わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

クッキープロジェクト=磯崎由美

2008-10-23 | Weblog

 福祉系レストランに障害者の手作りクッキーが並んでいた。「もう買わない! オレばっかり買ってる」。スタッフの一言に、市民活動支援NPO「ハンズオン!埼玉」の若尾明子事務局長(34)はハッとした。

 授産施設や作業所のお菓子。味というより「福祉だから」と同情だけで買ってはいないか。そう気付いた若尾さんは「質で勝負できる商品作りを応援しよう」と思い立つ。「クッキープロジェクト」が始まった。

 デザイン、レシピ、無理のない働き方。まずは専門家を講師にした連続講座を開いた。埼玉県内の11施設から職員や利用者が集まって来た。ホテルシェフの試食では普段は聞けない厳しい指摘も受け、寸暇を惜しみ改良を重ねていく。こうして生まれ変わったクッキーを2月、ショッピングセンターで一斉販売。主婦や女子高生が長蛇の列を作り、短時間で完売した。思わぬ増収と良い物を作る喜びが、みんなの意識を変えた。

 それから半年。いくつかの作業所に今の売れ行きを尋ねたが、明るい答えは返ってこない。知的障害者の授産施設は「生産量を増やせない」。職員の欠員が埋まらないのだという。障害者自立支援法による報酬ダウンで経営は厳しく、介護職同様に低賃金重労働が進んだためだ。精神障害者の作業所は「新作のケーキも好評で工賃をアップしたいが、存続自体が危うい」とため息をつく。

 国は自立支援の一環で工賃倍増計画を掲げ、作業所に商品開発の努力を求めている。でも「やっと勝負できる商品ができたのに、売ることができない」と悔しがる人たちに、さらなる努力は強いられない。(生活報道センター)




毎日新聞 2008年10月22日 東京朝刊

「官力」テスト=玉木研二

2008-10-23 | Weblog

 <生徒の学力の実態を全国的につかむという目的なら5%の抽出で十分である。ばく大な金をかけて全員一斉調査をやるというのは、統計学上からいってもバカバカしいことである><ここで一斉テストをやめればよかったと思う。しかし予算もとったことだしメンツもある>

 まるで今を語るようだが、1964(昭和39)年10月、教育学者の海後宗臣(かいごときおみ)東大名誉教授が毎日新聞紙上で「全国学力テスト」をばっさり切った。予算とメンツには勝てぬ役所、といわれては当時の文部省も面はゆかったろう。では今はどうか。

 昭和のテストは競争を過熱させ、成績が振るわない子は当日休ませる学校さえ現れ、66年で打ち切られた。今のテストは世論にも押され「学力低下」対策を名分に昨年再開された。結果開示のあり方が各地で論議になっているが、そもそも毎年60億~70億円を投じ全員参加方式でやる必要はない。それは文部科学省も内々に認めるところだ。

 自民党の文教族からこんな逸話を聞いた。かつて文部省の幹部がそろって会食した。眼前のスープに誰も手をつけようとしない。トップの事務次官がスプーンを取ると、やがて序列通りにそれにならい、スプーンが順々に皿に当たる音、まさに音楽を聞くがごとしだった、と。

 そんな時代も変わった。55年体制で日教組と切り結んだころに比べ、文科省は気風変わり、開放的になったと私は思う。

 なのに「始めたらやめられない」官界の旧弊がなお絶えないのか? このまま工夫なく一斉テストを前例大事で繰り返すか、踏ん張って知恵を絞るか。肝の据わった「官力」をテストされているのは文科省の方だろう。(論説室)




毎日新聞 2008年10月21日 東京朝刊

ことばの力=福島良典

2008-10-23 | Weblog

 パリ勤務時代、市役所前広場に行けば彼女に会えた。元コロンビア大統領候補イングリッド・ベタンクールさん(46)。解放を待つ支援者が掲げた肖像写真は凜(りん)とした笑みをたたえていた。選挙運動中、左翼ゲリラ「コロンビア革命軍」に拘束され、人質生活は6年半に及んだ。

