鎌倉街道 を探そう!  巨大鎌倉城と古代駅路痕跡の画像。    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

忘れ去られた鎌倉 城編8

2019年03月19日 | 大鎌倉城
前回は、海蔵寺南側の十六井戸の周囲の紹介でしたが、

以下は、
海蔵寺北側の切岸です。

これより先は、進入禁止と書いてあるのですが、、
私道に付きとは書いてない。


後ほど、お寺の方に其処には登らないでください! っと言われた場所です。



海蔵寺北側の切岸の状況でした。
更に先には、大堀切が見える場所が在りますが、植生が繁茂して写真は無し。
この様に人を寄せ付けない為の一貫した構造と成っています。
自然の山では無く、故意に手を加えた証拠として、紹介しました。
「鎌倉は土地が少ない為に、土地の所有者が切り崩した!」
そんな話が在りますが、
そんな財力の在る造成を誰がやるのか?
更に、一貫したやり方で広大な鎌倉周囲を総て同じ基準でやった事を、
屋敷の周囲を一個人の財力でやった様な書き方をしないで欲しい。
更に、石切り場の痕跡等言うのはモッテノホカです。

此処迄観察したらその先は、、
化粧坂から 大仏向け、、、
銭洗いから鎌倉へ、、、、
銭洗いから葛原ヶ岡から、大堀切より北鎌倉へ、、、
等、色々と行く先をアレンジできます。
鎌倉の見方が変わって頂けると良いのですが,,,
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忘れ去られた鎌倉 城編7

2019年03月16日 | 大鎌倉城
鎌倉城の城壁の話ですが、、 別名「切岸」と呼ばれています。
城の意味では、生活空間を守る囲いと言う考え方をすると、、、、
国内の幕府反抗勢力から守る意味で、三方山に囲まれもう一方は海の城と言え、
立派に鎌倉の街を守る城の構造に成ります。
そして、 鎌倉終焉の「新田義貞の鎌倉攻め」では、この切岸は立派に持ちこたえ城の役割を果たした。

敗因は、自然現象が始まり稲村の海が干上がった事で、この無防備な場所から鎌倉に入り込めた。
城でなければ、、何だ!となれば、、
元寇対策では、蒙古軍が海から押し寄せる訳です。ですから、直接鎌倉の街が攻撃対象に成ります。
街の守りを捨ててでも蒙古軍に勝利する必要が有ります。
それが、今回紹介している山の内側に在る切岸であり、
生活空間を守る事は放棄して、蒙古軍をせん滅するする為の砦となる訳です。

上記の説明で、砦と城の違いをご理解頂けると良いのですが、、、
 結果は、鎌倉城は、、、砦と城の二面性が在るのです。

さて、次は海蔵寺周囲の紹介です。


先ずは丸10の写真です。

如何にも鎌倉らしいタタズマイの家と言われの在る洞穴です。

丸11の写真です。

民家の裏には隠し様の無い切岸が在ります。

丸12の写真です。

海蔵寺の駐車場です。

丸13の写真です。

海蔵寺の正門です。 左に曲がると16井戸です。

丸14の写真です。

拝観料も払わずにこの様な場所が在ります。

丸15の写真です。

十六井戸の場所です。
周囲は総て切岸です。

これ等の切岸が、連続的に切れ間が無く続いている訳です。
切れ間が在るとすれば、近年の工作であったり、寿福寺の源氏山への登り口出あったり、
化粧坂の様な街道が考えられます。

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忘れ去られた鎌倉 城編6

2019年03月04日 | 大鎌倉城

⑧の場所は東は横須賀線西は切岸です。

英勝寺の敷地内の様です。


そして英勝寺の先ですが、、


⑨は、今小路から離れて西側に入った場所の切岸です。






鎌倉の山はこの様な特徴が在ります!  なんてね、、
これで木が無ければ、人手で造成した崖なんでしょうが、、
鎌倉の周囲の山裾は総てこの様な状態でマトモに山の上に上がれない!
其処から「故意にこの崖を作った」意味を問われるのです。
土木の重機が無い時代に、
この様な大掛かりな土木を誰がやったのか?
権力が無ければこの様な土木はできない。
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忘れ去られた鎌倉 城編5

2019年02月21日 | 大鎌倉城

このトンネルの寿福寺側⑥です。




この非常に狭い峰を登り、源氏山に行く道⑦が在ります。

手前に一人、中程に三人、そして上に一人!
上の一人は異常に狭い道を通ります。更に上から弓で狙い撃ちをされたら、、、
大人数で攻めても、困難な訳です。
この道の他に源氏山に登る道は??
基本的にはこの周囲には無い。
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も く じ

2019年02月16日 | Weblog
中世の鎌倉街道が目的でなく「鎌倉街道と呼ばれた古代道(駅路、官路)を探そう!」です。
写真は、古代道の特徴を持ち、砂利トラ2台が並ぶ幅です。鎌倉街道上道と考えれば海老名国分寺と鎌倉の中間地点。

もくじは書いた順で表示してあります。
カテゴリーを操作すると記事の関連がスムーズです。
PCの方は日付けを参考に、左上のバックナンバーを操作して移動してください。
●初めての方へ,古代駅路の特徴--2006-05-13
●鎌倉街道七口---------2006-05-23
●鎌倉街道?これは東山道武蔵路-2006-05-27
●大仏切通し1~6----ーーー-2006-06-
●梶原口から化粧坂へ-------2006-06-29
●朝比奈切通し1~10------2006-06-
●続・朝比奈峠東の小切通し----2006-07-24
●東山道武蔵路----------2006-07-26
●朝比奈峠から六浦へ!------2006-07-29
●古代駅路は,直線? -------2006-08-07
●「毘」スクラッパーさんへ----2006-09-04
●想定伝路水道道路--------2006-09-06
●古代道探しの原点--------2006-09-08
●武蔵大路が鎌倉に有る!-----2006-09-10
●鎌倉街道上の道と東山道相模路 -2006-09-11
●水道道路(明治の地図)1~5 ---2006-09-13
●頼朝の策略! ---------2006-09-26
●立石 1~4 ----------2006-10-02
●玉縄城 ------------2006-10-06
●東山道相模路の鎌倉入り! ---2006-10-07
●鎌倉[謎の大堀切] -------2006-11-01
●鎌倉最大の切通し1~8 ----2006-11-04
●鎌倉市内の駅路 --------2006-12-21
●六浦道 1~9 --------2007-06-06
●源氏山より寿福寺前に1~3 ---2008-02-25
●鎌倉の砂鉄 1~7-------2008-04-03
●緊急事態! ----------2008-04-10
●狭山市と所沢市の間 ------2008-04-26
●横浜市と鎌倉市の境・1・2 ---2008-05-01
●空中写真 -----------2008-06-29
●空中写真を「立体視」 -----2008-07-15
●表紙の場所から後方を写す! --2009-02-24
●空中写真を「立体視」の応用 --2009-02-27
●忘れ去られた鎌倉手広1~10 ---2009-08-14
●忘れ去られた鎌倉山崎切通編 --2009-10-16
●忘れ去られた鎌倉今泉編 1~6 -2009-12-01
●あけましておめでとう! ----2010-01-11
●コメントより(鎌倉今泉編6) -2010-02-06
●御柱1~2 ----------2010-04-05
●工事が始まる。 --------2010-06-06
●東山道相模路1~11 ------2010-08-09
●上の道、下の道 1~5 -----2010-10-
●鎌倉の古代1~11 -------2010-11-04
●Google地図より1~3 -----2011-11-12
●あけまして ----------2012-01-06
●藤沢市の遊行寺、西脇の道 ---2012-03-27
●表紙を飾道路遺構は消えた! --2012-06-20
●大鎌倉城 1~7 -ーーーーー--2012-09-10
●大鎌倉城 隠された大切通 1~6 -2012-12-18
●鎌倉に城は無かった1~8----2013-01-
●富士山中 に東海道 序 1~10 -2013-02-12
●富士山中 に東海道 十里木 1~10-2013-05
●足柄峠越え 1~4 -------2013-07
●東富士演習場の立ち入り 1~14 -2014-05
●大鎌倉城 隠された切通し編 6 -2014-08-21
●武家屋敷跡 --ーーーーー---2014-10-10
●大鎌倉城峰   上・中・下巻--2014-10-17
●化粧坂      上・下巻--ー2014-10-31
●鎌倉の古代東海道 上・中・下巻ー2014-11-06
●箱根の古代道 上・下巻--ーーー2014-11-10
●稲村ガ崎の古道を検証上巻/下巻-2014-11-15
●稲村崎成干潟事 上・中・下巻--2014-11-22
●長窪の切通 1~6-ーーーーー- 2015-02-02
●長窪の切通 7~9-ーーーーー- 2015-02-03
●長窪の切通 11--ーーーー---2015-04-10
●鎌倉、藤沢周囲の城 -ーーー--2015-03-26
●怒れる鎌倉市民 さんより、ーーー2015-04-23
●反論です。 -ーーーー-----2015-05-09
●鎌倉城の 成り立ち--ーーー--2015-05-11
●日本城郭大系 -ーーーー----2015-06-19
●稲村ガ崎の戦い上.中.下巻 ーーー2015-06-26
●コメントより、台峯の先端 ーーー2015-07-28
●コメントより :台山ーー----2015-08-08
●台峯の先端と臥龍峡 ーー----2015-08-11
●上の道、下の道 5ーーー----2015-08-15
●鎌倉の文化遺産 、守れるの?--2015-09-24
●由比ヶ浜関谷線 ーーーー----2015-10-06
●七里ヶ浜は、何故七里? ーー--2015-11-06
●相模の古代東海道 1ーー----2015-11-26
●相模の古代東海道 2ーー----2015-12-01
●相模の古代東海道 2の補足ーー-2015-12-06
●相模の古代東海道 3ーー----2015-12-08
●相模の古代東海道 4ーー----2015-12-15
●相模の古代東海道 5ーー----2015-12-19
●相模の古代東海道 5追加資料ーー2015-12-23
●相模の古代東海道 6ーー----2015-12-28
●相模の古代東海道 7平塚の砂丘ー2016-01-02
●相模の古代東海道 8大道----2016-01-09
●相模の古代東海道 9下大槻峰--2016-01-12
●相模の古代東海道 9 補足 ---2016-01-15
●相模の古代東海道 10下大槻峰--2016-02-20
●相模の古代東海道 11下大槻峰--2016-02-22
●鎌倉に城は無かった1~13----2016-02-24
●鎌倉に城は無い!大宰府 1~8 --2016-02-24
●相模の古代東海道 12下大槻峰--2016-03-01
●相模の古代東海道 13下大槻峰--2016-03-03
●相模の古代東海道 14下大槻峰--2016-03-13
●コメントより(怒れる鎌倉市民) -2016-03-18
●相模の古代東海道 15下大槻峰--2016-03-24
●朝日新聞に  写真が有る! --2016-04-03
●手広切通し編の工事後 -----2016-05-07
●鎌倉市内で石棺墓発掘1~9 --2016-06-08
●稲村崎が干潟! 嘘だ!9----2016-06-23
●一つの考えに基づいた工作物 --2016-07-12
●鎌倉城破壊の軌跡 1~4----2016-07-15
●鎌倉城破壊の軌跡コメント ---2016-08-26
●鎌倉城破壊の軌跡 修正 ----2016-08-27
●長窪谷戸の機能 --------2016-10-27
●鎌倉城の城壁1~5 -------2016-11-08
●鎌倉城の砦1~3 --------2016-12-03
●鎌倉城の砦 バーチャルの世界--2016-12-26
●纏め 鎌倉城1~4--------2017-01-07
●三方を山に?初期の話1~3 ---2017-01-24
●鎌倉城と蒙古襲来1~8 -----2017-02-06
●コメントより1~3 -------2017-02-06
●長窪の切通8----------2017-06-01
●古館橋1------------2017-06-11
●古館橋2------------2017-06-16
●古館橋3------------2017-06-20
●古館橋4------------2017-07-04
●縄文海進 -----------2017-09-04
●鎌倉時代の波打ち際1------2017-12-07
●鎌倉時代の波打ち際2------2017-12-07
●鎌倉時代の波打ち際3------2017-12-14
●稲村崎成干潟事現在でも同じ現象-2017-12-15
●続稲村崎成干潟事 現在でも同じ-2017-12-19
●鎌倉時代の波打ち際4------2017-12-25
●鎌倉時代の波打ち際5------2018-01-12
●鎌倉時代の波打ち際6------2018-01-20
●素人と、玄人----------2018-03-15
●素人と、玄人後編--------2018-03-23
●下大槻から関本へ--------2018-04-02
●下大槻から関本へ2-------2018-04-03
●下大槻から関本へ3-------2018-04-05
●下大槻から関本へ4-------2018-04-09
●下大槻から関本へ5-------2018-04-11
●下大槻峯遺跡----------2018-04-12
●下大槻から関本へ6-------2018-04-19
●下大槻から関本へ7-------2018-04-20
●下大槻から関本へ8-------2018-04-24
●長窪砦モデルコース-------2018-04-26
●下大槻から関本へ9-------2018-05-01
●下大槻から関本へ10-------2018-05-10
●下大槻から関本へ11------2018-05-12
●下大槻から関本へ12------2018-05-14
●下大槻から関本へ13------2018-05-25
●下大槻から関本へ14------2018-05-28
●下大槻から関本へ15------2018-05-29
●鎌倉の砂鉄5の写真追加-----2018-06-08
●鎌倉の砂鉄6の補足-----------------2018-06-11
●下大槻から関本へ16---------------2018-06-17
●下大槻から関本へ15---------------2018-06-17
●旧東海道の道幅1--------------------2018-07-13
●旧東海道の道幅2--------------------2018-07-17
●旧東海道の道幅3--------------------2018-07-27
●旧東海道の道幅4--------------------2018-07-29
●旧東海道のコメント1-----------------2018-08-04
●旧東海道のコメント2-----------------2018-08-07
●旧東海道のコメント3-----------------2018-08-25
●旧東海道のコメント4-----------------2018-08-27
●旧東海道のコメント5-----------------2018-08-31
●旧東海道のコメント6-----------------2018-09-07
●鎌倉城と蒙古襲来9------------------2018-09-11
●鎌倉城の変遷------------------------2018-09-16
●化粧坂の攻防?太平記に無いジャン!--2018-09-20
●素人と、玄人 後編------------------2018-09-22
●新田軍は、化粧坂に向けて攻撃をした--2018-09-27
●長窪の砦1--------------------------2018-10-08
●長窪の砦2--------------------------2018-10-12
●新田軍は化粧坂に 2----------------2018-10-20
●新田軍は化粧坂に 3 ----------------2018-10-23
●新田軍は化粧坂に 戦う砦跡----------2018-11-05
●戦う砦跡 鎌倉城の平場--------------2018-11-08
●鎌倉城 蒙古襲来の前後--------------2018-12-11
●賀正--------------------------------2019-01-06
●旧東海道の道幅 コメントより7-------2019-01-10
●鎌倉城と蒙古襲来8------------------2019-01-17
●忘れ去られた鎌倉 城編1-------------2019-01-24
●東富士演習場の立ち入り その後------2019-02-07
●忘れ去られた鎌倉 城編2-------------2019-02-08
●忘れ去られた鎌倉 城編3-------------2019-02-12
●忘れ去られた鎌倉 城編4-------------2019-02-14
●東富士演習場の立ち入りその後2------2019-02-15
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東富士演習場の立ち入り その後2

2019年02月15日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
この大化の改新後の駅路痕跡は、4㎞弱の距離があります。
しかし、目前に有っても野原が見えるだけ!
駅路痕跡の真上に立って、直線方向を見た時だけ解る!
簡単ではありません!
広大な東富士演習場の中で、特定地点の上に立つことは十分にGPSを使いコナセル事が必要条件!
スマホの電波は届かず、アラカジメ地図を仕込む必要が有ります。
若しくは、この地形を習熟し、道路の分岐点等を区別できる事が必要です。
しかし、時期次第で下草が伸び雪が降りナドの自然条件次第では、遺構の確認不可状態も考えられます。
Googleマップの様に上空から条件良く見える訳ではありません。
鎌倉城にしても、東富士演習場にしても、大きすぎる事で目の前に在る物が認識できないって事が在る訳です。

ある意味、、
物の見方考え方が無いと、目前に有っても判らないでしょうし、、
下手な日に行けば鉄砲玉が飛んでくるでしょうし、、
 基本は侵入禁止地区のダート道でサバイバルの演習現場です。
現地に立っても確認できるかは、、アナタ次第。

確認不可は、大自然の対応能力が低く自然の変化に対応できない貴方がいる訳です。
その時は、顔を洗って出直しをしましょう。
私も、一度では見つけられなかった!


上記は、十里木峠から交点に向かう道で、箱根の長尾峠の方向です。


これが、交点の場所ですが、真上から見ると、、、


これが、真上から見た交点です。

次回は、交点から次の直線を見ると、、、
その方向は足柄で足柄峠の登り口に向かう訳です。
しかし、
御殿場線の足柄駅とは違う方向で、竹之下の方向ではない。
竹之下の様な狭い谷を曲がりくねって登る考えは、古代東海道には無い。
更に、鎌倉時代の足柄峠では道幅が取れず、坂の傾斜も強すぎて、道としての品位に欠けます。
基本的には谷道では無く、峰通しの道が古代東海道のパターンですが、、、
それでは、何処を通るのか??
以前にもこのブログで書きましたが、、、交点から向かう直線がその登り口を示します。
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忘れ去られた鎌倉 城編4

2019年02月14日 | 大鎌倉城
今小路から外れて、
刃稲荷から寿福寺のトンネルを潜ります。

先ずは、④の刃稲荷です。

源氏山からこの峰の南側は、その昔は正宗谷戸と呼ばれ広大な谷戸は正宗所有の土地で有ったそうな!
正宗谷戸の西は佐助隧道があり途中には正宗の使用した井戸があり、東の刃稲荷周辺では「たたら製鉄」で生じるカナ糞が多量に出土したそうです。

次は、⑤の寿福寺のトンネル

問題は、このトンネルの在る峰の不自然さに有ります。
この峰は、一様な傾斜で八坂神社へ向かい、その方向は六浦道を向く。
私が、古代東海道の痕跡と考え、道の境は不要になれば両側の地主の境界と成り、この様に削られた何て言う創作物語と憶測の世界に成る。
その様に、この峰は人工的に作られている。
更に、寿福寺のトンネルの右は下の写真に成り、その先端は八坂神社です。

そんなに土地が欲しければ、この峰をすべて削り取ればよい!
それをしないのは、防御に好都合である、、、この発想は、この場所は城の壁と言う理由から生まれます。
コメント

忘れ去られた鎌倉 城編3

2019年02月12日 | 大鎌倉城
鎌倉の街から周囲の山を見て、どの様に感じるか?
物の見方や考え方で 感じ方は変わる。
大概は、自分で考えずに常識や書かれた情報に依存する。
それに従えば、鎌倉に城は無いという説を本や講習で習うと、、、
   「本当に無いのだ!」
等と、本気で信用します。それが常識なのですが、、、
物事の現象に、専門外の更に重大な要素を知らない事が有る。
多種な理論、多様な考え方の組み合わせで世の中は動く。
単純な理論で説得力のある研究をされても、広い見識が無い研究は現状と合わない。他のモット重大な要素を理解してない為です。
頭で考えた理屈と、現実(遺構や古文献が証明するモノ)が合わないのを机上論と言います。
鎌倉幕府を語るなら、古文献と鎌倉の地形を考慮に研究すべきとおもいます。

> みうら サン
> 2015-03-11 09:09:46
>  前略
> すみませんが、初心者でも分かるお城のあとを教えてください。
> 歩いてみたいので

800年間放置された城跡で、荒廃した城は、自然に帰り緑のベールが掛けられた。しかし、その下には、鎌倉城の切岸が眠っている。

山林の放置と樹木伐採禁止で必要以上の繁殖となり、城壁の切岸は緑に隠された。その様な変化を思考力で取り去る必要が有る。

②の写真の紹介です。
今小路から路地の奥を見ると駐車場が在るのですが、、、


更に先の駐車場③です。
観光客は、、こんな遺構の知識は無く見ようとはしません。
レストランの紹介をされた観光案内片手に、食べる興味が主の様です。
巽神社やはちみつやの在る周囲です。
コメント

忘れ去られた鎌倉 城編2

2019年02月08日 | 大鎌倉城
鎌倉の歴史には古代からの経過が在りますが、
東山道の分岐が在る。新田郡衙の東山道(下新田ルート)は、武蔵路が分岐し鎌倉へ向けて痕跡が在る。
その延長は、海蔵寺裏の大掘割(切通し)と続き、武蔵大路とも呼ばれ、今小路に名前を変えて鎌倉郡衙の在った御成小学校へと続く。
今小路自体は歴史の片鱗も感じない道ですが、、、
道の脇には、トンデモ無い遺構が在ります。


駅を出て、四つ角を右に曲がると今小路です。


昔の9m幅の駅路は、無駄に大きい為に平安時代は、6mや3m幅の道路に作り替えられた。
そんな道を散策する訳です。
しかし、この様な歴史を感じない道の脇を覗きながら歩いてみましょう。



その①は古我邸です。

①の古我邸の詳細は、武家屋敷跡としてこのブログにも書きました。参照してください。
基本は、三方を山で囲み、一方は海や土手で遮る。
その一方の海から攻め寄せるのが元寇の蒙古軍です。
そんな訳で、
外部から侵入を防ぐと考えられた切岸と呼ばれる城壁が鎌倉市街に向けて在るのですが、この矛盾した城壁の観察をするコースです。
コメント

東富士演習場の立ち入り その後

2019年02月07日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
東富士演習場の立ち入り から5年が過ぎました。

とりあえず、、、誰でもgoogle地図で確認が出来る「富士山に人手を加えた古代の巨大遺構を紹介しました。」
考古学の特異な分野ですが、、一般人でも検証できる遺構です。

2014年のgoogleマップは解像度に優れて優秀です。(10年前は解像度が劣り使えなかった。)

更に5年経ちgoogleマップも国土地理院のマップも精度が上がって見やすくなっています。
その様な訳で現在のGoogleマップで古代駅路と思われる遺構は どの様に見られるか?と言う検証です。


上図 画面上は足柄峠の峰であり、左下は十里木峠です。
今回の画像は、十里木と、折れ曲がった交点の間の画像です。


画面中央を下から上にラインが有ります(赤矢印の間)が、十里木峠に登って行く状態で西に向いています。


上図は、同じ道を逆に下って行く状態です。


上図は、同じ道を交点に向かっています。

次回は交点の状態です。
コメント

忘れ去られた鎌倉 城編1

2019年01月24日 | 大鎌倉城
新田軍を防御する為に七口を塞いだまま、明治近くまで放置され通行不能の鎌倉街道ですが、、
それでも朝比奈峠など、江戸時代に封鎖された切通しは現状の様に、通り易く工事をしたと石碑に記録されている。
大仏切通しは、文献によると初めから封鎖を解かずに脇道を作って人力車を通したが、すれ違いが不可の為に道幅を広げた記録が有る。
現在は途中の道路が地滑りで通行不可の場所を 観光の為に道を作りオリジナルとは違ってしまった。

古代は、
北から東山道が入り、東西に東海道が貫く交通の要所で在り、産業は古代から鉄で栄え、政治的には東北を鎮圧する軍を置いたと考えられる鎌倉群衙の在る場所です。
東海道や、東山道は路面幅9mの巨大な道でその痕跡の場所はこのブログに示した通りで、このブログを調べ直すのは温暖化の植生繁茂で結構困難な状態になりました。特に市営プール上の崖を横切る「稲村路」の痕跡は、雑草とツルに覆われて、近付く事が困難での上、現地を見ても雑草で写真に収める事が無理。
金を使って組織でやれば、簡単な事ですけどね、、、

鎌倉城や古代道の記述は成本には無く、このブログだけの見解です。
現在でっも、鎌倉の歴史に詳しい人は稀だと考えています。
知っていても狭い視野での詳しい人です。
何で断言できるか??
それは、既刊本を見ても知識の受け売りは在りますが、自分で見て感じて考えた記述は、鎌倉に関しては稀です。
それを書いてあっても、断片的だし全体像は無い。
それ程 鎌倉は奥が深いし面白い上に広大です。

文献は少なくても、物的証拠が満載の鎌倉です。
でも、それを調べた人が限られ、広大な面積を個人が調べるには限界が有るのです。
狭い地域でも、調べられているだけで価値は在ると思います。

歴史には古代からの経過が在りますが、それを抜きに「武家の古都鎌倉」なんて歴史を無視し過ぎです。
そんな訳で、
外部から侵入を防ぐと考えられた切岸と呼ばれる城壁が鎌倉市街に向けて在るのですが、この矛盾した城壁の観察をするコースを紹介しましょう。
鎌倉駅西口を降りて、今小路を歩き海蔵寺大堀切に向けて歩くのです。
紫色のラインがルートです。

理屈の世界ではなく、ご自分の目で見て確かめる話です。
次回は、このルートの見所です。
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鎌倉城と蒙古襲来 8

2019年01月17日 | 巨城対モンゴル
投稿日時:2017-07-01 09:15:57 修正2019-01-16
 国土地理院の全国傾斜量区分図を参照しましよう。
甘縄神明宮、日本文学館等の在る見越しの嶽を見た図です。
この峰の部分は緑色に塗ってあります。

急激な傾斜の部分は赤くなっています。
私が画像を操作する事も無く、国土地理院の資料を見れば即、、急激な傾斜で緑の峰上には登れな事が理解できると思います。
他の峰も同様です。鎌倉の全山も人工的に手を加えた訳で、決して「自然の要害」では無い上に、、
海上から由比ヶ浜に押し寄せた敵に対応する砦構造が鎌倉市街側に存在します。
ですから、、、
三方を山に囲まれて「鎌倉は要害の地!」そんな発想は消えて、蒙古せん滅の為ならば、、「都を捨ててでも日本を守る!」
   その様な幕府の考えと私は理解します。

鎌倉幕府は、博多湾に20㎞に及ぶ「元寇防提」を作らせた!関西の武士にそれを押し付け、関東の武士がそれを手助けした記録が無い!
関東の武士がその時期に何をシテイタかの記録も無い。
記録が無いから、何もしなかった??
古文献を探し、書いてなければ何も触れないのが机上論の研究者だが、
このブログでは、古文献が無ければ遺構に語らせる!のが趣旨です。
巨大な鎌倉城の遺構を根拠に「その時期に関東武士は、巨大な鎌倉城を作っていた!」っと結論をします。
恐らく、
関東の武士の記録は、新田義貞鎌倉攻めで灰となり、九州の記録は残った。
その様に私は考える。



各自興味を持った場所を調べて頂ければ幸いです。
組織で調べても、巨大過ぎる遺構です。
個人で調べれば、貴方がその場所に一番詳しい人に成ります。
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旧東海道の道幅 コメントより7

2019年01月10日 | 古代東海道
  話は藤沢宿の道幅です。
視覚に訴えるなら、大正時代の藤沢宿の写真が有ります。


此れが私の知る 藤沢宿の一番古い写真です。
ですから、此れが江戸東海道藤沢宿の道幅である!
 なんていう話には、、ならないのです。
先ずは、明治の迅速図(明治15年発刊)の図面に狭い道幅が描かれています。
迅速図の発刊は15年として、測地を行ったのは、更に数年前と思われます。
その事を踏まえた上で、、
藤沢宿の災害史に、明治12年、13年、18年と大火があった。明治三大藤沢宿の大火事と言われています。
明治政府命令の東海道の拡張工事と火災で商家が消失の兼ね合いで簡単に道路拡張が行われ道路幅が広がった状態が上記の大正時代の写真と考えるのです。
更に、
大正12年の関東大震災後に、さらに拡張したのが現在の2車線と歩道が付いた私が70年前から知る道路と考えられます。
明治の藤沢宿大火を知ったのは、数か月前です!
藤沢宿の江戸時代の道幅が判った訳ではないが、、、
明治迅速図を根拠に、この大正の写真より狭い道で有ろうと考えるのです。
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賀正

2019年01月06日 | Weblog
あけまして
   おめでとうございます!

そんな訳で、
  多数の方が ご覧に成っている訳で、
    お礼を申し上げます。

反常識的な 見解の書き込みが大半ですが、、、
 その割にご意見や質問が少ないのが不思議です。

 誹謗 中傷 非難等、何でも書き込んでください。
面白くなければ、、、無視や削除も有ると思いますが、、、
出来る限り対応したいと思います。

  その様な訳で、 本年もよろしく!
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鎌倉城 蒙古襲来の前後。

2018年12月11日 | 大鎌倉城
コメントより、、、、  2017-02-16
> (英)さん 
> (個人的には、初期の記事から貫かれていた、頼朝による
> 大規模な地形改変の話との整合性は気になりますが。)
> (博多湾で津波の話はあまり聞かないですし。)


 そうです!
初期の頃のブログは、鎌倉城は、朝廷対鎌倉幕府の為の城!
その様に想定しました。
実際に、頼朝の時代の城はその想定で作られたと考えて居ます。
城の縄張りも、七口周囲とその峰の登り口や中間に攻防に耐える、、
寄せ手を攻撃する構造を作ったと考えられます。
七口に登る峰に作られた砦と、最終的に七口の頂点に出入りを塞ぐ土壁を作ったのが、最終の「新田義貞戦」と考えて居ます。
北条家の時代に成り、元寇対策に改造された鎌倉城は、七口の外部に巨大な砦が存在するのですが、新田義貞に対峙した時兵員不足の為、元寇対策の城より守備範囲を狭め、初期の朝廷対策の城(縄張り)に縮小させて戦ったと考えて居ます。その様な訳で、初期の鎌倉城は新田義貞と戦った範囲で在ろうと考えて居ます。
その様な鎌倉城の初期に工作したのは、古代東海道の封鎖と七口周囲の峰の切岸と考えて居ます。
初期の明確なのは、朝比奈に残る幅7mの切通(古代東海道痕跡)の東西に残る古代東海道7m以上9m未満ある道幅を4m幅に改造した道路痕跡です。
更に、東山道武蔵路の切通と考えられる海蔵寺裏の切通を塞いだ土橋です。


さて、話は元寇対策の城ですが、、
元寇対策の城は更に大きく、東は金沢八景西は片瀬の龍口寺辺り。、、
七里ガ浜上の山は、元寇対策の砦で有ったと考えられます。

海岸から見上げれば、、ノドカな丘陵地ですが、、、
山から見下げれば、、、、

この様な急斜面!

特に、鎌倉広町緑地は宅地化されずに残っており、、長窪の平地を再現させた様な騎馬を収納するに良い構造をした場所でもある。

これが、平和な現代の顔と、、峰を越えると裏には騎馬を隠せる広場!それは戦の場です。
浜辺から1㎞の場所でこの様な景観となります。

この西の傍に属する砦の痕跡と考えられるのは、、
龍口寺裏の常立寺(鎌倉城と蒙古襲来9| 2018年09月11日 )にある切岸や、女坂(忘れ去られた鎌倉 手広切通し編3| 2009年09月05日)等が存在します。

そんな訳で、首尾一貫した一つの完成された説として鎌倉城を解説している訳ではなく、、
日を追う毎に、データーは蓄積され、考え方の深さは変わっていく!!
そう、、、日記ですから!!
 
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