goo blog サービス終了のお知らせ 

鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城の城壁 3

2016年11月15日 | 大鎌倉城
 上地図は、赤色立体地図と国土交通省の一万分の一地図です。
青いラインは、七口を結ぶ防衛ラインと、国土交通省の赤ラインは、切岸の場所。

 誰が、、、
鎌倉は「自然の要害の地」と言ったのか?
「吾妻鏡」に書かれたことは、『千葉常胤は、鎌倉が要害の地であるので本拠地とすることを提言している。』
この文に吾妻鏡には書かれて無い「自然の」を加え、尾ヒレを付けたのは戦後の研究者と憶測します。
これでは、頼朝が鎌倉に入った後の築城の歴史を無視している。

この「要害の地」は頼朝が鎌倉に入る前の状況であり、それを根拠に現在の遺構も「鎌倉は自然の要害の地」と主張するのは、歴史の流れを無視し、古文献の記述を無視し、鎌倉の地形は知らない。
自分で調べず、他人の説に盲従した知識の受け売り!  そんな研究書が大半と感じます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城の城壁 2

2016年11月11日 | 大鎌倉城
〉赤色立体地図 (うにゅー)
〉2016-11-09 12:17:46
尾根の周りに真っ黒な縁取り(つまりは急斜面=断崖)だらけになるのは、
〉この地域(鎌倉)ならではの特色ではないかと思います。他の、城郭で
〉はない地形(三浦方面とか?)の同じような画像と比較すると面白いか
〉もしれませんね。

「鎌倉城の城壁1」の立体地図は1000×2000ピクセルの画像です。
倍率も高く地形の省略の少ない詳細な地図です。

さて、、
鎌倉特有な山とは、どの様な物でしょうか?
一般的な山は、山の上は傾斜が厳しく、裾野はナダラカデあるのが通常です。
下の図は箱根から丹沢山の状況ですが、、、

 如何でしょうか?
山の上は赤味が強いが、裾野は白っぽい。
鎌倉の山は、総ての裾野が赤黒く、真っ黒な縁取り(つまりは急斜面=断崖)となっています。
自然な地形ではなく、人手で工作された地形である根拠です。
それも、一部ではなく鎌倉山の総てで工作された痕跡が有る訳です。
鎌倉の山は、一つの考えに基づき人の手が加わった工作物と言えるでしょう。

 自然地形では部分的にその様な場所が有りますが、川で削り取られ断崖になった山裾がその様な地形です。、
 鎌倉は総て山裾は崖であり、自然界には無い山の形です。
そして、
もう一枚の地図は、兵庫県姫路市山田町 
南山田城=後藤又兵衛の居城(米粒みたいに小さく描かれています)

峰と峰の間は谷ですが、その谷はV字型に切れ込んでいます。
鎌倉は、、、、
V字ではなく谷底は平らに成り、家が建てられる広さが有るのが特徴で、すべての谷がその様に成っています。
これが、人為的に山は加工されたと考える「私の根拠です。」
決して「鎌倉は、天然自然の要害の地!」ではありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城の城壁 1

2016年11月08日 | 大鎌倉城

 上は海蔵寺裏の大切岸、下は稲村ヶ崎です。

赤色立体地図の地図と、CMです。
> アジア航測グループ
> 赤色立体地図の特徴
> 赤色立体地図の作成は、スケールを問わず
> 地形標高データであれば、空中写真測量や
> 現地測量による既存の等高線データ(3次元
> DMなど)でも、お手持ちのDEMデータ
> でも、市販の数値地図(標高)からでも、
> どのようなデータからでも作成可能です。
> 特に、航空レーザ計測で作成した高精度DEM/
> DSMを使って作成すれば、赤色立体地図の効
> 果・威力は倍増し、たとえ樹木に覆われた
> 森林地帯であろうとも、地形がくっきり浮
> かび上がり、これまで見ることのできなかっ
> た土地のすがたを見ることができます。

問題の地図ですが、、、、
ご覧頂いて、何を感じますか?
精度と言い、直観的な視覚に訴える表現の素晴らしさ!
「一万分の一地図より詳細です。」
「樹木覆われた地形の地表がはっきりと表現されている!」
白い処は傾斜が無い場所、赤は、傾斜の場所、暗赤色は急激な傾斜の場所です。
此処まで地表がハッキリと示されたら、、、
誰の目にも城構造が判る。 カナ、、、??
判らなくても、解説付きならると思います。
今回は、解説無しでご覧ください。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長窪谷戸の城としての機能は、、、

