鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉の古代 11

2011年07月11日 | 鎌倉の古代
〇瀬上沢だより 上郷開発から緑地を守る署名の会のブログ
〇<http://segamizawa.blog54.fc2.com/blog-entry-107.html>
〇調査を進めてみると、当初の予測に反し、極めて規模の大きい、中世どころか古代の製鉄遺跡
〇であることが判明。その充実した内容から短期間での調査は不可能であること、また、計画さ
〇れている道路の建設工事によって遺構が失われる恐れはない(埋め戻して保存が可能であるこ
〇と)との合意を得て、未調査の部分を残したまま埋め戻し現在に至っています。
〇従って、報告書は発掘調査概報となっています。県下でもその規模の大きさ、古さからいっても
〇類を見ない製鉄遺跡とされています。(全国的に見ても、相当古い部類に属するといえるそうで
〇す)

上郷開発から緑地を守る署名の会のブログ「瀬上沢だより」では、貴重な遺構が消えていく経過を書かれています。
このブログの表紙の写真の場所も、役所に連絡をしましたが、簡単な調査だけで、その後連絡も無く開発工事が始まっています。
文化の喪失ですね!
是非「瀬上沢だより」のブログを見て、何が消えたのか? 御覧下さい。
表面切って、反対をする気持は ぼ輔にはありません。
知れば大事な物を亡くした事に気付く。
対処方法なんて、、、簡単ではないし、人生を賭けてやる程の情熱も無いのです。
より多くの人に、関心を持って頂く事が、事の始まりと思います。

写真は、昇竜橋です。小さい橋ですが、とても立派な橋で、雰囲気のある橋です。
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鎌倉の古代 10

2011年07月11日 | 鎌倉の古代
△水石の美を求めて
△http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-162.html
△光明寺前の道(23号線)を本郷台方面へと北上し、神奈中車庫前で右折します。登り坂を走る
△と、右手に本郷高校が見えてきます。その左側辺りに上郷深田製鉄遺跡が、高校の敷地には上
△郷猿田遺跡があります。こんな場所に奈良から平安時代にかけての大規模な製鉄遺跡があると
△は驚きです。
△ただ、鍛冶集団の祀る白山神社が舒明天皇のころに既にあったことからして、深田遺跡は少な
△くとも飛鳥時代にまでさかのぼるはずです。この点の解明をぜひして欲しいものです。

「鍛冶集団の祀る白山神社が舒明天皇のころに既にあった」と言う事ですが、、、
舒明天皇(629年~641年)
710年(和銅3年)頃に武蔵国府が成立。
771年 武蔵国府は東海道に転属。

以下、ぼ輔の憶測で、、
上郷猿田遺跡初期(舒明天皇のころ)
大和朝廷が、鎌倉の製鉄とその実績に着目し、
東山道鎌倉路を企画、
東山道鎌倉路を敷設し、脇に武蔵国府を造る(710年)。
武蔵国を東海道に転属する(771年)。
歴史的な時間系列の矛盾はない。


現代的には、道路を計画し工場を誘致し地場産業を作り上げるのが常套ですが、、、
飛鳥時代の鉄器生産は、先ず砂鉄の産出地である事、燃料の木が有る事が条件で、鍛冶集団が移り住み製鉄が始まったと考えられる。
大量に製鉄を行った実績があり、道路を作った。と考えるのが順当と思います。
ですから、上郷深田製鉄遺跡は東山道武蔵路(東山道鎌倉路)前に存在したと考えます。
鉄精錬が稀で、巨大道を作る価値が鉄器に有った時期とぼ輔は考えます。
現在、関西の都に近い場所に製鉄遺跡が多数ありますが、遠隔地の鎌倉に大規模な鉄精錬遺構と大規模な道路が有ることで、他所での製鉄は無く、鉄器が始まった初期で希少価値が朝廷を動かし政策で作られたと考えるのです。
ですから、最古の部類の製鉄遺跡と考えるのです。発掘は全容を解明しないまま行政の都合で埋め戻したそうです。

酔石亭主様の「水石の美を求めて」は渡来人と鉄器の関係及び、イタチ川周囲の現状や、古代鎌倉の様子を詳細に書かれています。
その他、すぎ吉さん、三品さんも当初から、、この地の砂鉄や朝廷との係わりを示唆していました。
鎌倉の由来は色々在るようですが、、古代に産鉄で栄えた前歴が有ったのでした。
武具も有るでしょうが、、農器具の鉄も盛んに作られ鎌倉に成った!(文字通りの鎌や鍬の完成品を保存する倉が有った!)と伺えるのですが、、、
いかがでしょう?

■鎌倉の古代 4(2010-11-19)をご覧ください。
■新野脇屋遺跡群から東の上遺跡へのラインの行き先は、鎌倉の何処でしょうか?
■それは天園(太平山)で、その下はイタチ川と上郷猿田遺跡や白山神社の有る谷です。
■頼朝以前の古代鎌倉の中心は鉄器で栄えた鎌倉の存在です。
■その勢いは東山道武蔵路まで作らせる魅力が有ったと妄想する「ぼ輔」でした。
■東山道武蔵路は、武蔵国衙の為に作った?? その説は動機と根拠が弱い。
■富と軍事力が優先するのは、古今東西変わらない。鉄はその富と力の基です。


写真は、昇竜橋を渡り、階段を上ると現在は無い白山神社の在った平場が現れる。
    白山神社は地区の鎮守であり、鉄の刀や農具などの鍛冶職人の守り神です。
    昭和51年この地から東上郷町へ移される。
    この場所の価値は、いたち川の谷の風景と昇竜橋と、脇に湧き出る鉄サビ色の湧き水
    そして、、飛鳥の時代まで遡るであろう鉄精錬の民の信仰の場です。
    社が無くても、その価値は十分にある。
    頼朝以前の鎌倉は、、寒村で有った様な古文書も有る様ですが、
    それ以前の歴史を知らない古文書の記述者が居ても当然!
    古文書あさりが、決して良い結果を生む訳ではない!
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