鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

相模の古代東海道 9 補足

2016年01月15日 | 古代東海道
> (うにゅー) さん
> 2016-01-13 13:19:22
> 想定と合わなければ物的証拠も無視するなんていうことは
> こういう世界では日常的なことなんでしょうか(笑)。

私の資料は、2004年4月(平塚教育委員会説明)で止まっていましたが、、、
(うにゅー) さんに返答をする為にWebを探すと、、
             真面目な答えも見つかりました。

私の世界の時系列は、次の通りです。
○年代不明ながら古くから伝承で 大道の地名あり。
○1999年文章を発行「下大槻峰道路遺構」あり(かながわ考古学財団調査報告53)
○2000~05年発掘 湘南新道関連遺跡の説明板
 相模国府の国庁脇殿遺跡に建っています。
 この地が奈良時代の相模国の中心地であった。

○2004年4月平塚市東中原E遺跡第4地点での説明会:(平塚教育委員会説明)
○2007年 四ノ宮の歴史再発見事業活動委員会の広報の見解
 <http://pcr.lar.jp/rengou/rk01_sagamikokufu.pdf>
 平成 16 年(2004年)に四之宮の湘南新道関連遺跡・坪ノ内遺跡で発見
 された奈良時代の前半のものと思われる. 建国府の跡と考えられる。
 中原上宿(西友近く)にある構之内遺跡で、西北西に延びる古代の道路
 跡が発見されました。
 西側は、岡崎と寺田縄の大字界を通り秦野盆地を抜け、足柄峠へ向かって
 いたと推測される。

 
10 相模国府を探る - 平塚市博物館
 <http://www.hirahaku.jp/tenjishitsu/p42-43.html>
相模国府を巡る諸説
 国府所在地を巡る問題は江戸時代末期(1841 年)の『新編相模国風土記稿』から出発し、多くの研究がなされてきました。
 国府所在地が記載されている書物として、平安時代初期(931〜938年)の『和名類聚抄』には「大住府」、鎌倉時代初の十巻本『伊呂波字類抄』には「余綾府」と記載されています。このことから、国府が移転したことがわかり、考古学資料と絡んで、三つの説が考えられてきました。
 一つは海老名市に相模国分寺が存在することから海老名市→平塚市→大磯町とする三遷説、二つ目は小田原市の下曽我遺跡・千代廃寺の存在から小田原市→平塚市→大磯町とする三遷説、三つ目は文献に記載されたとおりで、しかも考古学的成果から平塚市→大磯町とする二遷説があります。本書では二遷説の立場から、当初から国府は平塚に所在していたと考えていますので、次にその理由を紹介します。


公的な機関の見解は、時と伴に変わりますが、、
(かながわ考古学財団調査報告53)
(平塚教育委員会説明)
(四ノ宮の歴史再発見事業活動委員会)
(平塚市博物館)
の統一見解が欲しいと思います。
文章の書き方が不注意で学術論文としては、2004年までは憶測が悪い形で入り込んで評価の価値無しです。
証拠や根拠が曖昧で作文として面白いのは、小説の分野で、学術とは別な物です。
 私は、医学論文でこの手の小説モドキを大量に見ています。
 理工科は追試で明白な結果が出ますが、ファジーな分野は非科学的かな?
コメント (1)
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相模の古代東海道 9下大槻峰

2016年01月12日 | 古代東海道
2016-01-12 14:21:15

上記は 小方武雄氏の文献ですが、
年代と、その故事の解説は信頼できます。
646年(大化2年)改新詔に「駅馬,伝馬」の話が有り、この時代の東海道の道筋が目的です。
理由は、道幅が中路規格の9mは初期の駅路であり、後期の幅を狭めた官路との時代の区別が付けられる。
改新詔(646年)より100年以上後 771年(宝亀2) 武蔵国が東海道へ編入された駅路や延喜式(905年 延喜5年)の駅路とも道幅を根拠に区別をする事が出来る訳です。
特に武蔵国が東海道へ編入された駅路としては、相模川を渡り茅ヶ崎より北上すると言う考えは、
初期の駅路の直進性とは相容れない話です。
更に、道幅9mは初期の駅路基準で、直線性が特徴です。
道が曲がるのは、、、もっと後の年代のハズ!
合理的な考えから外れています。


現地説明会の「西方面は豊田本郷の南をかすめて、広川あたりから南下して大磯の国府本郷を経て国府津、足柄峠へ向かう。」は確実な根拠を以って話を展開しましょう。
現実の道路遺構は、秦野の方向と考えるのが順当でしょ?
秦野に「大道」の地名が有り、平塚の古代東海道遺構はその方向を向いている。
更に重要な根拠がを示しましょう!

