギリアムは、当時監督した作品が立て続けに失敗し、複数のプロジェクトが頓挫するなどの問題が多発したため、映画界から姿を消していた。
 そこに今回の話しが持ちかけられたワケだが、スタジオは自身と浅からぬ因縁のあるユニバーサル。しかも、作品はあの時と同じようなSFである。当然のように、ギリアムはこの要請に難色を示すかと思われたが、返事はYES。ギリアムは、脚本の持つポテンシャルに映画監督の才能を触発されたのだ。
 そして、いくつかの条件と引き換えに、ギリアムはどうしても確保しておきたかった最終編集権を獲得し、契約書にサイン。作品の規模の割りに予算が少ないのが気になったが、低予算はいつもの事。ギリアムは、既に脚本の虜になっていた。


 脚本の改稿が続けられる中、ギリアムとローヴェンはキャスト探しに奔走したが、真っ先に決まったのは主人公のジェームズ・コール役だった。しかも、俳優の名はブルース・ウィリス。当時、既に確固たる地位を築いていたビッグスターである。
 さらに言うなら、このキャスティングはウィリス側からの申し出で実現したらしい。
 というのも、ウィリスは『ダイ・ハード』シリーズや『スリー・リバーズ』といった作品を通して自らに築かれた“アクションスター”というイメージを壊したがっていた。イメージが先行する事で、演じるキャラクターのバリエーションが狭まる事を恐れていたのだ。
 そこに舞い込んできた本作の出演の話しは、ウィリスにとっては願ってもないチャンスだった。ジェームズ・コールの繊細で人間的な弱さを持つキャラクターは、まさにウィリスが固定イメージを払拭するのにうってつけのキャラクターだったのだ。
 出演料の交渉で多少のゴタゴタがあった(注:本来、ハリウッド映画では予算の枠内で出演者の出演料が決められるが、ウィリスのようなビッグスターの場合、出演料が高過ぎて低予算映画には出演出来ない場合が多い。本作では、“興行収益の歩合制”という異例の措置で出演が決定した)ものの、ウィリスの出演が決まった事でスタジオ側の態度も一変する。ビッグスターが出演する大作級の扱いでのプロモーション展開を約束したのだ。
 一方、躁病を患ったイカれキャラであるジェフリー・ゴインズ役には、当時まだ『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』や『セブン』の公開直前だったブラッド・ピットに決まった。
 これも、ウィリスと同じくピット側からの強い要望で実現したキャスティングだった。
 ピットは、当時既にギリアム監督の芸術的な映像表現を高く評価し、ぜひとも一緒に仕事したいと考えていた。加えて、ジェフリーのキャラクターはこれまで自分が演じた事のないキャラクターであり、ピットはこれにチャレンジ精神を掻き立てられたのだ。
 低予算映画のため、当時としても極めて安過ぎる出演料だったが、ピットはこれに二つ返事でサイン。自らフィラデルフィアの精神病院に赴き、躁病患者の治療と研究をしている医師に患者の観察記録のVTRを見せてもらったり、実際の患者達と一緒に治療セミナーを受けるなどして役作りに入れ込んだ。
 その結果は、映画を観ての通りである。
 共演したウィリスも、ピットの演技を心の底から絶賛している。
 また、精神科医のキャサリン・ライリー役の選出は、拍子抜けするほどアッサリと決まった。
 キャスティング担当から提示されたキャサリン役の候補者リストに目を通したギリアムとローヴェンは、数百人の名前が並ぶリストの中にマデリーン・ストゥの名前があるのを見つけた。その瞬間、二人は話し合う余地も無く、ストゥに打診する事を決定する。
 ストゥ側も、脚本や共演者に本作の魅力を感じ、ピットと同じく破格の低出演料だったが、OKを即答。
 主要キャストが決まった事で、本作はいよいよクランクインする事になるが、ココからは困難の連続だった。


 まず問題になったのが、ロケとセットである。
 低予算映画の場合、設置にお金がかかるセット撮影は極力控え、室内だろうが屋外だろうが、既存の建物を借りてロケ撮影される事が多い。本作でもそれは同じで、早々にロケ撮影が決定したが、撮影が出来そうな建物がなかなか見つからなかった。
 そこで、脚本でも物語りの舞台として設定されていたフィラデルフィアに赴いたところ、ギリアムが庁舎(室内は空港のシーン、屋外や外観は未来世界の地上のシーンなどに使用された)や大学の建物(キャサリンが公演した大学の講堂)、さらには放棄された古い発電所(未来世界の尋問室やタイムマシンなど)を大いに気に入り、撮影許可を申請した。
 すると、フィラデルフィアの当局が協力を約束。本作は、多くのシーンをフィラデルフィアでロケ撮影する事が出来るようになった。
 しかし、単にロケ撮影と言ってもそれほど簡単な事ではなかった。
 特に未来世界のシーンでは、ロケに使う建物を未来世界らしく装飾する必要があった。中でも困難を極めたのが、タイムマシンと尋問室である。
 どちらもフィラデルフィアにある放棄された古い発電所がロケ地に選ばれたが、何せ未来世界である。そのままでは現代的過ぎてとても撮影には使えない。
 しかも、低予算のため装飾にはあまりお金をかけられない。
 そこで、プロダクション・デザイナーのジェフリー・ビークロフトは、フリーマーケットやガラクタ市を巡り、内装の装飾に使えそうなガラクタを買い集めた。これらを巧みに組み合わせ、内装を装飾し、あの独特のデザインを有するタイムマシンや尋問室を作り上げた。
 また、このガラクタの一部は、未来世界の衣装にも使われている。
 本作の撮影は、作品の設定と同じ冬の時期に撮影されたが、当時は暖冬のため雪がほとんど降らなかった。
 偶然にも、大学での講演を終えたキャサリンが駐車場に止めてあるクルマに向かうシーンの撮影の際、直前に大雪が降り、キレイな雪景色が撮影されたが、これを撮影した直後から、フィラデルフィアは全く雪が降らなくなってしまった。
 そのため、このシーンを撮影し直して“雪のない冬”にするか、人口降雪機を使って他のシーンでも雪を撮るかの選択を迫られる事になった。が、ギリアムはお金がかかるのを承知で、後者を選択する。
 その結果、冬らしい雪景色を背景に撮影する事が出来たが、製作のローヴェンは予算を圧迫する結果に余計に頭を悩まされる事になった。
 ちなみに、人口降雪機に使用した氷を買った氷業者に、「冬なのに氷を買う変わった人たち」と言われたとか。(笑)
 なお、未来社会のシーンなど一部の雪は、人口降雪機の雪ではなくCGである。


 本作を監督したギリアム監督は、凝り性でコダワリ派の監督としても有名だが、彼の凝り性ぶりがうかがえるエピソードがある。
 通称、“ハムスター・ファクター”と呼ばれるエピソードで、本作では語り草になっているエピソードである。
 あるカットの撮影にやたらと時間がかかったというモノなのだが、その原因が実はハムスターである。
 映画の冒頭、未来世界で地上での任務を終えたコールが、素っ裸で自分の血液を採取しているのをロングから撮影するだけの極めて単純なワイドショットで、予定では数分で終わるハズだったが、ギリアムは何度もリテイクを出して中々OKしない。スタッフが理由を聞いてみると、ウィリスの手前に写っているガラスケースの中のハムスターが、思ったような動きをしていないというのが理由だった。
 結局、ハムスターがギリアムの望む動きをしてくれるまで撮影は続き、数分で終わるハズの撮影が一日仕事になってしまったそうだ。
 ちなみに、このカットは映画の中では僅か数秒しか使われていない。しかも、ガラスケースがワザと汚してあるため、普通に観ただけでは誰もそこにハムスターがいる事に気付かない。(注:僕も言われるまで気付きませんでした。が、ギリアム監督のコダワリにはとても納得できます。詳細は後述)
 こういうコダワリ派な監督だけに、このコダワリのためにしばしば失敗する事もある。
 本作では、映画のファーストカットとラストカットがジェームズ少年の目になっているが、子役のキャスティングはギリアムの鶴の一声でカメラ写りの良い、美しい目をした少年に決まった。が、この時ローヴェンは、言いようのない不安に駆られ、撮影当日に代役の子役にスタンバイしてもらうように頼んだ。
 かくして空港でのジェームズ少年の撮影に挑んだが、撮影開始直後、ギリアムは自分が選んだ子役に何故か違和感を感じ始める。何度リテイクしても、自分が思ったような映像にならないのだ。
 撮影した映像をよくよく見直してみると、子役が全く演技していない事に気付いた。カメラ写りの良いキレイな目をした少年は、全く演技の経験がなかったのだ。
 そこでギリアムは、ローヴェンの提案で代役の子役で撮影をしてみた。すると、何とこれが一発OK。代役の少年は、ギリアムが望んでいた通りの見事な演技をして、本作で映画デビューを果たした。


 また、本作を語る上で欠く事が出来ない要素と言えば、やはり音楽である。
 本作では、どういった音楽を使うかは撮影中からギリアムの悩みのタネであった。撮影終了後の編集の段階になっても音楽が決まらず、編集作業が遅々として進まない状況が続いた。
 が、音楽担当の薦めでアルゼンチンタンゴのCDを聴いてみたところ、ギリアムはようやく探し求めていた音を見つけた。こうして、コンポーザーのポール・バックマスターの手により書かれたのが、本作のオープニングや精神病院でジェフリーが暴れ回るシーンなど、映画の随所に流れるアルゼンチンタンゴ調の、あの印象的なメインテーマである。
 また、本作ではファッツ・ドミノの『Blueberry Hill』(注:未来世界で科学者達が歌う曲)やB.J.コールの『Sleepwalk』(注:フロリダ・キーズのCMの曲)、さらにはルイ・アームストロングの『What a Wonderful World』(注:エンドクレジット)といった既存の曲も引用されており、映画の持つ様々な表情を見事に音で表現している。


