わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

ガンジーの公開状=広岩近広

2009-07-12 | Weblog




 かつて中国東北部に、関東軍が支配した満州国という傀儡(かいらい)国家があった。中国の提訴を受けた国際連盟は調査団を派遣したうえで満州国の独立を否定、関東軍の撤退を圧倒的多数で決議する。

 しかし日本政府は、満州は日本の生命線だと譲らなかった。世論も後を押し、1933(昭和8)年3月、日本は国際連盟を脱退する。

 結果はどうであったか。太平洋戦争にまで突っ走り、想像を超える国民の犠牲者を出すに至った。満州国は13年5カ月ほどで消滅したものの、中国残留孤児の悲劇は今も続いている。

 あえて振り返るのは北朝鮮のことが頭の片隅にあるからだ。核兵器は軍事国家の生命線だと妄信したのであろうか。孤立を深める北朝鮮と戦前の日本が、私の脳裏で重なる。北朝鮮は国民総動員体制を図ろうと「150日戦闘」のスローガンを掲げているという。かつて日本は「国民精神総動員運動」であった。

 軍部の力が強くなれば、逆に国民は不幸に見舞われる。そのことは関東軍を有した日本が示している。北朝鮮の民衆が案じられてならない。

 日本が国連を脱退した9年後の7月、インド独立の父・ガンジーは「すべての日本人に」と題する公開状を発表し、日本軍に侵略を停止するように求めた。<帝国主義的な野望にまで堕してしまわれた>とし、こう告げる。<かくして、知らず知らずのうちに、あなたがたは世界連邦と兄弟愛--それらなくしては、人類に希望はありえないのですが--を妨げることになるでしょう>(マハトマ・ガンディー「わたしの非暴力」森本達雄訳、みすず書房)

 北朝鮮の指導者に、ガンジーの言葉を聞かせたい。(編集局)

 

毎日新聞 2009年7月12日 東京朝刊


書評論の熱き夜=岸俊光

2009-07-12 | Weblog




 「書評を考える--過去・現在・未来」と題するシンポジウムに参加した。主催は元講談社取締役の鷲尾賢也さんらが作る人文書編集者の会。日本出版クラブ会館(東京・神楽坂)の会場には100人が詰めかけ、異論反論が飛び交う熱い一夜になった。

 出版不況に金融危機が重なり、本の売り上げは急速に悪化している。年間約8万点の新刊の山、雑誌の不振、業界再編……。逆風のなか、新聞書評への期待の大きさを表すように議論は白熱した。

 その一端を挙げると--。

 「本を告知し買ってもらうのが書評の基本。だが一日に200冊以上の新刊すべてを扱うのは無理がある」=岩波書店社長の山口昭男さん。

 「短い書評をポップ(推薦文を書いたミニ広告)にする方が売れる。記事は短く内容は濃くしてほしい」=三省堂書店神保町本店の福澤いづみさんが紹介した同僚の声。

 会場からも「新聞は質の高い読者に応えるつもりがあるのか」「社会面などで扱われた方が販売の効果はある」とさまざまな意見が出た。

 毎日新聞の「今週の本棚」が今の形になったのは92年4月。評者の名前を大きく出したのも長い書評も本紙が先んじた。定期執筆者の人選は腕のみせどころだ。従来、新聞の書評は匿名も多かった。

 ネット書店のランキングや顧客レビューが便利になっても知の世界と結ぶこの読み物には及ぶまい。そうした長所を新聞が生かし、他メディアとも協力して弱点を補う時代が来ているのかもしれない。

 膨大な新聞読者に応えるのは難しい。積極的に本にかかわることがより大切になっているのではないか。帰り道、雨上がりの坂をたどりながらそんな思いを強くした。(学芸部)

 

毎日新聞 2009年7月11日 東京朝刊


マルチの魅力=福本容子

2009-07-12 | Weblog




 カナダの世論調査はおもしろい。与野党の党首比較なら「アメリカに物を言えるのはどちらか」とか「ティム・ホートンズ(国民的ドーナツ店)でコーヒーを買いそうな党首は?」とか「夕食に呼んでみたいのは?」とか聞く。

 「カナダは世界一いい国だと思いますか」。建国記念日を前に有力紙が行った調査の質問。なんと9割が「思う」。理由は直接尋ねていないけれど、カナダらしさ、国の強みに「多様性」「多文化」を挙げる人が多かったから、「多」=マルチに答えがありそうだ。210の民族が暮らす国である。「食事をしたことがある相手は?」でも「異民族の人」や「同性愛者」が「上司」よりずっと多かった。

 カナダ訪問中の天皇、皇后両陛下を迎えたミカエル・ジャン総督はまさに多様性そのものといっていい。ハイチで生まれ難民としてカナダに移住。5カ国語を話すマルチリンガルな女性である。英連邦加盟のカナダはエリザベス英女王が国家元首で、その名代が総督。それに難民がなれる。

 外交もマルチ主義だ。サミットが先進国中心の8カ国から新興国も含む20カ国超に膨らめば、カナダの影は薄くなりそうなものだけど「一握りの金持ち国で世界の問題を解決するのはもう無理」とG20を真っ先に唱え発足の原動力になった。人口が10倍の大国が隣にいても埋もれない。

 隣にぐんぐん強くなる人口10倍の国がいて、世の中がG8よりG20となるのが気が気でないのは日本。でも不安がってばかりもいられない。カナダに倣おう、なんて単純にはいかないけれど、マルチは一つのヒントになりそうだ。毎日、多様とつきあいながら暮らしている国は、世界の多様の現場でも強い。(経済部)




毎日新聞 2009年7月10日 東京朝刊


政権維持至上主義=与良正男

2009-07-12 | Weblog




 「政権交代は手段。交代して何をするのか、そこが問題だ」と麻生太郎首相が繰り返している。民主党は政権をとることだけが目的の政権交代至上主義。本来の政治の目的である「何をするか」が分からないと言いたいようだ。

 ごもっともな話だと思う。でもそれを言うなら、こう突っ込んでみたい気がする。自民党は政権を維持するだけが目的で、何をしたいか分からない。いや、麻生さんは「首相になること」だけが目的だったのではないかと。