 学生時代をパリで過ごし、フランス国籍も持つ。いち早く解放要求の声を上げたのは欧州だった。今年7月、コロンビア政府の救出作戦が成功し、自由の身に。今月、欧州連合(EU)の欧州議会に招かれて演説した。訴えたのは「ことばの力」だ。

 「(ゲリラの)蛮行を指弾するあなた方の声をジャングルの奥でラジオから聞き、希望の灯がともった」「武器はことばの力だ。ことばで憎悪と闘い、対話で戦争に終止符を打てる」。最後に、捕らわれたままの仲間の名前を一人ずつ読み上げた。目頭が熱くなった。議場でも涙をぬぐう議員が少なくなかった。

 舞台が欧州議会だったのは象徴的だ。議会の英語名パーラメントの語源はフランス語の「話す」。市民の声を代弁し、民主主義と人権を守る「ことばの殿堂」であることを示す。

 世界議会にあたる国連総会で世界人権宣言が採択されて60年。宣言には「理性と良心を授けられた全人類は互いに同胞の精神で行動しなければならない」とある。だが、地上に争いは絶えず、人権侵害も続く。

 「アフリカの紛争地を訪れ、難民の母子を抱きしめたい」。ベタンクールさんは人質時代の疲弊を乗り越え、女性闘士の顔を取り戻した。ことばの力で復活した彼女にならい、ささくれだった世界を癒やす人間の可能性を信じたい。(ブリュッセル支局)




毎日新聞 2008年10月20日 東京朝刊

北新地の背筋=松井宏員

2008-10-23 | Weblog

 大阪・北新地のバーで。店の女性が「こないだね」と、こんな話を聞かせてくれた。

 前に勤めていた店で、この仕事を一から教えてくれたママが、体を壊してやめることになり、ねぎらいに行った時のこと。「かっこいい先輩でいられなくてゴメンね」と笑うママに、「今度、飲みに行きましょうよ」と誘うと、こう言われたという。「あなたは現役なんだから、仕事でお酒を飲みなさい」

 最後まで、北新地のママを貫こうとする気概に感じ入った。思えば、北新地で飲み始めたころ、こっちの背筋が思わず伸びるようなママが多かった。といって怒られるわけではなく、笑顔で頭を下げてくれるのだが、意地とか張りとか、見えない内側のものが、こちらにも伝わっていたのだろう。

 北新地は戦前、お茶屋が軒を連ねる花街だった。今もお茶屋は少ないながら残り、芸妓さんも14人いる。

 この夏、往時の花街の話を聞き歩いたのだが、かつての大阪四花街で最も格が高く、「実の北」と評された北新地の意地が残っていた。名妓とうたわれたお茶屋の女将(おかみ)が音もなく座敷に入ってくると、客は居住まいをただしたという昔話を聞くにつけ、ここはそういう街だったんだと思う。

 ビル街に様相を変えた北新地から、張りのあるママが姿を消していく。それも時代と言うはやすいが、街は変わっても、変わってほしくないものもある。街のにおいや魅力とは、そこに息づく人の醸し出すものやらなんやらが溶け合ったところにあるんではなかろうか。酔眼朦朧(もうろう)としながら、そんなことを思った。(社会部)





毎日新聞 2008年10月19日 大阪朝刊

手のぬくもり=萩尾信也

2008-10-23 | Weblog

 鳥が翼を休める止まり木のように、人に安らぎを届けてほしい……。両親が願いを込めて名付けた快枝(よしえ)さん(52)。絶やさぬ笑顔のその奥に、長い間封印してきた悲しみがあった。

 電話相談や遺族のケアを続ける東京自殺防止センターが、10月の連休に大阪でワークショップを開催した。「一人でも自殺を思いとどまってほしい」との思いを胸に、全国からやって来た37人の輪の中に彼女がいた。

