鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代東海道痕跡    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉時代の波打ち際 11

2021年09月09日 | 大鎌倉城

「鎌倉時代の波打ち際10」の立体写真で写しだされた崖ですが、、

未だ海岸際の国道134号が出来る以前の写真ですから、古来より崖の存在が有った訳です。
滑川河口の西には、由比ヶ浜南遺跡の崖の防塁と考えられる遺構が在り、
滑川河口東の材木座にも崖が存在し、この防塁の延長と考えられる。
元寇対策の防塁となれば、由比ヶ浜を囲むように防塁が存在するはずです。

青い色の4mと水色の6mの境界が極楽寺坂の下の坂の下から稲瀬川河口、滑川河口、材木座迄の由比ガ浜を囲う様なラインが検出できます。

下の坂のラインは、道路の為の段差では無く、坂の下の町の段差で有る訳です。

稲瀬川の周囲は、津波の為にこの段差が流されたと、考えられます。

博多湾の防塁の場合、
長垂海岸から小戸海岸にかけての約2.5kmの間、海への傾斜面に幅1~1.5m、残高1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補強していることが判明した。
写真はご覧の通りで、風雨による崩壊した状態です。(福岡市の文化財より)

津波が無くても、この様に風雨で崩壊します。津波で流されても、、仕方が無いのかもしれません。

問題は、稲瀬川より稲村ヶ崎に向けての砂浜は、数度の津波に襲われた場所ですが、高低差とし2m〜6mの範囲で残存するのが確認できます。

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も く じ

2021年08月31日 | Weblog
中世の鎌倉街道が目的でなく「鎌倉街道と呼ばれた古代道(駅路、官路)を探そう!」です。
写真は、古代道の特徴を持つ藤沢市の道路遺構。
 
もくじは書いた順で表示してあります。
カテゴリーを操作すると記事の関連がスムーズです。
PCの方は日付けを参考に、左上のバックナンバーを操作して移動してください。
●初めての方へ、古代駅路の特徴----2006-05-13
●鎌倉街道七口------------2006-05-23
●鎌倉街道?これは東山道武蔵路----2006-05-27
●大仏切通し1~6-----------2006-06~~
●梶原口から化粧坂へ---------2006-06-29
●朝比奈切通し 1~10---------2006-06~ ~
●続・朝比奈峠東の小切通し------2006-07-24
●東山道武蔵路------------2006-07-26
●朝比奈峠から六浦へ!--------2006-07-29
●古代駅路は、直線?---------2006-08-07
●「毘」スクラッパ-さんへ------2006-09-04
●想定伝路水道道路----------2006-09-06
●古代道探しの原点----------2006-09-08
●武蔵大路が鎌倉に有る!-------2006-09-10
●鎌倉街道上の道と東山道相模路----2006-09-11
●水道道路(明治の地図)1~5------2006-09~~
●頼朝の策略-------------2006-09-26
●立石1~4--------------2006-10-02
●玉縄城---------------2006-10-06
●東山道相模路の鎌倉入り-------2006-10-07
●鎌倉[謎の大堀切]----------2006-11-01
●鎌倉最大の切通し1~8--------2006-11~~
●鎌倉市内の駅路-----------2006-12-
●六浦道1~9-------------2007-06~~
●源氏山より寿福寺前に1~3------2008-02~~
●鎌倉の砂鉄1~7-----------2008-04~~
●緊急事態!-------------2008-04-10
●狭山市と所沢市の間---------2008-04~~
●横浜市と鎌倉市の境・1・2------2008-05~~
●空中写真--------------2008-06-29
●空中写真を「立体視」--------2008-07-15
●表紙の場所から後方を写す!-----2009-02-24
●空中写真を「立体視」の応用-----2009-02-27
●忘れ去られた鎌倉手広 1~10-----2009-08~~
●忘れ去られた鎌倉山崎切通編-----2009-10-16
●忘れ去られた鎌倉今泉編1~6-----2009-12~~
●あけましておめでとう!-------2010-01-11
●コメントより(鎌倉今泉編6) ----2010-02-06
●御柱1~2--------------2010-04~~
●工事が始まる。-----------2010-06-06
●東山道相模路 1~11---------2010-08~~
●上の道、下の道1~6---------2010-10~~
●鎌倉の古代 1~11----------2010-11~~
●グーグル地図より1~3--------2011-11~~
●あけまして-------------2012-01-06
●藤沢市の遊行寺、西脇の道------2012-03-27
●表紙を飾道路遺構は消えた!-----2012-06-20
●大鎌倉城1~7------------2012-09-10
●大鎌倉城隠された大切通1~6-----2012-12~~
●鎌倉に城は無かった1~8-------2013-01~~
●富士山中に東海道序 1~10------2013-02~~
●富士山中に東海道十里木 1~10----2013-05~~
●足柄峠越え1~4-----------2013-07~~
●東富士演習場の 1~14--------2014-05~~
●大鎌倉城隠された切通し編 6-----2014-08-21
●武家屋敷跡-------------2014-10-10
●大鎌倉城峰  上・中・下巻-----2014-10-17
●化粧坂    上・下巻-------2014-10-31
●鎌倉の古代東海道上・中・下巻----2014-11-06
●箱根の古代道上・下巻--------2014-11-10
●稲村ガ崎の古道を検証上巻・下巻---2014-11-15
●稲村崎成干潟事上・中・下巻-----2014-11-22
●長窪の切通1~6-----------2015-02~~
●長窪の切通 7~11----------2015-02~~
●鎌倉、藤沢周囲の城---------2015-03-26
●怒れる鎌倉市民さんより-------2015-04-23
●反論です。-------------2015-05-09
●鎌倉城の成り立ち----------2015-05-11
●日本城郭大系------------2015-06-19
●稲村ガ崎の戦い上・中・下巻-----2015-06-26
●コメントより、台峯の先端------2015-07-28
●コメントより:台山---------2015-08-08
●台峯の先端と臥龍峡---------2015-08-11
●鎌倉の文化守れるの?--------2015-09-24
●由比ヶ浜関谷線-----------2015-10-06
●七里ヶ浜は、何故七里?-------2015-11-06
●相模の古代東海道 1~15-------2015-11~~
●鎌倉に城は無い! 1~12-------2016-02-24
●コメントより(怒れる鎌倉市民)----2016-03-18
●朝日新聞に  写真が有る!-----2016-04-03
●手広切通し編の工事後--------2016-05-07
●鎌倉市内で石棺墓発掘1~9------2016-06~
●稲村崎が干潟!嘘だ! 9-------2016-06-23
●一つの考えに基づいた工作物-----2016-07-12
●鎌倉城破壊の軌跡1~4--------2016-07~
●鎌倉城破壊の軌跡コメント------2016-08-26
●鎌倉城破壊の軌跡修正--------2016-08-27
●長窪谷戸の機能-----------2016-10-27
●鎌倉城の城壁1~5----------2016-11~~
●鎌倉城の砦1~3-----------2016-12~~
●鎌倉城のバ-チャルの世界------2016-12-26
●纏め鎌倉城1~4-----------2017-01~~
●三方を山に?初期の話1~3------2017-01~~
●鎌倉城と蒙古襲来1~9--------2017-02~~
●コメントより1~3----------2017-02~ ~
●古館橋1~4-------------2017-06~~
●縄文海進--------------2017-09-04
●鎌倉時代の波打ち際1~6-------2017-12~~
●稲村崎成干潟事現在でも同じ現象---2017-12-15
●続稲村崎成干潟事 現在でも同じ---2017-12
●素人と、玄人------------2018-03-15
●素人と、玄人後編----------2018-03-23
●下大槻から関本へ 1~18-------2018-03~~
●下大槻峯遺跡------------2018-04-12
●長窪砦モデルコ-ス---------2018-04-26
●鎌倉の砂鉄5の写真追加 -------2018-06-08
●鎌倉の砂鉄6の補足 ---------2018-06-11
●栃窪Z路から関本へ1~6-------2018-06から
●旧東海道の道幅1~4---------2018-07~
●旧東海道のコメント1~7-------2018-08~
●鎌倉城の変遷------------2018-09-16
●化粧坂の攻防?太平記に無い!----2018-09-20
●素人と、玄人 後編---------2018-09-22
●新田軍は化粧坂に1~3--------2018-09~
●長窪の砦1~3------------2018-10-08
●新田軍は化粧坂に 戦う砦跡-----2018-11-05
●戦う砦跡 鎌倉城の平場-------2018-11-08
●鎌倉城 蒙古襲来の前後-------2018-12-11
●賀正----------------2019-01-06
●忘れ去られた鎌倉城編1~8------2019-01~
●東富士演習場の立ち入りその後----2019-02-07
●東富士演習場の立ち入りその後 2---2019-02-15
●篠窪から関本へ 1~12--------2019/10〜
●下大槻から関本へ14補足-------2019-05-05
●倉久保谷戸 1~3----------2020-06-06
●倉久保谷戸 2------------2020-06-08
●実体視練習-------------2020-06-12
●倉久保谷戸 3------------2020-06-14
●台峰の砦 1~13-----------2020-06〜
●鎌倉城の範囲1〜10 ---------2020-07〜
●鎌倉城について考察の変遷------2020/07/13
●鎌倉城の範囲コメントより------2020/08/01
●鎌倉城の範囲コメント 2-------2020/08/03
●城のマトメ 1------------2021/03/12 
●城のマトメ 2------------2021/05/17
●城のマトメ 3------------2021/05/18
●城のマトメ 4------------2021/06/21
●鎌倉時代の波打ち際 7--------2021/07/12
●鎌倉時代の波打ち際 8--------2021/07/18
●鎌倉時代の波打ち際 9--------2021/08/16
●鎌倉時代の波打ち際10--------2021/08/31

     ●もくじ

以上
 
 
記事一覧は https://blog.goo.ne.jp/mementosmori/arcv 
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鎌倉時代の波打ち際 10

2021年08月31日 | 大鎌倉城

現在 由比ヶ浜は国道134号が通っており、浜辺の古来からの景観を想像したくても、国道134号の構造物で遮られた状態です。では134号の出来る前の空中写真を見てみましょう。 国土交通省の終戦直後の空中写真です。

昭和30年代の写真と考えられます。赤点のある写真は立体写真です。
右の写真は、崖をオレンジ色のラインで書き込みました。
写真の右は北で、八幡様の方向です。
川は滑川でその上に在る砂山から防塁が出土した場所です。
滑川の下は材木座です。
このオレンジ色の砂丘の崖が注目して欲しい地形です。

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鎌倉時代の波打ち際 9

2021年08月16日 | 大鎌倉城

戦前の滑川の由比ヶ浜へ注ぐ川口の状態は、、、

その写真です。

海岸より八幡様に向けた写真です。

画像左には、、11mの砂山が有った訳です。

滑川のこの状態の土手ならば、、元寇に対抗する効果が望めると考えます。

これが現在の河口です。

この新旧の比較からしても、鎌倉時代の波打ち際と現在は大差ないと考えて居ます。

肩書を持って鎌倉の研究をされた方々が、、

鎌倉の故事を自ら検証もせずに伝言ゲームの様に他の研究資料を受け売りで新たな研究書を発表し、鎌倉の歴史を歪めてしまった!

寂しい限りです。

 

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鎌倉時代の波打ち際 8

2021年07月18日 | 大鎌倉城

現代の地図と明治初期の地図を重ね合わせてみましょう。

上図 重ね合わせた地図より、
砂山の三角点11.53mの場所は、国道134号線に削り取られた状況を示します。

下の写真は現代の状況です。

写真で緑に写る公園が由比ヶ浜南遺跡となります。

> 有鄰  第 430 号 H15/9/10発行
>    以下は 記事の抜粋です。 
> [座談会]中世鎌倉の発掘 仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
> 
> 由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡です。
> この遺跡の発掘調査は地下駐車場建設に伴う工事に先立って行われました。
> 
> 齋木氏:大きな礎石建物と屋敷は13世紀後半になって造られます。
> この屋敷と建物の特徴は、北側が敷地外で調査されていないので判りませ
> んが、屋敷の入り口である門が南の海に向かって造られていることです。
> 門の両側には塀がありますが、その塀の板が造られた当初は線路の枕木み
> たいに太い角材を使っています。
> 
> 屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。
> 屋敷の西側土塁の外には木組み護岸の河川が流れて、その西には御成小学校
> の前を通る今小路に真っ直ぐに延びて行く、丁寧に造られた道路があります。
> 
> この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかって
> いる屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。
> 防御的な屋敷の門が海側にしか無いということも不思議な点です。

 

その防御施設の場所とは、砂丘の崖に相当する場所と考えられます。

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鎌倉時代の波打ち際 7

2021年07月12日 | 大鎌倉城

「鎌倉時代の波打ち際6」を書いたのは2018年でした。
古い時代のデーター探しですが、
現代の地図データで納得してしまいます。
例えば1970年代の地図

これで、ある程度の地形は掴めますが、微妙な事は判らない
近頃は、この微妙な高低差を示す地図が有ります。


此れなら納得でしょ??
こんな処で結論に成っていたのです。
古い地図は明治15年に造られた迅速図と言うのが有ります。

古い分、適当な地図と考えて居ましたが、、
詳細な地図が存在し、 今回見つかりました。

如何でしょうか、
見どころは、海に注ぐ滑川の脇に砂丘が明確に記載されている。
三角点も有り、標高11.53m となっています。
等高線も5mと10mが描かれています。
その価値は何でしょうか??

高低差を示す現代の地図は、ドンナニ正確でも、過去の状態ではない。
この場所は関東大震災で津波が押し寄せた場所です。
長谷駅の周辺の坂の下は津波で全滅した。 
過去の地震では大仏近くまで津波が来た話も有ります。

 
写真は、関東大震災で津波が襲った坂の下や稲瀬川、奥の微妙に高い場所が砂丘です。

その様な訳で、宅地を造成する時は、必ず盛土をしたと想定し、
現代の地図には、屋敷を想定した四角い盛り上がりがある。
明治の地図には、砂丘が書かれ、其の砂丘は由比ヶ浜南遺跡の石防塁が有る場所! 
そして、等高線5mの先は「鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘8」の場所へ、、
由比ヶ浜は、平坦な砂浜では無い証明です。

更に高低差のある場所が砂浜に存在し防塁が存在した訳です。

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鎌倉城のマトメ 4

2021年06月21日 | 大鎌倉城

上図は切岸の段差を黒く表示し。ご覧の傾斜表示となります。一般的な地図では表現が困難ですが、、如何ですか?
しかし、住宅地に占領された状態であり、緑地は樹木のベールに隠れて、単なる山に見えます。
更に巨大でその様な自然地形か?? 等と考えるのでしょうね、、人手でこの様な地形を作った!とは思えない大きさですから、、
下調べをして、確信的にこの段差は切岸痕跡として見ないと誤魔化されます。

鎌倉城には二面性が有ります。
一、国内の敵から、鎌倉の市街を守る城壁としての城。
二、国外の侵略(元寇)対策としての砦。

「鎌倉城の城壁 5」 2016/12月06記 より
「尾根の周りに真っ黒な縁取り」の様な切岸に 新田義貞は鎌倉市内に入れなかった。 太平記では新田 総勢五十万七千余騎が『粧坂』に攻めよせた。
鎌倉勢は三万余騎にて『粧坂』を堅めたり。 新田勢を喰い止められた!
鎌倉軍は『粧坂』で 16倍の敵を相手にして耐え抜いた!
その理由は、、、、
平場の戦いなら、16倍の敵には一蹴されますが、、、
鎌倉側の城の城壁(切岸)効果は絶大であった訳です。
 理屈に合わない変な事は、
鎌倉軍六万余騎の大将赤橋前相摸守盛時が州崎で何故1日しか耐えられなかったのか?
戦い方の戦法が古風で工夫の無い大将であった事は、太平記記載が有る。
大将赤橋は、自分のメンツにコダワリ戦略の無いまま、城を活用する事無く昔ながらの戦いをした!
言い方を変えれば、
8倍の敵に対して、平地で対等の戦いをして自滅した古い考えの大将でした
鎌倉城を騎馬の出撃基地とした戦法と考えられます。

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鎌倉城のマトメ 3

2021年05月18日 | 大鎌倉城

鎌倉城に対する認識は、研究者の調査不足、根拠の不明の参考書引用等で鎌倉城の実体を語られる事が無い。
城郭研究書「日本城郭大系」では、名越の石切り場を鎌倉城として紹介され、見るに耐えない記事となっている。(当ブログに記載:日本城郭大系1 記 2015-06-22)
多くの鎌倉研究書が「日本城郭大系」を引用した為、内容が定番となり、調査不足の記述が常識となってしまった。

下図は、鎌倉城のマトメ2の地図の上に急傾斜を加えた図です。

山の裾は、総て黒くライン(急傾斜)が入るのが 前出の地図とは違う処です。
この山の裾の黒い場所は切岸と呼ばれる城壁に相当する急激な傾斜部です。
人力で掘削した崖で、周囲の山裾は総て崖に成っている。
これが、鎌倉城を示す痕跡です。

鎌倉城以降では、戦国時代や江戸時代を経ると「日本城郭大系」で記された一般的な構造の城になりますが、
それらの築城技術の基が鎌倉城に有ったと考えます。

後世の城と根本的に違うのは、城を守る為の城壁と言う考えよりも、
一段高い場所に陣取り、寄せ手より優位に戦う事を意識した砦と考えて居ます。
博多の元寇妨提と同様な防衛ライン的考えを想定しています。
主な戦力は騎馬に在り、出撃基地的な砦であり、一か所攻められれば、他の基地より騎馬が出撃し、背後から襲う!
防衛の為の基地と言うより、攻撃する為の基地と考えられる構造に成っている。
防衛としても効果が有り、新田義貞の攻撃を跳ね返した実績がある。
新田義貞は、正面攻撃を諦め、城壁(切岸)の無い海岸より入り込んだ訳です。
それも異常現象で海岸の岩礁が浮き上がり、安易に鎌倉市内に入り込めた訳です。 鎌倉城の城壁(切岸)を打ち破り鎌倉市内に攻め込んだ訳では無いのです。