 ところで、本作ではTV映像が頻繁に登場するが、キャサリンの誘拐やリッキー少年(注:井戸に落ちた少年)のニュースを伝えるニュース映像以外は、全て既存の映像ライブラリー(映画スタジオやTV局は、資料映像としてこうした映像のライブラリーを独自に持っている場合が多い)から拝借したものばかりだそうだ。
 精神病院でジェフリーとジェームズが見る動物実験の映像も、過去に実際にTVで放映された化粧品の安全性を検査する動物実験の模様を捉えたドキュメンタリー番組の映像だそうだ。
 また、精神病院のTVやボルティモアに向かうジェームズとキャサリンがホテルに泊まった時にTVから流れているアニメも、やはり既存の映像がそのまま使われている。(注:ちなみに『ウッドペッカー』です。ウッドペッカーはユニバーサルが製作しているカートゥーンのキャラクターだったりします。当然、USJにもロジャーラビットと一緒にいます)


・Point of View

 本作を見た事がある人は、本作をどのように解釈しているだろうか?
 アクションかブラックコメディだと思った人はもう寝ていいよ。(笑)
 ラブストーリー?
 もしくはSFミステリー?
 あるいは難解な知的芸術作品?
 結論から言えば、いずれも正解である。
 本作は、「殺人ウィルスをバラ撒いたのは誰か?」というSFミステリーを主軸に、キャサリンとジェームズの時空を超えたラブストーリーや、難解で哲学的な知的芸術、あるいは現代社会を風刺した皮肉など、様々な要素が詰め込み過ぎなほど詰め込まれたストーリーを有しており、この作品を一言で表現するのは極めて難しい。
 しかも、上記に挙げた全ての要素に対する解釈が観る人によって複数あるため、その全てを理解するのは困難を極める。
 例えば、一番分かり易いキャサリンとジェームズの時空を超えたラブストーリーを例に取ると、確かに二人は奇妙な出会いからその関係を始めているが、多くのラブストーリーがそうであるように、二人は出会うべくして出会ったある種の運命的な出会いと言えなくもない。何故なら、キャサリンはジェームズに出会う前から、彼を知っていたからだ。(キャサリン「どこかで会った事がない?」) 何故ならジェームズは、科学者の再三の手違いで第一次大戦の戦火の真っ只中にあるフランスに送られ、そこで当時の写真に写ってしまっていたからだ。キャサリンは、それとは知らずに著書の中でこの写真を引用し、写真を通して既にジェームズに会っていた。だから、この出会いは運命の出会いなのだ。
 しかし逆に、これは極めて偶然な出会いで、二人の恋は大きな勘違いの上に成り立っている可能性も、映画の中で示唆されている。
 ジェームズに誘拐されたキャサリンは、二人でボルティモアに向かうが、二人の立場はかつての“精神科医と患者”の関係ではなく、”誘拐犯とその被害者”の関係である。そのため、報道もキャサリンの失踪を“誘拐”として扱い、警察もやはり、“誘拐事件”として捜査する。だから、警察は保護されたキャサリンがジェームズを庇うのに苦笑する。警察から見れば、それはまさにつり橋効果やヘルシンキ症候群(注:前者は、つり橋の上で告白すると上手くいくというモノ。つり橋の上という特殊な環境の恐怖感を恋愛感情のトキメキと勘違いするため。後者は、映画の中でも説明されているが、誘拐された被害者が、事件後誘拐犯を弁護する傾向が強いというモノ。獄中の誘拐犯と文通したり、果ては結婚にまで至った例もあるほど)そのモノであり、誘拐された恐怖感を恋愛感情のトキメキと勘違いしているように見える。
 さらに、本作を哲学的な知的芸術として観た場合は、さらに複雑である。
 まず、本作では二つの哲学が語られている。
 一つは『現実認識』。もう一つは『因果的決定論』である。
 現実認識とは、「人はどのように現実を“現実として認識”しているのか?」を説明している哲学で、これを論理的に説明したのが、デカルトの有名な格言、「我思う、故に我有り」である。
 デカルトは、自らを科学者だと思っていたが、科学実験に『方法的懐疑』を導入した哲学者でもあった。
 方法的懐疑とは、物事や事象の存在を懐疑し、懐疑し切れなかったモノだけを現実として認識するというモノで、この方法であらゆるモノを懐疑した結果、デカルトは“物事を懐疑している自分”だけは最後まで懐疑出来なかった。すなわち、「我を思っている我は在る」だったのである。
 バークリーはこれをさらに発展させ、方法的懐疑によって懐疑された物事や事象は、ヒトの脳、あるいは自我によって知覚され、ヒトという主体(主観)に実在する存在として認識、知覚されるという理論を確立し、「存在するとは知覚される事」という名言を残している。
 つまり、対象となる現象、あるいは事象が何であれ、ヒトという主体としての主観、すなわち“五感を介して対象を認識する脳”が知覚し、現実として認識された対象のみが、その存在を証明されるという事だ。
 ジェームズは、自分が未来からやってきた救世主だと主張するが、その未来世界を知覚できないキャサリンや精神科医たちに信じてもらう事が出来ず、狂人扱いされる。彼が現実だと思っている現実は、それを現実だと知覚できないために懐疑する精神科医たちによって妄想になってしまう。
 そのため、ジェームズ自身も自分が現実だと思っている現実を懐疑し始め、現実を見失い、自分は狂人だと知覚する。
 これを要約して説明しているのが、精神病院でジェームズが出会った“宇宙人”である。上記で記した事を、彼は簡潔なセリフで明確に説明している。(注:「キミは妄想を楽しむタチかね?」のトコロ)
 ところが、映画が進むとこの現実と妄想が逆転する。キャサリンが、第一次大戦中に撮られた写真の中にジェームズが写っているのを見つけるからだ。
 もう一つの『因果的決定論』は、ラプラスが提唱した理論だが、先にこの理論のベースとなったヒュームの『帰納原理』と『因果律』を説明しておこう。どちらも基本的には同じ理論なのだが、例えば、リンゴを宙に放り投げたら、落ちてくる。……当たり前の事だ。(笑)
 では、もう一度投げたら、リンゴは落ちてくるだろうか? ……当然落ちるに決まっている。という事はつまり、“同じ原因からは同じ結果しか生まれない”という結論に至れる。これを発展させると、人生における選択は、実は見せかけの幻想に過ぎず、いくら選択しようとも、原因が同じである以上、その結果、すなわち未来は変わらないという結論が導き出される。
 これを、『因果的決定論』と呼ぶ。
 原因と結果という因果律に支配され、選択という名の見せ掛けの幻想に翻弄されながら、ヒトは未来という名の因果的決定事項に帰納していくのである。
 ジェームズは、未来を変えるために過去へとタイムトラベルする。そこで彼は、自分の知る未来を作り上げた張本人、すなわち殺人ウィルスを世界中にバラ撒いた犯人を見つけ、彼を殺そうとする。しかしその時、彼は警官の撃った銃弾に倒れてしまう。
 犯人はまんまと逃げおおせ、結局未来は変わらない。
 それは、映画の中で再三繰り返されるジェームズの夢、すなわち幼少の頃に見た目の前で誰かが銃で撃たれる光景へと、帰納する事に他ならない。
 しかし、この映画ではそれとは反対の可能性も示唆している。
 映画のクライマックス、ジェームズが死んだ直後、その光景を見つめるジェームズ少年を雑踏の中に見つけたキャサリン。だがその直後、カットが切り替わって何故か逃げた犯人が飛行機の機内で席に着くシーンに変わる。
 そこで、隣に座っていたのはなんと、未来世界でジェームズを過去へと送った科学者達の一人であった。
 なぜ彼女がこんなトコロにいるのか?
 それは、空港からかけたジェームズの電話を逆探知して、ジェームズに指令を伝えに来たホセや、エスカレーターですれ違ったスーツの男(注:未来世界の刑務所の看守)から連絡を受け、犯人の持っているウィルスの原種を自ら手に入れるためだ。
 すなわち、ジェームズの死は、確かに彼が夢に見ていた通りに帰納したが、50億人の人が死滅するという未来は回避された、少なくとも、回避する可能性を得られたという解釈が成立する。
 これを裏付けるかのように、現実と妄想が逆転したキャサリンとジェームズは、ジェームズの言っていた事が現実であるという確かな証拠、すなわちあの第一次大戦の写真を掴み、お互いの現実認識をすり合わせ、ジェームズの妄想を現実として知覚する。
 ジェームズの見ていた夢は、単なる夢ではなく紛れもない現実で、彼は自らの死を目撃した男であり、彼が現実だと思っていた未来社会も、客観的な証拠を以って現実である事が証明された。
 彼の未来を変えるための選択は、自らの命を救う事は出来なかったが、多くの人々の命を救う事は出来たのである。
 ……とまあ、この映画を普通に解釈すればこのような結論になるかと思われ、僕もこの解釈は決して間違いではないと思う。
 が、アマノジャクな僕は、ココでさらに皆さんを混乱させる解釈を以下に示す事にする。(くっくっくっく……)
 本作でのオープニングカットとエンドカットは、全く同じカットである。構図も人物も全く同じである。(注:ただし、同じフィルム素材ではない)
 ……何故なのだろう?
 これに、何かしらの意味を見出さずにはいられない。
 本作におけるメインテーマが『妄想と現実』ならば、この二つのカットには重要な意味がある。
 そう、本作で語られる現実、すなわち人類が絶滅に瀕する未来社会が、実は全て妄想だったというオチである。
 何故なら、本作のオープニングカットとエンドカットが、『ジェームズ少年の目』だからだ。
 ジェームズ少年の目、すなわち“ジェームズ少年の視点”で、本作をもう一度観てみてもらいたい。そうすると、意外な事実に気付くハズだ。
 そう、ジェームズ少年の視点で本作を見ると、彼に起こった現実は唯一つ。「目の前で“誰かが”死んだ」ただそれだけである。
 すなわち、ジェームズ少年の視点では、人類が絶滅に瀕した未来世界も、12モンキーズも、その謎を追う未来から来た男もいない。初めて空港にやってきた時、何かの事件があり、目の前で誰かが殺されるトコロを目撃した。殺されたのが誰かは分からない。なんで殺されたのかも分からない。撃たれた男に駆け寄る女性が誰かも分からない。
 とにかく、目の前で“誰かが”が殺されたが、ジェームズ少年にとっては、それが未来の自分である事を証明する術はなく、したがってそれが未来の自分であるという現実もないのだ。
 全ては、目の前で“誰かが”殺されたという強烈な経験をした少年が、その現実に想いを巡らせて想像した妄想なのである。
 そして、これを示唆するのが、意図して同じ構図、同じ人物にしたあのオープニングカットとエンドカットなのである。
 少年の目で始まり、少年の目で終わる事で、全てが少年の視点を通して語られた妄想だったというワケである。