 自民党人事刷新が不発に終わった後、日ごろ首相に理解を示している(と思われる)産経新聞が「問題は、麻生政権が日本をこうするという国家像をいまだに明示していないことにある」と書いて、「懸案を解決するための政策を示し、その布陣を敷くという人事構想がそもそも欠落していた」(2日「主張」)と酷評した。

 私とは意見の違うことが多い同紙だが、この指摘には感心した。政策は二の次で「人気の麻生氏」を選び、選挙に負けそうになるとまたまた首相を代えようとする自民党内の「麻生降ろし」の動きも同じようなものだろう。

 小泉純一郎元首相は「人生いろいろ、選挙もいろいろ。自民党中心の政権が続いたのは異例で民主主義では野党になることがあってもいい」と若手議員らに語ったそうだ。およそ励ましにならないと思うが、私も「与党になったり野党になったりするのが当たり前という政治を」とずっと書き続けてきた一人だ。

 そして「何をするのか」を責任持って書き込むのがマニフェスト。それを参考にどの政権がよいかを選ぶのは、あくまでも私たち国民=主権者なのである。(論説室)

 

毎日新聞 2009年7月9日 東京朝刊


立ち止まり、歩き出す=磯崎由美

2009-07-12 | Weblog




 誰かにいじめられたのでも、何かが不満だったわけでもない。ただ自信がなかった。

 中学3年の夏休みが終わり、吉田寛子さん(26)の中で張りつめていたものが切れた。みんな当たり前のように学校に行く。「それが苦しいのは私が普通じゃないから」。人に会うのが怖くなって部屋にこもり、親との口論が絶えない日々が半年続いた。

 その彼女が故郷の高知を離れ、孤立する若者を支援するNPO法人・ニュースタート事務局(千葉県浦安市)で働いて2年目になる。再び人の輪に入る後押しをしてくれた周囲の人たちへの恩返しを考えていた時、会の活動を知った。ひきこもりの若者を訪ねて社会へとつなぐ「レンタルお姉さん」をしている。

 同じ経験をしたからといって、みんな容易に心を開いてはくれない。「何で来るんだ!」と物を投げられる。通っても顔も見せない相手には、手紙を置いて帰る繰り返し。無力さの中で自分の過去を振り返る。一度立ち止まってしまうと時間ばかり過ぎ、再び歩き出すことがどんどんつらくなる。でも「そこから抜け出すには、誰かとつながるしかない」ことだけは、何としてでも伝えたい。

 彼女は部屋にこもる若者らに「勝ち組にならなければ生き残れない」という強い不安を感じるという。「社会からの無言の圧力でしょう。でも私はあの時ひきこもったおかげで、地に足のついた幸せを見つけることができた」

 8年間ひきこもり、何度励ましても「自信がない」と拒み続けた若者が今月、自立への一歩を踏み出す寮に入った。寛子さんに最後に届いた手紙にはこうあった。「長い間お世話になりました」。初めて見た優しい文面だった。(生活報道部)


毎日新聞 2009年7月8日 東京朝刊


毎日新聞コラム「発信箱」09年7月1日~7日分まで

2009-07-12 | Weblog

父がくれた道=磯崎由美


 「父を否定しているようで、つらくなるんです」。4年前、自殺をなくそうと活動していた美和さん(30)が漏らした言葉が忘れられない。自分のような子を増やしたくない。でもお父さんは悪いことをしたの? 当時彼女は二つの思いを行き来していた。

 大好きだった父は97年暮れ、自らの命と引き換えに、家族が暮らす家のローンと借金をなくした。まだ高校生だった彼女には詳しい事情を知る由もない。ただ「どんな人生を送ってこようと、亡くなり方一つで社会の目は変わってしまう」と知らされた。

 それから時を重ね、美和さんは昨年新しい家族を作った。間もなく初めての命を授かる。女の子らしいと聞き、夫が待ちきれず大きなおなかに話しかける。その姿に、自分の誕生を心待ちにしたという若き父を重ねる。「お父さんもうれしいこと、悲しいこと、たくさんあって、精いっぱい生きた」。今はそう思う。

 父の選択と向き合い続けた美和さんは、精神障害福祉の職に就いている。心の病は理解されづらい。ある日突然診断を受け、本人も家族も受け入れるのは容易ではない。自殺の要因でもある。それでも作業所で一緒に小物を作っていると、みんなに生きる力を教えられる。

 美和さんの父が亡くなった翌年から、自殺者は11年連続で3万人を超えた。数字の裏にはその何倍もの残された悲しみや、止められなかったという悔いがある。でも周囲は自殺を人生の敗北と見る。そのつらさはいまだに、遺族と呼ばれる存在にならなければ感じられないものなのか。

 悩み、考え抜いて、人を支える。彼女の仕事はきっと悲しみを減らしていくことにつながっている。(生活報道部)

毎日新聞 2009年7月1日 東京朝刊






決断できぬ人=与良正男


 結局、またぶれ続けたという印象しか人々には残らないのではないだろうか。もちろん、自民党執行部と内閣人事に関する麻生太郎首相の一連の発言だ。

 「現時点では考えていない」と明言したかと思えば、翌日には「前から考えていた」と一変。先週末には細田博之自民党幹事長に「外野が勝手に作り上げた話」とさえ語っていたといわれるのに。

 「外野」とはマスコミを指すのだろうか。新聞が勝手に書いているだけで私はぶれてはいないと言いたいのかもしれぬ。これも首相が従来、使ってきた弁明パターンだ。

 だが、首相の「解散はそう遠くない日」発言に始まる今回の騒動に関しては、首相に近い人から「党人事を刷新し、都議選前に解散するというのが首相の意向だ」といったシナリオが早々と聞こえてきてはいたが、「実際には難しいのでは」と懐疑的な報道が大半だったのが実態だ。

 昨秋、新聞は再三「○日にも解散へ」と報じ、見通しを間違えてきた。そこで私たちは反省し、学習もした。結果、首相はいったん決めながら、誰かに言われて方針を変える(つまり、ぶれる)というより、実は決断そのものができない人ではないかと私たちは思い始めているのだ。

 第一、仮に首相が「電撃人事→解散」を考えていたとしても、事前に筋書きがやすやすと漏れては、サプライズにもならない。

 首相はまず、メディアにそう見なされていることに腹を立てるべきだろう。ぜひ、与党内の反発をはねのけ、一刻も早く衆院解散を決意し、見返していただきたいと思う。人事だけでなく、解散の覚悟を固めることが本当のトップの決断というものだ。(論説室)

毎日新聞 2009年7月2日 東京朝刊







お辞儀のわな=福本容子


 ウォール街の大バンカーが深々と頭を下げる姿はとても想像しにくい。5年前、日本の金融庁から処分を受けたシティグループのチャールズ・プリンス最高経営責任者(CEO、当時)は、東京までやって来て記者会見で頭を下げた。「7秒間のお辞儀」は世界的にびっくりだった。

 先週、シティの日本法人がまた処分された。個人顧客部門で1カ月の営業停止。再発防止策が徹底していなかった。お辞儀までしたのに。

 トラブル後の行動で逆にファンを増やす企業もある。

 おととしのバレンタインデー。米格安航空会社ジェットブルー・エアウェイズの定期便が大雪で空港に足止めされた。機内に6時間以上閉じこめられた乗客もいた。大量運休など混乱が1週間続く。サービスが売りだっただけに打撃は半端じゃなかった。

 そこからの行動も半端じゃなかった。「申し訳なく恥ずかしい思いです。でも何より、とても申し訳ないです」。CEOだったデビッド・ニールマンさんは顧客に手紙を書き、新聞に全面広告を載せ、テレビやラジオに出まくって謝り、組織体制を見直し、社員を訓練し直し「二度と期待を裏切らない」と誓った。「顧客の権利章典」も作った。発着の遅れに従い返金する仕組み。お陰で生き延びただけでなく消費者調査の信頼度は首位をキープ。危機対応のお手本としてビジネススクールの教材にもなっている。

 株主総会ラッシュの6月はいつになく多くの頭が下がった。赤字決算、不祥事、いろいろ。でもこのお辞儀、便利さが落とし穴になってない? 形だけの「ごめんなさい」は、次の「ごめんなさい」につながる。「ごめんなさい」じゃ済まなくなったりもする。(経済部)

 

毎日新聞 2009年7月3日 東京朝刊






運動部の仕事=落合博


 先日、女子高校生4人の訪問を受けた。授業の一環で、運動部の仕事や記事などについて調べているという。「仕事で面白いところは?」という質問には「現場が目の前にあって、しかも刻々と動いていること」と答えた。

 新聞社の運動部に勤務していると言うと、たいていの人は「今年のタイガース(名古屋ではドラゴンズか)はどうか」とか「日本はオリンピックでメダルを何個取れるか」とか聞いてくる。

 経済学者の場合、「景気はこれからどうなるか」や「どの株がもうかるか」になる。大阪大学社会経済研究所の大竹文雄教授が「経済学的思考のセンス」(中公新書)で明かしている。いずれも大きなテーマであるが、必ずしも主要な仕事ではないそうだ。

 労働経済学専攻の大竹教授と同僚の佐々木勝准教授が自動車会社の従業員を対象にしたアンケートによると、高卒の場合、スポーツをした(している)方が昇進しやすく、それは個人競技より団体競技の方が顕著だった(論文「スポーツ活動と昇進」)。

 ところが、大卒では、スポーツで培われる根性や忍耐力、協調性などは、社員7万人を擁するこの会社の場合、あまり必要とされていないという結果になった。「やっぱり」と思うか、「へえ」と思うか。一企業の事例ながら、大学体育会への信仰は、幻なのかもしれない。

 スポーツは株価のように成果がすぐ数値化されて分かりやすいが、それがすべてではない。強弱勝敗を論じない記事だってある。経済だけでなく、歴史、政治、文化などの視点も取り込んで事象を解き明かす。これも運動部の主要な仕事になる。女子高校生への回答として付け加えたい。(運動部)

毎日新聞 2009年7月4日 東京朝刊






G8、儀礼の4段重ね=藤原章生


 主要8カ国(G8)会議はすべて公開すればいいと思う。準備会合を取材してわかったのは、隠すほどの内容ではないということだ。イタリア外務省は「慣例上、非公開」と言うが、国の代表や官僚が「おれたちは特別」と壁を作る時代でもないだろう。

 例えば6月末に開かれた外相会合の場合、8カ国が卓を囲むのは2時間半ほど。大臣は議論せず、順番に国の意見や取り組みを発表していく。平均20分だが、議長が長話をするのでせいぜい10分。明らかに儀式である。

 議長が2度ほど記者会見を開くが、驚くような内容がないため、大臣が並ぶ記念撮影のように儀礼的だ。日本人の場合、これとは別に大臣を囲む「ぶら下がり会見」と呼ばれる場がある。大臣が「ま、ぶっちゃけた話」と言えばいいが、役人に言われたままに答え、「ええと、何だったか……」と暗記していた文言を忘れ、詰まったりする。公式の大臣発言について確認すると、「いや、そういう言い方はしていなくて……」と自分の言葉で語りそうになるが、後が続かず、「詳しいことは(役人による)ブリーフィング(説明会)で」などと答える。何しに来ているのかと思うが、答えは一つ。儀式への参加ということだろう。

 イタリア政府は日に1回、日本政府の場合、同行記者のために3度も4度も役人が説明会を開く。しかも担当課長や局長が毎回入れ替わり現れ、時に30分もの長話になる。揚げ句、新しいことは?と問うと「正直、何もありません」と答える。「内容なし。終わり」で済ませばいいものを、ここも開くことが目的の儀礼の場なのだ。会議を公開すればこうした場は消え、かなりのコスト削減になるはずだ。(ローマ支局)

毎日新聞 2009年7月5日 東京朝刊







優しい乗り物=福島良典


 ギリシャ神話のイカロスは空を駆け、太陽に近づきすぎて鳥の羽をロウで固めた翼を失った。その太陽エネルギーを動力源に世界一周を目指す飛行機が6月26日、スイス・チューリヒ郊外で公開された。

 太陽電池で翼を覆ったソーラーインパルス号の試作機だ。仏冒険小説家ジュール・ベルヌのひ孫、ジャン・ベルヌさんは計画を「イカロスの復讐(ふくしゅう)」と呼ぶ。テストを重ねて実験データを集め、12年に2号機が世界一周に旅立つ。

 開発チームを率いるスイス人冒険家のベルトラン・ピカールさん(51)と朝食を共にしたことがある。ぜい肉のない引き締まった体と、「化石燃料に依存する現代世界を変えたい」と少年のように夢を語る目が印象的だった。

 地球温暖化対策で世界をリードする欧州連合(EU)はピカールさんらの計画を支援している。EUの環境相にあたるディマス欧州委員が通勤や移動に使うのはトヨタのハイブリッド車プリウスだ。

 太陽電池飛行機もハイブリッド車も科学技術で温室効果ガスの排出を減らす試みだ。冒険家と欧州政治家。2人の立場は異なるが、「今、行動しなければ、地球の病状は手遅れになる」という強い危機感は共通している。

 温暖化を食い止めるには、「当たり前」と感じている現代社会の便利さを問い直す視座も必要だ。乗用車で渋滞を招くよりも、多少は不便でも、公共交通機関や自転車に乗り、歩く方が環境に優しい。

 ディマス委員はインタビューの際、付け加えた。「普段はハイブリッド車だけれど、週末は2本脚の車を使っているんだ。街を歩くのさ」。もうすぐ夏休み。環境学習を兼ねて、家族で歩く楽しさを体感してはどうだろうか。(ブリュッセル支局)

毎日新聞 2009年7月6日 東京朝刊







ゆずり葉=玉木研二


 吾朗は将来のスターを夢見る若者。聴覚の障害を隠しオーディションを何度も受けるが、不合格が続く。

 敬一は63歳。腕のいい大工。かつて、自らもそうであるろうあ者への差別法令改正運動の記録映画作りに打ち込むうち、身重の恋人を体調の急変で失い、自分を責めて心を閉ざす。恋人は健聴者。両親に結婚を反対されたが振り切り、敬一と下町の小さなアパートで暮らしていた……。

 今夏公開され全国巡回中の映画「ゆずり葉」(早瀬憲太郎脚本・監督)は、この2人の男の偶然の出会いときずなを軸に展開する。それぞれの恋、幸福の追求と挫折、疎外、愛憎と対立、和解が縦横に織り込まれ、終幕で意表をつく脚本、演出は見事だ。

 早瀬監督をはじめ、キャストの多くも耳が聞こえない。映画は全日本ろうあ連盟が創立60年の記念に製作した。というと、啓発的なタッチの作品と思われるかもしれないが、そうではない。

 脚本や演技の細部に宿るリアリティーの重さ。中でも荒い息づかいで応酬する手話の言い争いの場面は、字幕についていけないほどのスピードと気迫で見る者を圧する。

 この発信力は私が初めて知るものだった。激しい手や表情の動きは決して声の「代役」ではなく、それ自体が豊かな表現世界なのである。そう気づかせるところにこの作品の力と普遍性がある。

 映画館を出た時、世の中が入館前より少し異なって見えるというのが名作の条件なら、これもそうに違いない。

 少し考え、書店でNHKの手話のテキストを買った。

 まず目に入り覚えたのは、のどから親指と人さし指を合わせながら下ろす表現。何?

 <好き>という意味だ。(論説室)



毎日新聞 2009年7月7日 東京朝刊


毎日新聞コラム「発信箱」09年6月25日~30日分まで

2009-07-12 | Weblog

総総分離?まさか=与良正男


 かねて「それもなくはないなあ」と冗談話としては考えていたが、本当に出てくるとは驚いた。自民党内で党総裁選前倒しの変形パターンとして、首相(総理)と総裁を別の人にする「総総分離」論がささやかれているそうだ。

 9月予定の総裁選を前倒しして総裁を代え、その人が党の顔となって衆院選を戦い、与党が勝てば選挙後の指名選挙で首相になる。一方、それまでの間は麻生太郎氏が首相を務める。在任期間は衆院選前に退陣するより長くなり、麻生氏のメンツも多少は保たれるという寸法だ。

 東国原英夫・宮崎県知事が自民党の衆院選出馬要請に対し、「私を次期総裁候補として衆院選を戦う覚悟ある?」と応じたのは、さらなる変形パターン。衆院選にくら替え出馬し、「当選すれば、いずれこの人を首相に」と宣言をして選挙を戦えというわけだ。最近の党内事情を分かったうえでの発言と思われる。

 東国原氏の件はともかく、何でもありの自民党だからクギを刺しておく。こんな見え透いた奇策を考えているとすれば、もう政権党の矜持(きょうじ)はかなぐり捨てたのかと。

 演出だけでは国民の心がときめかないのは昨秋の総裁選で実証済みのはず。そこにあるのは、この国をどうするかではなく、ひたすら政権を維持するため、いや、自分が選挙で生き残るためだけではないのか。第一、東国原氏にああ言われて「随分、なめられたものだ」と思わないのか。

 「もし首相が退陣したら、『3代続けて政権放り出し』と批判され、自民党は国民から見放される」と安倍晋三元首相が言っている。今の混迷のきっかけを作った責任者の話が一番、まともそうに聞こえるというのも悲劇的だ。(論説室)


毎日新聞 2009年6月25日 東京朝刊





締める 締めない=福本容子


 イランのアフマディネジャド大統領を初めてテレビで見た時「大統領っぽくない」と思った。ジャンパーみたいな上着(人呼んでアフマディネジャケット)を着ていた。日曜に競馬へ出かけるお父さん風。その後も、スーツの日だって、いつもネクタイ無しでシャツの襟元は開いている。

 見ると改革派のムサビ元首相もノーネクタイ。「西側圧制の象徴」「反イスラム的」とかでイラン革命後ネクタイは不可となったらしい。でも同じイスラム教シーア派のイラク首相がわざわざネクタイを外してイランの最高指導者との面談に臨んだというから、宗教というよりイラン固有の政治的意思表示みたいだ。

 政治的とまでいかなくても、この1本の布にはおしゃれ以外のいろんな信号が織り込まれている。礼儀、オンとオフのけじめ、「あなたと一緒」の同族精神、誇り、威厳、ホワイトカラーという意識……。女子にはなかなか分かりきれない小道具である。

 その女子が宣伝し始まった日本のクールビズも5年目。今夏は、6~9月だった軽装期間を5月や10月まで広げる企業や窓口を含め全行員ノーネクタイという銀行もあり、一段と浸透してきた感じだ。

