鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

新田軍は、化粧坂に向けて攻撃をした。1

2018年09月27日 | 大鎌倉城
新田軍其勢五十万七千余騎は遊行寺を横切り、柏尾川の西岸の村岡城、貝殻坂周囲に集まった。
主力部隊が目指すのは、対岸の洲崎である上町屋ですが、、、その間には柏尾川が有る。
川だけではなく、昔からこの場は沼地状態であり、橋を急造して洲崎に進撃をした場所です。
大正時代に柏尾川補修工事で新田軍が架けたと思われる橋脚跡が出土しており、その場所は神戸製鋼の敷地で有ったと言われている。
 上図:橙色の粧坂から水堰橋は、鎌倉城大手道。
洲崎で勝利した新田軍は『山之内に進軍した記事』と『葛原で戦った記事』が有り、
文より 二手に分かれて化粧坂に向けて攻めたと考えられます。
山之内に進軍すれば、水堰橋が鎌倉城大手道で化粧坂へ向かう正面攻撃と成ります。
更に、
瓜ヶ谷に入り込めば、その奥は海蔵寺裏の大堀切で葛原ヶ岡を通る大手道を北から攻撃する事に成り化粧坂へ向かえます。
更に、梶原団地から攻め入ろうとすれば、葛原ヶ岡を通る大手道を南から攻撃する事に成り化粧坂へ向かえます。(この二手は、ピンク色に示した通り道。)
これが、古典文献の記事より考えられる新田軍の化粧坂攻略法と考えられます。
攻撃目的は、化粧坂と書かれていますが、「攻防の有ったのは葛原ヶ岡」と太平記や梅松論等の古典に書かれてある事です。
しかし、攻撃はしたが 鎌倉城は堅固で化粧坂に攻め込む事は不可でした。
 この事より、
大仏坂より亀ヶ谷切通、小袋坂迄で、新田軍が入り込む場所は一切なかった訳で。
一番侵入しやすい場所は、鎌倉城の大手道より化粧坂と考えたのでした。

唯一化粧坂より水堰橋までの鎌倉城大手道も塞がれたと成れば、一般人が通る道は無くなる。
それが、鎌倉攻めの後に一般人が通る道は皆無で、戦争に負けた地を誰が修理するのか? 放置状態が江戸まで続いたのでしょう。
一般人は鎌倉城の兵員移動で使用した峰の道を歩き始め街道の代用にした事でしょう。
その後、江戸時代に朝比奈峠を通れるように補修したり、亀ヶ谷切通,小袋切通等の道路を補修した記録が出てきます。

素人と、玄人 前編 と 後編

2018年09月22日 | Weblog

素人と、玄人 前編

2018年03月15日 | Weblog

素人とプロの違いですが、、、
プロとは、それが仕事で金を貰っている人です。
生活が出来る程金になるか否かは別です。
素人とは、それをやる事で金ばかり掛かる、、、持ち出しですね!
だから、素人は興味の湧くことをやれば良い。
金に係わる責任はありません。
私の今の古代駅路、官路の興味も金には成りません。
只、タダ面白い!
宝探し的な面白さです。
自分の考えた事に対して、巨大な遺構が証明してくれるのです。
それも、道路遺構の作られた時代は大化の改新以降から奈良時代に特定され、他の時代には造られなかった。
そんな時代考証が楽な事もあります。
平地は、住宅になり 畑になり 痕跡は消失し堀返さなくては見付けられない。
これでは、素人は手が出ない。
しかし、台地から川に降りる急な処は切り通しが残ります。
これは、素人でも調査が可能!! プロだって条件は同じ。
物の見方や考え方でプロを出し抜こう!!!
これが、このblogのコンセプトです。
プロよりも もっと自由な発想で楽しむ余地がある。
間違った事を書いても、、、
間違えを訂正すれば良いでしょう、、、
素人の気楽さですね!

地図を見て 目星を付けたら現地を見る。
自分の思った通りの遺構が有るか?
見付けたら、それで満足!
それ以上のレポートなど誰かに向かって報告する義務などありません!
そんなズサンサが素人の素人らしいとこです。
確証なんて、、不要! 自分が納得すれば良い!
そんな訳で、 このblogを見て損害を受けた人が居ても、責任をとりません。
事実を基に、、作り話をしている様な物です。
プロのコメント、素人の初歩の質問等、、、気楽に書いてください。
    以上の事で、、、素人を自認しています。

 

素人と、玄人 後編     2018/3/23記

鎌倉時代の、鎌倉幕府に関する歴史解明の困難さ!
それは、
鎌倉滅亡の戦火に書類は焼かれ、建物は焼かれ、、、
それを裏付ける文献が限られる。
太平記、梅松論、東鑑、十六夜日記、玉葉、などの限られた文献です。
もう一つは、
鎌倉の地形に関して、
武家の鎌倉の象徴の「鎌倉城郭遺構」が絶望的に調査不足で在り、
調べれば理解できる事を、調べずに鎌倉城を語られる。
この城の広さは、日本一で、あまりの広大さに全容を調査した資料が無い。

世界でも有数な広大な城跡ですが、東西8㎞南北6㎞の城って世界に幾つ有るでしょうか? 万里の長城の他は??
南京城や北京城等が有りますが、それ以外には?
何故なら鎌倉城を作った目的は、
世界一広大なモンゴル帝国が西に向け進攻すると無敵で東欧まで掌握した。
それが、
東に方向を変え、小さな島国を大艦隊で攻め込む話が元寇(蒙古襲来)です。
総国力を挙げて迎え打つ城として鎌倉城を作り変えたと考えられる。
地方の領主が建てた城とは,規模や考えその物が国際的に違うのです。
それが、視野の狭い城郭専門の人が理解できない根本だと考えられるのです。
世界最大のモンゴル帝国に対抗して
 小国の鎌倉幕府が真っ向勝負を挑んだ!

文献が無い??
文献が無ければ現地の遺構に語らせればよい。
鎌倉城の研究成果を既成本から見ると、
学術的には、結論を導き出すには資料不足であり、それでも結語を出せば、憶測で語る結果となります。
それ以前に城の縄張りの範囲は?? それすら城郭研究者の思慮の範囲外で有った訳です。
良くて、七口を結んだ範囲が鎌倉城と言うのが定番ですが、その範囲を優に超えています。
何故現状を調査しないのか?調査範囲が広大過ぎる為、巨大さゆえに、単なる山に見え全体の関連が判らない為、全容を調べた研究書は無い。
埋蔵文化財の発掘が専門の方も居るようで、、切岸の調査など専門外の様ですね、
しかし、、
鎌倉の城郭遺構は、切岸や地形の表に出た場所ですから、、素人でも調べれば解る。
自然保護の名目で、民間人が管理された山は今は無く、樹木は伸び放題で、本来の砦遺構は樹木に隠されて判らなくなっている。
明治の鎌倉の山は写真で幾らも在り、見れば山の木はまばらで、管理されている様子が見えます。

鎌倉城の研究は、遺構調査をされていません。
古典文献は理解不足(私も似てますが、)遺構は調べないで、、研究発表は中身が薄いですよね、、、


私のこのHPを書く背景は、東山道相模路と古代東海道の痕跡を探すブログでしたが、、、
鎌倉城の城壁に古代駅路が寸断された事から、鎌倉城を考察せざるを得なく成った訳です。
その様な訳で、資料不足を承知でこのHPを書いています。


「コメントより 3」 2017年02月09日
等も、このブログの罵倒コメント(素朴な疑問さん)より刺激を受けて書かれた訳で、、
由比ヶ浜に元寇対策と考えられる防御壁が在った事を自覚した次第です。
所詮、、専門家とは別な、、
ド素人の書いたものですが、、、
不備な処を「いちゃもん、罵声、クレーム」等コメント頂ければ、喜んで対応します。
修正:2018.9


新田軍は、化粧坂に向け 0

2018年09月20日 | 大鎌倉城
化粧坂の攻防? 太平記に載って無いジャン!
『太平記』より
新田義貞「鎌倉攻め」にて、最重要視したのが化粧坂でその人数から重要度が理解できる。
新田勢六十万七千余騎の総数ですが、
 五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける
此れにより 大半の兵を「粧坂」に割り当てた!
何故化粧坂を目指したのか??
鎌倉七口の中で、化粧坂だけが切通構造ではなかった!
以前は鎌倉幕府に仕え、鎌倉城を自分たちの手で作り上げた砦です。
その構造や弱点は熟知していた筈で、鎌倉城の大手道に入れば、化粧坂に攻め込める。
他の場所は、切通構造なので撃破出来ない困難さが有ったと考えたのです。

大手道は水堰橋から北鎌倉女子高校グラウンド、葛原岡を通り化粧坂まである。
台峰の長い道で弱点を探し攻撃し、台峰上の大手道へ入れば化粧坂に入り込めるのです。
太平記では、
鎌倉勢は「三万余騎にて粧坂を堅めます」が、
新田勢は「五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける」って、、
この人数差は、10倍以上ですが、、、それでも新田軍は突破出来なかった!!
その攻防をした台峰は、、水堰橋から台峰上の大手道より葛原ヶ岡を通り化粧坂へ攻め込む経路と言う訳です。
洲崎の戦いに勝利した新田軍は、山之内に進軍したが、
そこは、大手道入口の水堰橋であり、瓜が谷から台峰や葛原ヶ岡を攻められる場所です。
更に直接化粧坂を目指せば、
古代東海道の遺構と考えられる深沢、梶原、六本松ルートから化粧坂直前の「葛原ヶ岡」を攻めるルートが有ります。
梅松論に攻防が有った場所として「葛原」の名が出てくる。
新田軍が目指したのは化粧坂だが、、戦ったのは台峰や葛原ヶ岡であった。
 この記事は古典文献を見れば載っている訳で化粧坂で戦ったという記載は無い。
明治大正時代の考古学者の言葉に鎌倉の青年団が乗せられて 化粧坂の下に石碑迄作った!
素人の素朴な疑問にオーソリティーは、、常識の嘘で答えるのが鎌倉の話です。
何故なら、学者ですら鎌倉の地形を把握できずに、文献も理解せずに先人の受け売りをし学者にアルマジキ無能ぶりです。
自分で見て、考えないと、常識の嘘を見破れない!

この周囲の地形を把握すると、、
防衛側は、どの様に攻め上がる敵を叩くか!
攻撃側は、何処から攻め上がったら良いのか?
自分の感覚で考えれば、鎌倉研究の本が如何に現場を調べず文献を読まずに書かれているか!
理解できる筈です。
考えが正解か否かは、古典の文献が答えを出してくれます。

鎌倉城と蒙古襲来9

2018年09月11日 | 巨城対モンゴル
投稿日時:2017年06月22日
元寇は、鎌倉幕府に遠く離れた地方の出来事ではなく、、
鎌倉に外国の軍隊が攻め込んで来る! そんな緊急で危機感の有る話なのです。
鎌倉に元の軍隊が押し寄せる!、、、幕府は如何に対処したのか!!
その様な「当たり前の想定」に対して、歴史書は何も答えが無い。
1276年、鎌倉幕府は博多湾に石塁を築くよう命じた
元の勅使を斬首して半年後です。
石塁を築いたのは、関西の武士で作り上げた。関東の武士の話は無い。
関東の武士は、この非常時に何をやっていたのか?歴史書も古文献にも答えは無い。
鎌倉現地を観察すれば、巨大な元寇対策と思える要塞が存在する。
  外国からの脅威は鎌倉以前にもあり、
663年に白村江の敗戦後、唐の侵攻対策に大宰府を守る水城を作った。
博多湾の対中国防衛のため全国から兵を集めて常駐させたのを防人と言う。
防人に関しては「万葉集」に痕跡を認め900年頃まで存続した様である。
667年、防衛上の為、飛鳥の宮都から近江大津宮に遷都をしたそうである。
博多湾や大宰府だけの問題ではなく、大和朝廷を揺るがす問題でした。
言葉を変えると、
博多湾や大宰府だけの問題ではなく、鎌倉幕府を揺るがす問題です。
実際に中国から大群が押し寄せたのです。


1度目の蒙古襲来文である文永の役の翌年に
元の使節5人は山口県下関市に上陸。一行は捕えられ大宰府から鎌倉へ護送された。
1275年9月27日、執権北条時宗は元使一行を竜ノ口(龍口寺)にて斬首。
遺体は、龍口寺の裏の常立寺へ葬られ、元使塚が作られている。

 常立寺 元使塚、 現在も白鳳、朝青龍らモンゴル力士が毎年参拝に来る。
杜世忠らの供養搭。五輪塔には、モンゴルで「英雄」を意味する青い布が巻かれている。

1280年 合浦から出撃した東路軍4万と、明州から出撃した江南軍10万が、壱岐で合流して日本に侵攻するという作戦が決定となる。

九条兼実の「玉葉」において鎌倉城という表現があるが、
『兼実が現地鎌倉の様子を知るはずもなく、玉葉をよく読んでみると都城という意味で使用している』。そんな解釈をした方が居ます。
根拠として確実ではなく「私はそう思う。」と言う曖昧な考えです。
そんな曖昧な根拠で「鎌倉には城が無い!」っと成った訳です。
精神的な安らぎを得る為に城を作ったと主張されているが、、、大間違いでしょ??
文献に頼った研究発表が通用する事態でなく、現に中国から船団が押し寄せ武士を水城まで追い詰める武力を示した!
それに対し、中国に白旗を振るか?徹底抗戦にするのか??
その選択を迫られたのが鎌倉幕府です。

日蓮が、鎌倉幕府に対し『法華経を帰依せず、邪宗を信仰すれば、国難が生じて国が滅ぶ!』と精神論を展開した。
  結果は、
南宋より招いた道隆から元の情報を得て元寇対策を行った。
日蓮の「国難が生じて国が滅ぶ」と言う主張は崩れ去り、神風が吹いて元寇の軍団は海に飲まれ消滅した。
神風が吹いたとは言え、精神論では元寇には立ち迎うのは困難と言う訳です。

旧東海道の道幅 コメントより6

2018年09月07日 | 古代東海道
江戸東海道は、

地方の謀反に対して、幕府が行ったことは、
参勤交代や「出女入り鉄砲」の関所を作り交通を制限したり、
川に橋脚を造らない、道を狭くする等の軍事目的が在った訳です。

  結果として
家康の遺訓『家康公御遺言百箇条』の 大海道 6間(約10.8m)等は、
お家の安泰が優先され、 完全に無視された訳です。
品川宿では、3間程となり、藤沢宿では道幅3間或は5間(広小路)と【相模国風土記稿】に書かれており、宿場は3間の幅が確認できる。
結果は この宿場の道幅3間幅は幕府指定の小海道の道幅と思われる。
宿場を離れたら、馬道2間(約3.6m)と言うのも有りそうです。
少なくとも、東海道五十三次の浮世絵は、2間幅に書かれています。

東京や神奈川県内は、江戸の痕跡は総て明治の時代に拡張済と考えられる。
拡張されなくても、権太坂では、一部は民間に払い下げたそうで、
藤沢遊行寺坂の道は江戸東海道は売られて痕跡すら無い!
よって、証明は困難と思えるのですが、、、、

明治元年(1868年)から起算して満150年
江戸東海道は、明治になり道路拡張と整備が行われた。
どの様に変化をしたのか? その経過は、、
神奈川県大磯町に 化粧坂と称する場所が有る。
現在は国道一号となっております。


同様に明治の時代です。

右画面端に高麗山が写っています。
ほぼ同じ場所を想定しています。

同じ明治時期の大磯町化粧坂の写真ですが、、、

同じ道ですが、道の傍がキレイなラインに成っており、整備された状態がご理解いただけますか??


これは、国道一号から外れて、取り残された化粧坂の現代です。ほぼ上の写真の道幅と同様に思います。

更に古いと考えられる写真が有ります。

この様で、上の写真と下の写真を比べて如何でしょうか??
人の背丈とから推定し2間程の道幅と、道の傍がクッキリしてない事から江戸東海道を拡張する前の道幅と考えます。
私には下の写真(2間幅の道)に近い道幅と思えます。(誘導の文ですね!)
この様に
150年の間に道は変化した訳です。
最後に、
道幅は2間です! と言う宿場町が有ります。

これは、関宿の画像ですが、、、
静岡の白須賀宿他、、色々な場所で、狭い東海道が存在します。
その様な訳で、江戸東海道は一貫性が無い事と、
明治政府が国策として拡張した事で、根拠を出しにくい為、、
結論を出す気は無いのです。
東海道の道幅に疑問の方は、これ等を参考に調査をしてください。
これ等は、議論の余地は無く 根拠を如何に多く出して納得させるか!
っと言う事項です。
議論している間は、根拠も曖昧で資料も少なく憶測が入る余地が有る!
キリが無いのでこの辺りで一区切りです。

  謝辞
コメントに力を借りて、、ココまで書きました!