 それとは関係ないが、本作は同じ時間軸がループする(注:具体的には、ジェームズ少年が目の前で“誰かが”殺されるのを目撃してから、ジェームズが空港で警官に撃たれるまで)リフレインドラマでもある。
 これを抽象的に示しているのが、本作の随所に見られる円形や回転するモティーフである。
 具体的には、オープニングクレジットの曼荼羅のような回転する12モンキーズのシンボルや、ジェフリーの父親がパーティーを開いた屋敷の螺旋階段、そして、先に紹介したギリアム監督がこだわったハムスター(注:ハムスターが車輪をカラカラ回している)などがある。
 他にもいくつかあるので、ぜひとも映画を観ながら探してみて欲しい。


・Reaction&Estimate

 本作の製作中から、監督やスタッフは本作がヒットするかどうか不安でしょうがなかった。
 ウィリスが出演しているのだから、ある程度の興行収益は見込めるだろうが、それが成功と言えるレベルになるかどうかが分からなかった。
 何故なら、映画を作っている自分達が、この映画を正確に理解出来ていなかったからだ。
 実際、ギリアム監督はメイキングドキュメンタリーなどで「映画を撮っている自分自身が混乱してこの映画が分からなくなる時が何度もあった」と語っているほどである。
 本作は、公開前にワシントンDCで試写会が行われているが、試写会の最中、劇場内が静まり返り、観客が映画に集中している様子を見て、ギリアム監督はこの映画の成功を確信した。ところが、試写会後に回収されたアンケート用紙の結果に愕然となる。
 「ラブロマンスが唐突」、「結末が納得できない」、「ウィリスの映画らしくない」、「ブラピ自重」、「面白くない」等々。
 好評もあったが、批評が圧倒的に目立った。
 ギリアムやローヴェン、ピープルズ夫妻など主要スタッフは、集まってこの結果を話し合った。
 映画を変えるべきか?
 不評だったシーンをカット、あるいは差し替えるべきか?
 しかし、スタジオ側の担当者は、この会議の席上でスタジオ側らしからぬ事を言った。

「映画を変えるな。試写会の観客に惑わされるな。自信を持ってこのまま公開しろ。」

 ギリアムは、その言葉に従った。
 契約した最終編集権を行使する事なく、ほんの僅かな変更だけで、試写会とほとんど変わらないバージョンを劇場公開版として公開したのだ。
 そして、この決断は英断となる。
 マスコミは口々にこの映画を絶賛し、ウィリスやブラピを新境地の演技と評価し、ギリアム監督の才能を芸術的と賞賛した。
 劇場には客が押し寄せ、ファーストウィークの興行収益は、その年の年間ランキングのトップに立った。
 映画はロングランヒットとなり、世界各国でも絶賛され、興行収益は8ヶ月間で総製作費の5倍以上という、誰も予想だにしなかった大成功となった。
 これを裏付けるかのように、本作はゴールデングローブ賞の助演男優賞(ブラッド・ピット)を受賞。サターン・アウォーズでも、最優秀SF映画作品賞、衣装賞(ジュリー・ウェイス)、助演男優賞(ブラッド・ピット)の3冠に輝いた。
 現在でも、本作は『未来世紀ブラジル』と並ぶギリアム監督の代表作として評価されており、本作をキッカケに、ウィリスとブラピは固定イメージに囚われない多彩な演技を様々な作品で見せ、現代を代表するビッグスターとして活躍を続けている。


・Data

12モンキーズ(原題:12Monkeys)

配給:ユニバーサル・ピクチャーズ
出演:ブルース・ウィリス
   マデリーン・ストゥ
   ブラッド・ピット他
原案:『ラ・ジュテ』(クリス・マイケル)
脚本:デヴィッド・ピープルズ
   ジャネット・ピープルズ
音楽:ポール・バックマスター
撮影:ロジャー・プラット
編集:ミック・オーズレー
製作:チャールズ・ローヴェン
製作総指揮:ロバート・キャヴァロ
      ゲイリー・レヴィンソン
      ロバート・コスバーグ
監督:テリー・ギリアム

総製作費:2900万ドル
上映時間:129分
公開年月:1995年12月(日本では96年6月)



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 さて来週は、以前ちょっとだけお伝えした“あの”PCゲームの詳細情報をお伝えする予定です。お楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



きょーのはちゅねさん♪


真剣に悩んでみる。

Th3022 Thanks for youre reading,
See you next week!



-参考資料-
※この記事では、以下のウェブサイトの記事を資料として適宜参照しました。

・ウィペディア日本語版
 検索ワード:12モンキーズ
※この記事の中に、出演者やスタッフのリンクがあります。そちらも合わせてご覧下さい。

・ウィキペディア英語版
 検索ワード:Twelve Monkeys
※日本語版だけでは資料不足だったため、英語版も参照しました。同様にリンクを活用して下さい。


-DVDソフト-
※今回紹介した作品のDVDソフトです。全てアマゾンの商品紹介ページのリンクになっています。ぜひ一度ご鑑賞下さい。

  The perfect collection 12 モンキーズ [DVD]
ブルース・ウィリス,ブラッド・ピット,マデリーン・ストウ
松竹ホームビデオ

※オーディオコメンタリーやメイキングドキュメンタリーを収録した2枚組。一応、まだ在庫はあるようです。

  12モンキーズ [DVD]
ブルース・ウィリス,ブラッド・ピット,マデリーン・ストウ
松竹ホームビデオ

※こちらは本編のみの1枚組版。当然、↑よりも価格は安いです。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

019.In here, with us.b

2008年11月22日 | 映画を“読む”

