鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城のマトメ

2021年03月12日 | 鎌倉時代の波打ち際

鎌倉城のマトメ 1    2021年03月12日 | 大鎌倉城

鎌倉に城が在る!
石垣は何処?
天守閣は何処?
城の出入り口の門は?
そんなイメージを浮かべるのがお城マニアでしょうが、、
鎌倉の城は、
元寇と言うモンゴル帝国の五代目フビライハンの攻撃に対抗する城として築かれた。
そう考えられるのです。
なんて言っても、鎌倉終焉により、資料は消え去った。
資料は消えても、、遺構は現存する訳です。
しかし、
その遺構を総合的に調べた研究家は居ない。
何故調べないのか?
戦国時代から江戸末期の城郭研究家の知識、常識の通用しない巨大な規模の城であったわけです。
何故その様な巨大な城を作ったのか?
その理由は、
元の情報は渡来した南宋の僧により、十分な量が鎌倉幕府に伝えられていた。
当時世界一の軍隊を持つモンゴル帝国に対抗する城は、当然の如く世界一の規模に成った訳です。

現存する江戸時代の城とは異質の、戦う相手をせん滅する目的の城です。

見栄えを考えず、ひたすら防御と攻撃を考えて作り上げた城です。

 

鎌倉城のマトメ 2    2021年05月17日 | 大鎌倉城

鎌倉城は、書籍に名前が載る事は有っても、場所は何処? 縄張り図は? 堀切は? 城壁は?
その様な疑問に答える様な記事は皆無です。
調査はされず、不完全なままに放置された現状が有ります。 
このブログの趣旨は、鎌倉を突き抜ける古代東海道の解析が目的だったのですがね、、、
古代東海道の痕跡が鎌倉で急に消えてしまった。
何故無いのか? それが鎌倉城に首を突っ込んだ理由です。
城の真ん中を太い幹線道路が通っていたのでは、敵が侵入し、城の役には立たない!
当然の如く立派な古代東海道を封鎖する事に成る。
何故なら、それが城ですから!!
自分なりに納得できる様な城探しをする羽目に成りました。

鎌倉研究書を読むと、地形を知らず現地を調査した痕跡も無い研究内容と、根拠なく憶測に満ちた研究書を参考に現代の研究が積み重ねられた経緯がある。
広大な鎌倉城に対し、調査もせず広すぎでやりたくても調査が出来ない為に憶測で本を書いた。
それが著名な研究者が書かれた本に成った。
臆測は憶測を呼び、根拠の薄弱な風評としての現在の鎌倉城論が出来上がった。

「鎌倉を世界遺産に!」という目論みも、調査不足と思慮の浅さで無残にも崩れ去った訳です。
世界にも稀な巨大さを誇る砦がこの鎌倉城であり、「世界遺産」を目指すに値する遺構です。

鎌倉幕府にそんな力が有ったのか?
九州の地方の武士を指揮して博多湾に20㎞に及ぶ元寇防塁を作った。
地方の武士集団でこれだけの土木建築を作り出す力が有った訳です。
中央の鎌倉幕府は、更に数段強固な防衛施設を作ったと考えられる訳です。
鎌倉城を作った文献は有ったとしても、新田義貞鎌倉攻めで灰塵と成った筈です。
文献が無いから調べないと言うのが、現代的な研究者の態度です。
文献は無くても、巨大な遺構は残って居おり、調べれば解る。
問題は、大半は住宅地に成っている。
だから、、、痕跡は消えたのか? そんな事は有りません。
コメントに「みたに」さんが書かれた倉久保、台峰、台村、袋村の話をしましょう。

この地図では、地形の表現が全く足りず、何がお城跡なんだか??
判らない。
この辺りが常識的な考えで、だから鎌倉城は無い! そんな結論に成るのでしょうが、、、
次回は理解できる地図を掲示します。

 

鎌倉城のマトメ 3    2021年05月18日 | 大鎌倉城

鎌倉城に対する認識は、研究者の調査不足、根拠の不明の参考書引用等で鎌倉城の実体を語られる事が無い。
城郭研究書「日本城郭大系」では、名越の石切り場を鎌倉城として紹介され、見るに耐えない記事となっている。(当ブログに記載:日本城郭大系1 記 2015-06-22)
多くの鎌倉研究書が「日本城郭大系」を引用した為、内容が定番となり、調査不足の認識不足で出した結論が常識となってしまった。