2016年10月27日 | 大鎌倉城


 色々な3Dソフトが有りますが、、、本物の立体視にはかないません!
初めから、、、長窪谷戸は隠し砦であり、敵に察知されない事を前提で作られた。
 ッと考えられます。
それとは別に脇には、誰でも解る様な「此処を攻めて下さい!」っと言う大船高校に潰された砦が存在し長窪の谷戸のダミーと考えられます。

この時代の最強兵器は、騎馬隊であったと考えられるが、この騎馬隊を、七口の内側に入れたら、、騎馬隊は外に出られず無用の長物となり、戦力も落ちる。
その為には馬場を七口の外側に備える必要が有る訳です。
尚その上に、七口の内側と連絡できる経路を持つ必要が有る。
戦いの時は、七口の内部と騎馬隊は連携して作戦をする必要が有りますから、連絡をを必要とする。
長窪谷戸は、円覚寺裏山やら建長寺の半僧坊を通り、八幡神社裏に出る道が有る。
状況から騎馬隊を収容する砦と考える訳ですが、、、、
此処に在る事は、恐らく他の七口にも有ると考えるのが、鎌倉の城を計画した時のパターンと思います。
以上より、、
      通常言われる七口のラインが城と言う考えや、
      七口が防御機能を持つ考えは、、
      鎌倉城を理解していない専門家の考えである!
      七口を繋いだラインは、鎌倉市内に入る事を阻止した城壁です。
      戦う為の砦構造は、城壁の外にある山で大半は住宅地ですが、、
      大企業の宅地造成でなければ痕跡は残る。
      その様な広大な場所を、誰も調べた人が無い結果、、
      「鎌倉には城が無い!」と言う結論を出した。
      調べもせずに、、、
      調べる時間、労力、古典を調べる能力、も無しに
      結論を出す非科学的な城郭研究者が情けない。

    

写真上、「凸凹(でこぼこ)MAP」
写真下、「Bingマップ」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城破壊の軌跡 その4の画像に赤点を加えました。

2016年08月27日 | 大鎌倉城
MS explorerでも、MS Edgeでもツールで拡大縮小して画像を小さくし、両目の幅より狭くすると見えます。
焦点合わせで赤丸の目印を付ければ良かったのですが、手を抜きました。
鎌倉城破壊の軌跡 その4の画像に赤丸を入れたので、試してください。
赤丸の目印の幅を、両目の幅より狭くすると、谷が峰では無く、チャンと凹んで見えます。
早い話がトリックアートの世界ですから、、、自分の自由意志で出たり、凹んだり出来る世界です。
水路は、了解しました。
高野の切通より、真西に一直線に伸びる谷に流れ込んでいたようですね!

鎌倉城破壊の軌跡 その4の画像です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城破壊の軌跡その4のコメントより、

2016年08月26日 | 大鎌倉城
〉うにゅー
〉2016-08-24 19:22:56
〉なかなか迫力のある3D画像ですが、地形改変によるものか、
〉あるいは特異な地形によるものなのか、現在の地形との対比
〉が今ひとつわからないのです。
〉左下の斜めのラインが横須賀線、左上斜めのラインが現在の
〉鎌倉街道、右中央の山が六国見山、中央やや左上に高野切通、
〉上部中央の台地がへっこんでる部分の右側に大船切通がある
〉という解釈でよろしいでしょうか?

私の手抜き記事をマトモに指摘されてしまいました。
新旧の対比写真を載せるべきと、思いつつ、、、手を抜きました。
うにゅーさんに限らず、他の人は更に判りにくかったと思います。
心を入れ替えて、チャンと記事を作ります。

大船高校は1983年開校とあります。

上の写真は、1970年代の大船高校建設以前の写真です。


上の写真は、1980年代の大船高校建設途中の写真でず。
○1は、大船の切通で、脇に熊野神社が有ります。
○2は、建設着手の大船高校です。
○3は、高野の切通しです。
○4は、長窪の谷戸です。
○5は、北鎌倉駅です。
○6は、横須賀線の線路です。
○7は、鎌倉街道です。
○8は、大船高校や長窪野谷戸に車で行くには、この道意外は入れない。


上の写真は、1990年代の大船高校開校後の写真です。

不明な点と、間違えは遠慮なくコメントをして下さい。

映像は、国土地理院の空中写真を使用。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城破壊の軌跡 その4

2016年08月23日 | 大鎌倉城

 上は、国土地理院の空中写真で、時代は1970年代の大船高校の出来る前です。
下の細長いのは、長窪の谷戸で、
其処へ行く道は、高野の切通し以外は、自転車、荷車リアカーの類は通る道が無い時代です。
その位に長窪の谷戸は奇妙な平地で在った訳です。
そして大船の切通の入口がオープンな状態と、高野の切通の隠された砦と対照的な場所です。
 大船高校の敷地の有る場所が、台峰の砦構造と共通なモノを整地して学校を建てた訳です。
台峰だけが特殊な砦構造では無いと言う訳です。
この六国見山周囲の砦遺構だけでも、優にそこらの山城より大きい訳です。
挙句は、新田義貞の鎌倉攻めでも使われた様子が無い!
当時の天下分け目の大戦争でも、此処を守る人手が足りなかったという訳です。
鎌倉幕府軍と新田軍の兵士を集めてやっと守れる巨大さです。
其処で起きる疑問が、、、
「誰と戦うのだ!」  と言う事です。

何処もかしこも、鎌倉の山中は人手の入った砦構造をしている訳です。
「鎌倉は要害である」と吾妻鏡の常胤が頼朝の使いの盛長に言った言葉で、
鎌倉に入る前の話です。
その古い文献に尾ヒレがついて、「三方が山に囲まれ南は海の天然の要害」となった。
実際は人手の入った要塞で、自然の山を多数登った経験があれば、鎌倉周囲の山を見れば人工的な山であると区別ができる。
間違えが風評ならよいが、書籍でばら撒かれて、定説に成ったのです。
一応は、考古学や歴史の学問の問題で書籍を出した研究者の思考能力の低さと現地を観察せずに結論を出した調査不足の問題です。
何が風評で、ガサネタか? その判断は、自身で鎌倉を散策して情報を蓄積する必要が有る。
単なる知識ではなく、自分で見て考える事が必要です。
知識はWebにイクラでも転がっています。
単なる知識は小中学、や高校レベルで得られる能力ですが、、
知識の上で、独自なモノの見方や考え方を身に付けるのは大学で要求される能力です。
 私の出身大学? 当時大学紛争と言うのが有りましたが、金を出して行く価値は無かった。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城破壊の軌跡 その3

2016年07月30日 | 大鎌倉城
鎌倉の防衛施設の存在は、
切岸と七口以外には、語る人は稀です。
海蔵寺裏の大堀切なんて言うのが有れば、珍しいのですが、、、
それも理屈に合わない堀切論です。それも、発掘調査で5m程掘り込んだが、それ以上は掘らなかった。(防衛施設が出土するのでは?なんていう想定だった様で、完全な予想外れでした。)
掘らなくても 防衛施設は誰でも見れます。
あまりにも巨大で判らなかったのかな??

以降は、立体視をする必要があります。
空中写真では、思いもよらない情報量が立体視で得られるのですが、、、
是非習得して下さい。 下記HPを参考にしてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0
立体視の平行法を使って作図をしています。

谷を上がってくる敵を、三方の高みから矢で射殺す作戦が想定されます。

 現北鎌倉女学院のグランドの以前の姿です。
貴方の右目と左目の間を鏡を見ながら測り、画像ズームでその寸法以内に赤点を調節してください。
地図でも表現できない! 写真でも伝わらない! 現地を見ても判らない!
デモ、立体視をしたら、、、一目瞭然の寄せる敵を退ける砦構造です。
是非立体視を習得してください。


切岸は、崖の付け根から上まで同じ傾斜で造られ、自然地形の跡形も無く人工的で、ひな壇状の砦構造が有ります。
それも、馬蹄型の敵を三方から矢を射かける構造です。

何処が、鎌倉は自然の要害なのでしょうか?
鎌倉は、調査されずに未開発な研究であり、鎌倉城が在るにしても無いにしても、全容を調べた人は無いし、鎌倉城を自信をもって語れる人は現時点では無い。
「鎌倉は自然の要害」なんて言う人は、常識の受け売りで、自分の考えが無い人です。