・Reaction&Estimate

 本作の公開直前に行われたスニークプレヴュー(注:覆面試写会。映画のタイトルや内容を観客に知らせずに行われる試写会の事)で起こった現象は、まさにそのままこの作品を観た全ての観客の評価と反応そのモノであった。
 本作のスニークプレヴューは、アメリカ国内公開の直前に900人の観客を集めて行われたが、映画が進むに従い、観客は驚愕を隠す事なく、絶句した。
 中には席を立ち、通路をフラフラと歩きながら、「Jesus,Jesus」と繰り返し呟く者(注:Jesus=ジーザスはイエスの英語読みだが、ココでは「なんて事だ」、「マジかよ」といった意味)や、気持ち悪くなってトイレに駆け込む者、あるいは気を失って倒れた者までいた。
 同席した関係者たちは、その様子を見て公開中止を本気で検討した。
 しかし、映画が終わって帰ろうとした時、劇場の外に多くの観客が帰ろうともせず立ち話をしているのを目撃した。
 彼らは、この映画を必死に理解しようと、同席した人々とこの映画の事を真剣に話し合っていたのだ。
 映画が公開されるや否や、この作品は瞬く間にヒットチャートを駆け上り、多くの劇場が収容できない観客に映画を見せるため、営業時間を延長して深夜までこの映画を延々と上映し続けた。
 この現象はアメリカ国内に止まる事なく、世界中に飛び火した。
 あまりにも有名なあのカット。
 マクニール家を見上げ、窓から差し込む一筋の明かりに浮かび上がるメリン神父のシルエットは、この映画の代名詞として世界中の映画館に張り出されたポスターにデザインされた。
 同時に、この映画は良識派の人々からは痛烈な批判の対象ともなった。
 この映画を指して、「悪魔の映画」、「神を貶める映画」と声高に公然と批判した有名人も多かった。
 しかし、そうした誰もが、この映画を何とか理解しようと必死になって映画館に足を運び、食い入るように映画に見入った。
 その結果、この映画は世界で総製作費の30倍近い興行収益を上げ、その年のアカデミー賞で10部門にノミネート、内2部門で受賞。さらにゴールデングローブ賞では4部門で受賞という、ホラー映画としては異例とも言える快挙を成し遂げるに至った。
 映画公開後、世界中で空前のオカルトブームが起きる中、二番煎じを狙ったホラー映画が数多く製作され、公開された。
 特に80年代に入ると、『13日の金曜日』シリーズや『エルム街の悪夢』シリーズがヒットし、ジョージ=A・ロメロ監督のようなゾンビモノを手がける監督も増えた。
 中には、明らかにこの映画に強い影響を受けていると思われる『エンゼル・ハート』のような作品もあった。
 さらに、『エイリアン』を監督したリドリー・スコット監督や、『フライング・キラー』を監督したジェームズ・キャメロン監督、『エルム街の悪夢4』を監督したレニー・ハーリン監督など、後の世界的ヒットメーカーとなる映画監督もおり、ホラー映画は、ヒットメーカーを目指す新米監督の登竜門になった。
 しかし、彼らの手腕を以ってすら、この映画を超えるホラー映画を作る事は出来なかった。
 90年代に入っても、その状況に変化は無く、『セブン』や『ザ・セル』、『ブレアウィッチ・プロジェクト』や『キューブ』のような傑作がいくつも公開されたが、やはりどれも本作を超える作品には成り得なかった。
 しかも、21世紀に入って間もなく、この映画は“伝説”となる。
 73年の劇場公開版に未公開シーンを加えた完全版、『エクソシスト:ディレクターズカット(原題:THE EXORCIST:The Version You’ve Never Seen)』の劇場公開である。
 これは、73年の劇場公開直後からウワサになり、1998年の25周年記念版DVDに特典映像として収録された未公開シーンを加えて再編集されたモノで、トータル約10分の未公開シーンが追加されたバージョンである。(注:よく、追加された未公開シーンは“15分”とされる事があるが、実際に追加されたのはその内の10分分である。このディレクターズカット版でも追加されなかった未公開シーン――クリスとリーガンがワシントン観光をするシーンや、例のスパイダーウォークのシーンに続いてリーガンがクリスとシャロンに襲い掛かるシーンなど――が5分ほどある)
 このバージョンを観てもらえば分かると思うが、このバージョン最大の話題となった例の“スパイダーウォーク”のシーンは、ウワサになっていたほど迫力のシーンではない。実際、迫力が足りなかったからか、リーガンの口元にCGで鮮血が描き加えられているほどで、前後のカットとのつながりも不自然である。
 このシーンが73年版からカットされたのは、シーン構成に問題があり、唐突過ぎて不自然だったからだ。何も、“封印バージョン”と呼ぶほど怖かったからではない。(注:これは、フリードキンやブラッティも認めている事。映画会社が、こういうアオリ文句を入れた方が映画が売れると思ったからだと僕は想像する)
 それよりも重要なのは、リーガンとクリスが離婚した父親に向けたボイスメッセージをカラス神父が聞いているシーン(注:このシーンの背景に注目! 壁に貼られた文字が面白い)や、73年版ではごっそりカットされたリーガンが初めて病院で検査を受けるシーン(注:検温や採血といった簡単な検査ばかりだが、このシーンのブレアの演技は凄まじく素晴らしい)、悪魔祓いの儀式に入る直前、メリン神父がクリスにリーガンのミドルネーム(注:洗礼名)を訊ねるシーンや儀式の途中でメリン神父とカラス神父が話すシーンなど、この作品のテーマを理解するのに極めて重要なシーンが数多く追加され、この映画の解釈を容易にしている点である。
 さらに言うなら、73年版とは全く異なる構成なって議論を呼んだラストシーンも重要である。
 73年版では、クリスはシャロンが拾ったカラス神父のネックレス(注:映画の冒頭の遺跡発掘のシーンと、中盤のカラス神父の夢のシーンにも登場するが、カラス神父はいつ、これをメリン神父から受け取ったのだろう?)を、去り際にダイアー神父(注:カラス神父の同僚で親友。この役を演じたウィリアム・オマリーは、バーミンガム神父同様ホンモノの神父である)に渡すが、ディレクターズカット版では、ダイアー神父がこれをクリスに返すカットが加えられている。
 また、キンダーマン警部がダイアー神父を映画に誘うシーンが加えられ、73年版の階段を去るダイアー神父のカットで終わるのとは打って変わって、非常に明るい終わり方で映画を締めくくっていたりする。
 僕個人としては、73年版もディレクターズカット版もどちらも好きなので優劣は付けられないが、ラストシーンの構成に関しては、映画の解釈が変わる恐れがあるような気がしてとても心配である。
 いずれにせよ、最早映画史上の“伝説”となったこの作品は、既に公開から35年を迎えた今日にあっても色褪せる事なく、観客に極めて重要なメッセージを投げかける名作である事に変わりはない。
 だからこそ、この映画はオカルトホラーの“金字塔”に成り得たのだと、僕は思う。


・Data

エクソシスト(原題:THE EXORCIST)

配給:ワーナー・ブラザーズ
出演:エレン・バースティン
   ジェイソン・ミラー
   マックス=フォン・シドー
   リー=J・コッブ
   ジャック・マッゴーラン
   リンダ・ブレア他
原作:ウィリアム=ピーター・ブラッティ
脚本:ウィリアム=ピーター・ブラッティ
音楽:マイク・オールドフィールド(メインテーマ)
   ジャック・ニッチェ(追加音楽)
撮影:オーウェン・ロイズマン
   ビリー・ウィリアムズ(イラクシークエンス)
編集:ノーマン・ガイ
   エヴァン=A・ロットマン
   バド=S・スミス
製作:ウィリアム=ピーター・ブラッティ
製作総指揮:ノエル・マーシャル
監督:ウィリアム・フリードキン

総製作費:1200万ドル
上映時間:122分(ディレクターズカット版は132分)
公開年月:1973年12月(日本では73年7月)



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 さて来週は、え~っと、……なに書こう?
 とにかくお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



きょーのはちゅねさん♪


はちゅねさんシンコペーション


Thanks for youre reading,
See you next week!



-参考資料-
※この記事は、以下のウェブサイトの記事を資料として適宜参照しました。

・ウィキペディア日本語版
 検索ワード:エクソシスト(映画)
※この記事の中に、出演者やスタッフのリンクがあります。そちらも合わせてご覧下さい。

・ウィキペディア英語版
 検索ワード:The Exorcist(film)
※日本語版だけでは資料不足だったため、英語版も参照しました。同様にリンクを活用して下さい。


-DVDソフト-
※今回紹介した作品のDVDソフトです。全てアマゾンの商品紹介ページのリンクになっています。ぜひ一度ご鑑賞下さい。


エクソシスト 特別版 [DVD]
リンダ・ブレア,エレン・バースティン,マクス・フォン・シドー,ジェイソン・ミラー,リー・J・コッブ
ワーナー・ホーム・ビデオ

※公開25周年記念して1999年にリリースされた73年版のデジタルリマスター版。98年に放送されたイギリスBBC放送製作の25周年記念ドキュメンタリー番組が特別収録されている。また、両面デュアルレイヤー仕様という、現在では決して見る事が出来ない珍しい仕様の数少ないDVDソフト内の一つでもある。(注:このアイテムは中古のみです。予めご了承下さい)

エクソシスト ディレクターズカット版 [DVD]
エレン・バースティン,リンダ・ブレア,ジェーソン・ミラー,マックス・フォン・シドー
ワーナー・ホーム・ビデオ

※2001年公開の完全版。特典映像はないが、フリードキン監督による音声解説が収録されている。

エクソシスト プレミアム・ツイン・パック [DVD]
エレン・バースティン,リンダ・ブレア,ジェーソン・ミラー,マックス・フォン・シドー
ワーナー・ホーム・ビデオ

※73年版とディレクターズカット版の2枚組。特典映像などはなく、音声解説のみ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

019.In here, with us.a

2008年11月21日 | 映画を“読む”

-Movin' Movies #02-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 とうとう出ましたね! Valve社の最新作、『Left 4 Dead』!

Blog0147  いや~、Valveの事だからまた延期になるんじゃないかとヒヤヒヤモノでしたが、最初の予定から“僅か”半年遅れでちゃんと年内にリリースされました。よかったよかった。
 とある街で突如蔓延した謎の奇病。感染した者が非感染者を襲い、感染を広げていき、気が付けば、街は感染者で溢れかえっていた。
 そこに取り残されてしまった4人の男女。職業も年齢も生い立ちもバラバラの4人は、銃を手に取り街からの脱出を試みる。
 生き残るために。
 襲い来る“ヤツら”を、“治療”しながら……。
 L4Dは、4人のプレーヤーによる協力プレイをメインにしたマルチプレイ対応のオンラインFPSで、4種類のキャンペーン(注:4種類の異なるシュチエーションで展開される連続する5つのマップを順に進み、街からの脱出を目指すモード)で展開される20種類のマップで10種類の武器を使い分けながら、4人が協力して進めていくゲームデザインは、CS:SやTF2とはまた一味違ったゲーム性を持っています。
 僕もSteamDLで買ったんですが、予約購入するとトライアル版がプレイ出来るようになるとの事で、思わず予約購入してしまいました。(笑)
 で、トライアル版をやってみたんですが、“ヤツら”(注:設定上、本来のゾンビとは異なるためあえてこのように呼ばせて頂く。ちなみに、バイオハザードの設定とも異なる)の数がとにかく多い! 瞬間最大で言えば、ヘタすると100体を超えるヤツらを相手にする事もしばしば。しかし、それをSMGやアサルトライフルでバッタバッタとなぎ倒していく様は爽快の一言! クセになりそうな面白さがあります。
 ただし、トライアル版は日本語表示が不完全で、全角――2バイト文字――の表示にちゃんと対応出来ていなかったんです。
 完成版では直ってるといいなぁ~、と思っていたんですが、完成版でもやっぱり微妙におかしい。今後のバグFixを期待します。まあ、ゲームプレイそのモノには全く影響はないんですが……。
 とは言え、日本語表示に関しては、オープニングムービーに日本語字幕が付くようになったのは評価して然るべきだと思います。(注:トライアル版では字幕表示機能そのモノがなかった)
 それと、トータル51種類のアワード機能(注:実績機能。特定のシュチエーション、あるいは特定の行動が規定数に達するとフラグが立って実績が解除される。成績表みたいなモノ)があるんですが、これ、全部解除できる人なんかいるのか? ……いや、きっといるんだろうな。僕にはムリっぽいですが。(^ ^;) ちなみに、僕は今のところシングルプレイ(注:BOTとプレイするシングルプレイモードがある。内容はオンラインのキャンペーンモードと同じ)でノーマーシーのキャンペーンしかやってませんが、HS100Killは達成しました。
 てゆーか、フレンドさんに聞いたら既に日本国内だけでも70以上のサバが建ってるそうですが、どこも一杯で入れない状況らしいです。
 つか、その人も自分でサバを建てているそうですが、そこすら建ててモノの数秒で満員になってしまい、自分のサバなのに入れない状態らしいです。(笑)
 いずれにせよ、これは中々遊べそうなゲームです。オススメです。
 昔ながらのゾンビモノの定番設定やシュチエーションを踏襲しながら、独自の世界観によって展開される新感覚のスプラッタFPS! 今年最後の注目のPCゲームは、現在SteamDLとパッケージ(販売元はEA)で“絶・賛・感・染・中”です!