専守防衛の後世の城とは考えが違うと感じています。
国内向けには、鎌倉の街を守る城壁。
元寇の海からの侵入には、海岸に妨提を作り、鎌倉の街を守るが、突破された市内に向けられた切岸が元寇に対処する城壁となる訳です。
それ程の危機感を持って鎌倉城は作られたと考えて居ます。

さて、、
貴方が現地に行き、目の前の遺構を城と認識できるでしょうか?
 それが問題です。

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鎌倉城のマトメ 2

2021年05月17日 | 大鎌倉城

鎌倉城は、書籍に名前が載る事は有っても、場所は何処? 縄張り図は? 堀切は? 城壁は?
その様な疑問に答える様な記事は皆無です。
調査はされず、不完全なままに放置された現状が有ります。 
このブログの趣旨は、鎌倉を突き抜ける古代東海道の解析が目的だったのですがね、、、
古代東海道の痕跡が鎌倉で急に消えてしまった。
何故無いのか? それが鎌倉城に首を突っ込んだ理由です。
城の真ん中を太い幹線道路が通っていたのでは、敵が侵入し、城の役には立たない!
当然の如く立派な古代東海道を封鎖する事に成る。
何故なら、それが城ですから!!
自分なりに納得できる様な城探しをする羽目に成りました。

鎌倉研究書を読むと、地形を知らず現地を調査した痕跡も無い研究内容と、根拠なく憶測に満ちた研究書を参考に現代の研究が積み重ねられた経緯がある。
広大な鎌倉城に対し、調査もせず広すぎでやりたくても調査が出来ない為に憶測で本を書いた。
それが著名な研究者が書かれた本に成った。
臆測は憶測を呼び、根拠の薄弱な風評としての現在の鎌倉城論が出来上がった。

「鎌倉を世界遺産に!」という目論みも、調査不足と思慮の浅さで無残にも崩れ去った訳です。
世界にも稀な巨大さを誇る砦がこの鎌倉城であり、「世界遺産」を目指すに値する遺構です。

鎌倉幕府にそんな力が有ったのか?
九州の地方の武士を指揮して博多湾に20㎞に及ぶ元寇防塁を作った。
地方の武士集団でこれだけの土木建築を作り出す力が有った訳です。
中央の鎌倉幕府は、更に数段強固な防衛施設を作ったと考えられる訳です。
鎌倉城を作った文献は有ったとしても、新田義貞鎌倉攻めで灰塵と成った筈です。
文献が無いから調べないと言うのが、現代的な研究者の態度です。
文献は無くても、巨大な遺構は残って居おり、調べれば解る。
問題は、大半は住宅地に成っている。
だから、、、痕跡は消えたのか? そんな事は有りません。
コメントに「みたに」さんが書かれた倉久保、台峰、台村、袋村の話をしましょう。

この地図では、地形の表現が全く足りず、何がお城跡なんだか??
判らない。
この辺りが常識的な考えで、だから鎌倉城は無い! そんな結論に成るのでしょうが、、、
次回は理解できる地図を掲示します。

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鎌倉城のマトメ 1

2021年03月12日 | 大鎌倉城

鎌倉に城が在る!
石垣は何処?
天守閣は何処?
城の出入り口の門は?
そんなイメージを浮かべるのがお城マニアでしょうが、、
鎌倉の城は、
元寇と言うモンゴル帝国の五代目フビライハンの攻撃に対抗する城として築かれた。
そう考えられるのです。
なんて言っても、鎌倉終焉により、資料は消え去った。
資料は消えても、、遺構は現存する訳です。
しかし、
その遺構を総合的に調べた研究家は居ない。
何故調べないのか?
戦国時代から江戸末期の城郭研究家の知識、常識の通用しない規模の城であったわけです。
何故その様な巨大な城を作ったのか?
その理由は、
元の情報は渡来した南宋の僧により、十分な量が鎌倉幕府に伝えられていた。
当時世界一の軍隊を持つモンゴル帝国に対抗する城は、当然の如く世界一の規模に成った訳です。

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台峰の砦 13

2020年11月02日 | 大鎌倉城
基本が専守防衛の戦国時代以降の城とは違い、、鎌倉城は、攻撃の出撃基地的な考え方で作られていると この台峰曲輪を調べて感じます。
馬繋場はこの台村曲輪で終わらず、周囲には幾つもの馬繋ぎ場が考えられ、、、
1km先には長窪の馬繋場があり、2㎞先には笠間中央公園遺跡とその隣に 切り立った平地があり、倉久保谷戸にも平地があり、同様な用途と考えます。
当然他の七口にも馬繋場が考えられます。
攻撃されれば、他の馬繋ぎ場から寄せ手の背後を騎馬隊が襲う連携が考えられる。
 
現在の鎌倉城跡は住宅と、樹木が繁茂した山に成っているのが鎌倉で,漠然と眺めても城の認識は出来ず、樹木の茂った山と住宅地が目に飛び込みます。
でも、
樹木に隠れた 手付かずの切岸は調べきれない程多く残り、この城遺構を認識すると、、、見るべき価値の物が、樹木の裏や宅地の裏庭から浮き出てくる!
「るるぶ」片手の観光ではなく、、街に面した山裾は鎌倉城の城壁です。
 
台村の馬出曲輪は以上ですが、
省略した部分も有りますが、ご質問が有れば、コメント欄へどうぞ!
決して、城郭に詳しい訳では無いのです。
地形の使用法を考えると、、私ならこんな作戦を立てた!
っと言う 現地の図面を根拠に私なりの考えを作文しました。
更に、その根拠が どの程度の正確性が有るのか?古文書から裏頭けを取って書いて見ました。
城造りの思想や構想 攻撃や防御の構造。それを遺構から垣間見て楽しんでいる訳でこの書かれた事が正解と言う訳ではありません。
見方が変われば、別の解釈が生まれると思いますが、、
私の記述を叩き台にして、鎌倉城の認知と城の解明が進めば嬉しく思います。
 
鎌倉城を調査した研究者は数多存在したと考えますが、、、
巨大過ぎて単なる山にしか感じられなかった訳ですね。
馬出曲輪で最大と言われる諏訪原城の曲馬出曲輪は50m×25mで、小さい!
諏訪原城は、守りの城ですが、鎌倉城の台峰曲輪は出撃基地の色合いを持っていると感じます。
 
 
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台峰の砦 12

2020年10月23日 | 大鎌倉城

鎌倉時代の戦は 騎馬が攻撃の主力と考えられます。

台村の曲輪の、馬の出入りは、自由でないと戦力を発揮できない!
「台峰の砦 6」の明治迅速地図には、8ヵ所ほどの道が在りますが、
オリジナルは、大手道の水堰橋側、北鎌倉女学園側、の大手道が2ヵ所と、
戦闘時に騎馬の出入りに使った北鎌倉駅から光照寺脇の坂を上る切通と  その延長の江の島へ向かう坂を使う事が考えられる。
大手道は、封鎖されたと考えられ、残る坂の2ヵ所を使い騎馬の出入りをしたと考えられる。
 
新田義貞が洲崎の戦いに勝ち、山崎に入った目的は、この台村曲輪を陥落し、北鎌倉女学園の校舎とグランドの間に在る封鎖を突破し化粧坂を攻めるのが目的です。 梅松論では、山内(台村曲輪下)で鬨の声が挙がったと書かれている。
化粧坂の直近を攻撃すれば、南は梶原から入り葛原ヶ岡の攻撃となり、梅松論に記されています。
更に、山崎は倉久保谷戸の有る場所で、台峰の大手道を側面から攻撃でき、北鎌倉女子学園グラウンドを攻められる場所です。
葛原岡北の瓜ヶ谷からの攻防は文献が無く北鎌倉の小袋谷川とその防塁を越えられなかった事が考えられます。
 
 
水堰橋ですが、、 何で水堰橋か?
正しい名前は「せいしく橋」(せゐ志くばし)と言われています。
水堰橋=せいしく橋=せゐ志くばし
どの様に考えても、水堰をせいしくとは読めません。
さて、
水堰橋の問題点は、下を流れる、小袋谷川の谷の深さが異常です。
水源から1㎞の水量の少ない小川にしては、谷が深すぎます!
この水量ではこの様な深い谷にはなりません。
小袋谷川の谷の深さは、人工的につくられた っと考えるのです。
根拠は、両岸は同じ幅で垂直に切り立っている!
何の為に人工的に作られたのか?
残念ながら、小袋谷川の川岸は、コンクリートや石垣で補強され、オリジナルの状態が確認できませんが、、、
堀として工作されたのでは? っと考えています。
それこそ後世の城の堀の原型ですね!
これらが邪魔して新田軍は瓜ヶ谷に入れなかった! っと考えれば、この堀切は効果が在ったと言えます。
堀に水が無ければ空堀! 水が在れば、更に強力な防護に成ります。
其の水を入れる時に堰堤で水を堰き止める場所!  
それが「水堰橋」と私は考えます。
 
下は水堰橋と光照寺下橋の中間地点

上は光照寺下の小袋谷川です。
台村の曲輪下に防塁が在る事から見直した砦遺構です。
トテモ強固な防衛ラインに成りますね!
水堰橋に 堰(せき)が在り水をセキ止めたら、、、それは堀になる。
台村曲輪を守る堀と 防塁があり、更に上はキッチリと切岸です。
文面から想像できると思いますが、この一か月でマトメタ考えです。
大半が住宅に隠れて居ますが、地形的には変化は少ないと思えます。
観光気分では、楽しめない遺構でが、見方を知ればエラク面白くなる!
これは、山崎の切通の昔の様子です。
このS字の曲って怪しげですね!
私は50年前にバイクで通過しましたが、、トンネルかと思いました。
 
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台峰の砦 11

2020年10月20日 | 大鎌倉城
   !!写真を追加!!
 
