わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

ギリシャの悲劇=藤原章生(ローマ支局)

2008-12-21 | Weblog
 騒乱の取材でギリシャを初めて訪れた。夜のアテネでタキスという名の69歳の男性に出会った。黒い服装で悲しそうに、火炎瓶の飛び交う街を見ていた。引退した観光業者でドイツ人の妻と息子が1人、ベルリンにいるという。翌朝頼むと、男性は数日間、小型バイクで私の仕事につき合ってくれた。

 不思議だったのは、この男性がレストランやカフェ、盛り場を嫌うことだった。誘う度に「レストランは見かけだけだ」「コーヒーなら家で飲める」と言い、毎回、彼のアパートで近所の女性が作ってくれる料理をごちそうになった。彼は私の余り物をかき込むように食べた。

 殺風景な暗い部屋の鏡台に、若い男の写真があった。線の細い顔だ。どういうわけか、その脇に、年々老けていく自分の証明写真が並んでいた。聞いてみると、彼はベッドに座り、両手を組んで語り出した。

 若い男は4年前に31歳で死んだもう一人の息子だった。男が時折つく、「うっ」とこみ上げてくるようなため息の意味がわかった。息子は風呂でドライヤーを使い感電死した。だが彼は今でも自殺だと疑っている。「ドイツ車を2台とも、警察に奪われ、息子はおかしくなった」。ギリシャ人の楽しみの一つ、外食を避けるのは、罪の意識からだ。「音楽が流れる楽しげな所にいると、息子に申し訳なくて、胸が苦しくなる」

 「生きている限り、子供を気づかわないと、取り返しがつかない。ギリシャにこんな言葉がある。子供のいる男ほど幸せな男はいない。子供を亡くした男ほど不幸な者はいない」。悲しみがあまりに生々しく、私はしばらく席を立てなかった。





毎日新聞 2008年12月21日 0時34分