わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

いま由井正雪を思う=玉木研二(論説室)

2008-12-09 | Weblog

 江戸初期の市中の軍学者、由井(ゆい)(由比とも)正雪(しょうせつ)は1651年、浪人を糾合した蜂起で幕府転覆を企てたが、事前に露見、取り囲まれた宿で自刃した。

 この乱は、後年大いに脚色されて講談、浪曲、芝居にもてはやされ、正雪は映画、小説にも登場する。そのイメージに定着したロックギタリストのような総髪姿はどこか暗く、陰謀家然とした空気漂う。だが、世から世へ伝えられてきたのは、この小さな反乱が職を失った浪人救済を掲げたからに違いない。

 関ケ原、大坂の役、島原の乱を経たこの時期、もはや武士は戦士ではなく官僚として生きる世になった。戦に備えて抱えておく必要はない。加えて幕府の強引な「合理化」政策で大名が次々に取りつぶされ、江戸や上方の都市には仕官の口や職を求めて浪人たちが集まった。

 侍とはいえ富裕の者は一握りで、いきなり主家が廃絶になって路頭に迷う者の風体は哀れなものだったという。幕府はこうした浪人たちが市中に居着くのを嫌い、宿を貸すことも厳禁して追い立てる。職を突然奪われた者に対する非情と無神経は、いつの世も似通うらしい。

 だが、正雪の乱に幕府は揺れ、浪人追放やお家取りつぶし策を転換する。東大史料編纂(へんさん)所員だった進士慶幹(しんじよしもと)氏の「由比正雪」(吉川弘文館)は史料に広くわたり実証に徹した名著だが、乱の摘発をしながら浪人の窮状も熟知し、就職あっせんに奔走した町奉行を紹介している。

 正雪は反骨の相だったと伝わる。肖像は残っていない。乱発覚時の人相書きによると「小柄で色白、額短く総髪黒く、眼くりくり」という。案外、愛嬌(あいきょう)のある顔立ちだったかもしれない。





毎日新聞 2008年12月9日 0時02分