縄文海進で海水面が上昇したピークが6000年前で、その後海退が始まった訳です。
現在より1000年前(金印:漢委奴国王が作られた時代)の海岸線情報は皆無です。
しかし、古代東海道が作られ、直線的に道が出来るだけの陸地が現れていた状態を想定する条件は、
平塚の道路遺構と駅家の存在できる海水面と、古代東海道が平塚より茅ヶ崎へ渡る相模川越えで、最低限の海水面の値を考えた時に、オオヨソ4mの海抜が妥当な当時の海岸線と考えるのです。
(茅ヶ崎から北に向きを変える説は、有得ない根拠不明な学説です。)
これが、1000年前の海岸線を特定する根拠です。
更にこの4mの海抜を鎌倉の由比ヶ浜に設定すると、、、
アレッ!海岸線が大して今と変わらない。
そうなんですね~ 5mに設定すると鎌倉駅まで海岸線が入り込む、、微妙な値です。
この話は、古舘橋の話で前振りですね、、、
縄文海進で海水面が10m以上有ったと考えられる海面が、
今から1000年前には海水面が4mに迄下がったので、古館橋の周囲の標高7m程は海の水が引くと考えられるが、
実際は、新田義貞の鎌倉攻撃で、この地は水の中で有った。橋を架けて洲崎を攻撃した訳です。(この場所は海水面に無関係で大船周辺は地形的に沼地状態で有った)現代の50年前でも台風が来る度に古大船湾の形に湖が出来上がったのです。