下図は、鎌倉城のマトメ2の地図の上に急傾斜を加えた図です。

山の裾は、総て黒くライン(急傾斜)が入るのが 前出の地図とは違う処です。
この山の裾の黒い場所は切岸と呼ばれる城壁に相当する急激な傾斜部です。
人力で掘削した崖で、周囲の山裾は総て崖に成っている。
これが、鎌倉城を示す痕跡です。

鎌倉城以降では、戦国時代や江戸時代を経ると「日本城郭大系」で記された一般的な構造の城になりますが、
それらの築城技術の基が鎌倉城に有ったと考えます。

後世の城と根本的に違うのは、城を守る為の城壁と言う考えよりも、
一段高い場所に陣取り、寄せ手より優位に戦う事を意識した砦と考えて居ます。
博多の元寇妨提と同様な防衛ライン的考えを想定しています。
主な戦力は騎馬に在り、出撃基地的な砦であり、一か所攻められれば、他の基地より騎馬が出撃し、背後から襲う!
防衛の為の基地と言うより、攻撃する為の基地と考えられる構造に成っている。
防衛としても効果が有り、新田義貞の攻撃を跳ね返した実績がある。
新田義貞は、正面攻撃を諦め、城壁(切岸)の無い海岸より入り込んだ訳です。
それも異常現象で海岸の岩礁が浮き上がり、安易に鎌倉市内に入り込めた訳です。 鎌倉城の城壁(切岸)を打ち破り鎌倉市内に攻め込んだ訳では無いのです。

専守防衛の後世の城とは考えが違うと感じています。
国内向けには、鎌倉の街を守る城壁。
元寇の海からの侵入には、海岸に妨提を作り、鎌倉の街を守るが、突破された市内に向けられた切岸が元寇に対処する城壁となる訳です。
それ程の危機感を持って鎌倉城は作られたと考えて居ます。

さて、、
貴方が現地に行き、目の前の遺構を城と認識できるでしょうか?
 それが問題です。

 

鎌倉城のマトメ 4    2021年06月21日 | 大鎌倉城

上図は切岸の段差を黒く表示し。ご覧の傾斜表示となります。一般的な地図では表現が困難ですが、、如何ですか?
しかし、住宅地に占領された状態であり、緑地は樹木のベールに隠れて、単なる山に見えます。
更に巨大でその様な自然地形か?? 等と考えるのでしょうね、、人手でこの様な地形を作った!とは思えない大きさですから、、
下調べをして、確信的にこの段差は切岸痕跡として見ないと誤魔化されます。

鎌倉城には二面性が有ります。
一、国内の敵から、鎌倉の市街を守る城壁としての城。
二、国外の侵略(元寇)対策としての砦。

「鎌倉城の城壁 5」 2016/12月06記 より
「尾根の周りに真っ黒な縁取り」の様な切岸に 新田義貞は鎌倉市内に入れなかった。 太平記では新田 総勢五十万七千余騎が『粧坂』に攻めよせた。
鎌倉勢は三万余騎にて『粧坂』を堅めたり。 新田勢を喰い止められた!
鎌倉軍は『粧坂』で 16倍の敵を相手にして耐え抜いた!
その理由は、、、、
平場の戦いなら、16倍の敵には一蹴されますが、、、
鎌倉側の城の城壁(切岸)効果は絶大であった訳です。
 理屈に合わない変な事は、
鎌倉軍六万余騎の大将赤橋前相摸守盛時が州崎で何故1日しか耐えられなかったのか?
戦い方の戦法が古風で工夫の無い大将であった事は、太平記記載が有る。
大将赤橋は、自分のメンツにコダワリ戦略の無いまま、城を活用する事無く昔ながらの戦いをした!
言い方を変えれば、
8倍の敵に対して、平地で対等の戦いをして自滅した古い考えの大将でした
鎌倉城を騎馬の出撃基地とした戦法と考えられます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする