化粧坂と水堰橋の間にある北鎌倉女子学園グラウンドの脇の土橋ですが、これが吾妻鏡に言われる中の道です。
城でいう大手の正面玄関に相当する道です。道としては貧弱ですが、土橋としてみれば、立派なモノです。
城ですから、当然攻め入る敵に対処した構造をしている訳です。
海蔵寺裏の大堀切の土橋のとは、攻め入る敵に対処する考え方が違います。
写真は、北鎌倉女子学園グラウンドの脇の土橋路を渡り終え、鎌倉に向け振り返ると、、、、
やはり道路に境が有るのです。
自転車の通った跡を御覧ください!
境から急に自転車の轍(ワダチ)が付いて、古い路面デナイ事を確認できます。
土橋としてみれば、先の境から、今回の境迄の幅と、ポール4本とコンクリートの幅が同じ程度の長さです。
右の柵はグラウンドの柵で、左の緑の壁に土手は無く、そのまま下の住宅地迄垂直な崖です。
なんせ、土橋ですから、、、
東海道ならば、鎌倉から奈良へ向かえば上り、常陸へ向かえば下りです。
東山道武蔵路の延長の古道の名は武蔵大路、奥州街道、下の道と呼ばれ、太平記では「上の道」と称され、同じ道を、片や「下の道」と呼ばれる矛盾ですが、、、
初めから上下左右は相対的で立場に依り、その関係は変わる??
それを固有名詞にした人がいたのですが、、、
奈良の都に三本の道があり、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる「大和三道」が在った。
奈良盆地に藤原京から平城京へ上ツ道、中ツ道、下ツ道が平行に一直線に作られた。
鎌倉にも、これと同様に在ったであろう、、、そんな「推測」を根拠に、
鎌倉の上中下の道を固有名詞として定着させた方が居た。
しかし、、
鎌倉には、奈良盆地のような上中下道を綺麗に区分けする地形は無い。
有るのは、
鎌倉の都以前の時代から存在する古代東海道の上下の区分けが在る訳です。
奈良の計画的な都市造りの上中下とは、根本が違う事に注意が必要と「ぼ輔」は考えるのです。
立場(場所としても変わりますが、書き手の地位と言う意味)が違うと、、、
武蔵の国府(国分寺)へ向かう道を、、、、
「上の道」と書いたのは太平記です。
「下の道」と書いたのは吾妻鏡です。
「武蔵路」と書いたのは梅松論です。
同じ道の呼び名が書き手によって、この様に変わるのです。
太平記は、作者は不詳であるが、反鎌倉幕府の立場の記述と考えられる。
吾妻鏡は、幕府中枢で書かれた鎌倉幕府公式見解的な本の様です。
梅松論は、、鎌倉内部に詳しい人物が、鎌倉崩壊後に、人の批判を受けない書き方をしている。
大きな問題は、武蔵路を「上の道」と書く太平記の根拠です。
何故、「上の道」と呼んだのでしょうか?
奈良の路造りに真似たので無いとしたら、、、、???
写真は、北鎌倉女子学園グラウンドそのものです。土橋状道からの映像です。
ポールが4本と、右手がコンクリートの崖ですが、その間から下の倉久保の谷戸へ向かう場所が
問題ですが、グラウンドを作った為に、その遺構は失われた。
それは、戦う為の砦としての遺構でひな壇的になっていたと「ぼ輔」は解釈しているのです。
その古道の名は武蔵大路、奥州街道、上の道、下の道と呼ばれています。
憶測はあっても、、誰もその痕跡を確定出来ない! この場所だと言う人は居ますが、根拠のない話で、更にその脇に幾つも同じ方向の直線的な古道が有り、更に書かれた著者により、別な道筋が示されて、、どれが本物??と言う話になる。
古代道に沿って細い鎌倉道が出来上がったのを、上の道下の道と称した、、かも知れない! 話です。
都を基準に考えれば、都に向かう道は上の道。地方に向かう道は下の道。
鎌倉時代は?
