わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

カフカの階段=磯崎由美

2008-12-03 | Weblog

 若者による野宿者襲撃をなくすための授業で、なぜ野宿から抜け出せないかを生徒に考えてもらうためのエピソードに「カフカの階段」がある。

 <2人の男がいて、1人は低い階段を5段ゆっくり昇っていくのに、別の男は1段だけ、しかし少なくとも彼自身にとっては先の5段を合わせたのと同じ高さを、一気によじあがろうとしているようなものです>

 「父への手紙」で、カフカが結婚の失敗を父親に釈明するくだりだが、野宿の問題にもあてはまる。仕事を失い、家を失い、蓄えを失い、路上へ。下りていく1段ずつは低いが、職も家もある状態に戻るための1段は、とても急で上れない。

 授業を広げようと、学校関係者や支援者がネットワークをつくった。東京都教員、清野(せいの)賢司さん(47)もメンバーの一人だ。東村山市で02年に中高生の野宿者暴行死事件が起き、授業に当事者を呼び話してもらおうと、池袋のボランティア団体「TENOHASI」に飛び込んだ。生徒と炊き出しを手伝ううちに、事務局長になっていた。

 冷え込み深まる11月末の夜、私は清野さんと弁当を配った。百貨店のシャッター前に100人近くが列をなす。まだ服装が真新しい人、ヘッドホンを付けた若者もいる。40代の男性は病気で3カ月休み、この秋清掃会社をクビになったという。「ずっと仕事を探してますが、悪い時に失業してしまって……」

 街の隅に身を寄せる人たちに声をかけながら、清野さんがため息をついた。「例年と全く違う。まだ多くなるのでしょうか」。路上から元へ戻る階段を緩やかにしなければ、この冬を越せぬ人たちが確実に増える。(生活報道センター)




毎日新聞 2008年12月3日 東京朝刊

時代の景色から=玉木研二

2008-12-03 | Weblog

 巻を措(お)くあたわずといえば時代がかるが、近刊「カムイ伝講義」(小学館)に引かれた。この本は、江戸時代研究で著名な法政大社会学部の田中優子教授が比較文化論で行った講義をもとにしている。

 1964年に始まった白土三平の長編劇画「カムイ伝」は、17世紀半ば、架空の「日置藩」が舞台。武家、農民、さらに最下層に位置づけられた人々が織りなす愛憎と喜怒、闘争を描き、そして状況を切り開いていこうとする人間の志のドラマでもある。一方、包み込む時代は戦国の遺風ようやく収まり、技術進歩や産物の拡大、消費の高まりと流通システム、武士のサラリーマン化、と社会構造や意識を大きく変えている。

 例えば、都市部の農産物消費は農村の下肥の需要を高め、それを収集し、運び、売る過程も複雑になって利権が発生する。建造ラッシュは山林伐採を進め、洪水を引き起こす--。このような時代のさまざまな「景色」から講義やゼミのテーマが次々に浮かび、視界は同時代世界史や現代人の生き方に及ぶ。

 もし学生が高校までの経験から、年表や偉人名、事件名の暗記が歴史学習の基礎基本と考えていたら、この講義を不思議な試みと思っただろう。しかし歴史の学習は「興味」「共感」「想像」こそ基礎基本ではないか。どの学問もそうだろうが。

 今夏、小学校学習指導要領で挙げる日本史上の人物42人の業績を子供たちがきちんと理解していないことがニュースになった。たいしたことではない。人間の長い営みと社会の変化に興味と想像の扉を開ける。子供たちをそう誘(いざな)っているか。その方がずっと大切なはずだ。(論説室)




毎日新聞 2008年12月2日 東京朝刊

スカーフの女性たち=福島良典

2008-12-03 | Weblog

 ベルギーの街並みを眺めながら移動できる路線バスをよく利用する。乗客の中にヘジャブ(スカーフ)姿のイスラム教徒の女性を見かけることが多い。欧州は多人種・民族社会。好奇の視線を向ける者はまずいない。

 欧州のイスラム教徒は推定900万~1500万人。宗教別ではキリスト教徒に次ぐ。少子高齢化の欧州諸国にとって、イスラム教徒を中心とする移民は貴重な労働力であり、社会の活力源だ。今や、移民なしの欧州は考えられない。

 欧州とイスラムは時に摩擦や対立の種になるが、異文化の出合いは豊かさも生み出す。民主主義や男女平等の考えに親しんだ在欧イスラム教徒は社会改革の担い手になっている。

 ベルギー南東部ベルビエにあるモスク(イスラム礼拝堂)で10月、欧州初とされる女性説教師が誕生した。ホウアリア・フェターさん(35)はアルジェリア系移民で、3児の母。「人類の半分は女性ですから」と女性信徒の礼拝指導にあたる。

 「英国で好きなのは暮らしと機会均等、多文化共存。嫌いなのはスカーフを女性抑圧と関連づけがちな点」。在英パキスタン人女性(23)はサラ・シルベストリ・ロンドン市立大講師の聞き取り調査にそう答えた。

 「彼女たちはイスラム教徒であることを誇りに思うと同時に欧州の民主主義や権利を謳歌(おうか)しています。スカーフ着用はおしゃれの場合もあるのです」。シルベストリ講師が指摘する。

 中東・アジアの出身国と、生活基盤の欧州。二つの祖国を持つ彼女たちは多文化社会の申し子だ。スカーフの女性たちが双方の社会をどう変えるのか。長い目で見守りたい。(ブリュッセル支局)




毎日新聞 2008年12月1日 東京朝刊