大手道を水堰橋の土塁で塞がれた騎馬の出入り口の話です。
大手道封鎖(北鎌倉女学園とグランドの間)場所の下ですが、台村曲輪との間を横切る道が在った!
その道の詳細は、
 
北鎌倉光照寺と言うのが有ります。(北鎌倉光照寺HPより)
〉「光照寺の門前の通りは、往古の鎌倉街道であり、、
高度経済成長期に道路の拡幅工事が行われるまで??
〉光照寺のそばには小さな名も無き切通しがあった
〉そうです。鎌 倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうと
〉した一遍上人の一行は鎌倉につながる関所を守る
〉武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街
筋に一夜の野宿をし、翌 日江ノ島に至り、そこ
〉で踊念仏を修したと伝えられています。その際に
〉野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺であり、
〉一遍上人法難霊場となっております。」
 
  下図のオレンジ色ラインが江の島街道で卍印は光照寺。
 
現在の光照寺の門前の通りは、
毎日 北鎌倉女子学園の生徒が昇り降りする坂で、広い道です。
この道の特徴は、
北鎌倉光照寺の前の道は、江の島へ向かう道。
昔は小さな切通が在った。
【1960年代には、この切通の道幅は広げられているので、
「〉高度経済成長期に道路の拡幅工事が行われるまで」と
言うのは、間違い情報です。
考えられるのは、北鎌倉女子学園が造られた時(1940)、
工事車両絡みで道は広がったと考えれれる。】
 
「昔は小さな切通が在った。」と言う現在の状態。
敵に水堰橋から攻撃を受けたならば、裏の「光照寺前の道」から騎馬は出入できる。
「光照寺前の道」を攻撃されたら、、、
 
南側の江の島へ行く坂から出入りした。
この道を進むと山崎の切通に出て、天神山の脇に抜ける。
 
「山崎の切通オリジナル」と言いたいのだが、北大路魯山人が皇族が来るので、車が通れるように整備した切通と言う話です。
<https://blog.goo.ne.jp/mementosmori/e/9ce759617e14405d04af44edfdb0edeb>
  水堰橋攻める敵を天神山の脇に抜けた騎馬で背後から襲える訳です。
 
山崎の切通とは、北大路魯山人が臥龍狭と名付けた場所です。
そして、長窪の切通と同じ道幅と同じに垂直に切り立った壁で作られた共通点が在る。
と言う事は、長窪、山崎、光照寺 の3切通は、同じ目的=騎馬の出入り口と言う連想できます。
この東照寺前の切通と、山崎の切通に共通な事は、
通常切通は直線的に作りますが、、二つの切通はS字に曲がっている。
曲がると見通せず攻め難い事と、思い切って攻め込めず躊躇する敵を正面や上から攻撃し易い。
大仏の切通は同じ構想で直角に切通が曲がっている。
坂だから曲がっていると言う理屈だと、山崎の切通の説明が出来ない。騎馬の出入りで、土塁で塞がない代わりに、この様な造りをしたと考えて居ます。
見る影も無く破壊された山崎の切通ですが、今の長窪の切通と同様な幅の切り立った切通でした。当然東照寺前の切通も同じだと考えて居ます。
 
 次の問題は、、水堰橋ですが、、 何で水堰橋なんでしょうか?
正しい名前は「せいしく橋」(せゐ志くばし)と言われています。
    その謎は???
 
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台峰の砦 10

2020年10月16日 | 大鎌倉城
広い鎌倉城は、均等に守らせたら兵力が足りない。
一ヵ所を集中して攻められたら困ります。
ワザと弱そうな場所を作り其処に集中させて攻めさせれば効率良く守れる。
何故なら関東武士が総出で作った城です。鎌倉城の構造を熟知していたと考えるのです。
 太平記に書かれた事は、新田軍は、
 十万余騎、極楽寺の切通
 十万余騎、巨福呂坂
 五十万七千余騎、粧坂
その様な兵力の割り振りで、大半の兵力は化粧坂を目指し台峰曲輪を攻めた!
梅松論や太平記を読み 地形に語らせたら、、こんな結果に成りました。
 
鎌倉終焉 では、
人数に誇張が有っても、
攻め手の 新田軍の五十万七千余騎、粧坂を目指して攻め込む。
守り手の 鎌倉幕府軍は三万余騎、粧坂を堅めた。
鎌倉軍は約20倍の新田軍をこの砦で迎撃したが、新田軍は攻略できず、稲村ケ崎に転戦し詳細は太平記に記されている。
鎌倉軍は、予備軍が10万人おり、攻め手が多ければ援軍に出したと言っても4倍の敵を
相手にした砦です。
 
主戦場は、山崎の倉久保谷戸と考えましたが、攻めるに困難で、台村砦の水堰橋が大軍が力で押し切るに好都合な場所で主戦場と考えるのです。
台村砦切岸の下の防塁ならば、高さ数メートルの防塁、他の場所より攻め易いはず!
これが「新田軍は洲崎の戦いで勝ち、山崎に入った!」と書かれ、山内で鬨の声が挙がったと梅松論に記された事と考えて居ます。
 
山内には、水堰橋より化粧坂に向かう大手道と、大手道に控える台村の砦=馬出曲輪を守る鎌倉軍が防塁を作って待ち構えて居た訳です。
防塁を設けて攻撃を防ぐ!それは、専守防衛です。
普段から水堰橋で、馬を降りて馬に水を飲ませ隊列を整え台峰で馬を繋いだ訳で、その出入口を土塁で塞ぎ、防戦をした。
何か変に思いません?
攻撃用の騎馬の出入り口が無くなります。
戦の最中に、、この騎馬は何処から出入りしたのか?
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台峰の砦 9

2020年10月14日 | 大鎌倉城
台村の曲輪ですが、 「登ったら宅地造成された団地でした!」
そんな感じの魅力の無い住宅地です。
 見方を変えれば 鎌倉時代からこの平地が有る不思議を!
地名として有るのは、地名が名付けられた時から平地で有った訳です。
 
台村馬繋場の曲輪は、南北220m 東西500m の平地です。
江戸城の本丸は、南北570m 東西に200m で似た広です。
 
台村の曲輪を化粧坂に向け少し登ると、北鎌倉女学園の校舎とグランドの間が、傾斜が強く雛壇状でこの場所が街道封鎖の場所と考えられます。
封鎖の外に台村曲輪の馬出構造が在る訳です。
鎌倉城以降でも大手口の前に馬出曲輪を造る時が在る。
「馬出曲輪」の名前からして 台村の馬繋場と使い方は同じで、鎌倉の城造りを真似たと考えられます。
 
太田道灌が造った江戸城=江戸城本丸と同じ大きさの台村曲輪ですが、、、
外部から観察したら、凄い防備の山城かも??
期待は裏切られ切岸の上は平らな平地だけ! 此れでは誰も城とは思わない!
 
鎌倉城なんて、地味なもんだ、、、っと私自身思っていたんですがね、、
しかし、
台村の曲輪の巨大さや囲む切岸と、更にその下の防塁を検出した時には、、先入観をひっくり返された!
そんなに細かく考えられた城であったのか!!と見直した。
地味な割には見どころ満載なのが鎌倉城!
 
関東武士全員が力を合わせてこの鎌倉城を作り上がたと考えられる。
城の構造を熟知した関東武士=新田義貞軍が一番の弱点と思われる化粧坂(水堰橋から台峰化粧坂へぬける大手道)を攻めたのは、主力の兵をこの場所に集中させた事で想像できる。
洲崎で勝利した新田軍は台峰の南麓の山崎(倉久保谷戸)に移動した。これは、太平記に書かれた事。
更に梅松論では、山内・小袋坂・極楽寺にて「合戦の鬨の声・矢叫び・人馬の足音暫しも止む時なし」と書かれた。
山内とは、水堰橋から北鎌倉駅のある台村曲輪北麓の下です。
これで、台峰は、南と北麓に新田軍が配置された様子が窺える。
そして、主戦場はこの台峰曲輪で争奪戦と成った様子が梅松論に書かれた訳です。
幕府軍は、台村曲輪を攻撃される事を予想しており、、妨提を用意してあったと考えるのです。
何故か?  他の場所は切岸が高く、数メートルの土塁で「台村が攻め易い場所」っと新田軍は考えたのでしょうね。
その様な訳で、高さを3倍に誇張した図を載せました。
他の場所の切岸は高く、台村曲輪は低いから攻めやすい!
この事から、
この台村曲輪は、国内向けに造られた砦と私は考えるのです。
鎌倉城の一面は元寇対策であり、他面は国内造反対策も有った!
 
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