鎌倉を基準に考えれば、、、どの様になるでしょう??
これは、当時の鎌倉の背景を考える必要を感じています。
その背景とは、
源平合戦で京の都は荒れ、政治は貴族より武士の手に渡り、武士の掌握するところと成ったのです。
それが鎌倉幕府の力で、朝廷に頭を下げる必要は無くなった。
朝廷と幕府は敵対する状態です。
鎌倉は、心の奥で幕府は京の都より上を目指していたと考えれば、、、
京と鎌倉は対等か、鎌倉の方が上と思っていたのではないでしょうか?
その様な状態で鎌倉幕府が京への道を上の道と言うでしょうか?
吾妻鏡では、京へ向かう道を上の道との記載は無い様ですね。
吾妻鏡では「下の道と」書かれてた理由は、鎌倉幕府よりの著者でありその立場で書かれたとも考えられる。
太平記では「上の道」と称される理由は、、、何故でしょう?
写真は、北鎌倉女子学園グラウンドの脇の土橋状態の映像です。
反対側は、住宅地になり、とても人工的な断崖です。
要は、道の両脇が断崖で、、土橋という訳です。
ぼ輔は、、、疑問視する話です。
疑問の中身は、
上下左右の言葉は、相対的な考え方です。
上下の基準は何処でしょうか?
鎌倉街道を語る時に「上の道」や「下の道」を特定な固有名詞として語られる。
相対的な考えが、固有名詞として語られる処に疑問を感じるのです。
特定な道を語られる時には、特定な場所の指定が欲しいものですが、実体が不明で呼称も一様でない。それでは、マルデ幽霊みたいなモノです。
鎌倉から武蔵国府に向けて古道が存在した。
その古道の名は、、後の世で上の道、下の道、武蔵大路とも呼ばれた古代官路です。
奈良時代の中路規格の道幅は、側溝中心間で12m程有る直線道路です。
栃木県足利より、神奈川県藤沢市の江ノ島へ向けて直線道路が走り、途中横浜市戸塚区辺り迄有った様です。(注1)
鎌倉幕府は、この道は大き過ぎ防衛上の問題で存在が邪魔であった。
その結果大道を消滅する工作をした。その結果、その古道に沿って細い鎌倉道が出来上がったのを、上の道下の道と称した、、かも知れない!
その、、「かも知れない}」道の上下の問題です。
相対的な考えで上下を語れば、
道の上下は何を基準にするのか?を決める必要が有る。
都を基準に考えれば、都に向かう道は上の道。地方に向かう道は下の道。
古代東海道を考えれば、鎌倉を基準に下は常陸向けで、上は奈良の都に向けた方向です。
道の上下の問題をもう一段深く考えてみましょう。
(注1)時代によっては、東京調布市、町田市、座間の星谷寺、海老名国分寺、横須賀水道と重なり、鎌倉へ向かう道(鎌倉街道「上の道」と東山道相模路、2006-09-11ブログに記載)も在ったようです
写真は、化粧坂から、水堰橋途中にある台峰の道で、これから北鎌倉女子学園のグラウンドの脇を通る処です。
この赤い矢印の場所から路面の変化があります。
手前は、鎌倉にありがちな砂岩含みの道ですが、矢印から先は補修の跡か?
昔からか? 要はこの場所が土橋状態になっているのです。
境川の水が江ノ島に注ぎ、どの様に海に拡散するか?それは、潮の流れの影響が大きい。
前回は文章で証明しましたが、
良い写真が見つかり、、、一目瞭然です。
境川河口から出た水は、海の水とは違い赤く濁っていますが、、、
そのまま西浜の際を(平塚方面へ)川の水が海流に押し流されて行きます。
川の水は泥を含むので、西浜は泥と砂で硬く締まり、砂利道が大半の昔はオートバイを走らす絶好な場所でした、、今は車両侵入禁止!
常時境川の水は東から西へ流れ、江の島西浜の砂は川の泥で締まった海岸に成っており、慶應義塾高等学校Webの海流図は沿岸は考慮に無いのか?。特殊な海流図で有ったのか?実情には合わない図面です。
東浜は、バイクを走らすと、砂にめり込みスタックする。境川の水が東浜には流れない証拠です。
写真でも川の水の状態は鮮明に写っていますから目的は達した写真と思います。
潮流は満ち引きで方向は変わり、満ち潮時には反時計回り、引き潮時には時計回りに流れる。
しかし
江の島鎌倉では、潮流以上に黒潮の海流の影響が強く、 城ヶ島沖から相模湾内に入り込み反時計回りの海流(葉山→鎌倉→藤沢→茅ヶ崎へ向かう潮の流れ)となります。これをサキ潮と呼んでいる。
逆に小田原→平塚→江ノ島→鎌倉→三浦(相模湾内を時計回り)の海流をカシマ潮と呼び名がある。と言う事は、その様な流れも皆無ではないと言う事です。
通常はサキシオですが、
黒潮が蛇行するとカシマ潮になる可能性は否定できないが、江の島や鎌倉では経験した事は無い。茅ヶ崎の沖(烏帽子岩等)や国府津以西にカシマ潮とサキ潮が入れ替わる話があります。
60年前に、砂鉄は鵠沼海岸で磁石を引きずりながら歩けば手に入る事を知っていた。この砂鉄の由来は、、
そう、イタチ川は、柏尾川に流れ込み、柏尾川は藤沢で境川に合流し、江ノ島へ流れる。
考えるに、イタチ川の砂鉄が鵠沼海岸の砂鉄に絡む訳でしょうね!
この写真を見ながら、、60年前の記憶が蘇りました。
これにて、「NHKの高校地学」は 完!
反論はコメント欄に記入してください。
比重の大きな砂鉄は最後に残る」と説明されましたが、問題は後の文章にあります。
現代より数段古道探しが安易な大正時代の話。
柳田国男氏(民俗学)が鎌倉道の話を集めて地図に書き込むと、 鎌倉中心とした放射状にならず、日本中が鎌倉道で網状になったそうです。
奥州街道を探す為、武蔵野周辺の鎌倉道を探索したが、古老の話す伝承の鎌倉道の断片が数多く散見するも目的の道(上の道、奥州街道、別名下の道)を特定出来なかった。これより考えられる事は、江戸時代以前の道が大正時代に数多く残って伝わっていたが、立派な道は何一つ無かった。
さて、その理由は、、
初め(鎌倉幕府消滅の時点)から立派な道は無かったと言う事と「ぼ輔」は考えるのです。
残るのは、武蔵大路を壊した崖や埋めた跡!そして、その周囲に作られた細い鎌倉道を「上の道(奥州街道)下の道」と言い換えた!ぼ輔の妄想です。
ぼ輔の知る、、鎌倉時代の立派な道は、朝比奈の4mの峠道ともう一つは
化粧坂、台峰、笠間十字路、戸塚の日限り地蔵、万騎が原へ抜ける見掛け3m幅の道です。
見掛け3mは、掘り返せば、もう少し道幅があるかもしれません。
鎌倉周囲が小規模の道で、、、地方で広い道を発掘すると鎌倉道跡と解釈されるのは、、、
古代の官路や駅路と 鎌倉街道の違いを把握していない!とぼ輔は想えるのです。
写真の路は、化粧坂から葛原が岡神社脇より台峰を通り、水堰橋、笠間十字路に抜ける道の台峰の場所。
鎌倉城の大手と言われた路と考えます。3,3m程の路が発掘されたそうですが、、うろ覚えです。間違っていたら、その時点で訂正します。
これが、鎌倉城のメイン道路なんて、、
朝比奈以外の他の路はもっと酷い訳です。