荒井一博 『終身雇用制と日本文化』 ( p.113 )
ここに書かれている内容を整理すれば、おおむね、次のとおりです。
(1) 日本人は、どうしても実現したい事柄を実現するためには、民主的な手続きをとらない。民主的な手続きがとられるのは、どうでもよい事柄に関してである。
(2) また、どうしても実現したい事柄を実現する際には、それがあたかも、民主的な手続きによって決められたかのごとき外観 ( 形式 ) を整えるために、空気 ( による多数決 ) が利用される。その際、反対意見を述べる者は、内容のいかんにかかわらず ( 多数の意見に反しているというだけで ) 、非難される。
(3) どうしても実現したい事柄の典型例は、不祥事の隠蔽である。
「組織にとって最善な決定は、多数決では得られない」 ならば、「さして重要でない案件に関して」 も民主的な手続きはとられないと思います。したがって、「個人の意見をさまざまな手段を使って抑圧することは、会議の案件が一部の成員にとって重要であるほど強力になる」 のは、「組織のために、正しい決定を行うためではない」 と考えられます。
つまり、そこでは 「正しさ」 は求められておらず、「組織にとっての」 最善 ( 利益 ) も求められていない、と考えられます。
それではなにが求められているのか、と考えれば、当人の利益しか考えられないのではないか、と思います。すなわち、「一部の成員にとって重要」 な事柄において、「一部の成員」 の利益を図るために、異論を 「さまざまな手段を使って抑圧する」 と考えるほか、ないのではないかと思います。
とすれば、このような人々は、組織を私益を図る手段として利用している、と考えるほかなく、本当の意味で組織の利益を考えていない、といえそうです。
これを、日本 「文化」 というには抵抗がありますが、書名から考えて、著者は日本 「文化」 だと捉えています。
「空気」は、組織内の一部の成員によって人為的につくられる場合が多い。人為的に「空気」をつくる場合にも結託が利用される。一人だけで「空気」をつくることはできない。反対意見を述べる者は、たとえそれが客観的な基礎に立脚していても、「空気を乱す者」として非難の対象となる。
(中略)
先の不祥事に関連しても、各組織内で多数の会議がなされたであろう。そしてそこでは不祥事を抑止するような意見も必ず出ているはずである。そうした意見は、反組織的なものとして抑圧されたに違いない。そうした意見をいう者は、「問題児」というレッテルを貼られた可能性がある。個人の意見をさまざまな手段を使って抑圧することは、会議の案件が一部の成員にとって重要であるほど強力になる。さして重要でない案件に関しては民主的な手続きがとられ、きわめて重要な案件に関しては非民主的な手続きがとられる。
ここに書かれている内容を整理すれば、おおむね、次のとおりです。
(1) 日本人は、どうしても実現したい事柄を実現するためには、民主的な手続きをとらない。民主的な手続きがとられるのは、どうでもよい事柄に関してである。
(2) また、どうしても実現したい事柄を実現する際には、それがあたかも、民主的な手続きによって決められたかのごとき外観 ( 形式 ) を整えるために、空気 ( による多数決 ) が利用される。その際、反対意見を述べる者は、内容のいかんにかかわらず ( 多数の意見に反しているというだけで ) 、非難される。
(3) どうしても実現したい事柄の典型例は、不祥事の隠蔽である。
「組織にとって最善な決定は、多数決では得られない」 ならば、「さして重要でない案件に関して」 も民主的な手続きはとられないと思います。したがって、「個人の意見をさまざまな手段を使って抑圧することは、会議の案件が一部の成員にとって重要であるほど強力になる」 のは、「組織のために、正しい決定を行うためではない」 と考えられます。
つまり、そこでは 「正しさ」 は求められておらず、「組織にとっての」 最善 ( 利益 ) も求められていない、と考えられます。
それではなにが求められているのか、と考えれば、当人の利益しか考えられないのではないか、と思います。すなわち、「一部の成員にとって重要」 な事柄において、「一部の成員」 の利益を図るために、異論を 「さまざまな手段を使って抑圧する」 と考えるほか、ないのではないかと思います。
とすれば、このような人々は、組織を私益を図る手段として利用している、と考えるほかなく、本当の意味で組織の利益を考えていない、といえそうです。
これを、日本 「文化」 というには抵抗がありますが、書名から考えて、著者は日本 「文化」 だと捉えています。