鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

コメントより (忘れ去られた鎌倉今泉編6)

2010年02月06日 | 忘れ去られた鎌倉
写真抜きの話です。

コメントより (忘れ去られた鎌倉今泉編6)
> 切岸 (三品)
> 2010-01-23 15:07:57
>  今泉の辺りには、古くからある神社とかお寺があるので、鎌倉時代には、”何か
> 重要な拠点があったのでしょうか?今泉から一山越えた先には、証菩提寺があります。
 
今泉の辺り (ぼ輔)
2010-02-05 11:20:27
証菩提寺は石橋山の戦いで源頼朝を逃がす為に戦死した佐那田与一忠の供養のため頼朝
が建立したそうですが、鎌倉の鬼門にあたる方向でもある。
七里ガ浜に対する野七里の終わる場所です。
頼朝時代の精神世界の結界ですね。

それ以前の奈良平安時代の鎌倉を考えるのです。当時のお宝の鉄や漆!
具体的にはイタチ川の砂鉄です。
鎌倉の豪族・染谷太郎太夫時忠もこの鎌倉の北側山中に関わる様です。

道については、あまり語られる事の無い鎌倉北部は太平山から円海山の直線的な尾根道の
存在や、野七里の道、荒井沢市民の森へ抜ける道(現ゴルフ場の為に通れません)等、古
来より有ったと考えられる道が在ります。
その辺りに、お地蔵さんや道標も眠っています。
上、中、下の有名処の道ばかり注目されていますが、文献に残るのはホンの一部の事です。

 染谷太郎太夫時忠の話ですが、
横浜霊園脇に環境事業局榮工場があります。
そのわきは、長者窪と呼ばれている。
イタチ川の水源にあたります。
長者と言う名前から染谷太郎が係わった場所と想像するのですが、
奈良時代、この様な辺ぴな場所で、経済的な成功を裏付ける「長者」の名前。
私は当時の先端産業の鉄を思い起こすのです。
そして、東海道と東山道武蔵路の交わる重要地点の鎌倉、、、
当時の状況を重ね合すと、鎌倉の北側は重要な場所であったのではないか?
そんな憶測をするのです。
コメント
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