LEFT4 DEAD 日本語版【for PC】

 ちなみに、箱○版もあります。( ↓ )
LEFT4DEAD【for X-BOX360】

※注:まだ情報が揃っていないので、詳細はいずれまたご紹介します。



 それはさて置き、今週は久々の『映画を“読む”』コーナーの第2回をお届けします。
 僕はホラー映画が好きで、ゲームでもホラーモノは色々やってきましたが、ゲームはもちろん映画でも、今回ご紹介するこの作品を超えるタイトルに出会った事がありません。
 その凄まじいまでのインパクトと徹底したリアリズム、そして卓越した恐怖演出は、今観ても色褪せる事のない輝きを放ち続けており、公開から既に35年を経過した今なお、オカルトホラーの最高峰に君臨し続けている金字塔。
 それが今回ご紹介する映画、ウィリアム=ピーター・ブラッティ原作、脚本、製作。ウィリアム・フリードキン監督作品、『エクソシスト』(原題:『THE EXORCIST』)です!

※注:以下には、映画『エクソシスト』の重大なネタバレが多々含まれています。未鑑賞の方は、先に映画本編を鑑賞される事をオススメします。


・Story

 中東、イラク北部――。
 イエズス会の神父であり考古学者であるメリン神父は、古代遺跡の発掘調査のためかの地を訪れていた。
 そこで彼は、地中から恐ろしい形相をした偶像と思われる像の一部を見つける。
 順調に調査を進めるも、しかし高齢で心臓の病にかかっている事もあり、メリン神父は本の執筆を理由にアメリカに帰国する。
 同じ頃のアメリカ。
 ワシントン州、ジョージタウン――。
 映画女優であるクリス・マクニールは、長期に渡る映画撮影のためにこの地に居を構え、一人娘のリーガンと共に暮らしていた。
 ある夜、彼女は屋根裏部屋から聞こえてくる奇妙な物音を耳にする。ネズミでもいるのかと思った彼女だったが、その気配はなかった。
 時を同じくして、同じジョージタウン。
 聖マイケル病院で心理カウンセラーとして働くダミアン・カラスは、イエズス会の神父でもある。
 ニューヨークの下町で一人暮らしを続ける母を心配する彼は、その心労と仕事の重責に悩み、信仰心すらも失い、親友で同僚のダイアー神父や上司に相談する。
 別々の場所で別々の人々によって展開される別々の人生。しかし、それが同時に起こった時、時としてそれらはある種の必然性を以って、一つに結実する。
 クリスの娘で12歳になったばかりの少女リーガンは、ある日「ベッドが揺れて眠れない」と言い、クリスのベッドに潜り込んで眠っていた。
 体の異常かと思ったクリスは、リーガンに病院での精密検査を受けさせるが、検査中の彼女の様子を聞かされ、驚愕する。
「検査中は卑猥語の連発でしたよ。」
 次第に奇行が目立ち始めるリーガン。
 不安を募らせるクリス。
 始まりは、何気ない少女の一言。
 だがしかし、それは次第に、だが確実に、リーガンを支配していく。
 リーガンを乗せたまま踊り狂うベッド。
 部屋中の物や家具が宙を舞い、部屋は異常なまでに気温が下がり、リーガンは、その顔つきや声までも、まるで人が変わったように醜悪になっていく。
 医者はサジを投げ、精神科医もお手上げになった時、クリスは精神科医に一つの提案を受ける。
「“悪魔祓い”はご存知ですか?」
 既に満身創痍のクリスは、ワラにもすがる想いでこれに飛びつく。
 そうして、紹介を受けたカラス神父に、クリスは思い切ってリーガンの現状を打ち明ける。
 最初は悪魔祓いを渋ったカラス神父だったが、ある日マクニール家のベビーシッターであるシャロンに呼ばれ、リーガンの部屋を訪れたカラス神父は、リーガンの腹部に表れた文字に驚愕する。

“Help me(助けて)”

 かくしてカラス神父は、ついに悪魔祓いを決断し、悪魔祓いの経験を持つ老神父、メリン神父と共に悪魔祓いの儀式に挑む。
 映画最大の山場である悪魔祓いの儀式のシーンは、実際に執り行われる儀式に基いた徹底したリアリズムと、映画製作当時の最高峰の技術を駆使した特殊効果により、凄まじいまでの迫力と緊張感を持った善と悪との死闘を描いた映画史上屈指の名シーン。
 悪とは何か? 信仰とは何かを問うテーマとストーリーは、フリードキン監督によるドキュメンタリータッチの演出により、観客に極めて重要な疑問を投げかける。
 公開当時、“悪魔の映画”と呼ばれながらも世界中で大ヒットを記録し、世界的な空前のオカルトブームの火付け役となったこの作品は、間違いなく映画史上最高のホラー映画だ!


・Cast&Staff

エレン・バースティン/クリス・マクニール

 映画女優でありリーガンの母親でもある本作の主人公、クリスを演じるのは、確かな演技力を持つエレン・バースティンである。
 1964年の銀幕デビュー以前から多くのTVシリーズに出演していたが、1971年の『ラスト・ショー』で初めてオスカー候補(助演女優賞)になると、73年にも本作で続けて主演女優賞でオスカー候補となり、74年の『アリスの恋』で、ついに念願の主演女優賞を受賞する。
 その後は、主にTVシリーズの出演が多くなるが、こちらでも毎年のようにゴールデングローブ賞にノミネートされ、確かな地位を築いている。
 映画では、近年『キルトに綴る愛』(95年)や『ミセス・ハリスの犯罪』(05年)にも出演しており、円熟した演技で魅せている。


ジェイソン・ミラー/ダミアン・カラス神父

 ニューヨーク出身という事もあってか、元々はブロードウェイの舞台に立つ舞台俳優で、自身が脚本を書いた戯曲、『That Championship Season』では、トニー賞やニューヨーク劇評論家協会賞、果てはピューリッツァー賞までも受賞するほどの名優だった。
 この舞台を見たフリードキン監督にスカウトされ、本作で銀幕デビューを果たし、いきなり助演男優賞でオスカー候補になる。
 その後、TVや映画、舞台でも活躍し、90年には本作の正統な続編として製作された『エクソシスト3』(注:本作の原作、脚本、制作のウィリアム=ピーター・ブラッティが脚本と監督を務めた作品。フリードキン監督が製作を務めた『エクソシスト2』のあまりにヒドい出来にブラッティが自ら申し出て製作された。ちなみに、『エクソシスト2』はリンダ・ブレアが再びリーガン役で出演している本作の後日談的な内容だが、本作との関連は薄く、確かに駄作と言わざるを得ない内容。『エクソシスト3』は、キンダーマン警部を主人公にしたサイコスリラー的な作品。駄作ではないが、本作の続編を名乗るにはやや役不足なカンジ)に同じカラス神父役で出演している。
 2001年、本作のディレクターズカット版公開後、ペンシルベニアの自宅で静かに息を引き取った。享年62歳だった。
 ちなみに、彼の息子は現在も映画界で活躍している映画俳優。『スピード2』、『スリーパーズ』(共に98年公開)で主演したジェイソン・パトリックである。


マックス=フォン・シドー/ランカスター・メリン神父

 スウェーデン生まれのシドーは、主に舞台で活躍する舞台俳優だったが、映画監督のイングルマル・ベルイマンと知り合い、11作品でコンビを組み、スウェーデン映画界の有名人となる。
 1965年、ジョージ・スティーブンス監督の『偉大な生涯の物語』という作品でキリスト役に抜擢されハリウッドデビュー。本作出演後は、『エクソシスト2』(77年)で再びメリン神父(回想シーンで登場する)を演じ、82年にはアーノルド・シュワルツェネガーの『コナン・ザ・グレート』や、84年の『砂の惑星』、90年の『レナードの朝』、95年にはシルベスタ・スタロ-ンのSFアクション『ジャッジ・ドレッド』にも出演し、高齢ながら精力的な活動を続けている。


リー=J・コッブ/ウィリアム=F・キンダーマン警部

 ニューヨーク出身。
 ジェイソン・ミラーと同じくニューヨーク出身のコッブは、1930年代からブロードウェイの舞台に立ち、49年の『セールスマンの死』という作品で注目された舞台俳優である。
 前後して映画にも出演している彼は、40年以上のキャリアの中で多数の映画やテレビドラマに出演し、本作でも見せているような飄々として掴み所のない、だが憎めないキャラクターを演じ、彼の演技に影響を受けたピーター・フォークは、TV映画シリーズ『刑事コロンボ』シリーズで同じように飄々として掴み所のない、だが憎めないキャラクターであるコロンボ警部を好演している。
 ちなみに、コロンボ警部の有名なセリフ、「いやぁ~、アタシのカミさんがね?」で始まるカミさんネタは、キンダーマン警部が本作中にカラス神父を映画に誘う時、「妻は疲れるので観ないんです」というセリフに着想を得たものだと言われている。
 本作出演後、76年に出演した『Nick the Sting』という作品が遺作となった。享年64歳。


ジャック・マッゴーラン/バーク・デニングス

 アイルランド出身。
 キンダーマン警部とは対照的に、やる気があるんだかないんだか分からない自己中心的な性格の映画監督、バークを演じたマッゴーランは、彼もまた舞台俳優出身である。
 親友の劇作家、サミュエル・ベケットの作品に多数出演し、それもあって『ベケットの作品の中のマッゴーラン』という一人芝居の舞台に出演。これが好評を博し、70年と71年のオビー賞主演男優賞を受賞。
 52年のジョン・フォード監督作品、『静かなる男』に出演したのをかわきりに、映画と舞台で多くの作品に出演。名脇役としての地位を確かなモノにする。
 しかし、本作出演直後、予期せぬ事故に遭い、映画の公開を待たずに他界。享年54歳の早過ぎる死は、当時“映画の呪い”と噂され、この映画の宣伝に一役買ったのは皮肉と言えるだろう。


リンダ・ブレア/リーガン・マクニール

 本作で最も重要な役であるリーガン役を演じたのは、約600人の子役の中から選ばれたリンダ・ブレアである。
 既に70年に端役で映画出演を果たしていたものの、当時はTVCMやモデルとしての方が知名度が高く、映画でもTVでも子役として注目される事はなかった。
 それもあってか、彼女の所属する事務所は、本作の候補者リストに彼女の名前を入れてはいなかった。彼女をオーディションに連れてきたのは、オーディションの話しを聞いた彼女の母親だった。
 しかし、オーディションで彼女は最高の演技を見せ、リーガン役を射止める。そして、映画を観てもらえば分かる通り、とても子役とは思えないほどの貫禄のある確かな演技を見せ、本作でゴールデングローブ賞の助演女優賞を受賞。オスカー候補にも選ばれている。
 本作出演後、プライベートでごたごたがあったりもしたが、77年には『エクソシスト2』に同じ役で主演。90年には、レスリー・ニールセン主演の本作のパロディ作品、『裸の十字架を持つ男』にも出演している。
 成人してからは、あまり目立った活躍をしていない彼女だが、子役時代の彼女の演技には眼を見張るモノがあり、本作はその中でも突出した評価を得る事になった作品と言えるだろう。
 ちなみに、96年には端役で『スクリーム』にカメオ出演している。同作品は、同じく名子役として名を馳せたドリュー・バルモア(子役としては『E.T.』、『ポルターガイスト』が有名。『チャーリーズ・エンジェル』シリーズに出演したのも記憶に新しい)も出演しているウェズ・クレイブン監督(『エルム街の悪夢』の1作目の監督)作品。


ウィリアム=ピーター・ブラッティ/原作・脚本・製作

 本作の原作、脚本、そして製作を務めたブラッティは、ホラー作家と思われる事が多いが、実はそうではない。
 1960年代には、『地上最大の脱出作戦』や『暗闇でドッキリ』(『ピンク・パンサー』シリーズの2作目)など、コメディを数多く手がけており、『ピンク・パンサー』シリーズで有名なブレイク・エドワーズ監督の作品で共同製作を務めた事もしばしば。
 しかし、60年代末にコメディ映画がヒットしなくなり、食い詰めたブラッティは、コメディ以外のジャンルも書ける事を証明すべく、これまでに手がけた事がない、シリアスなドラマが展開できるモティーフを探した。
 その時思い出したのが、大学の授業で聞いた悪魔祓いの儀式の話しだった。
 これを作品にするため、ブラッティは高校時代の恩師であり、イエズス会の神父でもあるトーマス・バーミンガム神父(映画では、カラス神父の上司のトーマス神父役で特別出演している)に協力を仰ぐ。
 バーミンガム神父は、「キミが興味本位ではなく、真面目にこの問題に取り組むのなら協力しよう」と言って、悪魔や悪魔祓いの儀式についてをブラッティに教授した。
 そうして、ブラッティは1971年、一冊の本を書き上げ、出版する。
 それが、本作の原作となった小説『The Exorcist』である。
 この作品は、出版されるやいなや瞬く間にベストセラーとなり、ニューヨーク・タイムズ誌のベストセラーリストに、実に55週(1年以上)に渡ってリストアップされ続けるほどの人気作になった。
 本作では、ブラッティは脚本と制作を手がけ、73年度のゴールデングローブ賞とアカデミー賞において、脚本賞を受賞している。
 本作後は、自身が手がけた小説『Twinkle, Twinkle, Killer Kane』の映画化作品、『The Ninth Configuration』で監督デビューを果たし、再び自身で原作(小説のタイトルは『Legion』)と脚本を手がけた前出の『エクソシスト3』も監督している。


ウィリアム・フリードキン/監督

 本作における徹底したリアリズムとドキュメンタリータッチの演出は、まさに監督のフリードキンの真骨頂と言えるモノである。
 フリードキンは、10代の頃にTV局にメッセンジャーボーイとして就職するが、わずか2年で実況録画の演出を務めるまでになる。
 その後、TV業界で2000本以上のTV番組やドキュメンタリーでプロデューサーや監督を手がけ、数多くの賞を受賞。この頃に養われた感性が、後の映画製作に大いに役立つ事になる。
 67年に『グッド・タイムス』という作品で映画監督デビューを果たしたフリードキンは、71年、自身のキャリアの中でも重要な転機となった作品、『フレンチ・コネクション』(注:ロビン・ムーア原作のハードボイルドサスペンス。ジーン・ハックマン、ロイ・シャイダー、フェルディナンド・レイなど、名だたる名優が出演した、実際の事件を基にした作品)を監督。その卓越した演出が高く評価され、71年度のアカデミー賞において、同年最多の5部門制覇(作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、主演男優賞)を達成する。
 その実績を買われて、フリードキンは本作の監督に抜擢され、持ち前の徹底したリアリズムとドキュメンタリータッチの演出により、本作を単なるオカルトホラーではなく、深く重要なテーマを明確に描いたドラマティックな作品に仕上げる事に成功した。
 これにより、本作はホラー映画としては極めて異例とも言えるアカデミー賞10部門ノミネート(内2部門で受賞)、ゴールデングローブ賞4部門受賞という快挙を成し遂げた。(注:ホラー映画やSF映画は、ゴールデングローブ賞はともかく、アカデミー賞では全くと言っていいほど評価された試しがない。近年でもその傾向は強く、ノミネート止まりで受賞に至るケースは少ない。世界的なヒットメーカーであるスティーブン・スピルバーグは、『未知との遭遇』や『ジョーズ』、『E.T.』や『インディ・ジョーンズ』シリーズで世界的な大ヒットを記録しながらも、オスカーとの縁はなく、初めて作品賞と監督賞を受賞したのは、歴史ヒューマンドラマモノの93年公開作品、『シンドラーのリスト』だった)
 本作監督後は、残念ながら彼の得意とする演出を生かせる脚本と出会う事が出来ず、ヒット作に恵まれていないが、それでも2000年の『英雄の条件』(サミュエル=L・ジャクソン、トミー=リー・ジョーンズ主演の法廷サスペンス。人種差別をテーマにした作品)のような問題提起的な作品に果敢に挑戦しているのは、彼のドキュメンタリー監督時代の精神が失われていない証拠だろう。


・Behind the Scene

 本作は、ブラッティが71年に出版した同タイトルの小説作品が原作である。
 コメディ映画の脚本や製作を数多く手がけたブラッティだったが、コメディ映画市場に陰りが見え始め、仕事が来なくなってしまう。
 食い詰めたブラッティは、自分がコメディ以外のジャンルも書ける事を証明すべく、シリアスでドラマティックな作品のモティーフを探した。その時ふと思い出したのが、大学時代に授業で聞いた実際に起きた悪魔祓いの儀式の話しだった。
 時は1949年。場所はアメリカ、メリーランド州。
 14歳の少年が、ある日突然人が変わったように暴れだし、その奇行は日を追って酷くなっていった。ポルターガイスト現象や体に文字が浮かぶ現象(注:どちらも本作の中で忠実に再現されている現象)が確認され、イエズス会の神父によって悪魔祓いの儀式が行われた事件である。
 49年当時、ワシントンポスト誌にも記事が掲載されたほどの有名な事件だが、ブラッティはこの事件を調べる内に、そこに映画のモティーフとなり得る人類に共通した心理的テーマを見出し、これを小説化する事を決意する。
 しかし、悪魔祓いについて新聞記事だけではあまりに知識不足と感じたブラッティは、ここである重要な人物の事を思い出す。
 それが、高校時代の恩師であるトーマス・バーミンガム神父(注:本作ではテクニカル・アドバイザーを務め、映画本編にもカラス神父の上司役で出演している)だった。
 バーミンガム神父は、モティーフに対して神父という立場上、中途半端なスタンスで作品化するのを渋った。しかし、“悪”の概念に対する問題をストレートに取り上げる事ができるまたとないチャンスである事に変わりはなく、バーミンガム神父はブラッティに釘を刺す。
「キミが真面目に取り組むなら手を貸そう。」
 2人で1年以上も検討を重ね、ブラッティはこれをまとめ上げ、一つの作品を仕上げる。
 こうして出版された小説版『エクソシスト』は、瞬く間にベストセラーとなり、1年以上もの間売れ続ける超ロングセラー作品となった。
 しかし、映画化には困難が付きまとった。
 そもそも、小説を書いたブラッティ自身が、書き上げたはいいが、コレは果たして映画化に向いているのか? いやそれどころか、映画化出来るのかどうかすら、分からなかったからだ。
 映画化を前提として書いた小説なのに、それが映画になるのかどうかの判断が、自分自身で出来なかったのだ。
 映画会社に作品を売り込むブラッティ自身がそんな状態だから、当然のように映画会社も採用を見送った。売り込みに行ったほとんど全てのスタジオが、不採用の判断を下したのだ。
 そこでブラッティは、この作品の根底にある心理的テーマを誠実に映画として描ける宗教的偏見のない映画監督を探す事にした。
 そこで白羽の矢が立ったのが、フリードキンである。
 フリードキンは、当時『フレンチ・コネクション』で大成功を収めたばかりだったが、この作品が単なるオカルトホラーに止まる事のないテーマを描いた作品である事を見抜き、監督契約を交わした。
 この時既に、ブラッティは映画用の脚本を書き上げており、契約書にサインしたばかりのフリードキンにこれを読ませた。が、フリードキンはこの脚本をあっさりNGにする。
 映画を意識したブラッティの脚本は、象徴的なセリフや強調が多く、小説本来のテーマが薄れていたのだ。
 フリードキンは、原作小説で映画に使えそうなシーンをピックアップし、ブラッティに脚本の書き直しを指示する。
 監督がフリードキンに決まった事で、ワーナー・ブラザーズが映画化にGOサインを出した。脚本が書き上がり、予算やキャストやロケーション、スタッフや撮影スケジュールが決まり、映画はようやく撮影を開始した。
 映画の撮影は、主にワシントンのロケとニューヨークのスタジオで行われた。
 しかし、唯一の例外として、映画の冒頭のイラク北部で遺跡発掘をするメリン神父を追うシーンの撮影は、実際にイラク国内にスタッフとキャストが赴き行われた。(注:当時は、今ほどアメリカとイラクの関係が悪くなかったので撮影が可能だった。現在ではもちろん不可能な事。たとえ政治とは関係のない事でも、許可を得るのが難しいほど、現在の世界情勢は悪化の一途をたどっている証拠と言える)
 ワシントンのロケでは、屋外のシーンや一部の屋内のシーンが主に撮影された。物語の舞台となるマクニール家も、実際にジョージタウンにある家が使われた。ただし、実際の家は二階建てで、三階部分はこの家の隣に建てたセットである。
 また、映画のクライマックスの重要なロケーションであるあの階段は、現在もジョージタウンに実在している階段で、かつてはヒッチコックの作品(注:どの作品か忘れた。調べ切れなかったっス。すまぬ……)にも登場した有名な階段で、当時は“ヒッチコック・ステップ”と呼ばれていたが、本作公開後は、現在に至るまで“エクソシスト・ステップ”と呼ばれている。階段の周囲の壁には、この地を訪れた多くの“巡礼者”によるラクガキが書き込まれている。
 ちなみに、この階段は95段もある長い階段だが、撮影のために実際にスタントマンがこの急な階段を転げ落ちた。スタッフは、スタントマンの保護のために、町中から買い集めたゴム板を全ての段に貼り付けなければならなかった。(注:映画本編をよーく観ると、階段にゴム版が貼り付けられているのが確認出来る。キンダーマン警部が階段を調べるシーンと見比べてると、階段のディテールが全く違う事に気付くハズだ)
 さらにニューヨークのスタジオでは、主に室内のシーンが撮影された。
 特にマクニール家の三階、リーガンの部屋は、極めて特別な構造のセットが用意された。
 映画の中では、リーガンの部屋は恐ろしく寒く、息が白くなるほどだったが、今と違ってCG技術がなかった当時は、白い息を撮影しようと思ったら本当に寒い場所で撮影するしかなかった。
 そこでスタッフは、スタジオ内に巨大な保冷庫を作り、その中に部屋のセットを組んだ。しかもこのセットは、タイヤで支えられており、必要に応じてセットを丸ごと揺らす事が出来るようになっていた。
 しかしこの保冷庫セットは、確かに一晩中冷やし続けると床やベッドに薄っすらと霜が降りるほど寒く出来、実際に白い息を撮影出来たが、撮影の際に照明用のライトで中を照らすと、キセノンライトの熱で気温が上がり、白い息が次第に薄くなってしまうほどだった。(注:これも、映画本編をよーく観てもらえば分かる。カットによって息の白さが濃かったり薄かったりしてまちまちである)
 そのため、一晩中冷やしても撮影に使える時間は数時間しかなったらしい。
 また、リーガンを演じたリンダ・ブレアは、設定上厚着が出来なかったため、薄いナイティだけで撮影をこなした。
 ただし、照明の調整などの際は、背格好が似ているスタントのアイリーン・ディーツが代役となってセッティングを行い、実際には撮影の時だけブレアが演じるという方式を取っている。(それでも大変な撮影だった事に変わりはない)
 本作では、ポルターガイスト現象(タンスや椅子がひとりでに動き、ベッドが宙に浮いたりする現象)の特殊効果のために、様々な特殊効果装置が必要だった。
 しかし、本作の特殊効果を担当したマルセル・ヴェルコテレは、これらの装置を巧みなアイディアを駆使して次々と作り出し、インパクトのある映像表現に大いに貢献した。
 さらにこの作品では、特殊効果と共に特殊メイクも重要だった。
 悪魔に取り憑かれた少女を、いかに醜く変貌させるかは、最後まで難航した。
 特殊メイクを担当したディック・スミスは、とりあえず2、3のアイディアを出し、その特殊メイクを実際にブレアに施し、テスト撮影をしてフリードキンに見せた。が、これらはことごとくNGとなった。何故なら、変貌と言うよりは本当に全くの別人になってしまっていたからだ。
 しかしフリードキンは、ある時ふと思いつき、その思いつきをスミスに試してみるように指示した。
 その思いつきとは、ブレアの顔に“傷”を負わせる事だった。
 こうして出来上がったのが、あの醜くミミズ腫れのように歪んだ醜悪な生傷である。
 さらに、これの効果を高めるため、ヘビのような舌や白目だけのコンタクトレンズなどが追加され、愛らしい少女の顔は、まさに悪魔に取り憑かれたとしか思えないような醜悪な姿へを変貌させられた。
 その効果のほどは、映画を観ての通りである。
 ちなみに、悪魔に取り憑かれたリーガンが、カラス神父の顔にぶっかけたあの緑色のゲロは、特殊メイクの下に口の中まで伸びる極薄の管から送り込まれたそら豆のスープだそうだ。
 実際には、編集の段階で光学的処理が加えられ、ドロドロとしたいかにも汚らしいスライムのような液体になっているが、そら豆をすりつぶして煮たスープなので、口に入っても安全である。
 しかし、味の方はどうだったのだろう?(笑)
 また、リーガンが悪魔に取り憑かれた時に彼女が発するあの不気味な声だが、当時は音声加工技術も未熟で、ボイスチェンジャーなどではあのような声を出すのは不可能だった。
 そこでフリードキンは、マーセデス・マッケンブリッジという女優(1949年デビュー。50年代から70年代にかけて活躍した女優で、79年には『エアポート'79』に出演している)を雇い、彼女にタバコをガンガン吸わせ、生卵を飲ませたりしてノドを潰させた。その結果、男とも女ともつかない、それどころか、まるで複数の人間が同時に喋っているかのような複雑な声が出るようになり、この状態で声を録音し、吹き替えさせたそうだ。
 ちなみに、彼女のノドは、その後無事回復した。
 さて、本作を語る上で欠く事が出来ない要素と言えば、やはりあの音楽だろう。
 本作を観た事がない人でも、誰もが一度は聴いた事があるであろうあまりにも有名なあのテーマ曲だが、実は本来はこの作品のために書き下ろされたスコアトラックではない。
 元々、本作ではコンポーザーによるオリジナルスコアを使用する予定で、アーティストも決まっていたが、彼が書いてきた楽曲を聴くや否や、フリードキンはそのあまりにヒドい出来に怒り狂い、録音したカセットテープをスタジオの駐車場に投げ捨ててその場で彼をクビにしてしまった。
 そしてフリードキンは、音楽担当にある新人アーティストのレコードを買ってくるように指示した。
 レコードのタイトルは『Tubular Bells』。アーティストは、その年このアルバムでデビューしたばかりのイギリス人アーティスト、マイク・オールドフィールドである。
 まさに本作のために書かれたとしか思えないほど、映画のイメージを明確に音楽で表現したこの楽曲は、実は本作とは何の関係もないアーティストによって書かれた楽曲だったのである。
 スタジオ側は、この楽曲の使用権を買い、映画のメインテーマ曲として使用された。(注:最終的に、この楽曲は映画の中で都合3回流れる。ただし、後のディレクターズカット版では2回目がカットされている。また、この映画のサウンドトラック盤は、この楽曲を含めたバージョンがディレクターズカット版の公開に合わせてリリースされている)


・Point of View

 さて、本作のテーマは? と問われたら、皆さんはどう答えるだろうか?
 善と悪との戦い?
 それとも信仰と不信心の対立?
 あるいは否定的に観て、大々的な宗教的プロパガンダと観る人や、キリスト教的世界観の偏見と観る人もいるかもしれない。
 あるいはのん気な人は、下町人情ドラマと思うかもしれない。
 確かに、この作品と宗教的世界観は切っても切れない関係にあると言える。特に、キリスト教における神と悪魔の定義とその両者の対立構造に板ばさみにされた人間が、もがき、苦しみ、苦悩に苛まれた上に信仰心を取り戻し、その力によって悪魔を撃退する物語りとして本作を観た場合、これは極めて重要な意味を持った作品のテーマと言っても間違いではない。
 例えば、本作の主人公であるクリスは、不信心な人間として描かれている。
 それは、精神科医に悪魔祓いを勧められた直後、リーガンのベッドの枕元にあった十字架を見つけ、厳しい口調でカール(注:マクニール家の使用人)に追求する場面からも容易にうかがえる。(注:てゆーか、精神科医に悪魔祓いを勧められるシーンでも、「信仰は?」と聞かれてハッキリ「ない。」って答えてるしね)
 また、カラス神父も、仕事と私生活に疲れ、聖職者でありながら悪魔の存在を否定する発言(注:カラス「悪魔はもういません。」 クリス「いつから?」 カラス「私が学んだ心理学が発達してからです。」)を繰り返している。
 さらに、本作では詳しく語られていないが、メリン神父は過去に行った悪魔祓いの儀式がトラウマとなり、信仰よりも考古学に傾倒していき、最終的には本作の冒頭で語られている通り、イラクの遺跡に発掘調査に赴くほどの熱の入れようである。
 それはまるで、過去から逃れようとするかのように見え、もしそうであるなら、メリン神父はすでに信仰心を失っている、少なくとも、失いかけている人物という事になる。(注:ちなみに、この過去の悪魔祓いが詳しく語られているのが、2004年に公開されたレニー・ハーリン監督作品、『エクソシスト・ビギニング』である。また、この時戦った悪魔は“パズズ”という名前だが、リーガンに取り憑いた悪魔と同一である。本作の中で、悪魔が逆再生言語を喋った時のテープや、メリン神父がマクニール家を初めて訪れた時、悪魔が大声で叫ぶカットがあるが、よ~く聞くと「メリン」と叫んでいる。これだけで、メリン神父とこの悪魔に浅からぬ因縁がある事を窺わせる素晴らしい演出である)
 こうした不信心な大人たちに囲まれて育った少女は、心にスキが出来、悪魔にその進入を許してしまう。
 悪魔に取り憑かれた少女を見て、大人たちはただただおろおろするばかりだったが、ようやくこれが自分達の不信心が招いた結果なのだと悟ると、立ち上がって神の名の元に悪魔を追い払うべく、悪魔祓いの儀式を執り行う。
 それはまさに、悪魔という名の純粋な悪と、神という名の純粋な善との対立構造を明確に描き出し、神と悪魔の代理戦争を、二人の神父と悪魔との死闘に置き換えた信仰という名の正義を描き出している。
 正義とは、信仰によって正当化され、純粋悪たる悪魔の脳天に正義の鉄槌を振り下ろすのである。
 ……と、この映画を観て思っている人がいたら、再び僕は「アナタはこの映画を観ていない!」と言わなければならない。「アナタは、大きな勘違いをしている!」と、極めて強い口調で言わなければならない。
 何故なら、この作品の本当のテーマは、“善と悪は何処にあるか?”だからである。
 確かに、この作品では純粋な善が多分に描かれている。何せ、一人の少女を救うために優秀な神父が二人も命を落としたのだ。カラス神父に至っては、悪魔を自らに取り憑かせてまで、少女を救おうとしたほどだ。
 それはまさに、“自己犠牲”という名の尊い善意が起した信仰の奇跡と言っても過言ではないだろう。
 しかし、本作では悪意もまた、同様に多分に描かれている。
 例えば、マクニール家で行われたパーティーのシーンで、酔ったバークはスイス人のカールを「このナチめ!」と罵る。それは執拗に何度も何度も繰り返され、ついに激怒したカールは、「殺してやる!」と言ってバークにつかみかかる。これはまさに、バークは偏見に凝り固まった人種差別主義者で、カールは怒りに任せて人を殺しかねない性格の持ち主と見る事が出来、そこには極めて純粋な悪意がある事を窺わせる。(注:誤解がないように記しておくが、バークは酒癖が悪いだけで、カールはさすがにあれだけ言われたらそりゃあいくら何でもキレるってモンさという見方も出来る。カールは普段は温厚な人柄だし、バークは密かに抱くクリスへの恋心を酒に酔った勢いですら言えないほどナイーブな人物である。……とは言え、ならば何故、バークは突き落とされて殺されてしまったのだろう? カールは何故、用もないのにキンダーマン警部と大事な話しをしているクリスに御用聞きに行ったのだろう?)
 また、クリスはとてもヒステリックな女性である。
 娘の誕生日に電話すらかけてこない元夫に腹を立て、怒りのままに交換手に怒鳴り散らし、リーガンの異常の原因を突き止められない医師達に向かって喚き散らすような女性である。
 さらに言えば、カラス神父も同様である。
 彼は、劣悪な環境の病院から母を転院させられない自分の不甲斐なさに怒りを溜め込み、その怒りをぶつけるかのごとく、一心不乱にサンドバッグに拳を打ち込む。
 そして、メリン神父を殺した悪魔に怒りをあらわにし、その体がリーガンという少女である事も忘れて力任せに押さえ付け、何度も何度も殴り付ける。
 これらは全て、悪意を以って叩きつけられたモノであり、そこには決して善意は見られない。
 そして、何より重要なのは、これらの行為が全て、“悪魔に取り憑かれていない普通の人々”によって行われているという事だ。
 映画も後半に差し掛かった辺りで、カラス神父はクリスの懇願に負けて初めてマクニール家を訪れ、リーガンに取り憑いた悪魔と対峙する。
 その時、カラス神父が悪魔に「リーガンはどこにいる?」と訊ねると、悪魔はこう答える。

「In here, with us.(この中さ。オレたちと一緒に。)」

 この答えに、「おや?」と思った人は、かなりカンの鋭い人だ。
 そう、何故、「オレ“たち”」なのだろう?
 後にメリン神父が言う通り、リーガンに取り憑いている悪魔はパズズただ一人だけである。なのに、当の本人であるパズズは、それを指して「オレ“たち”」と答える。
 カラス神父を騙すのが目的であるなら、この直後に逆再生言語でメリン神父の名を叫ぶのが矛盾してくる。その名を叫んでしまったら、過去の因縁があるメリン神父が来てしまう可能性が高くなるだけだ。そして、せっかく三人いると思わせたカラス神父に真実を伝えられてしまうだけではないか。なのに、パズズはあからさまなウソを吐くように、「オレ“たち”」と答える。
 だとすると、必然、この“たち”が何を指しているのか? という疑問にたどり着く。
 そう、これこそが、この作品の最も重要なポイントである。
 この直前の「この中さ」の“この”は、当然リーガンの肉体、あるいは存在そのモノを指しているのは明白で、「この中」とは、リーガンの肉体、あるいは存在そのモノの中、すなわちリーガンの内面を指していると考えられる。
 そして、「オレ」はリーガンの肉体、あるいは存在そのモノに取り憑いた悪魔であるパズズ本人である。
 ならば、ココでパズズが言う“たち”とは、“リーガンの内面に内在するパズズ以外の同居人”と考えて間違いはないハズだ。
 では、問題は、その“パズズ以外の同居人”とは何か? という事になる。
 一体何なのだろう?
 僕は、それを“神”だと思いたい。
 神と呼ぶのが適当でないのなら、僕はそれを“善意”と呼んでもいい。
 もし、人の悪意が悪魔の仕業で、人の心に悪魔が宿る事でその人が悪人になるのであれば、その人を善人に戻すのはひどく簡単だ。心に取り憑いた悪魔を、この映画のように悪魔祓いで祓えばいいだけだからだ。
 人の悪意は心の外側にあり、それに取り憑かれる事によってのみ、人の心が悪意に染まると言うのなら、確かに悪魔は存在し、人を悪意へと誘惑する力を持った恐ろしい存在という事になる。
 だが、ならば人の善意はどこにある? 悪意が人の心の外側に、悪魔という形を持って存在しているのと同じく、善意もまた、天使や神という形を持って人の心の外側に存在しているという事になってしまう。
 ならば人は、心に天使や神を取り憑かせない限り、悪魔に易々と取り憑かれ、人の心は悪意に染まってしまうではないか。
 そうではないハズだ。
 決して、そんな事があっていいハズがない。
 人の善意は、人の心の中に元から内在しているハズだ。よく、「生まれついての悪人はいない」と言うじゃないか。ならば人の心の中には、誰しもが生まれながらに善意という名の神や天使を宿らせているのではないか?
 しかし、ならば何故、パズズは「オレ“たち”」と言ったのだろう?
 そう、人の心の中には、悪意という名の悪魔もまた、元から棲み付いているのである。
 どちらもちょっとやそっとでは表に顔を出す事はないが、何かのキッカケでどちらかが表に顔を出した時、その人は人が変わったように善人になる事もあるが、逆に極悪人になる可能性もあるのである。
 そうして悪意に心を染められてしまったのが、リーガンという少女なのだ。
 彼女は、自分の誕生日に電話すらくれない父親に失望し、電話口で怒鳴り散らす母親に呆れる。この不安定な家庭環境がキッカケとなり、彼女の心の中の悪魔が、目を覚ます。
 この映画は、こうならないように皆さん祈りなさいと言っているのではない。
 無垢で愛らしい少女が醜悪な形相になる姿に、自らを省みなさいと言っているのだ。
 この醜悪な形相は、もしかしたら心の中の悪魔が表に顔を覗かせたアナタ自身なのかもしれないと、問うているのだ。

「In here, with us.(この中さ。オレたちと一緒に。)」

 人であるなら、アナタの心の中にもちゃんと、悪魔だけでなく神や天使いるのだと、僕は信じたい。


to be continued...

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする