鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

古館橋3

2017年06月20日 | 古代東海道
古館橋周囲は、海より3Km内陸よりで海抜は7~8mであり、
1000年前の状況は、、、資料が無い。
海抜8m以下の土地を水色にすると、、、
古大船湾が浮かび上がる。
縄文時代は海抜12m程に貝塚の痕跡が有る事から更に湾が広がり、戸塚駅近くまで海水が入り込んだと考えられている。
海抜が8mでは、古代東海道の平塚遺構まで沈んだ状態です。


古代東海道の通路を赤色のラインで描きました。
実線は遺構の場所で、平塚は道路遺構が発見され駅路の在った場所。茅ヶ崎から辻堂には大山道、大船近辺は古館橋です。


海抜が4mでやっと平塚遺構と古代東海道を通す陸地が見え始めマス。

1000年程前は、平塚遺構が存在できる海抜4m以下で在ったと考えられます。

古館橋周囲は、海抜は7~8mであり、1000年前の古代東海道を造る時の海退は標高4mと言う落差が問題
に成ります。

しかし、この落差が有っても,古舘橋と大船周囲は水は引かずに湖状態に古大船湾が残った。
「古大船湾」の影響は、古館橋周辺の土地が高くて、大船駅周辺まで湖状態で在ったと考えるのですが、、、
これでは、古代東海道は水の中に成ります。
この矛盾をどの様に説明するべきか???

古館橋2

2017年06月16日 | 古代東海道

古館橋を語る注意は、
この場所は 稀に見る異常な場所です。
それは、地形が絡む歴史の問題であるし、
その場所の人との関わる歴史でもあります。

人との関りは、古代東海道の直線上にあり、時代が下がると 鎌倉城外堀に相当し新田義貞と合戦となった場所で、共に土木工事が有ったと考えられる1000年の歴史です。

地形の歴史は、海退と海進の地球規模の気候が絡み、海進は縄文時期の6000年であり、
この場所は「古大船湾」と呼ばれている。
海退は、5000年以降徐々に始まり、地震の隆起と連動して海岸線が後退し、現在に至るが、
この場所は、海より3Km内陸よりで海抜は7~8mであり、1000年前の状況は、、、
 それが、古館橋の特殊事情の存在であり、
「古大船湾」の影響がどの程度、、、有ったのか?
その影響は現代まで続き 話の原点と成ります。



古館橋1

2017年06月11日 | 古代東海道

 話は、
古代東海道ですが、、、
場所は、藤沢市と鎌倉市の境界で、柏尾川の古館橋と呼ばれる場所で黒十字のばしょです。
私が最初に見たのは40年以上前で、
この周囲は、台風の度に水没し大船の古代は大きな湖があり、大きな船が出入りした場所!
そんな話も、、、根拠のない話ではない。
その様な場所でありました。
その後河川は水害の対策に川幅が広げられた為に、この川の古代からの在ったであろう風景は消え去った。


 上図の黒十字は別件で、右の赤字で書かれた場所が古館橋です。
それでも、それなりの遺構が残って在ります。
この川の古代は、橋を使わずに渡渉した状況が考えられるのです。
この場所の成り立ち等を、、推測していくと、特殊で人工的な場所と考えられるのです。


■長窪の切通8

2017年06月01日 | 大鎌倉城

地図は、赤いラインが横須賀線と、太く赤いラインは北鎌倉のホームです。
長窪の砦を横須賀線の車窓から見てみましょう。
番号1は大船側で、10は北鎌倉駅ホームです。
1~10迄の番号は、写真を撮ったオオヨソの場所です。

  写真1


  写真2


  写真3


  写真4

  写真5


  写真6



  写真7


  写真8


  写真9


  写真10


総て、表面は住宅地ですが、その裏の山が問題の砦です。
住宅に隠された鎌倉城遺構です。
見方が判らなければ、単なる山にしか見えない。
これが、鎌倉城が語られない理由です。
誰にでも観察できる横須賀線車窓からの鎌倉城遺構の紹介です。