 だけど人によって気温の感じ方や好きな格好やその日の事情はさまざま。せっかくのノーネクタイも暦が1日変わっただけで「はい一斉に」ではかえって息苦しい。

 17世紀、ヨーロッパの30年戦争でクロアチア人兵士がそろって首に巻いた布がネクタイの始まりと言われる。古代ローマ兵士の首布が起源との説もある。ともに兵隊だ。

 エコは戦でも「反米」の意思表示でもない。ネクタイを締める締めないは「どっちか」より「どちらでも」がいい。(経済部)

 

毎日新聞 2009年6月26日 東京朝刊






ほんとにエコ?=元村有希子


 高校に出前授業に出かけた研究者がため息まじりに話してくれた。

 「科学技術が役に立っていると思う人?」と生徒に聞いたら、しばらくして半分ぐらい手が挙がった。「科学技術が環境を壊していると思う人?」と聞いたら、間髪入れず全員の手が挙がったという。「若者は科学技術より環境を大切に思っているんですね」

 事実、公害は科学技術を支える企業活動が生んだ。しかし科学技術は環境問題の解決にも貢献するはずだ。それをすんなり受け入れられないのは、大人たちの言動にどこかウソっぽさを感じ取っているのではないか。

 高校生でない私でも納得いかないことは多い。省エネを叫びながら、消費電力の多い大型テレビほどエコポイントがつくのはなぜか。ためたポイントでガソリンが買えるのは変だ。化石燃料使用を減らせと言いつつ、高速道路料金を1000円にしてドライブを奨励するのはどうなの?

 大人たちは「健全な経済があってこそ、環境問題の解決に投資できるのだ」と説明するだろう。政府や企業はその行為が地球に少々負荷を与えるとしても、経済発展への努力を怠るわけにはいかないのだと。しかしその「環境か経済か」の二者択一の考え方が、かつて公害や環境破壊を引き起こしてきた。

 それでも大人たちは喜々として遠出し、まだ使えるテレビを処分して新品を買い、企業はエコポイントの交換対象に自社製品を加えてもらおうと懸命だ。

 自分が得すればいい。企業や日本の景気が上向けばそれでいい。高校生が迷いなく挙げた手は、こういう価値観を大人はまだ変えないのかと問いかけている。(科学環境部)

 

毎日新聞 2009年6月27日 東京朝刊







生と死の間に=萩尾信也


 「死ぬのはどんな感じだろう」「テレビのスイッチを消す感じ」。昨秋、小学校の課外授業で質問をしたら、男子からこんな答えが返ってきた。彼には、生と死は寸断されたイメージがあるらしい。

 そして今春、80歳の恩師の最期に接する機会があった。臨終を告げられた後で、遺族と一緒に恩師の体をふき、ひげをそった。孫の中学2年生が驚きの声を上げたのは翌朝だ。「ひげが伸びてる。ひげが生きてる!」。少年は不思議そうな面持ちでおじいちゃんのほおを触っていた。

 看取(みと)りの体験を重ねると、生と死は昼と夜が溶け合うたそがれのように、重なり合ったものだと実感する。肉体の機能は徐々に低下し、脈や呼吸がやんでも残照のようなぬくもりがしばし宿る。すべての細胞が活動を止めるにはさらに時を要する。生と死はつながった存在なのだ。

 衆議院を通過した臓器移植法改正A案は「脳死は人の死」と位置づけたが、言い切っていいのか。脳死はあくまで脳の死だ。脳が死んだとみなしても、臓器は生きている。だから移植が可能だ。A案が「家族の同意」で15歳未満の子供の移植に道を開く以上、子供にも生と死の実相が伝わるように言葉を使うべきだ。

 世界初の心臓移植が行われたのは1967年、アパルトヘイトの時代の南アフリカだ。黒人の心臓が白人に移植され、人権問題を巻き込む論議を呼んだ。くしくも同じ年、英国ではホスピスの原形となる施設が産声を上げた。

 「生と死の線引き」と「死にゆく者の心と体のケア」。二つの課題は、医療技術が高度化して死生観が揺らぐ今こそ、みんなで話し合うべきテーマのはずだ。だが、ちまたにその気配はあまりに希薄だ。(社会部)

 

毎日新聞 2009年6月28日 東京朝刊







ベールの問いかけ=福島良典


 信教の自由か、女性の抑圧か--。イスラム教徒の女性が着用するベールを「どう位置づけるか」は現代欧州が直面し続けている問題だ。フランスとベルギーで最近、ベール論争が再燃している。

 口火を切ったのはサルコジ仏大統領だ。22日、イスラム女性の全身を覆う衣装「ブルカ」に異を唱えた。「宗教のシンボルではなく、隷従のシンボルだ。フランスでは歓迎されない」。仏下院も着用規制の検討に乗り出した。

 お隣のベルギーでは23日、イスラムのスカーフ「ヘジャブ」をかぶった女性議員が誕生した。ブリュッセル地域議会選挙で当選したトルコ系のマヒヌール・オズデミールさん(26)。ベルギー紙によると、ベール着用の民選議員は欧州主要国で初めてだという。

 宣誓式を見ようと議会傍聴席や中継会場にヘジャブ姿の女性たちが詰めかけ、「ベルギー民主主義の記念日」を祝った。「国家の中立性が脅かされる」と議会前で抗議した反対派はわずか数人だった。

 フランスでは5年前、非宗教を教育現場に徹底するため、公立小中高で女子児童・生徒のスカーフ着用を禁止する法律が施行された。一方、ベルギーでは着用の認否は各学校の判断に任されている。

 厳格なフランスと、一部容認のベルギー。対応は異なるが、抱える悩みは共通している。宗教的に多様化する社会で「個人の自由」と「公共の秩序」の折り合いをどうつけるか、という難題だ。

 日本も無縁ではない。在日イスラム教徒は02年に推定20万人を超え、増加傾向にある。体育の授業での服装や給食の食材でイスラム文化に配慮する学校も出てきている。まず、なじみの薄いイスラムを知ることから始めたい。(ブリュッセル支局)



毎日新聞 2009年6月29日 東京朝刊






黒船の夏=玉木研二


 歴史の舞台はしばしば拍子抜けするほど穏やかな風光の中にある。神奈川の久里浜(くりはま)もそうだ。この浜に長い鎖国を崩す一歩が刻まれたとは。

 1853年夏、ペリー提督の黒船艦隊が江戸湾口に投錨(とうびょう)した。パニックになった。浦賀奉行所の船が横づけし、一人が「アイ・キャン・スピーク・ダッチ」(私はオランダ語ができる)と英語で言った。<彼の英語はこれだけ云ふのが精一ぱいらしかつた>と「ペルリ提督日本遠征記」(岩波文庫)にはある。

 オランダ通詞の勇をふるっての第一声だったろう。歴史的な日米コミュニケーションはかくて始まる。交渉は日本語と英語の間にオランダ語や漢文筆談をはさんで行われた。日本側にはその素養があり、艦隊にも使い手がいた。

 交渉を重ね、ペリー一行は久里浜に上陸、幕府代表に開国と通商を要求する大統領国書を手交し、翌年再来航して日米和親条約を結んだ。

 時代は青年も年寄りも身分も超えて百家争鳴、混乱と転換の10年余を経て近代国家速成へ走った。急ぎ西洋哲理を漢字に移し、法や文学を日本のそれに重ねる。可能にしたのは武備ではない。日本人が持っていた表現、理解、想像豊かな言語力に違いない。

 遠征記は日本人の読み書きや好奇心に触れ、街の人々が接近を禁じられても新奇な物の名称を水兵らに尋ね、観察、筆記したと驚いている。

 今年の科学技術白書が留学や研究の海外進出沈滞に「内向き志向鮮明」と警鐘。若者の海外旅行離れ。新学習指導要領は言語力育成を重点に。記述解答欄に目立つ白紙。コミュニケーション苦手の「婚活」に支援政策……。最近のこんなニュースにあの時代の若々しいエネルギーを思う。(論説室)




毎日新聞 2009年6月30日 東京朝刊


 


妊婦と通勤=磯崎由美

2009-07-12 | Weblog




 午前7時のJR京浜東北線は既に通勤客で満員だ。「もうだめ」。由紀さん(29)は途中下車してベンチに座り込み、つわりが収まるのを待った。埼玉の川口駅から東京・新橋まで35分。妊娠が分かり会社に出勤時間を1時間早めてもらったが、朝のラッシュは変わらなかった。

 友人がつけていたマタニティマークを思い出し、駅でもらった。マークは妊産婦にやさしい環境づくりのために厚生労働省が3年前に作成。各駅にもマークを見たら席を譲るよう呼びかける啓発ポスターが張られている。

 でも由紀さんがマークをつけた3カ月間で、席を譲られたのは2回だけ。年配の男性会社員は疲れ切り、若者はゲームや音楽に夢中だ。つわりは収まらず通勤電車恐怖症になった。退職を考えた時、会社が配慮して産休を前倒ししてくれたが、その分無給期間が延びた。「育児の経済負担を考えたら、本当は制度通り9カ月まで働きたかった」

 席を譲る人が少ないのは、マークの知名度の低さだけではなさそうだ。インターネット上では同じような経験を投稿した女性に対し「妊娠は病気でなく自分で選択したこと」「みんな疲れていて、座りたいのは同じ」といった批判が目立つ。

 確かに通勤ラッシュは誰もがつらい。郊外に家を買いローン返済のため長時間通勤する男性会社員も、せめて朝の電車ぐらい座りたいだろう。でも一方で、妊娠後数カ月間の通勤がきつくて仕事をあきらめる女性もいるとしたら。

 障害者や高齢者に席を譲る人は増えたと感じるが、通勤する妊婦は別なのだろうか。国も企業も「働くママの育児支援」を掲げる時代、変わらぬ何かの象徴にも思える。(生活報道センター)

毎日新聞 2009年6月24日 東京朝刊


抵抗=玉木研二

2009-07-12 | Weblog




 ちょうど今ごろの時節。

 大阪の繁華街、天六交差点で軍服の1等兵が信号を無視して横切ろうとし、交通巡査がとがめて口論になった。

 引き立てられた派出所で兵士と巡査は殴り合いとなり、通行人の通報で憲兵たちが駆けつける。

 1933(昭和8)年6月17日昼前。世にいう「ゴーストップ(信号機)事件」はこんないさかいから起きた。

 兵士は休暇外出していた。警察側は「兵隊でも交通規則は守るべきだ」と言い、憲兵側は「街頭で帝国軍人を侮辱し、皇軍の威信を傷つけた」と息巻く。大阪府警察部長・粟屋(あわや)仙吉は「そちらが天皇の兵隊なら、こちらは天皇の巡査」と一歩も譲らない。

 第4師団長・寺内寿一(ひさいち)らは激怒、話は中央へ伝わり、軍優位を思い知らせようとする陸軍と内務省のメンツをかけた対立に発展した。

 まるでチョウの羽ばたきがめぐりめぐって大風を起こす「バタフライ効果」のごとしだ。「何やねん」と汗まみれでつかみ合っていた2人は、こんな大事(おおごと)になろうとは想像もしなかっただろう。

 陸相も乗り出し、5カ月後にやっと「和解」するが、実態は警察(府、内務省)側が寄り切られたものだ。この後、軍部に他官庁が正面から刃向かうことはなくなった。

 敗れたとはいえ粟屋らが示した抵抗と、昨今の政官界の言動の軽さをつい比べ思う。「ぶれ」つまり食言も平然、譲れないはずのこともさほど抵抗なく明け渡す様と。

 さて寺内は出世して軍部台頭にかかわり、元帥に上りつめるが南方で敗戦、翌46年没した。軍に抵抗した粟屋は戦時中に広島市長に任じられ、45年8月、原爆で殉職した。街の河畔に小さな碑がある。(論説室)


 

毎日新聞 2009年6月23日 東京朝刊


広場のテスト=福島良典

2009-07-12 | Weblog




 「広場のテスト」という言葉がある。作者はイスラエルのシャランスキー元副首相だ。人々が集まる広場で政府を批判できるのは民主化された自由社会。それができない恐怖社会には民主主義を広げなければならないと説く。

 ウクライナ生まれのシャランスキー氏はイスラエル移住前、ソ連で反体制活動家として投獄された過去を持つ。冷戦時代にモスクワの人権団体が体制による抑圧を世界に訴えたことが、ソ連崩壊の呼び水となったと分析する。

 イラン大統領選挙の結果に抗議する反政府デモは「広場のテスト」の実況中継を見ている感がある。デモ隊の主体はホメイニ師らによる1979年のイラン・イスラム革命を知らない若者たちだ。

 変化には予兆がある。イラン大統領選の5日前にあったレバノン国民議会選ではイラン影響下にあるとされるイスラム教シーア派組織ヒズボラが敗れ、親米連合が勝利した。

 国際社会との協調を掲げる改革派のムサビ元首相を支持するイランの若者たちはレバノンを見ていたはずだ。「次は私たちの番だ」と。

 だが、「民主主義を求めるイラン国民の意見は無視された」。在仏イラン人作家のマルジャン・サトラピさん(39)は選挙結果を保守強硬派による「クーデター」と呼ぶ。

 国際社会は息をひそめて成り行きを見守っている。欧米諸国がデモ隊への「暴力」を非難しつつ、イラン政府との対話を排除していないのは、一寸先が読めないためだ。

 イラン最高指導者ハメネイ師は「不正はあり得ない」とデモ中止を求める最後通告を出した。「イランの天安門」になるのか、それとも「テヘランの春」につながるのか。テストはこれからが本番だ。(ブリュッセル支局)


 

毎日新聞 2009年6月22日 東京朝刊


1984=潟永秀一郎

2009-07-12 | Weblog




 その年の夏、私は東京・赤坂の歩道脇に、タオルを枕に横たわっていた。深夜の工事現場の1時間休憩。通りに背を向け目を閉じていても、過剰な自意識がヒリヒリ痛んだ。酔客や閉店後のホステスらが間近を行き交うが、気に留める人などないことを、乱れない靴音が伝えた。そうだよなと苦笑し、睡魔に落ちた。

 あのころ、日銭稼ぎには不自由しなかった。封筒の数千円を手に牛丼屋で腹をふくらせ、昼に起きて本を読んだ。カネが尽きればまた日雇いを探す無為徒食の日々。だが、月夜に雲が飛ぶ嵐の前夜のように、不穏で浮き立った気配が街を覆っていた。バブル助走期。同級生の大半は就職し、卒業のめどもないまま23歳を迎えたが、「何とかなる」根拠のない確信があった。

 いま、村上春樹さんの新作「1Q84」を読んで思い出すのは、当時の現実感の希薄さだ。バブルの嵐は日々刻々街並みと株価を変えたが、奇妙に明るい浮遊感はむしろ、前夜の数年の方が強かった。同書が描く「もう一つの世界」に迷い込んだかのような違和感は、現実逃避の夢想とない交ぜに、大脳皮質に埋め込まれた。錯覚はしばしば、人を挫折や絶望から救う。が、社会を一種の虚構と見る意識は無責任だとされ、私たちは軽佻浮薄(けいちょうふはく)な「新人類」と呼ばれることになる。

 そして25年が過ぎた。今も「目覚めたら赤坂の路上かも」という非現実感は消えないが、だからこそ変わらない確かなものへの希求は強まった。それは移ろう外界になく、心の内に守るもの--同書は無償の愛を挙げる。人生を閉じる時、私も「永遠の何か」を抱いて旅立ちたいと願う。分刻みの体内時計から、そろそろ秒針を外そうと思う。(報道部)


 

毎日新聞 2009年6月21日 東京朝刊


幻の「悪人」論=伊藤智永

2009-07-12 | Weblog




 高坂正尭執筆「佐藤栄作論--政治の世界における悪人の効用」。日の目を見なかったこんな長期連載のプランが1970年代にあったと聞いて、思わずうなった。

 休刊した月刊誌「諸君!」の名編集者だった東真史氏が企画。佐藤の自民党総裁4選で、まんまと一杯食わされた前尾繁三郎元衆院議長に取材も始めていたが、立ち消えになったという。惜しい。

 今でこそ戦後の偉人とされる吉田茂も、60年安保のころまでは、世論に耳を傾けない対米追従のワンマンとしてすこぶる不人気だった。評価を一変させたのが、高坂氏の名著「宰相吉田茂」だ。

 佐藤は今も往年の吉田以上に人気がない。自由党幹事長の時、疑獄事件での逮捕を指揮権発動で免れ、沖縄返還は総裁選でライバルへの対抗上公約したのがきっかけだった。中国が核実験を行うと米国に日本の核武装の可能性をちらつかせつつ、国会では非核三原則を表明。しかも沖縄への「核持ち込み」密約を結び、猛烈な集票工作でノーベル平和賞まで勝ち取った。

 「保守政権にすり寄るタカ派御用学者」との陰口にもめげず、佐藤ブレーンであり続けた高坂氏なら、この「悪人」ぶりを現実政治に不可避な「効用」として、どう得心させてくれただろうか。

 高坂氏は、佐藤を「政治的悪人」と好感する半面、例えば田中角栄は全く評価しなかった。政治の「悪」は、庶民感覚や道徳倫理の「悪」とは別モノというわけだ。

 一体、政治指導者の大衆人気ほど当てにならない物差しもないだろう。最近は「嫌われ者」で名高い明治の元勲・山県有朋の再評価も始まっている。マニフェストに「悪」の数値は載っていない。(外信部)


 

毎日新聞 2009年6月20日 東京朝刊


太陽がもったいない=福本容子

2009-07-12 | Weblog




 今度の日曜は夏至。東京では4時25分に太陽が昇る。北海道の根室はなんと3時37分。寝ていると分からない。

 東京で4時台の日の出は年に114日もある。朝7時に起きる人は、この間、毎日2時間以上の明るい時間を布団の中で過ごす。2×114とざっくりした計算で年228時間。20年続けたら、1年分の昼間を寝たまま失ってしまう。MOTTAINAI!

 102年前、イギリスの建築業者、ウィリアム・ウィレットさんが訴えたことをまねてみた。英国で初めてサマータイムを提唱した人である。

 4月から9月まで80分、時計を進める案だった。午後7時の日没は8時20分になる。「7歳の子供が72歳になるまでに3年分の昼間が稼げる」。それをしないのは「文明の欠陥」とまで言い切ったパンフレットを自費で作り、国会議員らに配って回った。

 温室効果ガス削減が目的じゃない。早朝に乗馬を楽しんでいて「こんなに明るいのにみんな寝てるのはもったいない」というおせっかい精神を起こしたのが出発点。気分、幸せ感の問題だったのだ。

 第一次世界大戦が始まり、結果的に石炭の節約目的で始まった夏時間だったけれど、多くの国で続くのは幸せ感の味をしめたからだろう。

 日本は温暖化とか省エネとか労働時間短縮とかで議論したのが多分よくなかった。20年も「検討課題」で、サミット議長国の年だけ半歩前進するけれど、実現しない。議論ばかりして変化を起こせない日本の政治の象徴のよう。

 「何もしないと何も得られない」とウィレットさんのパンフレット。文句と改良はやってみてから。梅雨の切れ間の晴れた夕方、これが8時だったらと想像してみません?(経済部)


 

毎日新聞 2009年6月19日 東京朝刊


レスラー=玉木研二~学べない=磯崎由美

2009-07-09 | Weblog




 <誰か僕の墓碑に、次のような一句をきざんでくれる人はないか。「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」>

 太宰治は小説「正義と微笑」でこう書いた。

 リングに倒れたプロレスラー、三沢光晴さん(46)の悲報にこの言葉を思った。

 プロレスラーは観衆の感興を勝ち得てプロである。かつて取材したベテランは試合前の控室で「戦う相手は客なんだ。ウケなければ自分たちの負け」と言ったものだ。

 格闘技は常に先制し、相手の得意技を封じるのが第一だが、プロレスは相手の得意技を存分に出させ、受けてしのぐ。ストーリーを生み、空気のうねりのようなもので会場を包み初めて一流である。

 1980年代初め、ジャイアント馬場の全日本プロレスに入門した三沢さんは、メキシコ修行に出された。マスクマンらが華麗な空中技を駆使して「正邪の戦い」を繰り広げ、観衆を興奮の渦に引き込む。その骨法を学んで帰国、2代目タイガーマスクとなり、数年の間素顔を隠し華麗な技で人気を博した。覆面を取った後は、正統派エースとして、リングを囲む歓呼に絶えぬ傷を押して応えた。

 格闘技ブームでプロレス界にもシュート(真剣勝負)がもてはやされたころ、馬場率いる全日本プロレスは<私、プロレスを独占させていただきます>と宣言した。そこには「客を楽しませてこそ」という文字通り体を張っての自負と誇りがあったろう。その流れを三沢さんは継いだ。

 最後に受けた技はバックドロップ(岩石落とし)だったという。今のプロレスのスタイルを開いた「鉄人」ルー・テーズが、往時最も得意とした技である。(論説室)


 
毎日新聞 2009年6月16日 東京朝刊






学べない=磯崎由美


 親に経済力がないために、子が進学をあきらめる。戦後64年たった日本でなぜこんな話が珍しくなくなっているのだろう。

 奨学金制度の貧しさを取り上げたくらしナビ面連載「学びたいのに」に対し、日々切実な反響をいただいている。多くは夫の失業や病気で家計が危うくなり、教育費負担にあえぐ母たちの訴えだ。学校現場からも、志ある生徒を教育の場に引き留められない無力感がつづられてきた。

 その一方で「苦しくても自力で頑張っている人は大勢いる」など、奨学金制度の拡充に批判的な意見もわずかだがある。多くの人が何らかの生活苦を感じざるを得ない時代が、一部の家庭への支援拡充を受け入れがたくしているのかもしれない。

 教育への公的負担が多い欧米で<奨学金=給付>が基本なのに対し、「教育は家庭が担う」という考えの根強い日本は<奨学金=貸与(借金)>。少し前まで「親が屋台を引いて息子を東京の私大に入れた」といった話をよく聞いたが、今の低所得家庭をみていると、その踏ん張りすら利かない。公立でも学費と収入の差があまりに大きい。

 奨学金を借りる学生の環境も一変し、もはや大学を出ても安定した職に就くのは容易でない。ところが小泉改革のもとで奨学金は民間ローン的な性格を強めた。日本学生支援機構はこの10年間で無利子の貸与枠をほとんど増やさず、代わりに有利子を10倍にした。受験に合格したものの、先々が不安で入学を辞退する子までいるという。

 日本人にとって教育とは「社会の未来への投資」というよりも、いまだに裕福でない家は借金をして買う「ぜいたく品」なのだろうか。(生活報道センター)


 

毎日新聞 2009年6月17日 東京朝刊

 


森光子さんの非戦論=広岩近広

2009-07-09 | Weblog




 女優の森光子さんに国民栄誉賞が贈られる。89歳、現役の俳優としては初めてという。41歳から演じ続けた「放浪記」の主演が2000回に達したのだから、これは栄誉にふさわしい。

 今年1月にインタビューしたとき、3カ月前に劇場で見た「放浪記」の森さんと違って、ほっそりして小柄だったので驚いた。舞台で大きく見せることができるのが、大女優の真骨頂なのだと感じ入った覚えがある。

 そうした女優とは、また別の素顔に接することができた。戦時下の体験を語る森さんの表情は研ぎ澄まされていた。13歳で両親を亡くし、頼りにしていた兄は南方戦線で戦死する。残された妹と2人で食べていくために、森さんは懸命だった。

 前座歌手として戦地慰問団に加わりジャワ島やティモール島を巡るなかで、不条理な死に幾度となく遭遇する。帰りの燃料を積んでいない飛行士を見送ったこともある。一緒に出航した5隻の輸送船のうち1隻が米軍の魚雷で撃沈された。紙一重の生死であった。風景が一変した、激しい空襲にも見舞われた。

 「戦争だけは何があってもしてはいけません」。森さんは強く言ってから、舞台の林芙美子さながらの口調になった。「私たちの時代は戦争で青春が真っ暗でした。戦争を体験してきた者として、幸せの根底にあるのは平和で、平和がすべての礎だということを声を大にして言いたい。放浪記だって平和だから演じ続けられるし、お客さまにご覧になっていただけるのだと思います。平和でなければ、誰も幸せになれないのです」

 森光子さんの非戦論は、戦争の実相をつぶさに見た体験に裏打ちされている。(編集局)


 

毎日新聞 2009年6月14日 東京朝刊