「鎌倉は要害!」っと言ったのは、、頼朝が都を何処に作ろうか?と迷った時に、進言した武将千葉常胤の言葉です。
それは、頼朝が千葉にいた時で、鎌倉が都に成る前の話です。
その後、
鎌倉に入り、人工的に切岸や、七口、砦等の人工的な城を造った。

時間系列に沿った考えでマトメタのが歴史学です。
単なる知識ではなく、知識をマトメル教養の域まで考えを整理するのが歴史学です。
鎌倉城を造る前の「鎌倉は自然の要害!」が何時までも生きているのが常識です。
しかし、鎌倉を調べた事の無い研究者が流布した無責任な研究が出処です。
その後の鎌倉城が確認できる文章は九条兼実の「玉葉」にあります。
実際の城遺構を朝廷側は確認している訳です。



これは、山崎の水道局施設が無い時代の以前の姿です。



昭和54年の台峰です。
写真下の赤丸の脇にある四角いのが水道局施設です。
見るも無残に消滅し、、、
調査もされずに、、挙句は鎌倉に城は無いなどと、半端な机上論の講師の説に賛同する鎌倉市民が居る訳ですが、、
 何故新田義貞が鎌倉市内に入れなかったのか??自分の足で調べ考えて下さい。
地元の現状に詳しい! それが、地元民のプライドと言うモノです。
よそ者の講義に異議を唱えられるのは、地元民の特権です。
辛うじて残った台峰の遺構も、消滅しようとしています。

立体視は、赤丸が貴方の左右の目の間隔より少し狭くなる様にブラウザーの倍率を調整したり、ディスクトップキャプチャ-でコピーして画像ソフトの倍率を調整して見て下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城破壊の軌跡 その2

2016年07月25日 | 大鎌倉城

 1963年の国土地理院空中写真で、梶ヶ谷団地の造成が始まりだした。
 北鎌倉女学院のグランドは、未だ造られていない。
 このグランドは鎌倉城では無く、畠の跡である! 何て言うのでしょうが、、、
1945年の話で、甲子園球場は畠が作られていた。だから、甲子園球場は畠の跡!なんて言う理屈は誰も言わない方便で、鎌倉城は無い事に成った。
鎌倉滅亡から数百年経ち、、 使い道のない平場には、畠が作られとも当然です。


 1968年の国土地理院空中写真です。梶ヶ谷団地の造成は完了し、水道局の施設が作られる。



 1947年の国土地理院空中写真です。
戦後間もない時期です。
倉久保の谷から台峰に攻め上がる時と、その結果は、、、
攻め手は三方の高みから、幕府側の弓矢で狙い撃ちをされる!

その時、攻撃の武器は有っても、急激な崖をよじ登る為、盾が無い攻め手は、三方からの矢を避ける事が出来ない。
その様な構造をしているのです。
どこかで聞いた事が有りませんか?
鎌倉は、三方が山に囲まれもう一方は海で要塞堅固な土地と思われている。
でもね、、鎌倉史の研究家は、外から攻めたら山で防げると思っている。
元寇は、船で海から攻めて来る事を忘れています。直接由比ヶ浜から攻められた時に
どの様な対処をするか???
その様な戦法をこの台峰の砦はでも使う。浜から上がって来た敵は三方の山から攻撃する。

北鎌倉女子のグランドの他に、台峰には何か所もその様な場所が有るのが写真からお判りでしょうか??
偶然の形では無く、故意に攻撃を返り討ちする為に作られた訳です。
この地形は台峰だけではありません。
 防御構造の一つは、北鎌倉女子のグラウンドに、もう一つは、水道局の施設として潰されたのを地図から確認してください。
これらの残る鎌倉城遺構は、大手企業に買い占められています。
ッとなると、、鎌倉に城が有っては、、困る方が居る訳です。
市民団体も「鎌倉城は無い!」
  そんな話に乗る方が大半の様で先の見込みは無い。
鎌倉の台峰、倉久保の谷は消滅の道をタドル訳です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城破壊の軌跡 その1

2016年07月15日 | 大鎌倉城
鎌倉城の基本的な構成は、
 一、城内の進入を遮断する 切岸!
 二、城内に出入りする道路!
 三、敵と戦う為の砦!
この三部構成に区別できる。

