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鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉の砂鉄6の補足

2018年06月11日 | 鎌倉の古代
下記のホームページにアクセスしてください。 公式の相模湾潮流の図です。
下図の様な海流は他の日では見つけられない筈です。
何故なら、その日、その時間で海流は総て変化し、同一のモノは無い。
海水の動き-流況・波高表示(相模) - 海上保安庁 海洋情報部
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/oceanradar/currentsagami.html
潮流は、時間によりサキ潮(西向きの流れ)やカシマ潮(東向きの流れ)になります。
江の島でいえば、サキ潮が主流で東浜に境川の土砂が入り込まず砂浜が柔らかいが、
西浜は砂に川の土と泥が加わり硬く、車が通れます。
この砂浜の違いは、
黒潮海流の流れが三浦半島から回り込み三崎、葉山、鎌倉、江の島に向かう=サキ潮が主体で強い流れです。
逆な流れのカシマ潮は有っても弱く、砂を移動させる力が無い事を示す。 潮流の強さの程度の問題が絡みます。
同様に、砂鉄もサキ潮の為に稲村ケ崎から江の島方向に砂鉄は打ち上げられるが、由比ガ浜は白い事で、カシマ潮は弱く、砂鉄を移動させる力は無いことが衛星写真に示されている。
海上保安庁の示す刻々変化する潮流のデーターと、衛星写真を根拠に言える潮流の力です。
慶応の潮流図は、特殊な潮流の図面と考えられ引用するには特殊で不適切。 更に日時も表示されて無い。
公官庁の図面を示されると 潮流は常時この様に流れていると感じるのが、一般人です。
研究者も他人の研究を引用し、仔細を知らずに 潮流は常時この様に流れていると記述しています。
 しかし潮流は、刻々変化し一枚の潮流図で解説出来るほど単純なモノではない。
特殊例の潮流図から考え出された結論の間違えです。

このブログの様に権威も看板も無い素人の研究なら、ブログ内で訂正すれば済む話ですが、、
有名校の研究と NHK放映により不特定多数に拡散された情報は、常識となり、、、、
   権威が湧き疑うなかれ!信じろ!っと言う力を持つ。

 結論は
   砂鉄の出処は、極楽寺川から流れ出ている!
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鎌倉の砂鉄5の写真追加

2018年06月08日 | 鎌倉の古代
これは、2018年のgoogle地図で、更に砂鉄の黒い色が明確です。
稲村ヶ崎脇の極楽寺川から出た砂鉄は、鎌倉から江の島に向かう潮流にサラサレて、
砂は潮流に流され、砂鉄は波に打ち上げられ黒い砂浜となる。

〉稲村ケ崎の砂鉄について (徘徊おじさん)
〉2011-11-07 09:43:47
〉先日、NHKの高校地学の中で、稲村ケ崎の砂丘の話が出てきました。
〉ここの砂鉄は、海流により運ばれたそうで、比重の大きな砂鉄分が
〉こちらに堆積したものだと説明していました。
 重い砂鉄は何処にも運ばれず残るが、、、普通の砂は軽くて潮流に流される!
  極楽寺川から流れ出た砂鉄は留まり、この場所に黒く残っている。
 砂金取の盆を使って砂を流し、残った物は重い砂金ですが、、、その原理です。

〉神奈川県庁の土木関係の部署の人の記事によると、海流の変化により、
〉軽い砂はすぐに移動するが、比重の大きな砂鉄は最後に残ると説明されていました。
〉ですから長年の海流により稲村ケ崎に残留したのかもしれません。
 結局、理屈だけで、、理解せずに「稲村ケ崎に残留したのかもしれません。」って、、
 相模湾の海底に重い砂鉄は溜まっても、重力の法則で岸に上がっては来ないし、
 緩慢な潮流には流されません!
 一番最後で物理学を超越した現象の記述ととなりました。
 この様な研究が世に通用する根拠に、、NHKが信用して放映した。
 NHKの組織の中にも、慶応の指導者連中にも これを見破る人は無かった。

ちなみに潮の流れが江の島から稲村ケ崎、逗子の方向に流れたら、、、そりゃ
由比ヶ浜は砂鉄で真っ黒に成っているハズです。
尤も 「潮流に重い砂鉄が流される」誤解を肯定したらの話ですが、、、
その想定では、七里ガ浜全体が黒い海岸になると考えられます。
潮流の方向も深く現状を考えなかった。
常識的な思考法で文献を頼るので無く、常識の嘘を見破る科学的思考法と情報量を要求されるのが研究論文です。
「NHKの高校地学」の研究態度は安易すぎるし高校生の名前に傷が付く。 
      生徒を指導した人の教養の問題、、、  特に物理の基礎的考えが浅すぎる。
更にこの間違えが、常識の嘘となって拡散するのです
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鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 9

2016年06月21日 | 鎌倉の古代
 上は、戦前の江の島稚児が淵の絵葉書で見る波蝕台です。
6000年前より海面は安定し2~3m程度の変化と思われます。
特異なのは関東大震災で、1m程隆起した事です。
波蝕台がこの様に平らな面をしている事は、6000年間海面の大きな変化は無かった事を示しています。

古墳時代の海水面水位の話ですが、一般的に考えられている事は、
〉根拠不明なまま、憶測で古墳時代の海水面は今より高い位置にあり、
〉「海岸線は陸地に入り込んでいた!」と考える方が多々居ります。
鎌倉の海岸においても、この墓の標高を根拠に現代とサホド変化が無かったと結論できます。

長谷小路石棺の標高6.8mは、台風の高波等を考えれば、妥当な高さと思えます。
更に関東大震災以前を考えれば、長谷小路石棺の標高5.8mです。

何を言いたいか?
新田義貞の稲村渡渉の話が絡みますし、
古代東海道の平塚から鎌倉までの砂地絡みの土地は、標高が4〜5mの場所で、縄文海進が5m以上もあり海岸線が陸地に入り込んでいたと推測されると、新田義貞稲村渡渉は、空想の話。
平塚の古代駅路の遺構も、成り立たなくなる。
この説に反論する決定的な証拠として石棺墓の標高が証明している訳です。

波蝕台っと言う現象があります。
著明なのは、江ノ島の岩屋に行くと、海面より一段上がって岩が平坦に成っています。
この平坦な岩は波の力で侵食された場所で、海面の高さで浸食され出来上がった岩です。
以上を根拠として、江の島鎌倉周囲の1000年程の海水面の増減は殆んど無いと結論します。

ちなみに、関東大震災時に1m程湘南海岸は隆起した事が知られています。
ですから、この長谷小路石棺の明治時代の標高は、5,8mです。
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鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 8

2016年06月17日 | 鎌倉の古代

  上は、見学会パンフレット。
長谷小路遺跡の現在の標高は、11m です。
その4~5m下に石棺墓が出土した訳です。
その標高は 11m-4m=7m っとなります。
台風の高潮等も考慮に居れれば、海水面より7mの高さは妥当な設置高度と思えます。
それでも、海の砂は墓から2mの高さに堆積した訳です。
堆積した砂の内訳は、、、
風に運ばれた!
津波で海岸の砂が運ばれた!等が考えられます。
その砂の高さが墓から2mで、平安後期~鎌倉初期の地表のレベルです。
それから上の地層は、人工的に土砂が盛られた!

パンフレットに紹介された写真。
平安後期~鎌倉初期の砂地の上に2mの高さの土砂が この周囲全体に盛られたのですが、
一個人が家を建てる為にその様な事をやるか?
藤沢市の海岸より内陸へ4㎞は、別荘地で有名ですが、皆砂地の上に家を建てます。
何の目的の盛り土か?
土木工事としても一個人のやる土木として、規模が大きすぎます。
畠が造られている様子が明治の絵地図に有りますが、
畠の為には、1mも土を載せれば十分ですし、この土は畠を造るには、不向きな土砂です。
それでも、砂地よりは良いだろう、、、と言う事で畠の時期も有った。
明治以降、誰がこの様な土木工事を何の為にやったのか?
当時の大規模土木工事は、震災後の稲村ヶ崎の埋め立て工事ですが、、
長谷小路でもやったなら、石碑の一つも立っていると思います。

その様な訳で、
昔、、周囲の山を加工した残土を捨てたと解釈するのが、私の憶測です。
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鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 7

2016年06月15日 | 鎌倉の古代

先ずは、上の地層の年代です。
平安後期~鎌倉初期の上に砂地とは異質な土砂が乗っています。
この土砂の地層は「明治時代」との説明です! 稚拙で考えのない 無神経な回答と考えています。
この地には、室町、戦国、江戸時代は無かったのか????



上の写真 石棺の上数十㎝が平安時代の住居跡で4~5m程の深さがあり、
深さの半分は砂地で、あとの半分は出所不明の土砂で、この場所だけでなく、写真に写る断面は同様な土砂の盛り土の状態です。
其処から、、、何が考えられるのでしょうか?

この石棺墓発掘の当初から考えた周囲の山を城の形に作る残土を捨てた!!
とは単純に考えられないが、、、
可能性は十分にあるかも、、、

情報が不足ですから結論を出せば、憶測の範囲ですがね、、、
下から中程迄の砂地の説明は?何でしょうね、、貴方はどの様に説明しますか?
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鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 6

2016年06月13日 | 鎌倉の古代

  上の写真は、文化財課の提供写真です。

今気が付きましたが、平安時代末期~鎌倉時代初期の湿地堆積と言う表示が有りますね!
下半分は砂地で、上半分は土砂な訳です。
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鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 5

2016年06月13日 | 鎌倉の古代

さて、、
見学会ですが、
肝心の説明する人は距離を置かれた状態で、質問が出来ません。
問題は、地層の状態ですが、、、
半分から下は砂地で、上半分は見た通りの土砂です。
人工的な埋め立ても絡む訳です。
どの様に解釈したらよいのか?
さとう-さんの説もお聞きしたいのですが、、、
どうせ、情報不足で憶測となるのですが、、、必要なのは確証のある答えでなく、
多様な考え方が欲しい訳です。

未だこの件は続く予定です。
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鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 4

2016年06月12日 | 鎌倉の古代
> 堆積土砂の起因 (さとう)
> 12日に開催される説明会で是非調査担当者にご確認ください。
> フォローアップをお待ちしています。

発掘現場見学会見学してきましたが、、、
鎌倉市教育委員会文化部文化財課と話が出来る雰囲気ではなかった。
それでも、シツコツ係員に質問をしたのですが、
埋もれた状況=特に深さが異常である事については『見解無し!』
要は、調査担当者にとっての価値は、埋蔵物だけに価値が有り、そこから現代までの経過は不要と言う事なのでしょう。
特にこの場所は、津波の浸水予定地で津波対策の建築物を造る事情もあり、より深く掘り進めラレタヨウデス。
通常、砂地で3mも掘り、何も出なければ諦めるのが普通の考えですから。
そんな前例は、海蔵寺裏の大堀切調査で数m掘っただけで埋め戻した経緯が有ります。
最大の収穫は、墓の直上の層には平安時代の居住跡があり、墓との深さは数十㎝で有ったそうです。
よって、墓の深さ=「平安時代の深さ」っと考えて良さそうです。
この場所の深さの原因は、人為的な土砂だけでは無い様で、
 砂地で半分以上が埋もれた状況です。
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鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 3

2016年06月10日 | 鎌倉の古代

   緑に囲まれた場所を掘り起こしたのです。
少ない情報を総合すると、、、、、
箱式石棺墓が出土した江ノ電「由比ヶ浜駅」より200m西に「染屋太郎大夫時忠邸址」の碑が有り、駅の北に50mには石棺墓発掘場所です。
染屋太郎大夫(由井の長者)の頃は、鎌倉の長者窪を源流にしたイタチ川周囲の製鉄業が鎌倉を栄えさせたと考えられ、時期も合致する。
長者の息子は、奈良の大仏を企画した僧良弁(689年~)と考えられている。
この僧良弁は、手塚治虫「火の鳥」にも出てくる。

藤原鎌足は、中大兄皇子の側近として大化の改新を行っている。
藤原鎌足の孫は染屋太郎大夫時忠と言われその子は僧良弁となる。
鎌倉は、当時から製鉄で栄え『鎌を埋めた伝説』の鎌倉命名の元祖が藤原鎌足となります。
そして、唯一東海道と東山道の接点が有る場所です。
それらの背景が有る箱式石棺墓発掘です。
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鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 2

2016年06月10日 | 鎌倉の古代

場所は、上図の黒くチェックされた鎌倉市由比ガ浜三丁目11-48の「長谷小路周辺遺跡」です。

> 古墳時代(五~七世紀)の箱式石棺墓と、ドコウ墓が出土した。
> 墓の場所は海から400m程の江ノ電「由比ヶ浜」の北側50mです。
> 8~9世紀の竪穴住居跡の下の層に在った。との事です。

■古墳時代中期~後期(五~七世紀)の時代は、、、
新羅、仏教伝来、聖徳太子、法隆寺の時代です。
646年(大化2年)改新詔の「駅馬,伝馬」は東海道を造る事始めです。
この東海道は、鎌倉を通り東京湾を船で渡ると考えられている。
663年の白村江の戦いは、大宰府の水城の築城に係る話で鎌倉城築城の参考に成ったと思われる遺構です。後の元寇の話につながる。 それが五~七世紀です。

■8~9世紀の時代は、794年平安京に遷都し平安時代に成る。


         写真はTVKの放送画像。
其処で問題は、
この平安時代の住居跡のスグ下の地層から墓が出土した訳です。
平安時代までは墓のスグ上=低い場所に人が住んでいた訳で、、、
平安時代より 鎌倉時代にかけてこの地層(人の丈3倍程=4~5m程)が作られた訳です。
この土は何処から運ばれたのか?
海の砂? どうでしょうかね、、、
私には、砂の集積では無く、人為的な土に思われます。

何を言いたいのか?
「三方を山に囲まれ,一方は海に面した天然の要害の地」と言われた。
それは、平安後期の頼朝が来る前の都を選定する基準です。
都を移した後!!!
頼朝が三方を山に囲まれた地形を如何に城として作り替えたか?
その問題です。鎌倉の山周辺を見れば、決して自然な形態ではなく、切岸遺構等の人為の改造が施されている。
机上論の学者は、現実の遺構を見ずに古文献ノミを「後生大事に疑いもせず信じている。」
現状を調べずに、、、研究の手を抜いた訳です。
古文献は当時の状況の概要が書かれている。しかし、その詳細は書かれて無い。
自然の山を切り崩した城造りですが、その土砂を何処に運んだのか???
土砂を捨てた場所の話です。
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鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘

2016年06月08日 | 鎌倉の古代

鎌倉時代の話が大半の『武家の都鎌倉』ですが、

> tvkニュース(テレビ神奈川) 6月7日(火)14時23分配信
> 鎌倉市内で古墳時代の箱式の石棺墓と埋葬された人の骨が発掘されました。
> 石棺墓が見つかったのは鎌倉市由比ガ浜の海岸から400メートルほど
> 内陸に入った遺跡の発掘現場です。
> 石棺は深さが45センチ、長さ2メートル30センチ幅およそ1メートルで、
> 数十個の石が長方形に積み上げられています。
> 5世紀から7世紀ぐらいの古墳時代の石棺墓が鎌倉市内で発掘されたのは
> 初めてですが、県内では13例目で主に三浦半島エリアで出土しています。
> 一方、人骨は身長が155センチほどで骨の形状や成長度の分析から10代半
> ばの男性と推測されています。
> 鎌倉市は発掘現場を今月12日に一般公開する予定です。


興味が有るのは、異常に深い場所に埋められている事です。
何故深い場所なのか?
その埋葬方法の石棺も鎌倉においては特異です。
結論を出すには、情報が少なすぎです。
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鎌倉の古代 11

2011年07月11日 | 鎌倉の古代
〇瀬上沢だより 上郷開発から緑地を守る署名の会のブログ
〇<http://segamizawa.blog54.fc2.com/blog-entry-107.html>
〇調査を進めてみると、当初の予測に反し、極めて規模の大きい、中世どころか古代の製鉄遺跡
〇であることが判明。その充実した内容から短期間での調査は不可能であること、また、計画さ
〇れている道路の建設工事によって遺構が失われる恐れはない(埋め戻して保存が可能であるこ
〇と)との合意を得て、未調査の部分を残したまま埋め戻し現在に至っています。
〇従って、報告書は発掘調査概報となっています。県下でもその規模の大きさ、古さからいっても
〇類を見ない製鉄遺跡とされています。(全国的に見ても、相当古い部類に属するといえるそうで
〇す)

上郷開発から緑地を守る署名の会のブログ「瀬上沢だより」では、貴重な遺構が消えていく経過を書かれています。
このブログの表紙の写真の場所も、役所に連絡をしましたが、簡単な調査だけで、その後連絡も無く開発工事が始まっています。
文化の喪失ですね!
是非「瀬上沢だより」のブログを見て、何が消えたのか? 御覧下さい。
表面切って、反対をする気持は ぼ輔にはありません。
知れば大事な物を亡くした事に気付く。
対処方法なんて、、、簡単ではないし、人生を賭けてやる程の情熱も無いのです。
より多くの人に、関心を持って頂く事が、事の始まりと思います。

写真は、昇竜橋です。小さい橋ですが、とても立派な橋で、雰囲気のある橋です。
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鎌倉の古代 10

2011年07月11日 | 鎌倉の古代
△水石の美を求めて
△http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-162.html
△光明寺前の道(23号線)を本郷台方面へと北上し、神奈中車庫前で右折します。登り坂を走る
△と、右手に本郷高校が見えてきます。その左側辺りに上郷深田製鉄遺跡が、高校の敷地には上
△郷猿田遺跡があります。こんな場所に奈良から平安時代にかけての大規模な製鉄遺跡があると
△は驚きです。
△ただ、鍛冶集団の祀る白山神社が舒明天皇のころに既にあったことからして、深田遺跡は少な
△くとも飛鳥時代にまでさかのぼるはずです。この点の解明をぜひして欲しいものです。

「鍛冶集団の祀る白山神社が舒明天皇のころに既にあった」と言う事ですが、、、
舒明天皇(629年~641年)
710年(和銅3年)頃に武蔵国府が成立。
771年 武蔵国府は東海道に転属。

以下、ぼ輔の憶測で、、
上郷猿田遺跡初期(舒明天皇のころ)
大和朝廷が、鎌倉の製鉄とその実績に着目し、
東山道鎌倉路を企画、
東山道鎌倉路を敷設し、脇に武蔵国府を造る(710年)。
武蔵国を東海道に転属する(771年)。
歴史的な時間系列の矛盾はない。


現代的には、道路を計画し工場を誘致し地場産業を作り上げるのが常套ですが、、、
飛鳥時代の鉄器生産は、先ず砂鉄の産出地である事、燃料の木が有る事が条件で、鍛冶集団が移り住み製鉄が始まったと考えられる。
大量に製鉄を行った実績があり、道路を作った。と考えるのが順当と思います。
ですから、上郷深田製鉄遺跡は東山道武蔵路(東山道鎌倉路)前に存在したと考えます。
鉄精錬が稀で、巨大道を作る価値が鉄器に有った時期とぼ輔は考えます。
現在、関西の都に近い場所に製鉄遺跡が多数ありますが、遠隔地の鎌倉に大規模な鉄精錬遺構と大規模な道路が有ることで、他所での製鉄は無く、鉄器が始まった初期で希少価値が朝廷を動かし政策で作られたと考えるのです。
ですから、最古の部類の製鉄遺跡と考えるのです。発掘は全容を解明しないまま行政の都合で埋め戻したそうです。

酔石亭主様の「水石の美を求めて」は渡来人と鉄器の関係及び、イタチ川周囲の現状や、古代鎌倉の様子を詳細に書かれています。
その他、すぎ吉さん、三品さんも当初から、、この地の砂鉄や朝廷との係わりを示唆していました。
鎌倉の由来は色々在るようですが、、古代に産鉄で栄えた前歴が有ったのでした。
武具も有るでしょうが、、農器具の鉄も盛んに作られ鎌倉に成った!(文字通りの鎌や鍬の完成品を保存する倉が有った!)と伺えるのですが、、、
いかがでしょう?

■鎌倉の古代 4(2010-11-19)をご覧ください。
■新野脇屋遺跡群から東の上遺跡へのラインの行き先は、鎌倉の何処でしょうか?
■それは天園(太平山)で、その下はイタチ川と上郷猿田遺跡や白山神社の有る谷です。
■頼朝以前の古代鎌倉の中心は鉄器で栄えた鎌倉の存在です。
■その勢いは東山道武蔵路まで作らせる魅力が有ったと妄想する「ぼ輔」でした。
■東山道武蔵路は、武蔵国衙の為に作った?? その説は動機と根拠が弱い。
■富と軍事力が優先するのは、古今東西変わらない。鉄はその富と力の基です。


写真は、昇竜橋を渡り、階段を上ると現在は無い白山神社の在った平場が現れる。
    白山神社は地区の鎮守であり、鉄の刀や農具などの鍛冶職人の守り神です。
    昭和51年この地から東上郷町へ移される。
    この場所の価値は、いたち川の谷の風景と昇竜橋と、脇に湧き出る鉄サビ色の湧き水
    そして、、飛鳥の時代まで遡るであろう鉄精錬の民の信仰の場です。
    社が無くても、その価値は十分にある。
    頼朝以前の鎌倉は、、寒村で有った様な古文書も有る様ですが、
    それ以前の歴史を知らない古文書の記述者が居ても当然!
    古文書あさりが、決して良い結果を生む訳ではない!
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鎌倉の古代 9

2011年06月29日 | 鎌倉の古代
[鎌倉の古代 8]の図は、新野脇屋遺跡群から東の上遺跡へ向かう赤いラインの先の鎌倉ですが、空気が良ければ新宿が見える天園(太平山)です。この天園の下に有る谷がイタチ川の深田製鉄遺跡の場所です。
東山道武蔵路は、最初からこの鉄の産地と染屋太郎(東八箇国の総追捕使)の軍事目的で道を作ったのであろう!
そう考える根拠です。

イタチ川沿いの古代遺跡が語る事は、
青銅器文化を駆逐する、、、渡来人の存在と鉄器文化です。
農業用の鍬や鎌として、防衛の刀、槍、矢じり、これらは国力の基盤となるのです。
東海道だけでなく、東山道支道まで鎌倉へ造る重要さは、この辺りではないかと、、、
ぼ輔は想像するのです。
イタチ川沿いは、鉄器文化の幕開時代と政治の後押しで作られた事を想像するのです。
都から離れた鎌倉で、遺構の規模の大き、道路の整備を根拠に、ぼ輔はそう考えるのです。

> 深田製鉄遺跡(横浜市栄区上郷町555番地)
> 無数の「たたら」跡が発見された上郷、深田製鉄遺跡の発掘現場。
> 現在遺跡の主な部分は舞岡上郷線の道路の下になっています。
> 昭和61年の発掘調査により規模の大きな古代の製鉄遺跡であり、
>  神奈川県教育委員会の説明には、
> 奈良、平安時代の大規模な製鉄遺跡で。製鉄の原料は遺跡の周辺に
> 砂鉄を含む堆積層があり、この砂鉄が使われた。

っとあるのが、お役所の公式見解です。

写真は、鉄器文化を示す「白山社」の入り口昇竜橋と登りの階段。
    「鎌倉の古代3」の三品さんの写真はこの場所の下。
    とても、、ピンボケですが、朝の4時で薄明かりの中です。  
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鎌倉の古代 8

2010年12月17日 | 鎌倉の古代
古代鎌倉は染谷太郎大夫が住み、由比の長者と呼ばれた。
邸阯の碑に
「染屋太郎大夫時忠は 藤原鎌足の玄孫(やしゃご)に当り 南都東大寺良弁僧正の父にして 文武天皇の御宇(697‐707)より 聖武天皇の神亀年中(724‐728)に至る間 鎌倉に居住し東八箇国の総追捕使となり 東夷を鎮め 一に由比長者の称ありと伝へられるも 其事蹟詳ならず 此處の南方に長者久保の遺名あるは 彼の邸址と唱へらる 尚甘縄神明宮の別当甘縄院は時忠の開基なりしと云ふ」とあります。

・・・東八箇国の総追捕使となり 東夷を鎮め 一に由比長者の称あり・・・
っと言う文面ですが、関東及び以北を守る司令を鎌倉から出していた!
鎌倉は、その様な・東八箇国政治の中枢でも有った様子がこの碑文よりウカガエル。

経済の基盤産業として、その盛況を裏付けるのは、、東海道と、東山道相模路(武蔵大路)の存在です。
一見不要に思える東山道のルートですが、、それなりの必要性から生まれた事と思われます。
お宝の運搬路として、東山道の方が確実で有ったのか?
それとも、東八箇国の総追捕使として、以北の監視に必要な道であったのか?
限られた資料から推測できるのは、この程度です。
これ以上の考えは、根拠の無い憶測の域に入ります。

現実に有り、誰でも調べれば判るモノは、
中ノ宮北遺跡、笠間中央公園遺構、海蔵寺裏の大堀切の道路遺構が有る事。
鎌倉城の外堀に当たるイタチ川の古代遺構の発掘より大規模の鉄の精錬跡が発掘された事です。

図は、東の上道路遺構から仮想鎌倉方面赤ラインと、江ノ島方面の道の違いです。
カシバード3Dのバーチャル画像ですが、、
周囲の高みから観察するとこの図の状態の違いを実感する[ぼ輔」です。
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