 掲げたテーマは「ビフレンディング(友達になる)」。1953年に英国で生まれ、現在37カ国で3万人を超えるボランティアが活動する自殺防止組織「国際ビフレンダーズ」がはぐくんできた心である。

 「がんばれ」の言葉や、安易な価値観の押し付けは絶望の底にいる人々には届かない。「医者でもカウンセラーでもない私たちにできることは何だろう?」。参加者たちは電話相談のロールプレーを繰り返しながら、寄り添う心を模索した。その3日目の最終日に、快枝さんの目から突然、涙が噴き出した。

 「親友が自殺して。私、何もできなかった」。ハンカチを握り締めた手を小さく震わせ、絶句する。いつしか、傍らから伸びた手が次々と重なり、まなざしを上げると、涙を浮かべて小さくうなずく仲間たちがいる。

 セミナーを終え、「ありがとう」の言葉を残して滋賀の家に戻った快枝さんに電話をすると、こんな言葉が返ってきた。「あの時、手にぬくもりを感じたの。みんなで悲しみを分かち合ってくれたような気がして。私も、さりげなく手を重ねることができる人になりたいな」

 自殺者は10年連続で3万人を超えている。(社会部)




毎日新聞 2008年10月19日 東京朝刊

科学者の素顔=元村有希子

2008-10-23 | Weblog

 ノーベル賞を伝える者として、受賞者の素顔に触れることはもう一つの喜びだ。

 「うれしくない」と言いながら感極まって涙した益川敏英さん。信念に従って20年近くクラゲを捕まえ続けた下村脩さん。知る機会が限られる分、こうしたストーリーが心に響く。

 福井謙一さん(81年化学賞)の妻友栄さんが語ってくれた、亡き夫との思い出。お見合いから何度目かのデートは冬の賀茂川だった。あてもなく歩くうち、福井さんのオーバーから裏地がわかめのように垂れ下がった。福井さんは何気ない動作でそれをシューッとちぎり空中に放つ。布きれが風に乗ってヒラヒラと舞う。仰天した友栄さんに、福井さんはにこにこして「まるでシュール模様」の裏地を見せてくれたという。

 シューッ、ヒラヒラ。ほのぼのとした様子が目に浮かび、胸が熱くなった。ノーベル賞を受けるほどの人はやっぱり大人(たいじん)だと言ってしまえばそれまでだが、何かに熱中している人はこんないちずさと無邪気さを併せ持っている。科学者に限ったことでもないと思うがどうだろう。

 科学ライターの渡辺政隆さんが、科学者の人間像に関するこんなエピソードを紹介している(「一粒の柿の種」岩波書店)。ある研究者がタクシーに乗ったら運転手に聞かれた。「4人で飯食いに行って、お新香が三つしかないのにいきなり食っちゃう。8人で九つのエビがあったら二つ食っちゃう。科学者ってそういう人ですか」

 科学者は空気を読めない、という意味らしい。残念だが、科学の「結果」ばかり伝えてきた私たちにも責任の一端がある。(科学環境部)




毎日新聞 2008年10月18日 東京朝刊

株を上げる男=福本容子

2008-10-23 | Weblog

 少し前、この欄で弱り切った2人の首相の話を書こうとした。福田さんとイギリスのゴードン・ブラウン首相の状況がとても似た感じだったからだ。

 どちらも昨年就任したばかりなのに支持率低下が著しく、「年末まで持たない」が通説となって、ついに与党内からも“辞めろコール”が出始めていた。前任者のハデさと明るさ(福田さんの場合は前々任者)に対し、地味で暗いのもそっくりだ。

 書かなくてよかった。その後、ブラウンさんの株だけ急騰したのである。

 金融危機への対応で、他国に先駆け大手銀行への資本注入を決断したかと思えば、フランスのサルコジ大統領を説得し、ヨーロッパ全域で同様の銀行支援が決まった。そして「ブラウン式」は、国による金融機関への一斉出資を渋り続けてきたアメリカでも採用されることに。週明けの世界同時株高はブラウン首相がきっかけだったのだ。

 賭けが吉と出るにつれ、みるみる自信がついた。イギリスをヒトラーから救った戦時の宰相、チャーチルと自らを重ね、「新しい国際金融秩序を作る時だ」と歴史的会議を呼びかけた。今年のノーベル経済学賞に選ばれた、あのポール・クルーグマン・米プリンストン大教授からも、金融恐慌から世界を救った救世主になるかもしれない、とかほめられ、箔(はく)まで付いた。

 もちろん、その後の株式相場のように、ブラウン株の急落もあるかもしれない。けれど、人気が全然なくても、「この難局に立ち向かえるのは、自分しかいない」と言い放ち突き進む、勇気と信念と決断力は大したものだ。こういうのを「堂々たる政治」と言うのかな。(経済部)




毎日新聞 2008年10月17日 東京朝刊

一番の景気対策=与良正男

2008-10-23 | Weblog

 01年4月の自民党総裁選。3度目の挑戦となった小泉純一郎氏の陣営が建設業界の関係者に電話で支持を求めたところ、こんな答えが返ってきたという。

 「小泉さんが首相になれば公共事業は減らされるに決まっている。でも、世の中、パーッと変わった方が景気はよくなるような気がしてきた」

 当時、業界団体の大半は橋本派の牙城。しかし、小泉氏はこうした支持を受けて党員投票で圧勝し、党総裁、そして首相に就任した。

 小泉内閣発足後も下げ基調が続いた日経平均株価は、03年4月、バブル後最安値の7607円をつけるが、その後、上昇に転じる。金融機関の不良債権処理を最優先したことが市場に好感されたのだろうし、逆にその市場優先主義の姿勢が格差問題などを招いたのも事実だ。

 ただ、私には先の建設業界関係者の話のように、多くの人が「何か変わるかも」と将来に期待を持ったことが、小泉時代、景気が持ち直した隠れた要因だったように思える。

 麻生太郎首相は新たな経済対策を考えているという。でも、例えば定額減税は確かにありがたいけれど、それで世の中の金回りがよくなるだろうか。貯金に回す人も多いのではなかろうか。そう、将来が不安だからだ。年金や医療など安心で希望の持てる未来を示す方が有効な景気対策だと私は思うのだ。

 国民の間にも「この経済情勢下、衆院選をしている場合か」との声がある。民主党は国会対策であれこれ策を講じて早期解散を促すより、「政権交代し、政治を変えることが最大の景気対策」と、もっと地道に訴えるべきではないのか。(論説室)




毎日新聞 2008年10月16日 東京朝刊


記憶と忘却の街=磯崎由美

2008-10-16 | Weblog

 東京・歌舞伎町の雑居ビル火災で44人の命が奪われてから7年が過ぎた。所有者の過失責任を問う裁判がこの7月ようやく終わったが、出火原因は今も分かっていない。

 ビル内の飲食店で働いていた植田愛子さん(当時26歳)、彩(さい)子さん(同22歳)姉妹を一度に失った母(56)には、悲報を聞いた時がついこの前のことのように思える。取り壊されたビルの前で命日の慰霊祭を続けてきたが、「新たなビルが建てば、献花も難しくなるのでしょうか」と先を案じる。

 火災後しばらくして、母は同じ境遇の人たちの思いを知ろうと、新聞記事を基に他の遺族を捜し続けた。やはり娘を失った母親とは、互いの思い出を語り合っては泣いた。被害者なのに「なぜあんな深夜営業の店にいたのか」と親族にも冷たく見られている人や、周囲の目をはばかり「もう連絡しないでください」と電話を切る人もいた。