鎌倉城の話は、切岸と、七口で戦闘をした話が多々ありますが、
切岸の存在は知っていても、具体的な配置や規模を語られた事は無い。
鎌倉をどの様に囲っていたのか資料を見た事が無い。



上は、2015年の山の内上水場より北鎌倉女学院の運動場迄の航空写真です。
下は1968年の国土地理院の空中写真です。
この写真の中に、人を寄せ付けない切岸と「ここならば攻め入る事が出来そう!」と言う敵を誘う防衛施設という罠が有ります。
でも、この写真からでは、人工的に作られた城の構造は解りません!
自然保護の為に「管理不行き届き」の放置状態で破壊され始め、史跡としての景観も消える訳です。
この景観には、約50年の経過があります。
人工的に作られた「城」としての景観が破壊され、城が単なる山とされた。
目に見えるのは、草木ばかりで人工的な物が隠されているのです。
では、
何が砦なのでしょうか?
今でも残っているのでしょうか?
大手企業が土地を買い占めている場所ですから、近年に消滅するでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一つの考えに基づいた工作物

2016年07月12日 | 大鎌倉城

   上は 散在ヶ池の延長の切岸と考える今泉不動。


   上は 鎌倉市公園協会作成の散在ガ池森林公園パンフレット
せせらぎの小径とある場所に散在ヶ池の切岸が有る。


   上は 散在ガ池ですが、、、
 鎌倉城には、防衛施設が無い! ッと訳知りの方が言われるが、、、
切岸自体が防衛施設です。
絶対に切岸から鎌倉市内に入り込ませないのか? 敵を鎌倉市内に入り込ませる道もある。
それが敵を討ち取る為の罠の道です。
鎌倉城の広大な城の全体を見渡せないと、、、それは理解しにくい話です。
鎌倉城の防衛施設の概要を、 今後 説明しようと思います。


> 鎌倉散歩~切岸を間近で見て (黄色いメガネちゃん)
> 一つの考えに基づいた工作物、城壁としての切岸、ということであれば、これは大きな都> 市計画の一部ですね?

> その時代の人は鎌倉の地形や地質を知り尽くし、計画、工事をしたのでしょうね・・・。
> 切岸に残されている工具で削ったらしき跡を見ながら、
> 途方もなく長い年月と労力、技術が必要だっただろうと思われて少々興奮しました。

> 当然鎌倉の全体を把握していたはずですが、
> 私たちはその全貌を知らない。
> 忘れ去られた鎌倉ですね。


鎌倉散歩~切岸を間近で見て (黄色いメガネちゃん)
   ありがとうございます。

小さく調べれば、稲村、極楽寺、大仏、化粧坂、小袋坂、朝比奈切通、名越の切、小坪のライン。
大きく調べれば、腰越、手広、山崎、天神山、台、岩瀬,公田、イタチ川より六浦、逗子駅、より披露山までの大きなラインですが、
 余りにも
鎌倉城は広すぎて、私も目先の興味のある一部しか調べていません。
鎌倉歴史講座講師が、チョット調べて鎌倉を解説しても、観光客並みの現地視察では、、
鎌倉を語るには不十分。
鎌倉城は無い派の説に 古文献等の引用が少ない事から、文献の下調べは雑というか、軽く見ている様です。古文献を無視していると考えます。

 鎌倉城は無い派の研究方法は「日本城郭大系」と言う現代の研究本が根拠で、、、
その本に書かれた鎌倉城は、、城では無い!
    依って鎌倉には城が無い! っと結論を出している。
鎌倉滅亡から、600年以上経ち、当時の文献は消失し、太平記や梅松論に書かれた記述で当時を想像するのが一般的で、
鎌倉城の詳細の記述なぞ他には無い。

問題は、書かれたご自身が現地を調査したり、梅松論、太平記等の古文献の考察が無いのは、、  研究論文としては、余りにも視野が狭すぎませんか?
これらの古典を否定して「鎌倉城が無かった!」と言うなら反論もやり様が有りますが、、、

「もう一段深く見聞きし考察し直して貰いたいものです。」
      受講して、何の疑問が沸かなかった方への言葉です。

大半の「鎌倉城は無い派」の方は、鎌倉在住で受講できる時間の余裕がある方と思います。
是非 貴方の周囲から鎌倉城探しをやってください。
 半端な鎌倉の知識の講師に言われっぱなし!! なんて鎌倉住人として情けないでしょ?
私は住んでいませんが、、、、

「■日本城郭大系1 記 2015-06-22」当ブログに記載


古典文献を無視し、この「日本城郭大系」の研究の上げ足を取って、鎌倉城は無い!っと
説明された。 不思議な事に より信頼性のある古典文献の考察は無い。
古典文献は「鎌倉城は無い」と否定するには都合が悪い、故意に触れなかった?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日新聞に明治の稲村が崎の写真が有る!