◆秦野市下大槻峯(1999年)、東名高速道を斜めに横切る形で古代の道路跡が見つかっている。
〉調査報告
〉 規模は総延長160mで南にゆるく湾曲しながら東西方向に伸びて、
〉検出された硬化面の最大幅は9mだが、単独で存在するのではなく少
〉なくとも7回にわたって重複・シフトを繰り返している。
〉各硬化面の幅は2~3m程度である。舗装など普請や、波板状凹凸面
〉は見られない。
〉側溝は検出されない。道路跡を挟んで両側に竪穴住居や掘立柱建物か
〉らなる居住域が広がっている。
    中 略 、 、 、
〉 時代的には下大槻峯遺跡におけるヒトの活動痕跡は5世紀後半から
〉であるが、道路遺跡がこの時代からここに存在していたかどうかは不
〉明である。
〉6世紀前半には前身的道路が存在していたと思われるが、確実な年代
〉は7世紀後半からである。
〉 幅が10mを超える規模やわずかに湾曲するが、その直線基調からし
〉て、官道としたいところであるが、坂本駅〉に続く小総駅が海岸付近に
〉想定される
ことから、想定駅路のルートから外れ、また、この付近を
〉通過する想定伝路もないことから、官道だとは認めがたい。
〉(下大槻峯遺跡III=かながわ考古学財団調査報告53より)発行年1999
〉平成11年:1999b『下大槻峯遺跡3』

   この文の問題点です。
一、幅が10mを超える規模やわずかに湾曲するが、その直線基調からして、官道としたいところであるが、
二、〈坂本駅〉に続く小総駅が海岸付近に想定されることから、想定駅路のルートから外れ、
三、また、この付近を通過する想定伝路もないことから、官道だとは認めがたい。


一、は、官道の規模が十分にある事を認めている。
二、では「小総駅が海岸付近 」に在る筈!この場所を通る道は発見されたのか??
三、官道でなければ、、、何でしょうか?????


何とも非科学的で「否定する根拠が薄弱な」文章です。
二は小総駅が在る筈!であり、発見もされなければその周囲に道路跡等も不明のままです。
三の話は、単なる何処かの偉い方の憶測なのでしょう根拠がアヤフヤです。
確実なのは
「下大槻峯遺跡」から古代東海道に相当する道路遺構が足柄峠と平塚の道路遺構の中間点で発見された! と言う事です。

こんな研究発表が学術の場で議論されているなら、悲しい限りです。
年代の想定は根拠も無く、詳細不明。「小総駅」は出土をしているのでしょうか?憶測でしょうか??文献はどの程度詳細に述べられているのでしょうか?
その様な根拠を提示されないまま、この道路遺構は官道を否定された。
  以上の結果より、「ぼ輔」の説としては、
坂本駅から、海ではなく山側の秦野盆地を迂回して、秦野市大道、下大槻峯
平塚東中原道路遺構にラインが浮き上がる!
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相模の古代東海道 8大道

2016年01月09日 | 古代東海道

   緑色の丸印が大道の名のある場所。
平塚より西側の問題は、大磯丘陵を避ける為に、
  海側の大磯から国府津に出るか?
  山側の秦野盆地に出るか?
その様な選択が起きます。

 大道の痕跡から始めましょう。
痕跡は地名としても残ります。
秦野には「大道」という地名が残り、藤沢市にも有り、横浜市金沢区にも大道と言う地名が有ります。
足柄峠、秦野市の大道、藤沢市の大道、金沢区の大道、六浦へとラインを引くと、、、
直線では無いが、それなりのラインに成ります。
横浜市金沢区の大道が直線ラインに乗る事で、六浦の港を東海道が通った根拠になります。
これを否定する人は、
大道の地名は「あちこちに散在する訳では無い。」
駅路に絡む場所である事をネットで確認してください。
少ない大道の地名を繋げたら、、ラインに成る事が偶然ではないという事です。
(三浦郡葉山町の葉山大道の交差点は、地名というより交差点名のようで、日本海軍道路の大きな道の接続点とも考えられる。)
古代東海道の初期は、秦野盆地を通った痕跡は、これだけではありません。
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相模の古代東海道 7平塚の砂丘

2016年01月02日 | 古代東海道
あけまして
    おめでとうございます。
現代の鎌倉城攻防! ご存知ですか?

鎌倉市内には他所の車を入れさせない様、警察が通行規制しています。
明治時代には、人力車ですと大仏切通しのみが通行できた。
現代でも海岸通りを除けば、
極楽寺、大仏、小袋、朝比奈(十二所)、小坪、名越程度を押さえれば他所の車は入ってこない。
私は、毎年車で鎌倉へ初詣です。

更にこの地図に古代東海道の遺構を記入してみました。
「構之内遺跡」より「山王遺跡」の方向は、鎌倉では無くて微妙に北の横浜方面を向くので目的地に向かい直線的、、、と言う事から外れる。
この原因は、、
この川に囲まれた場所は砂地で 波の様な凹凸は、砂山のウネリです。
付き固めて、路面を造りたくても、砂山は困難なのでしょう!
其処に建物を造ることは「砂上の楼閣」と昔から言われたコトワザです。
砂山に沿った谷に道路と国衙を造った様子で、、
東向きとは言え、鎌倉の方は微妙にズレてしまった。
直線的に作りたくても、、、この様な砂山の影響が在ったのです。

この砂地や砂山は茅ヶ崎、辻堂、藤沢へと続き、道造りを邪魔すると考えられる。
砂漠の真ん中を避けた道を造る事に成ります。
結果は、
平塚から鎌倉までの東側は、山と砂地の境界に道を造る事が考えられます。
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