 今年の命日だった9月1日、現場周辺で「44名の命を無駄にしないで」と書いたチラシを配り、防火対策の徹底を呼びかけた。その1カ月後、ニュースで大阪の個室ビデオ店火災を知る。店内見取り図を見て、思い出したくない記憶が呼び覚まされた。「逃げ場のないビルにこんなに多くの人を詰め込んで……何が変わったの」

 私は歌舞伎町の現場を歩いた。雑居ビルの跡地は繁華街とフェンスで隔てられ、そのすき間から見える更地では背を伸ばした雑草が枯れている。林立する看板の中に「個室ビデオ」が目につく。地元には教訓として慰霊碑を建てようと訴える人もいるが、「忘れたい」「客足が遠のく」との声も強いという。(生活報道センター)





毎日新聞 2008年10月15日 東京朝刊

新バベルの塔=福島良典

2008-10-16 | Weblog

 「バベルの塔」に出会ったのは小学生のころ。塔を拠点に超能力少年が悪に立ち向かう横山光輝氏原作の東映SFアニメ「バビル2世」を通じてだった。主題歌と共に砂嵐の中から姿を現す塔の映像が脳裏によみがえる。

 同じ言葉を話していた人間が天まで届く塔を建設して神の意に反した--という旧約聖書創世記の逸話は後日知った。「そんな企てができぬよう言葉を混乱させ、聞き分けられぬようにしてしまおう」との神の意思で世界の多言語状況が生まれたとすれば、外国語の勉強で苦労するのも無理からぬ話だ。

 今、一部の言語学者の間で「新バベルの塔」という表現が使われ始めている。米国覇権や英語の国際語化の流れに対抗して、ブリュッセルに本部を置く欧州連合(EU)が進める多言語政策を指す場合が多い。全加盟27カ国の言語をできるだけ平等に扱い、域内言語の学習で相互文化理解を促進する施策だ。

 EUのラトビア人通訳、イエバ・ザオベルガさん(50)は03年に祖国の加盟条約調印式典を通訳した胸の高鳴りを覚えている。「ソ連から独立した国が10年余りで欧州クラブに仲間入りできるなんて」。ラトビア語の誇りを失わず、仕事で使う英語、フランス語に加え、今、スペイン語の習得に挑戦している。「私はラトビア人で欧州人」

 日本では「英語も満足に話せないのに第2外国語に力を入れる余裕はない」が学生や教育者の本音だろう。だが、「全世界が英語だけ」になっては味気ない。知人の中には英語に対する苦手意識をばねにフランス語や中国語を習得した人もいる。バベルの塔を妨害した神様に感謝すべきかもしれない。(ブリュッセル支局)





毎日新聞 2008年10月13日 東京朝刊

核の掟破り=大島秀利

2008-10-16 | Weblog

 核兵器は、プルトニウムやウランなどの核物質を使って作る。自国の自由にできるウランが増えれば、それだけたくさんの核兵器を作りうる。そんな懸念を無視したと思わざるをえないのが、米国の主導で例外的にインドへの原子力関連輸出を認めた原子力供給国グループ(NSG、日本など45カ国)の先月の決定だ。

 核拡散防止条約(NPT)では当面、核兵器国を米英露仏中に限定し、原子力関連輸出は、国際原子力機関(IAEA)の査察を全面的に受け入れることを条件に許される。これが原則だ。ところが、インドはNPTに未加盟で核兵器を持つし、査察対象外の原子力施設も持つ。例外措置は明らかに掟(おきて)破りである。

 インドは輸入したウランなどについて軍事に利用しないと約束した。ところが、ここに抜け道があるとインドやパキスタンの専門家らが指摘してきた。というのは、もともとインドはウランを自己調達していて、それを核兵器用と、民生用(原発用)に振り分けなければならなかった。ところが、今回の措置で、輸入ウランを原発用に回せる。これで自己調達分のウランはすべてを核兵器用に使えるというわけだ。

 インドの原子力平和利用は、地球温暖化防止に役立つとの理屈もあるようだが、仏露などに商売としての原発輸出意欲が見え隠れするし、核爆弾がもたらす地球環境破壊こそまっさきに心配しなければならないことだろう。

 日本政府も例外措置に賛成したが、納得できない。原則が崩れ、核をめぐり不安定な世界になると懸念するからだ。(科学環境部)





毎日新聞 2008年10月12日 大阪朝刊


貧乏学生のススメ=潟永秀一郎

2008-10-16 | Weblog

 「社会に出る。そのためのインセンティブ(誘因)がなくなってる気がしますね」。東京・吉祥寺のジャズ喫茶。壁際の席でウイスキーをなめながら、メールマガジン「月刊少年問題」編集長、毛利甚八さんの話にうなずいた。

 毛利さん50歳、私47歳。共に九州の地方都市から東京の私大に進み、「1000円は結構な大金」という学生時代を過ごした。時は70年代末から80年代初頭。マンション住まいやマイカー持ちもいたが、まだ少数派。「6畳一間、風呂なし、仕送り数万円」が上京学生の平均像だった。

 何の縁か当時暮らした町は近く、共に通った1軒に、にぎり1人前400円のすし屋があった。「バイト代が入ると行きましたね」。学生向けの温かい店だったが「いつか社会人になったら白木のカウンターのすし屋で『一通り』って注文してみたい」と思った。「そう、あのころは学生と社会人に、いい意味の格差がありました」と毛利さん。

 格差の第一は風呂の有無だったが、今は学生でも風呂付きが当たり前。首都圏で平均10万円を超す仕送りにバイトで数万円稼げば、社会人1年生の手取りと大差ない。自宅生でバイト代が全部小遣いなら、父親の小遣いを上回ることも。「何も社会人になって苦労しなくても、家でバイトしてた方がいいと思う子が増えて当たり前。それが社会の活力を奪っている面があると思う」

 子供に苦労させたくないと思うのは親心。だが若い時にいい生活をすると、後がきつくなることもある。高校生は進路決定の時期だが、「窮乏生活も勉強のうち」とおじさんたちは語り合ったのだった。(報道部)





毎日新聞 2008年10月12日 東京朝刊

孫の葉巻=伊藤智永(外信部)

2008-10-11 | Weblog

 政治漫画で葉巻をくわえたクシャ顔と言えば、吉田茂元首相のトレードマークだった。麻生太郎首相が夜な夜なホテルのバーで葉巻をくゆらすのは、偉大な祖父にあやかりたくて長年まねてきた習わしと聞く。

 人様の趣味にやぼは言うまい。気になるのは、おじいさんの影がのぞく頻度である。

 「130年前の今日、吉田茂が生まれました」。半月前、自民党総裁に選ばれた直後の第一声だ。衆院予算委員会の初答弁も吉田茂論だった。

 座談が興に乗ると「小学生のころから新橋の料亭で祖父と政治家の話を聞いて育った」というのが自慢。帝王学? でも、政談になじんだ子供って変だ。

 麻生氏とウマの合う安倍晋三元首相も、祖父・岸信介元首相への畏敬(いけい)がとても強かった。どちらも母方の血筋で、政治家だった父親の話はほとんどしないのも共通している。

 父と息子には葛藤(かっとう)がある。父子相伝という成句は、その厳しさも含む。共に命懸けの拘置体験を経て、戦中・戦後の荒々しい政界を勝ち抜いた吉田と岸が、そろって息子を後継ぎにしなかったのは、政治の怖さが身に染みていたからだろう。

 だが、どんな偉大なおじいちゃんも娘の子には甘い。保守政党の支持者たちも血筋の物語に弱い。偉大な元首相たちの孫が次々と首相になる現象は、単に地盤を継ぐ世襲とは別の政治の衰弱ではないのか。

 吉田茂の長男、健一は、文士になった政治嫌いで、父親と疎遠だったが、母方の祖父、牧野伸顕元宮内相を敬慕し、聞き書きで回顧録までものした。昭和天皇の謹厳な重臣も、やっぱり孫には甘かった。





毎日新聞 2008年10月11日 0時03分

やはり解散が近道=与良正男(論説室)

2008-10-09 | Weblog

 福田康夫前首相は今、「なぜ私は辞めたんだろう?」と考え込んでいるかもしれない。

 自ら身を捨て、自民党総裁選をにぎやかに行って、その勢いで新首相の下で総選挙に打って出るはずだったのに、解散日程は後ずさりするばかり。

 麻生太郎首相は景気対策やインド洋での給油活動延長法案に加え、福田氏の金看板だった消費者庁設置法案の成立にも意欲を見せている。ならば福田氏が続けていても変わりなかったのでは、と私などは思う。

 筋書きが狂ったのは総裁選が狙いに反して盛り上がらず、麻生内閣の支持率が思いのほか伸び悩んでいるからにほかならない。そこに米国発の金融危機が押し寄せた。

 「解散・総選挙などしている場合か」という声があるのは当然だ。だが、考えてみよう。2代続きで政権投げ出しを余儀なくされたのは、衆参のねじれで国会運営が思うに任せなかったからだ。麻生首相が本腰を入れようと思っても、今のままでは国会は動かず、何も決められない状態が続く可能性が大きい。

 政治家が国会を動かせないのなら、衆院選を通じて有権者が動かすしかない。

 自民・公明連立の継続か。民主党中心の政権に交代か。仮に数が減っても自・公が過半数を取れば麻生内閣は信任されたことになり、民主党も参院での対応を考え直さないといけなくなるだろう。そこで初めて、麻生首相は自らの政策を自信を持って遂行できるようになる。

 まさか、与党も来秋の任期満了まで時機をうかがい、麻生首相でだめなら再び首相を代えるというわけではあるまい。やはり、解散する方が近道なのだ。





毎日新聞 2008年10月9日 0時05分

流通していていいのか=磯崎由美

2008-10-09 | Weblog

 またも幼い命が犠牲になった。三重県伊勢市の村田由佳さん(47)は9月9日、弁護士に「兵庫県でミニカップ入りこんにゃくゼリーを食べた1歳男児が脳死状態」と知らされ、全身の力が抜けていくのを感じた。

 村田さんの長男龍之介君は7歳だった。昨年3月、学童保育所でおやつに出されたこんにゃくゼリーをのどに詰まらせ亡くなった。両親が泣き暮れる日々から立ち上がり、実名を公表し提訴したのは、12年も前から窒息死が相次いでいたと知ったからだ。法の不備で製造中止はかなわず、裁判は和解した。

 国民生活センターは9月30日、兵庫の男児を17人目の死亡例として発表した。数字は被害の一部に過ぎないだろう。実際、村田さんは龍之介君の葬儀で参列者から統計に上っていない死者がいると聞き、のち事実が確認できた例もある。子や孫に与えてしまい、自分を責め、泣き寝入りしている家族もいる。だが、問題は子どもや高齢者が口にすると危険な「おやつ」が流通していることだ。

 龍之介君の事故後、業界は袋に警告を表示して販売を続けた。1年後に繰り返された今回の事故で、マンナンライフはミニカップ型の製造中止を決めた。だが製品自体の危険性は認めず、既に流通しているものは回収しないという。消費者保護の精神からはほど遠い。

 「餅はどうするのか」「交通事故の方が多い。車も製造中止か」。そんな批判も村田さんの耳に届く。「私も龍之介を失うまで消費者被害を身近な事とは感じていなかった。どうか皆さん机の上だけで考えず、もしわが子や孫が口に入れてしまったら、と想像してください」(生活報道センター)





毎日新聞 2008年10月8日 東京朝刊