> (うにゅー) さん
> 2016-01-13 13:19:22
> 想定と合わなければ物的証拠も無視するなんていうことは
> こういう世界では日常的なことなんでしょうか(笑)。
私の資料は、2004年4月(平塚教育委員会説明)で止まっていましたが、、、
(うにゅー) さんに返答をする為にWebを探すと、、
真面目な答えも見つかりました。
私の世界の時系列は、次の通りです。
○年代不明ながら古くから伝承で 大道の地名あり。
○1999年文章を発行「下大槻峰道路遺構」あり(かながわ考古学財団調査報告53)
○2000~05年発掘 湘南新道関連遺跡の説明板
相模国府の国庁脇殿遺跡に建っています。
この地が奈良時代の相模国の中心地であった。
○2004年4月平塚市東中原E遺跡第4地点での説明会:(平塚教育委員会説明)
○2007年 四ノ宮の歴史再発見事業活動委員会の広報の見解
<http://pcr.lar.jp/rengou/rk01_sagamikokufu.pdf>
平成 16 年(2004年)に四之宮の湘南新道関連遺跡・坪ノ内遺跡で発見
された奈良時代の前半のものと思われる. 建国府の跡と考えられる。
中原上宿(西友近く)にある構之内遺跡で、西北西に延びる古代の道路
跡が発見されました。
西側は、岡崎と寺田縄の大字界を通り秦野盆地を抜け、足柄峠へ向かって
いたと推測される。
10 相模国府を探る - 平塚市博物館
<http://www.hirahaku.jp/tenjishitsu/p42-43.html>
相模国府を巡る諸説
国府所在地を巡る問題は江戸時代末期(1841 年)の『新編相模国風土記稿』から出発し、多くの研究がなされてきました。
国府所在地が記載されている書物として、平安時代初期(931〜938年)の『和名類聚抄』には「大住府」、鎌倉時代初の十巻本『伊呂波字類抄』には「余綾府」と記載されています。このことから、国府が移転したことがわかり、考古学資料と絡んで、三つの説が考えられてきました。
一つは海老名市に相模国分寺が存在することから海老名市→平塚市→大磯町とする三遷説、二つ目は小田原市の下曽我遺跡・千代廃寺の存在から小田原市→平塚市→大磯町とする三遷説、三つ目は文献に記載されたとおりで、しかも考古学的成果から平塚市→大磯町とする二遷説があります。本書では二遷説の立場から、当初から国府は平塚に所在していたと考えていますので、次にその理由を紹介します。
公的な機関の見解は、時と伴に変わりますが、、
(かながわ考古学財団調査報告53)
(平塚教育委員会説明)
(四ノ宮の歴史再発見事業活動委員会)
(平塚市博物館)
の統一見解が欲しいと思います。
文章の書き方が不注意で学術論文としては、2004年までは憶測が悪い形で入り込んで評価の価値無しです。
証拠や根拠が曖昧で作文として面白いのは、小説の分野で、学術とは別な物です。
私は、医学論文でこの手の小説モドキを大量に見ています。
理工科は追試で明白な結果が出ますが、ファジーな分野は非科学的かな?
> 2016-01-13 13:19:22
> 想定と合わなければ物的証拠も無視するなんていうことは
> こういう世界では日常的なことなんでしょうか(笑)。
私の資料は、2004年4月(平塚教育委員会説明)で止まっていましたが、、、
(うにゅー) さんに返答をする為にWebを探すと、、
真面目な答えも見つかりました。
私の世界の時系列は、次の通りです。
○年代不明ながら古くから伝承で 大道の地名あり。
○1999年文章を発行「下大槻峰道路遺構」あり(かながわ考古学財団調査報告53)
○2000~05年発掘 湘南新道関連遺跡の説明板
相模国府の国庁脇殿遺跡に建っています。
この地が奈良時代の相模国の中心地であった。
○2004年4月平塚市東中原E遺跡第4地点での説明会:(平塚教育委員会説明)
○2007年 四ノ宮の歴史再発見事業活動委員会の広報の見解
<http://pcr.lar.jp/rengou/rk01_sagamikokufu.pdf>
平成 16 年(2004年)に四之宮の湘南新道関連遺跡・坪ノ内遺跡で発見
された奈良時代の前半のものと思われる. 建国府の跡と考えられる。
中原上宿(西友近く)にある構之内遺跡で、西北西に延びる古代の道路
跡が発見されました。
西側は、岡崎と寺田縄の大字界を通り秦野盆地を抜け、足柄峠へ向かって
いたと推測される。
10 相模国府を探る - 平塚市博物館
<http://www.hirahaku.jp/tenjishitsu/p42-43.html>
相模国府を巡る諸説
国府所在地を巡る問題は江戸時代末期(1841 年)の『新編相模国風土記稿』から出発し、多くの研究がなされてきました。
国府所在地が記載されている書物として、平安時代初期(931〜938年)の『和名類聚抄』には「大住府」、鎌倉時代初の十巻本『伊呂波字類抄』には「余綾府」と記載されています。このことから、国府が移転したことがわかり、考古学資料と絡んで、三つの説が考えられてきました。
一つは海老名市に相模国分寺が存在することから海老名市→平塚市→大磯町とする三遷説、二つ目は小田原市の下曽我遺跡・千代廃寺の存在から小田原市→平塚市→大磯町とする三遷説、三つ目は文献に記載されたとおりで、しかも考古学的成果から平塚市→大磯町とする二遷説があります。本書では二遷説の立場から、当初から国府は平塚に所在していたと考えていますので、次にその理由を紹介します。
公的な機関の見解は、時と伴に変わりますが、、
(かながわ考古学財団調査報告53)
(平塚教育委員会説明)
(四ノ宮の歴史再発見事業活動委員会)
(平塚市博物館)
の統一見解が欲しいと思います。
文章の書き方が不注意で学術論文としては、2004年までは憶測が悪い形で入り込んで評価の価値無しです。
証拠や根拠が曖昧で作文として面白いのは、小説の分野で、学術とは別な物です。
私は、医学論文でこの手の小説モドキを大量に見ています。
理工科は追試で明白な結果が出ますが、ファジーな分野は非科学的かな?