2016年04月03日 | 大鎌倉城

拡大できる方は、試してください。大きな写真です。
2016年4月3日の朝刊に夏目漱石の差し出した絵葉書が掲載されている!
明治後期か大正の鎌倉との事。
今まで見た関東大震災前の写真の中で一番鮮明な写真です。
霊仙寺の跡と、その道と思える微妙な陰影が、、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉に城は無い!大宰府 1

2016年02月24日 | 大鎌倉城
そして、、、
このテーマはこれで終わりではなく、、、
トテモ大きな感違いをしていた事に気付いたのです。
どう考えても、、、
新田義貞を迎え撃つ城にしては、、鎌倉城は巨大すぎて、
城の半分も機能して無い。
それでも、当時の日本を半分に分けて戦った「天下分け目」の戦いで在った訳です。
幕府が鎌倉城を考えた仮想敵は、もっと巨大な敵だったのです。
鎌倉城は私が考えた以上の巨大な城で、、、、
今まで以上に一回り上の範囲で考察する必要が在った訳です。
その範囲は、西では七里ヶ浜の外れで小動岬辺りまで、、、
日本国の武士を結集して「元寇」と戦う為の城!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由比ヶ浜関谷線

2015年10月06日 | 大鎌倉城

上の図は「鎌倉に城は無かった!12」の拡大図です。
> 由比ヶ浜関谷線 (うにゅー)
> 図面は、鎌倉市のサイトからpdfをダウンロードし、ビューワーで
> 適当に400パーセントぐらいまで拡大してみてみました。今バソコンの
> ない環境にいますので明確なアドレスは示せませんが、「由比ヶ浜関
> 谷線」か、文書のタイトルで検索できるかと思います。
> 地元民ではないのであまり厳密ではないかもしれませんが、源氏山
> 葛原岡では、扇谷側の斜面を(あれ?化粧坂は?)通過?、瓜が谷のや
> ぐらのある田んぼの西側で既存の瓜が谷の道路と交差するのでしようか。
> (私の地図の解釈が間違ってたらすみません)

 (うにゅー)サンの書かれた通過点と同様に考えています。
この周辺は、鎌倉城の大手に当たる場所で、、、
堰水橋、中の道、化粧坂へ続く鎌倉城のメイン道路で、新田義貞が鎌倉攻めで主力部隊を投入し多地点であり、攻めたが落とせなかった場所です。
それを寸断し、景観を大幅に変える道路です。
鎌倉城の存在を認めたら、この道路計画は反故になる。
北鎌倉の緑洞門の規模と比べ様が無く大きい話です。
反対するにも半端なポリシーと市民の結束程度では、対抗できないでしょうね。市民の車社会に貢献し、便利になる事で市民の結束を分断するでしょうから、政治に押し切られるのは目に見えます。
これにて「由比ヶ浜関谷線」の話は終わり!
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉の文化遺産って、、守れるの??

2015年09月24日 | 大鎌倉城


「高木規矩郎氏のブログ」より
  3人で画策された洞門開削(記録文書3)
http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/5070859.html
(7月16日)「北鎌倉素掘りトンネル対策面談」とともに「北鎌倉緑の洞門「JR北鎌倉駅沿いトンネルに係るA氏・B氏・辻会長との協議」(2011年8月24日)の概要です。

市側と、A氏・B氏・辻会長が仕組んでトンネルを消して自動車が通れるように!」と言う話です。
対する反対署名は、2万人以上集まりました。
結果は、下の写真の状態で電車の中から写しました。(黄色と黒の進入禁止柵と白い目隠しの幕)

鎌倉市長の決済の結果で、2015年9月21日の状態です。
 市行政のペースですね。
2万人の反対署名を無視する市長と市会議員、それにダメ押しする力の無い市民団体。
  表面的にはとても不均衡ですが、
裏はこれが市民と行政のバランスなのでしょうね!
台峰の将来は、市民の自覚の問題です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする