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鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城は無い③ 城の在る戦い!

2025年03月22日 | 鎌倉に城は無い!

自然地形の川を挟んで対峙した戦いは洲崎迄です。
洲崎では、柏尾川を挟み新田軍と鎌倉軍がニラミアイとなり、
鎌倉軍の6万騎は洲崎の新田軍50万7千騎に対し 攻撃を65回切り込んだが、結果は8倍の新田軍に敗北した。

城が在ると簡単に決着しません!
洲崎を越えれば 即化粧坂上に在る 葛原ヶ岡を南から攻められる。
更に倉久保の谷より台峰を攻めれば化粧坂へ続く鎌倉城の大手道です。
台の堰堤橋を攻めれば大手道の入り口。
瓜ヶ谷より攻めれば葛原ヶ岡の北を攻める話。
太平記には、「化粧坂を攻める」と有っても、、、、
葛原ヶ岡から攻め入る鬨の声が挙がったとあり、戦った場所は化粧坂ではない。

■同十八日から二十二日に至るまで、山内、小袋坂、極楽寺の切通しなど、
鎌倉中の口々で合戦が続き、鬨の声、矢叫び、人馬の足音がしばしも止むことがなかった。 
梅松論の記述でも、、、数日も持ちこたえている。
不思議では有りませんか?
自然な低山なら、、鎌倉市内に入り込む場所が幾らも有り簡単に攻め込めます。
稲村ヶ崎から大仏、化粧坂、亀ヶ谷、小袋切通しまでの防衛ラインは4Kmの距離があります。
この鎌倉城の西面4Kmのラインを新田義貞は攻めたが、、、
蟻の入り込む隙間は一箇所だけ、、大鎌倉城の城壁が途切れた海岸であった。

3. ぼ輔 2014年07月18日 08:30
城は無い派が曰く> でも鎌倉を城塞とするには証拠不足です。
証拠は鎌倉の山の中に、誰でも見つけられるが、、、自樹木に覆われています。
あまりの巨大さに全体像をマトメタ資料は無い。城が有る派も、無い派も全体を調べた資料は持っていない。
資料も無く論戦しようなんて、、非科学的な話です。

それが「城が無い派」の根拠が無い主張です。
しかし、
紙の資料が無くても城の遺構は 誰も調べないままの巨大な遺構がある。
私?鎌倉に60年間も係わり やっと鎌倉山の全体像が掴めて書ける様に成りました。

城は無い派が曰く> 鎌倉が攻めにくく守りやすい土地ならば、これほど次々と陥落することはあるまい。
それは、戦いの質を考慮に入れてないか、古文献を読まない人の理屈ですね。

鎌倉軍が専守防衛で化粧坂を守ったのは3万の兵力で、鎌倉城の切岸と雛壇状の平場は強力な守備力を示し、16倍の新田軍を撥ね退けた。 正面突破が出来ない新田軍は攻めあぐねて戦術を変える羽目になった。
城壁としての切岸の無い場所から、干上がった海の岩棚を歩いて攻め込んだ!

異常気象で潮が引き、海底を歩いて鎌倉市内に攻め入ったのが新田軍でした。

文献に書いて有るのは攻めるのに困難は鎌倉城であった事です。
正面突破は困難だが、稲村路より入り込み内側から攻撃した新田軍には対処出来ないのが城の構造です。

>ハイキングで気軽に登れるし、山と言うのが気恥ずかしいぐらいの標高でしかありません。
ハイキングで歩く道は、兵を移動させる峰の道ですが、安全に気楽に歩けて当然です。
その道から外れ下に降りる事を考えてください。その時低山と馬鹿にした道が牙をむくのです。
外に向かって下りればそれは外的と戦う鎌倉側の立場。その下から登れば新田軍の攻める立場です
七口を巡る峰の道は総てその様に直登下降不可、やれば怪我をする。鎌倉の切岸を甘く見過ぎです。

4. ぼ輔 2014年07月22日 18:01
江戸城の外堀の面積は17.35 km²です、

鎌倉の七口の切通しを結んだ距離は14km 面積14.平方kmで、実際の戦う砦の遺構を含めると距離は24Km 面積は約 40km²となり、当時世界一の巨大な城長安と肩を並べる。
通常の山城は1km四方に収まる程度の城が大半です。2km四方以上の城は10指を越えないでしょう。それが通常の城で、鎌倉城の一部の台峰の砦でも400×800m有り通常の山城並みで単なる山にしか見えません。
そんな広大な鎌倉城の範囲を誰が調べるのでしょうか?結果は、鎌倉城の切岸は宅地造成で変化していく。
倉久保の谷から台峰に上がることを考えてください。上がれる所は後世に作られた道だけ。
素人が、新田軍は何故鎌倉に入れなかったか?を散策して確認し、巨大な防衛機構の存在を実感する事から始めるべきです。専門家なんて居ません!
調査された資料に異議や調査不足を指摘する為の知識が鎌倉市民に必要と言う事です。

問題は、羅城と言う考えが鎌倉城研究者に無かったために、鎌倉には城が無いという間違った結論を出した。

更に古い万葉の時代に、防人と言う制度が有りました。歴史の研究家はこの話を知らないはずが無い! 鎌倉以前の時代の歴史を調べなかった。

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鎌倉に城は無い!大宰府 7

2016年05月16日 | 鎌倉に城は無い!
2016年05月16日 記
大宰府を守る水城と石築地は防御の考え方が違い、違いは形に現れる。
水城は高さ9mの堰堤で、これを乗り越えるには死を覚悟する必要が有る。
石築地は高さ2~3mの堰堤で手が掛かれば簡単に乗り越えられるので、本来は3~4mの高さが欲しい処でしょうが、20㎞の延長が在る堰堤ですから、最低限の高さで妥協したと思えます。
 
「八幡ノ蒙古記」では 武士が名乗り合う一騎打ちの状況を述べられています。
「先陣争い」「一騎打ち」や「先駆け」の功名心が戦いに顔を出す。
これが、蒙古襲来の最初の時の戦い方でした。
2度目の蒙古襲来では、蒙古は石築地にはばまれて日本軍を攻められず、援軍を待つ為に退避した。
石築地作戦は、一応成功した訳です。
攻める道具を用意すれば、2mの壁の高さは簡単に越えられますが、海から小舟で海岸に上陸し攻めるには、道具の準備が苦しいのでしょう。
 
鎌倉城の場合、切岸は一様の高さではなく、工法もマチマチで、敵が登れなければなんでも有り!
と言う感じで、、数mの切岸とその切岸を登り攻め入る敵を 峰の上で待構え矢を射る戦法と考えると、10m以上の高さがある。
初めから、登る意志を削ぐ高さの切岸と、
敵が「これなら攻め込めそう!」と考えるガードが低い場所を準備して攻めさせる!
それが、石築地の様な防御の考え方と思えます。
頭を冷やして考えて欲しい事は、
『何故化粧坂や極楽寺坂を攻めたのでしょうか』他の場所から攻め入れば良いのです。
稲村ヶ崎から化粧坂迄は、3kmの長い距離で自然の山ならば、鎌倉市内へ強引に入り込む場所が幾らも有ったハズです。
実際は、鎌倉市内に入り込める場所は七口だけで在った訳で、他の場所は切岸が作られて鎌倉の中には入れなかった。
その様な状態を古文献に書かれているのですが、、、、
古文献を否定して「鎌倉に城は無かった!」と言うからには、根拠を明確にされるべきです。
先ず文献の詳細な否定と、物的証拠である切岸の全体像を調査の上で否定するのが科学的 尚且つ学術的と言うものです。
それ以外は、現代文献の他の人が書いた説の受け売りです。
アタカも自説の様に吹聴するのは、、学問の冒涜です。
 
 写真は、大仏切通の西にある深澤小学校の脇にある切岸。
     この山の峰を辿ると化粧坂に行く。
     街道と間違われた記述もありますが、道幅やアップダウンがあり、
     一般的街道の基準には合わず、兵の移動に利用した道と考える。
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鎌倉に城は無い!大宰府 6

2016年05月16日 | 鎌倉に城は無い!


写真は、国土地理院の航空写真で、右上から左下への緑のラインが水城です。
元寇との戦い方から当時の戦闘方法を知れば、守るに有利な砦の考察が出来るのです。
攻め寄せる敵を返り討ちにする為に仕組んだ砦の結果が城遺構となる。

当時の戦いは、人工的に仕組んだ砦は少なく、
自然地形で守るに有利な川を挟んで攻防戦を行う。のがパターンの様です。
川の水が攻撃の速度を落とさせる。動けない者は弓で狙いを付け易い!
大勢に攻められても、敵の動作がノロければ弓矢で狙い撃ちできる。
攻撃側は、不利でも攻め込む必要が有る。
守る側は、守備を固めて相手が川中に入るのを待てばよい。
守る兵は、川の中に入らずに土手で待機する。川の中に敵が入り水中で動きが鈍く動けない敵を狙い撃ちにすればよい。
>自然地形が攻防の主体に成る訳で、この辺りの解釈が鎌倉は『三方が山に囲まれた天然の要塞」と言う話になったのでしょう。
アクマデモ初期の鎌倉の発想です。


その延長の考えに人工的な砦の石築地(元寇防堤)が有るのです。

鎌倉武士は博多湾の岸に20kmの石築地を築き、元寇の攻撃に備えた堰堤です。
この石築地や水城の防御壁の高さは、鎌倉城を考える時の比較材料として参考になる。
敵の攻撃を受ける時は、2~3m程度の高さで攻め込ませる。
町を守る城壁に相当する高さは9mが大宰府の水城方式。
鎌倉の城造りもこれに準ずる考えをした と想像するのです。

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鎌倉に城は無い!大宰府 5

2016年04月27日 | 鎌倉に城は無い!


1281年5月。元軍は東路軍4万人と江南軍10万人の二手に分かれ日本に向かう。
      江南軍は出発出来ず、東路軍4万人で攻撃が始まりました。
 5月21日、文永の役と同様に、最初に対馬が襲われ、
 5月29日、東路軍は壱岐に襲い掛かります。
 6月6日。東路軍は博多湾に入り攻撃をしました。
武士団は博多湾の岸に元寇防塁を築き防戦する。九州、西国や関東の御家人も動員され、兵力は前回の6倍であった。

東路軍は石築地の突破はできず、博多湾北の志賀島、能古島に後退し、その後壱岐まで後退した。
その時点で 元軍主力の江南軍10万人は出港をしていなかった。
6月末~7月にかけ、東路軍は壱岐より肥前の鷹島に移動した。
 7月29日、江南軍の10万の兵は肥前平戸で東路軍と合流しました。
 7月30日夜に台風が襲い、五日間荒れ続いたので元軍の軍船は多くが沈没した。
台風を免れた軍船は鷹島に集合し、協議した結果、范文虎らの上級軍人は航海可能な船で帰国し、数千人の兵士は置き去りにされ、鎌倉幕府軍に鎮圧された。
 東路軍が日本に向け出航してから約3ヶ月で、弘安の役は終結した。

武士団は博多湾の岸に20kmの石築地を築いた事で元寇の攻撃を防ぐ事が出来た。
これらの石築地や水城の防御壁の高さは、鎌倉城を考える時の比較材料として参考になる。

写真は、大宰府を守る水城で、石築地とは防御の考えが違いが形に現れる。
    全長1.2Km 、幅77m、高さ9mの堰堤。

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鎌倉に城は無い!大宰府 4

2016年04月12日 | 鎌倉に城は無い!


  元寇の有った鎌倉時代に、どの様な戦い方をしたのか?
  絵に描かれた様に、土手の上から弓矢で射る。
  騎馬を使う。
  ご覧の通り、、、の戦法です。

〉「八幡ノ蒙古記」
〉「日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり
〉勝負とおもふ処に」武士同士が名乗り合う一騎打ちの状況を蒙古と
〉戦う時にもやっていた訳です。
〉功名心と先駆けで、褒章目当ての戦い方が、この時の戦い方です。
〉一騎だけで元軍に飛び込んだ結果、集団で囲まれ返り討ちにされた
〉武将が多かった様です。

第七回使節が来日したのは、文永の役(1274年)後の1275年でしたが、元軍が負けて逃げ帰ったなら、一年後に(日本は元に服属する様に!)と言う使節は送らないでしょう。
これが、元軍は負けて博多を引き揚げたわけではない根拠です。

その後、第八回使節が送られたが斬首され、家来を元に送り返したのでビライ・ハンは怒り「弘安の役」となる。
元寇防塁を造ったのは、文永の役(1274年)から、弘安の役(1281年)の間であり、
鎌倉城が作られたのも、同じ時期とかんがえるのです。

 元寇防塁(石築地)の高さは2~3m前後。総延長は、約20kmと言われる大工事を作り上げる力を関西の武士団は持って居た訳です。

鎌倉幕府の権力の末端で、これだけの大工事をやるだけの資産と人力と計画性があり、中枢の鎌倉で、これより貧弱なハズは無い! っと私は憶測するのですが、、、、
関東武士団は、攻めてくる元軍に対処する石築地を造るのに手を貸さず何をやっていたのか?? の疑問の回答の文書は、鎌倉終焉で灰塵となり、、、今では憶測ですが、
鎌倉に元寇に対抗する城を造っており「博多に手を貸す余裕が無かった!」
と考えれば 元寇防塁に関東武士が居なかった理由に説得力が有るでしょ?
日本中の武士を鎌倉に集めて元寇に対抗する城です。
それが、大き過ぎる城の正体と考えるのです。

写真は、(ウィキペヂアより引用)

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鎌倉に城は無い!大宰府 3

2016年04月11日 | 鎌倉に城は無い!


    写真は「福岡市の文化財」の掲載より引用。
蒙古襲来で、鎌倉幕府はどの様に防衛を考えたのか?
それが問題です。
一回目の文永の役は、武力で簡単に追い返せると甘く見たのですが、
鎌倉幕府の立場では、追い返せずに攻め込まれ、挙句は海岸線より10㎞内陸の水城まで撤退する事になった。
元軍の立場では、日本軍の反撃が思う以上に強く、長引けば日本の援軍が増えて困難になるのでこの程度痛めつければ良いであろう!程度で引き揚げた。
戦いの勝敗の行方を知りたい方が大半ですが、、、
白黒を付けられる程、単純な話では無いと思います。
鎌倉幕府には、国の存亡に係る程強敵に思えた。
これが、石築地(いしついじ)と呼ばれる20km
に及ぶ大工事のを造った基にある恐怖です。

> とうとう元寇説に至ったか (怒れる鎌倉市民)
> なぜあれほどの大工事を幕府は突貫工事で作らせたのだ?
> だいたい、そんなに元寇が怖いなら、内陸に拠点を移すべきだろう。

(怒れる鎌倉市民)さんは、二重の間違えをしています。
内陸の拠点は、すでに白村江の戦いに敗れた日本軍が唐と新羅軍の侵略を恐れ、660年代に大宰府を守る城を10km内陸に造って在り、これで十分防げると考えた。
文永の役で元軍に追いやられて鎌倉幕府軍が撤退した水城が大宰府を守る「城」です。
戦う城では無く、大宰府の市街を外国の侵略から守る城で鎌倉以前に同様な考えの羅城が在った訳です。
憶測としては、、
そんな城では守り切れない元軍の攻撃を感じ、元軍を迎え撃つ攻撃の為の仕掛けを考えた。
この元寇防塁と呼ばれる 膨大な工事の石築地を関西の兵力で造ったのが現実です。
何故 国の存亡が掛かる戦いに関東は力を貸さなかったのか???
元軍が究極の攻撃目標である 鎌倉に攻めてきた時対策として 鎌倉城を作る為に余裕が無かったと憶測するのです。
結果は鎌倉城の切岸として、20kmを優に越える防御施設と攻撃用の砦が作られた。

 >(怒れる鎌倉市民) そんなに元寇が怖いなら、内陸に拠点を移すべきだろう。
ご指摘の通り、、鎌倉に拠点があり、防衛の補強をしたと考えるのです。

鎌倉に城は無いとする考え方は、鎌倉終焉以降の城を基準に考えたのでしょう。
その見方で鎌倉城を考えるのは非常に視野が狭く、歴史や実在遺構を考慮しなかった知識不足の為でしょう。
戦う城は『総構え』の小田原城でも江戸城でも、最終的には市街を捨て天守に武士が立て籠もる構造をしている。
総構えの究極は武士が最終的に生死を決する天守場所で、市民を守る城では無い。

鎌倉以降の日本では、市街を守る為の城を私は知らない。

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鎌倉に城は無い!大宰府 2

2016年04月07日 | 鎌倉に城は無い!


鎌倉城の巨大な理由は、蒙古襲来にある! 

コメントより『とうとう元寇説に至ったか (怒れる鎌倉市民)』
> その説は古いのだよ。すでに論破され過去のものだ。
>博多湾の元寇防塁をご存じだろう。
> なぜあれほどの大工事を(疑問)幕府は突貫工事で作らせたのだ?


歴史の流れ(経過)を追えば、赤マークの答えは出るのですが、
(怒れる)さんは 何故(?)を付けたのか、、、
その様な歴史の理解や、自分で調べたり考える事が苦手ですか??

蒙古襲来のダイジェスト前半
第一回使節1266年「大蒙古國皇帝奉書」を作成し、使節団を日本へ派遣
1271年 鎌倉幕府は鎮西に所領を持つ東国御家人を向かわせ、蒙古襲来に備えた。
第六回使節1272年使節団を日本へ派遣したが服属しない為、武力侵攻を決断する。
1272年 鎌倉幕府は元軍襲来が予想される筑前・肥前・博多津の沿岸を警固させた。
1273年 幕命で、戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発した
■文永の役 1274年10月3日『蒙古襲来』
戦艦300隻を含む726〜900艘の軍船が総員27,000〜40,000人を載せて、朝鮮半島を出発。
対馬侵攻 10月5日
壱岐侵攻 10月14日
肥前沿岸襲来 10月16-17日
博多湾上陸 10月20日
赤坂の戦い
鳥飼潟の戦い
百道原・姪浜の戦い
日本側の史料『金剛仏子叡尊感身学正記』は「十月五日、二十日、博多に着き、即退散に畢わる」
 
1266年の第一回使節から六の使節があり、その間十分な期間が在ったのですが、元寇防塁等、造らなかったのです。
文献より、10月20日に博多で戦い翌朝には船団の影は消えていた。
幕府軍は、大宰府の水城まで撤退させられていた。
翌日の攻撃に怯えていたら、博多湾から船団は消えていた! ッと書かれている。

『安国論私抄』には、
元軍の損害は捕虜27人、首級39個その他の損害を数知れず。
日本人の損害については戦死者195人、下郎は数を知れず
 この文で、幕府軍が勝利をしたと考えられるでしょうか?
文献を調べれば、日本軍が苦戦している文章が多いのです。
結果は元軍を甘く見た為に、シタタカ攻め込まれ損害を受けた!
その証拠に直後から石築地を造りはじめ、弘安の役には博多湾に20kmの元寇防塁となった。
これは膨大な距離と大工事で、元軍に対する恐怖の証と言う訳です。

「元寇」「対馬侵攻」「壱岐侵攻」「肥前沿岸襲来」をキーワードに惨状を調べれば、何が恐怖であるか理解できるでしょう。

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鎌倉に城は無い!大宰府 1

2016年03月18日 | 鎌倉に城は無い!

コメントより
> とうとう元寇説に至ったか (怒れる鎌倉市民)
> 久しぶりに貴ブログを拝見した。
> (1)鎌倉城説を撤回するようなことが書いてあり、ようやく愚かな
> 奇論を卒業する気になったかとよろこんだところ、今度は元寇
> を持ち出してきた。
> その説は古いのだよ。(2)すでに論破され過去のものだ。
> (3)博多湾の元寇防塁をご存じだろう。
> なぜあれほどの大工事を(4)幕府は突貫工事で作らせたのだ?
> だいたい、(5)そんなに元寇が怖いなら、内陸に拠点を移すべきだろう。
> 貴殿のブログの荒唐無稽ぶりには頭が下がる。
> また反論ある人は現地を歩け、とか高説を垂れるのだろうか。
> (6)このコメントをきちんと載せたら褒めてあげよう。


(1)の問題点:「鎌倉に城は無かった!なんてね13」を読んだのでしょうか?
      鎌倉城説を撤回する文は無い! 何を勘違いしているのでしょうか?

文献は必要とした時にのみ調べるので詳細は解りません!
是非、、ご教授下さい。
(2)の問題点:誰が、鎌倉城は元寇対策の城と説を唱えたのですか?誰が論破したのですか?
      その論議は何時の時期に在ったのですか?
(3)の問題点:元寇防塁の規模を教えてください。
(4)の問題点:幕府は誰に作らせたのか?
      その様な大工事、、、これは元寇が『怖いから』の証拠でしょ?』
      怖くなければ、、元寇防塁など造る必要は無い。
(5)の問題点:内陸に拠点を移せば、元寇に勝てるのですか??
(6)の問題点:コメント自体が、矛盾を起こしています。
      もう少し書きたい事を貴方の頭の中で整理して文章を書いてください。

3月末まで ご返事をお待ちします。
ご返事無き時は、中身の無い文章なので削除します。

などと 考えましたが、このコメントに尾ヒレを付けて面白くすれば削除をする必要が無くなる!
工夫してみましょう!

新しくこのブログを御覧になられた方が多い様です。
判りにくい記事には一言「意味不明」とか「判り辛い」とコメントを入れてください。

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鎌倉に城は無かった!なんてね、 1~8

2016年02月24日 | 鎌倉に城は無い!
◆鎌倉に城は無かった!なんてね、1 2013-01-06
 
鎌倉に城は無かった! なんてね、、、 そんな説が有ります。
 
> 鎌倉の切岸を見て、これは採石場の跡です。
 
 御猿畑の採石場跡は、延々と続く切岸(鎌倉城の城壁)のホンの一部(約1/100)であり、それを根拠に総ての切岸を「切岸ではなく採石場跡である!」っと断じ、本まで出ているそうです。
もっとも、鎌倉城の痕跡と思われる場所を鎌倉に詳しい人に案内して貰ったそうで、、、
その程度で鎌倉全体を判った気になり、鎌倉に城は無いと断じる調査不足!
研究者として稚拙で、情報の不完全と自説に有利な情報操作を感じる。
これを似非三段論法と呼びますが、言葉の表面の理屈です。一部分の特異な真実で、全体の真実を隠した論法です。
其処までして不完全な研究に、、性急な結論を作り出す理由は??
 
在る物を証明するのは割と簡単で、在る場所を指摘すれば良い。しかし無いものを否定するのは困難です。
 
証明に困難そうな精神世界の陰陽師ですら、その活動した証明をした方が居られます。
鎌倉幕府は結界を張り、災厄からの防御を図った。
陰陽師の安倍一族に結界を張らせたのです。
その物的証拠が在る事を「呪術都市鎌倉探訪記 その13」酔石亭主さんのブログに書かれています。
 
物的証拠や太平記の記述で鎌倉に城が有った事は明白ですが、鎌倉城を否定するには、、、、、、
それらしい物的証拠を片端から否定する必要が有りますから、、、鎌倉の山中に在る遺構を全て根拠を持って否定しなければならない。
       その様な訳で、
鎌倉城は無かったなんて、現時点では否定するに足りる研究や資料は無い。否定するには、学術的な手法では先ず資料をソロエる必要がある。
十分な資料も無い研究で、急いで結論を出さねばならない理由は何であるのか??
「鎌倉城が有る派」でも、「鎌倉城は無い派」にしろ、鎌倉城の研究はされず、遺構の調査もズサンで土地開発はやりたい放題です。
鎌倉城の資料は、文献は無くても現地の山中に実在する。
州崎から攻め込んだ力と勢いのある新田軍は何故鎌倉市内に入れなかったのか?
其れを入れさせないのが城壁です。
今でも宅地の奥に点々とその痕跡は存在する。調べれば明白です。
その程度の理解力と調べる好奇心は持って欲しいと願っています。
学識経験者に教わるよりも、自分の頭で考える事!
 それが大人のお遊びと私は思います。
 
 
 
◆鎌倉に城は無かった!なんてね、2◆  2013-01-28
 
どの様に鎌倉城を認識したら良いのか?
鎌倉時代以前の戦いの様子は、、、、、
宇治川の戦い(うじがわのたたかい)は、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に都に立籠る源義仲と
都をで攻める源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦の様に、川を防御し、橋の床板を外して敵軍を防ぐ様子が描かれている。
早い話が、平安京に城壁が無かったという根拠です。
時代は少し過ぎ、、
平安京を簡単に追われた平氏は瀬戸内を逃げ回った。これは、地方にも城は無かった証拠です。
平家を駆逐した頼朝は 鎌倉の都が敵に攻撃され平安の都の二の舞になる事を恐れたと考えられる。
それが、鎌倉城を造る根源にある考えです。
 
その様な訳で、
本格的な戦いを意識した城は鎌倉が初めてである訳です。以前の城の知識や考え方の歴史を根拠に「城は無かった」と綺麗事の理屈を作っても、、、鎌倉以前に城の考えや痕跡も無いのです。在ったのは村を守る堀や柵が知られて居ますが、、
骨肉相食む自分の保身も厳しい時代で 綺麗事の理屈より面目や意地を大事にする反面、保身の為に造反(体制に逆らい謀反(むほん)を起こす)をし、力で押し切る!
三種の神器を備えた安徳天皇を攻撃し、畠山重忠ですら謀略に潰され、綺麗事では済まない時代であった。
武力最優先の時代を建前論で鎌倉城は無かったは、あまりにも思考が単純過ぎますね!
 
平安時代もそれ以降も敵を止めるのに、川筋を使ったが、、、、鎌倉の城壁は新田軍を止める威力を河川以上に発揮した実績のある城です。
決して、自然地形が新田軍を止めたのではなく、人工的に作られた切岸が新田軍を止めたのをお忘れなく!
 
その城壁である切岸を手軽に観察する事を考えましょう。
北鎌倉駅の北にある峰の麓を紹介します。取りあえずはその地図です。
緑に塗られたのは、峰です。
水色は、円覚寺の池!
A地点は、北鎌倉駅の臨時改札口です。
 
注:この時点では、元寇対策の築城が考慮に無い記述です。
  現在残る鎌倉城は、元寇対策後の城跡と考えています。(2018/5/12)
 
 
◆鎌倉に城は無かった!なんてね、3◆2013-02-02
 
大鎌倉城、、、
稲村ヶ崎から大仏、化粧坂、亀ヶ谷、小袋切通しまでの防衛ラインは4Kmの距離があります。
この鎌倉城の西面4Kmのラインを新田義貞は攻めたが、、、
蟻の這い出る隙間は一箇所だけ、、大鎌倉城の城壁が途切れた海岸であった。
その4Kmの峯を歩けばハイキングコースで簡単ですが、切岸を確認しながら歩くのは鎌倉市民の生活空間で観光用ではない、その峰と谷を調べるだけで、20km以上の行程を歩く必要がある。
広大な為、この鎌倉城を本気で調べた資料は鎌倉図書館にも無い。
鎌倉の山谷を散策しても、切岸で簡単に山の峰には上がれないし、峰に上がれば降りられる場所は見つからない。
沢登りという登山方法が有りますが、丹沢は余程の谷で無い限り、昇り降りの手がかり足がかりは見つけられ、困難な場所も巻いて脇から上ることが出来ます。、、、しかし鎌倉はそうは成らず、人工的な壁で強引に登れば私でも、怪我を覚悟する様な崖です。通常切岸と呼びます。
 
戦国時代の山城に興味のある方は多いと思いますが、、、
目前にそれを見ても、通常の山城とは規模が違い広大で城に見えない様です。
大概の城は、2kmも歩けば、虎口(表門)、クルワ、堀切、搦め手(裏門)等大体を見れます。
鎌倉城は違い、素人目には 延々切岸が数km続き、やっと次の切通しが目立つ程度です。
鎌倉の町を囲む七口の防衛ラインを結ぶと14Km(西面4Kmのラインを新田義貞は攻めた)で、戦う場所の砦遺構は、更に外側の広大な場所に在ります。
そんな防衛ラインから外に張り出した峰の砦遺構の切岸紹介です。
 
写真は、北鎌倉駅の臨時改札口で、大半の人は円覚寺に向かい歩き出しますが、あえてその逆コースの写真の道を歩いて頂く訳です。
上の写真はB地点です。 左は駅で右は手入れの行き届いた庭や垣根の住宅です。わたしにとっての鎌倉の散歩を楽しむ要素がイッパイ詰まった道です。
上の写真はD地点です。こんな手堀のトンネルもあります。
一見ノドカナ住宅地ですが、、、、
その裏をチョイと覗いて見ましょう!!
 
 
◆鎌倉に城は無かった!なんてね、4◆  2013-02-05
 
上の写真(C地点)のように、切り立った石垣と言いたいところですが、それ以前は剥き出しの岩壁。
そんな状態で左側に岩壁は続き、駅のホーム脇の手彫りのトンネルになります。
この様な崖が延々と続くのです。
上の写真は、トンネル出た処にある家です。門の脇も奥も崖が控えています。
風流な垣根ですね、、、路地を覗くと、
路地裏は崖が迫っています。
F地点です。この路地の奥も、イワクが有りそうな、、、、
階段の脇は、崖ですが、壁の中に祠が有ります。その上は、神社が有ります。
これも昔は切岸の一部。
その神社を覗いてみましょう。八雲神社です。
この様に、切岸は住宅として使うために、石垣として補強される。
しかし、誤魔化されないで欲しいのは、個々の住宅事情で作られた石垣でも、大きく見れば峰に登るのを拒否した一貫した構造の崖である事に注目してください。
表は手入れの良い住宅地ですが、、、裏は鎌倉城の城壁(砦)という この様な構造が鎌倉全域に見られます。
それは、峰の市外に向けても、市内に向けても切岸は在り、峰に登っても市内に下りる場所は、限定される構造です。
 
 
◆鎌倉に城は無かった!なんてね、5◆  2013-02-15
 
八雲神社の鳥居をくぐり、左手の石段を上ったところに陰陽師安倍晴明が仕組んだ石があります。
鎌倉駅を出て大船へ100m程の王堂橋を渡った道中央に石が埋まっていた。安倍晴明が厄除けに設置した「晴明石」です。
「びっこ石」とも呼ばれ、戦後道路工事で掘り起こしたので八雲神社へ移したとある。
 
 
上の写真 鳥居手前の土蔵造り(物置)の左細道に入ると庚申塔が10基程あり舟型の庚申塔は鎌倉最大最古の石造庚申塔と言われている。
上記の写真 それを越えると、道路があり、崖があります。この辺りは道路を作った為の崖でしょうが、道路の先は八雲神社の本殿
上の写真 道路を下がると本来の切岸がと思われる崖と近年掘られたと考えられるトンネルが在ります。
上の写真 トンネルを抜けると、横須賀線の脇に出ます。これも切岸。
線路際までこの様な切岸です。線路を通す為の崖ではありません。
上の写真は、小八神社です。この周囲も切岸です。
 
お猿畑の派手な断崖が切岸デハ無く、地味に鎌倉市民の生活の中に溶け込んでいるのです。
そんな、城構造と「大化の改新駅路」の鎌倉進入を阻止し、取り潰す理由を肌で感じて欲しいのです。
肌で感じたモノは、学者の理屈の何倍もの情報量があり簡単に切り崩せるモノではない。
これが、「武家の鎌倉」の象徴である城痕跡の実態で 調べる事も無く放置状態です。
鎌倉を囲む切岸の全体からすれば、百分の一程度の紹介です。鎌倉の風景には当たり前に在る切岸でも、
系統立てて調査をしなければ、外部から人が入れない城壁構造を解明は出来ない。
アマチュアでも、外観を観察する事でばまとめることが出来る。ただし、全体量が多いので、一部分の調査になるでしょうが、、、城壁構造だけでなく、戦う構造も有ります。
 
個人が住むには、この程度で痕跡は残りますが、大手の土地開発はブルトーザーで根こそぎ掘り返し地形を変え、、、それが問題なのです。
鎌倉に城は無かった! なんてね、、、
 
 
 
◆鎌倉に城は無かった!なんてね、6◆  2013-03-08
 
画面の北鎌倉脇に黄色いラインを引きました!前回紹介した切岸の範囲です。全体から見たら、こんな狭い範囲です。
 
鎌倉城は城の原点でですが、巨大な鎌倉城を、誰が作ったのか?
命令したのは鎌倉幕府でも、実際に働いたのは、地方の武士であったと想像できます。
当然 技術は地方に持ち帰り、次の戦国時代に雨後の筍状態で各地に山城が出来上がる。
七口より外部に張り出した峰は砦となり、化粧坂、葛原が岡より続く台峰で2Kmあり、天神山の脇まで迫ります。
その峰の中程から水堰橋に降りる路は、鎌倉城大手門の中の道に相当する。化粧坂に対応する鎌倉の出口と考えられる。
台峰の規模でも、戦国時代の山城と比較して大きい部類です。その様な峰が外部に向け何本も張り出すのが、鎌倉城です。
私「ぼ輔」が鎌倉城を理解するには数十年を要しました。
 
日本一大きな城を常識的に並べると、
江戸城、名古屋城、大阪城、姫路城、岡山城、熊本城の順位でしょうが、、、
鎌倉の切通しを結んだ距離は14km 面積14.平方km(紫色のライン内)
江戸城の外堀の距離は15.8Km 面積17平方kmで、縄張りは、築地市場、浅草、秋葉原、水道橋、市ヶ谷、四谷、赤坂、虎ノ門、築地市場を繋ぐ範囲です。微妙に江戸城が大きいと思われるでしょうが、、
鎌倉城は七口の切通しを結んだ縄張りで本丸に相当する場所です。その外側に寄せる敵を迎え撃つ砦構造が有るのです。(紫色の外で赤いライン内)
そんな広範囲な場所を、地形から構造まで調べるのは個人的には限界があるし、組織だって調べるのも莫大な期間が掛かる筈です。
結論は、城の遺構は在るが、広大過ぎて専門家でも調べて無いでしょ? っと言う話です。
鎌倉城という言葉があり、、、
新田義貞の攻撃に耐えた実績があり(唯一入り込めたのは、城を作れない海際でした)
今でも城の遺構が土地開発にも関わらず、残っています。
しかし、広大な為に城としての調査がされていない現状が在る。
 
 鎌倉城は「有ったか?」「無かったか?」を論じる以前に議論に値する資料を論者が持って無い!
資料が無いのに論じたら、
ソリャ~~  「推測と思惑の非科学的な世界です。
最大の矛盾は、とても広大な鎌倉城ですが、詳細に調べたら、土地開発が出来ないでしょ? でも、武家の鎌倉を標榜して、鎌倉城遺構を無視するのは、世界遺産の取組む姿勢として問題が???
都合が悪いから、鎌倉城は無い事にしよう!! と言うのは商魂に文化が負けた状態です。
 
 
◆鎌倉に城は無かった!なんてね、7◆  2013-03-19
 
上の写真は小坪の国道134号下の交差点です。
 
 「三方を山に囲まれた天然の要塞!」っと通常言われるが実態は、
七口を結ぶ14kmの切岸を人工的に作り防御壁にした訳で、、、天然の要塞では無かった。
小坪の海辺からお猿畑、報国寺迄続く切岸を確認した文献も存在する。 
開発で分断されても延々と続く切岸を確認ができ、それが今回紹介する写真です。
それでも七口ラインの3割程度の距離です。
上の写真は、小坪より名越の切通しに行く道で左側は鎌倉の切岸
それは、研究家の想像を上回る巨大な土木工事であった訳です。
想像を越えた問題は思考もできず、問題意識すら起きないのは当然です。
 マサカの巨大な土木工事の例は、
●飛鳥奈良時代に作られたと考えられる朝比奈切通しは、道幅7.5m。
●朝比奈坂道を鎌倉時代に幅4mの道路改修したのが、今見られる朝比奈の道です。
●朝比奈坂道を狭めた理由は、進入した敵を攻撃する砦としての構造を作った。
●新田義貞の鎌倉攻めに対抗して各切通し封鎖の為、数日で作り上げたバリケード。
●海蔵寺裏の大堀切(海蔵寺側から見るとその巨大さを実感できる)と言われる武蔵大路の封鎖。
これは、誰でも見れる土木工事のホンの一例です。
目先の巨大さに 見ても人工的な遺構と気付かず、無関心で通過するのが観光の方達です。
何が凄いのか? 掘り下げなければ、面白く遊べないでしょ?
この様な巨大な土木工事の痕跡を貴方自身の目で確認し、裏で何が動いたのか??
その興味の問題です。
ガイドの公式見解を説明されても底が浅い話で真実は別物です。
自分が考えなければ、常識の嘘に飲み込まれるだけです。
先ずは、自分でこれらの遺構を作る事と考えてみて下さい。
  人を集めてやるとして、何人必要ですか?
  工事をする道具は?
  土砂の運搬は?
  何処に土砂を捨てるか?
  日程は?
「鎌倉は三方山に囲まれた天然の要塞!」等と解説されています。
自然の要害ではなく人工的に切岸を作ったのです。
自然の山なら手がかり足がかりが幾らも有り、簡単に登れます。
この遺構は意識して人が登れない様に仕組んでありますから、登れば生死が掛かる行為で有る事を自覚してください。
現実の遺構から 過去に何があったのか?
ノン・フェクションですから、勝手に筋書きは変えられません!
真実は暴けなくても、、真実に近い推測は出来る。
巨大過ぎて誰も想像しない遺構を鎌倉武士が作った城と認めれば、鎌倉幕府の土木工事の力量を推測できる。
その土木工事の力量なら、当然やるでしょう! と言うのと 
そんな巨大土木工事は誰もやらない! では正反対で机上の理屈では判らない話。
現代の工作機械でなく、これらの巨大土木工事を人力でやった凄さです、、、それが鎌倉城を理解する基に必要なのです。
 
 
◆鎌倉に城は無かった!なんてね、8◆  2013-08-17
 
鎌倉の城は日本的な山城の最初の城で有ったと考えられるのですが、、、
その造城技術が、以降の時代に城を作る基に成ったと私は考えます。
その様な意味で、日本の城の原点となる遺構で有り、どの考えにも無い独創的な構造をしています。
幕府の資力を防衛の為に注ぎ込んだ城であり、以後の城は大半が1km四方の城となります。通常の城の概念とは違う巨大な規模です。
城を多く見ればなお更に鎌倉は巨大過ぎて城には見えない。
そして、誰も調べようとしない。
其処までは良いとして、、、、
「武家の鎌倉」世界遺産登録に失敗して、、、
市民組織「鎌倉世界遺産登録推進協議会」鎌倉世界遺産登録推進協議会等の内部から、、、、鎌倉城は、無かった!
 
更に年は過ぎ、山城から石垣を備えた城に変って行くわけです。
鎌倉城は調べる事の無いまま宅地化が進みますが、それでも遺構は残っています。
木を見て森を見ず」の現状で、鎌倉城の巨大さと文献の無さの為に全体の遺構をマトメタ情報を持つ人物や著作物は無い。
あなたが部分的にでも詳しくレポートをしたならば、貴方はその場所を知るスペシャリストでしょうし、それ程研究されていない分野だと言えます。
ネットを見れば、如何に資料が無いか判ると思います。
しかし、「武士の都鎌倉」を世界文化遺産にしよう!と言う話が官民の間で持ち上がった。
そんな鎌倉城の遺構など調べもせず、、建築物も片手で数えるほどですが、、
何処に「世界文化遺産」としてアピールするものがあるのか?
武士の心? 武術? そんなのは、戦国時代や江戸時代の産物でしょうね、、、
「武士の都鎌倉」の残した物は、鎌倉大仏と鎌倉城の遺構だけ!
例外として唯一円覚寺の舎利殿が当時モノと言われています。
更に、荏柄天神社 が当時モノと言う方が居られますが、、セイゼイ柱が当時の物を使っているかも、、、外見は全くの別物に成っています。
 
写真は、小坪、名越の切通、報国寺、に連なる切岸(報国寺近く)
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鎌倉に城は無かった! なんてね、 9~12

2016年02月24日 | 鎌倉に城は無い!
◆鎌倉に城は無かった! なんてね、 9   2015-08-18 15:01:00
「鎌倉には城が無い!」そう考えるのは、、、
   城の歴史をしらず、近世の城しか知らない偏った見方です。
本を頼りに多くの城を尋ね歩き、自分なりの考えが出来上がると、、、
 虎口は何処?
 堀は?
 土塁は?
そして、最後は本丸と天守閣の場所が判れば納得?
 この城の見方は、戦国や江戸の城の特徴を表し 一般的と思いますが、
この見方で、鎌倉城を考えるのは 歴史を無視した間違えです。
 戦国時代の山城や、江戸時代の石垣を持った城を基準にすると、視野(物理的及び,思考の範囲)が狭すぎで鎌倉城を見ると単なる山としか思えない。
 それは、想像を超える巨大さです。
 さて、
戦国j時代以前の城の歴史は 遺構が少なく語られるのは稀です。
戦国時代以前の城名を調べてください。幾つ有るでしょうか?
平城京? 平安京? 多少の防御施設は有ったのでしょうが、、、本格的な戦う為の城では無い。
更に前は、、
太宰府を守る水城が在ります。 白村江の戦いに負けて朝鮮半島の国が博多に攻め込事を想定した城です。
防人と言う名の徴兵制度が出来 関東から九州まで歩いて兵役に付いた訳です。
実際に蒙古襲来で、この水城に立て籠もった文献が在ります。
「語る人が無いから無い事にしましょう!」なんて城の歴史に無知だから言える話です。
後世の進化した城を基準に それ以前の城の知識も無いのに評価する思考法は、歴史の根本を無視した間違えです。
何故間違いか??
戦闘方法や、守る対象、防衛方法が決定的に違うからです。
時代により、見方や考え方、造成方法が変化し、その変化は構造と城の形にでる。
それが築城の歴史の話ですから、
前の時代の影響を無視したら、、歴史学の冒涜です。
歴史は 憶測と創作で成り立つ歴史小説ではなく 真実の根拠に根差す歴史学です。
しかし、歴史の無知に根差した「鎌倉に城が無い説」が、鎌倉市内のコミュニティで講演されているように伺えます。
 
鎌倉の生涯学習コミュニティでは、鎌倉時代の話が大半で、それ以前の奈良や飛鳥時代を語る人は稀のようで、、
古代の鎌倉を扱うのは、このブログぐらいでしょう。
古代東海道が鎌倉を突き抜け朝比奈から六浦へ通り抜けた。鎌倉時代以前の話です。
そんな出入りが自由な道路が貫通していたのでは、城には成りません。
同様に城造りも、
大和時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代より鎌倉へ と変遷があります。
それを系統立てるのが歴史と考えますが、、、
事 鎌倉城に関しては、
歴史の流れを無視した論議がされた挙句が、、、
新田義貞の正面突破の攻撃を跳ね返し、城の切れ目から辛うじて新田義貞が攻め込んだ実績を持つ鎌倉城を、、
「鎌倉城は無い!」と言う話までに育て上げた。
真面で「鎌倉に城が無い!」と思うなら『怒れる鎌倉市民』さんの様にこのブログの弱点をコメントすれば良い。
 鎌倉に愛着が有るなら、本気で論議する問題でしょ?
このブログに書かれた事に反論する困難さが有り、このブログの知識以上に鎌倉について調べて反論する必要が有ります。
是非このブログの弱点を問題にしてもらいたい。
 
歴史は、前人の営みや知恵を受け継ぎ次の時代に移る過程が書かれる。
鎌倉の城も前の時代の城の考えを受け継ぎ発展させたものです。
こうなると、、鎌倉城の前と後の時代も書く必要が有ったりして、、、
取りあえず、
鎌倉幕府終焉の後の話ですが、、何度も攻められたが落城しなかった城があります。
縄張りが鎌倉城のコピーの様な考えの城です。天守閣なんて有りません!
戦闘で負けたのではなく、政治情勢の変化で開城した城です。
鎌倉城を理解するするのに絶好な「ひな形」があります。
それは次回に!
 
話は変わり、台峯の先端、臥龍峡西の砦跡と考える場所ですが、
私がその地形から鎌倉時代の砦跡と考えたが、、、実際は近代的な日本軍高射砲陣地で在った訳です。
太平洋戦争で、米軍が七里ヶ浜に上陸する事を前提に鎌倉は白兵戦を覚悟で対抗策をたてた。その痕跡で在った訳です。
鎌倉時代に天神山と伴に使われたであろう砦の使い回しで高射砲陣地が作り上げられたと考えるのですが、、、
写真中央に高射砲陣地と思われるドーナッツ状の砲台が12個程確認できる。
現物を見たい方は、逗子の披露山公園の猿のオリがこのまま高射砲台の使い回しで残っており、構造を知りたい方は一見の価値が有ります。
 
 
◆鎌倉に城は無かった! なんてね、 10   2015-08-29
鎌倉城外に在る 玉縄城の写真です。(大船駅より西へ1,5Kの場所)
 
これを主郭と言う人が居り、その周囲は、一、二、三の丸なんていう考えなんでしょうが、、、 そんな分類とは別な作りと思えます。
鎌倉城に習い、周囲に城壁を造り防御する考えです。
この様な城は日本の中世の城では稀で、鎌倉城のコピーと考えています。
問題は、
『何故 鎌倉城を使わないのか?』
考えて御覧なさい!、、世界的な広さの城を守るのにどれだけの人が必要か?
それを想定して、頼朝は「いざ!鎌倉!」と言う先陣争いをさせた、、、っと考えるのです。
鎌倉城を守るのには、関東イチエンの武士が集まる必要が有ったのです。
それを考えず、
 「3回の戦いで、鎌倉城は3回とも守備側が負けた!」とあります。
そんなに鎌倉城の造りは軟弱であったのか?
そうではなく、鎌倉城は巨大で守備をする兵士の数が必要であった。
新田義貞の戦いでは人手は有っても、天変地異で生じた弱点! 城壁の無い場所を攻められたのが原因で、自然の現象には勝てなかった!
   それは 太平記にも梅松論にも書かれている。
他の負けた戦いは、鎌倉城壁の攻防ではなく、城中に在る杉本城や館または、玉縄城絡みでの戦いです。
始めから鎌倉城は広大過ぎて、人手が無いと守れない城です。
古文献を理解して「鎌倉に城は無い!」と言っているのでしょうか?
 この辺りに疑問を感じるのと、現物の鎌倉の切岸を観察しているのでしょうか?
 「鎌倉に城は無い!」事に賛同された方は、ご自分で調べる事を実行してみてください。
 
 
◆ 鎌倉に城は無かった! なんてね、 11    2015-09-04
写真は、玉縄城の中に作られた女学校の正門。(googleストリートビューより)
 玉縄城は、敵と対峙するに数千人いれば、守り攻撃もできる城として作られた。
その形を見て如何ですか?
守備に必要なのは立派な天守閣ではなく、城壁であることが理解できるでしょうか?
その城の考えは、通常の城の概念とは違い 鎌倉城を縮小したコピーである事を理解できるでしょう。
近代的なところでは、東京湾のお台場や、北海道の五稜郭などにみられ、中世でも稀にこの形式は見られます。
鎌倉時代以前にもこの形式の城造りが日本には有り、中国にもそのモデルになった遺構があります。
 玉縄城を攻撃したのは、千葉の里見実堯、上杉謙信、武田信玄等の当時最強の軍団が攻めたのですが、落とす事はできなかった。
玉縄城の開城は豊臣秀吉が小田原攻めの時、徳川家康が城主の人物を惜しみ、使者を立て説得させ無血開城させた。
 
鎌倉城は、味方を数万集められる事が前提で、鎌倉の街を守る為の城です。
玉縄城は城壁の内側が窪地で、学校が建つ広で数千人で守れる構造です。
更に石垣の有る江戸城は東西約41m、南北約45mの天守台が最終的に守る面積です。
江戸時代の城造りは、武士が勝ち残れば良い考えの城と 都市を守る鎌倉城は根本が違います。
  鎌倉幕府滅亡後に作られた中世の城の常識で鎌倉城を解析するのは、誤りである理由です。
私も自分の視野外に弱点があり、修正の余地があります。
批判されて初めて視野外の視点を感じる事ができる。
批判のコメントは、私の反論に答える必要は有りません。
 私の反論を受け入れるには、ご自身で現地を調査する必要が有り、簡単には納得出来ない事を承知しています。
 
 
◆ 鎌倉に城は無かった なんてね、 12   2015-09
私の趣味は、古道の探索です!
その古代東海道や東山道武蔵路の延長が鎌倉に入る手前で突然消える!
何故消えたのか??(学者は道路が消えた認識も無い。)
頼朝が城を造る為に大路を封鎖した訳で、その明確な誰でも観察できる場所として、「海蔵寺裏の大堀切」が挙げられる。
私の本来の趣味から離れても、鎌倉城を解説する羽目になった訳です。
鎌倉城の痕跡は掃いて捨てる程有り、 量が多すぎて宝探しの楽しみが私には無い。
城が在っては困る元は、、、何でしょうか?
土地の開発が絡みの政治問題と思いますが、、、
 
台峰は、開発の手が付けられていない 希少な鎌倉城の遺構です。
これ等の痕跡を調べもせずに「城では無い!」とすれば土地開発が出来ます。
場所は、図面の赤点線の場所で、台峰か、倉久保の谷に通すのか?
どちらにしても、鎌倉城の「オリジナルな痕跡」は消える。
「オリジナルな痕跡」とは、世界遺産に登録する際に必須項目の真実性です。

>   鎌倉市の都市計画道路の見直し中間報告 2012年11月
>   都市計画道路(由比ガ浜―関谷線)
> 当該区間が山崎・台峯緑地・古都保存法の特別保存地区・史跡仮粧坂を
> 通過することから「歴史的風土・緑地保全・景観に与える影響」の観点
> や世界遺産登録を目指す上で、当該区間の廃止又は、形式等の変更を行
> なう必要性が高いと判断した。
> 景観域「古都継承地域」 (課題 現行道路構造令に適合しない可能性が
> 高い。山崎・台峯緑地・古都保存法の特別保存地区・史跡仮粧坂を通過
> することから「まちづくりとの整合」や世界遺産登録を目指すという観
> 点から、当該区間の廃止、及び道路の線形や地下式にするなど形式の変
 > 更を検討することが必要。)
 
「道路の線形や地下式にするなど形式の変更」とは、計画を強行する政治用語と思います。
台峰を守れるでしょうか? 鎌倉市民の自覚しだいとはいえ、
生涯学習の政治力の働いた講習を鵜呑みにする様では無理かな、、、
これが、鎌倉城遺構を急いでマトメタ理由です。
ぼ輔は今は鎌倉に居ませんから、政治的には他人事です。
 図: 赤い点線が都市計画道路。
 
 
 
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日本城郭大系

2015年06月22日 | 鎌倉に城は無い!
■日本城郭大系1 記 2015-06-22
「日本城郭大系」と言う本の鎌倉城に関しての記事です。
 
 日本城郭大系と言う本は城郭研究者にとても権威が有る様子ですが、、、
しかし、、
鎌倉城に関しての記載は 城に対しての認識不足や内容に矛盾が有り、絶対的な調査不足の上で書かれた記事で、学術的な価値は無い。
 
写真より、
源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、鎌倉が源氏ゆかりの地であったと共に、三方を馬蹄形の連丘に囲まれた理想的な都城の地形であった。
このことは以前から知られていたらしく、『保元物語』の「為義降参の事」には、保元の乱の戦いに敗れた源為朝が、父の為義に東国に下向して関東の武士を召集し、平将門にならって関東に新しい国家を建設することを提言しているが、その本拠地として鎌倉を挙げている。また、「吾妻鏡」には石橋山の合戦に敗れて房総に逃れた頼朝に対し、
千葉常胤は『鎌倉が要害の地であるので本拠地とする』ことを提言している。※1
さらに鎌倉時代に入ると、京都では鎌倉を城郭とみて居り、
『九条兼実の日記「玉葉」には、源頼朝が木曽義仲追討のため、「鎌倉城」を出発したという記事がある。』※2
この鎌倉城の範囲は、稲村ヶ崎から極楽寺切通、大仏切通、葛原岡、亀ケ谷切通、巨福呂坂切通、鷲峯山、朝比奈切通、天台山、名越切通を経て飯島崎にまで連なる丘陵に東・西・北の三方を囲まれ、南は相模湾に面する地域内である。鎌倉にある七か所の切通は、平時には鎌倉に入る入口として利用されているが、新田義貞の鎌倉攻めでは七口を土塁で閉鎖した。
『「大平記」によれば、鎌倉をめぐる攻防戦は常に各切通を中心にして戦われた。』※3
攻撃を受けて応戦する砦は七口から更に離れた場所である。
『名越切通の外側(逗子市側)の東翼に約800mにわたって現在も残る
 切岸は、その代表的な防禦施設として、三浦氏の攻撃に備えた北条氏が鎌倉時代に築いたものである(「神奈川県文化財調査報告書」 第三十四集)。』※4
鎌倉城が合戦によって攻められた記録は『太平記』によれば三回ある。最初は、正慶2年(元弘3、1333)の新田義貞による鎌倉攻めで、これにより北条高時以下は奮戦ののち自殺し、鎌倉幕府は滅亡した。この時、切通の防備は非常に厳重で破ることができず、新田義貞の軍勢は稲村ヶ崎の海岸を通って鎌倉城内に乱入した。
つぎは、建武4年(延元2、1337)、後醍醐天皇の綸旨を受けた北畠顕家が、北条時行・新田義興らと共に、鎌倉にいた足利義詮を攻めた時で、この時、杉本城を守っていた斯波三郎家長が朝比奈切通を破って攻め込んだ北畠勢の攻撃を受けて討死し、鎌倉城は落城している。
最後は、文和元年(正平7、1352)、新田義興・脇屋義治らが鎌倉にいた初代鎌倉公方足利基氏を攻め、鎌倉城は落とされている。しかし、足利尊氏が笛吹峠を越えて鎌倉に向かったことを聞き、新田義興・脇屋義治らはすぐ鎌倉を引き払っている。
           中略
『以上、三回の戦いで、鎌倉城は三回とも守備側の敗北に終わっている。』※5
『平安時代には理想的な都城であった鎌倉城も、鎌倉時代後期から南北朝時代に至ると、
 戦法の変化から強固な防禦施設とはいえなくなり、』※6

 以後、鎌倉城をめぐる攻防戦は行なわれなくなった。 (日本城郭大系)

  ※印1~6は問題の在る文章です。
 
更なる問題は、この本をとても信頼性のある本と思われた方々が居り、その信頼を裏切られた反動で「鎌倉に城は無い!」と唱えられた方々が居たのでは?
と憶測するのです。
「鎌倉に城は無い!」派の方々の
『九条兼実の日記「玉葉」には、源頼朝が木曽義仲追討のため、「鎌倉城」を出発したという記事がある。』
この根拠を否定する事から始まる本の元ネタは、、この「日本城郭大系」が出典と理解しました。
反論を戴きそれを根拠に返答をすれば憶測が無いのですが、何と言っても反論が無い。
 
情報は現地を見れば手に入るが、現地を調べれば莫大な情報になるのが鎌倉です。
部分的な遺構は、相互に関連し合い一つの考えで、まとめ上げられ城と言う防衛施設を作る。
 しかし、全体を見極めるだけの調査と研究はされず
「鎌倉を世界遺産に!」との計画は、調査不足で頓挫した。
研究の本筋は、鎌倉城の遺構を調査する事から始めるのが本筋でしょ?
調査も無しに精神論だけで「鎌倉城は有りません!」は非科学的の極みです。
 警察だって状況証拠の不安定さより物的証拠を重視するんですが、、、
素人でも、鎌倉の山際を散策すれば切岸の存在は理解できる。
鎌倉の住民がそんな基本もせずに鎌倉を知らない御偉いサンの講義に納得して「鎌倉には、城が無いのだ!」と納得した訳です。
「鎌倉を世界遺産に!」の協議会の方も、「鎌倉に城は無い!」派の方も遺構を調査せず、非科学的な行動と理論を展開したのです。
 
結局は「鎌倉に城は無い!」の反論は皆無です。
科学的に反論が出来ない為でしょうが、理不尽な反論でも当方には貴重なのです。
反論をヒントに、違う視点で考え掘り下げ考える必要が有るからです。
「七口を結ぶ峰の下の切岸を根拠」に鎌倉城が在ると市民が騒げば、役所はその方向で切岸を調査をする切っ掛けに成ります。
その前に、雇われ講師に反論するだけの下調べと知識を市民の身に着けて欲しいものです。
地元民のご活躍を祈うとともに、反論を戴ければ喜ばしい限りです。
 
 
■日本城郭大系2 記 2015年06月26日
上記は、日本城郭大系の鎌倉城です。
 鎌倉城の範囲は七口を結んだ範囲と書かれているのに、示された鎌倉城は『お猿畠』と呼ばれる大切岸でした。
この時点で、書かれた内容に一貫性が無く、学問的には不備のある信用できない文章となる。
現地は 無駄に高い岩壁で、壁下の敵を狙い打ちにする事は無理で、砦には不適切な壁です。(砦は守る事以上に、相手より有利に戦い打撃を与える事が主体です。)
挙句は、三浦側は過剰に防御できても、西の鎌倉側からの攻撃の防備とバランスが取れない。
調べたのは、「逗子市文化財調査報告」(注)とあり、公式の調査と考えられるが、現実は石切り場の跡であった訳です。
最大の問題点は「縄張り図」が無い事です。
この調査したチームが鎌倉城を理解していない証拠です。
日本城郭大系に記載された城は必ず縄張り図が示されている。
鎌倉だけ、、、、非常に不可解な扱いです。
戦国時代やそれ以降の小規模の城の理解を越えた巨大な城ですから、、
調査した方の理解を越えて居たと想像をしますが、、情けない事です。
 
(注)三浦氏の攻撃に備えた北条氏が鎌倉時代に築いたものである(「神奈川県文化財調査報告書」 第三十四集)
「三浦氏の攻撃に鎌倉幕府が怯えた??」モシ三浦氏の態度に問題が有れば、三浦氏は一挙に潰されたハズです。
この文章は、赤恥モノの臆測に満ちた文ですね!
 
「鎌倉城は無い!」派は、
この権威の有る本を否定する事で鎌倉に城は無い根拠にしたのではないか?
独自の研究はせずに、成書の弱点を非難するのは、研究者にあるまじき態度と思います。
この文章の基は、『太平記』『吾妻鏡』『梅松論』『玉葉』等から引用された文章と考えられますから、これ等の古文献を否定するのが筋と言うモノです。
一部の本を否定しても、他の本と折り合いが付かなければ筋は通りません。
何故か?
化粧坂を攻めていた新田軍主力部隊が『化粧坂は落とせないから稲村路から攻める!』
と書かれたのは『太平記』『梅松論』です。
この『太平記』『梅松論』を否定して初めて「鎌倉城は無い!」っと証明できるのですが、、、
 その様な、『太平記』『梅松論』を否定したら、鎌倉時代の歴史文献は無いも同様になる。
 
「日本城郭大系」で鎌倉城の項目は、中途半端な調査と資料不足で鎌倉城を解説をしており、文章には矛盾を含み、不完全な記述で評価や、研究の対象に値しない文献です。
不備な文献にクレームを付けて、文献が間違えだから、書かれた物は総て嘘だ!それは理論の根本が間違っていませんか??
「鎌倉城は無い!」と説を造るなら、私の調べた以上に鎌倉の切岸を調査して、私の提示した城壁の切岸や砦跡を論理的に否定する。若しくは、古文献の間違えを提示する事で自説を造って欲しいものです。
未知な新事実を明らかにし系統立てる基礎研究が正攻法の研究で、資料不足を補強する研究調査をするのが筋と考えます。
 
なぜ、この『お猿畠』と呼ばれる大切岸が鎌倉城とされたのか?
 又この『お猿畠』は石切り場跡で城跡では無い! よって鎌倉城は無い!と言う理屈になったのでしょうか?
そこに潜む心理に問題を感じる訳です。
  でも、、あまり面白くないでしょう??
リクエストが有れば、この先をもっと書けます。コメントして下さい。
 
上記は憶測で書いたものですから、間違いを正すにヤブサカではありません。
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鎌倉城の 成り立ち。

2015年06月15日 | 鎌倉に城は無い!
■世界最大の城!
私の知る限りは、中国の長安に巨大な囲郭都市があり、それを模倣して、京都、奈良の都は作られた。
平安、鎌倉時代の城は、ウィキペディアによると、
城郭遺跡専門家が書かれたと思える城の解説があり--平安時代後期、治承・寿永の乱においては『吾妻鏡』や『平家物語』、『山槐記』などの記録史料・日記に城郭の存在が記され、この頃の「城郭」は堀・掻盾。逆茂木など敵の進路を遮断するために設置したバリケードであると考えられている。

この程度の認識では「鎌倉城」の遺構を面前にしても見識が狭くて城と見抜けません。
鎌倉城の遺構は、常識を遥かに超える大きさで、その全容を調べるのは数年掛かる規模です。
現物を調査しない為か?城郭専門家の常識的な目で鎌倉周囲を散策し、単なる山にみえたのか??
要は、狭い視野の自称専門家だった訳です。
洲崎より攻撃した新田軍主流が山崎を乗り越え化粧坂を攻撃した。何故化粧坂を落とせなかったかを念頭にして、古文献を読み解き現地を確認して調べた人は、皆無で在った訳です。
 洲崎を乗り越えると山崎で倉久保の谷(谷戸)に入り、見上げれば台峰となる。台峰上は化粧坂に続く鎌倉城の大手に当たる道です。化粧坂を攻める事と、台峰を攻める事は同じ事に成ります。
しかし、
新田軍は、倉久保の谷戸から台峰の上に上がる事は出来なかった。その理由は、現地の谷底に立ち自分で台峰の上に登る事を考えれば、専門家でなくても理解できる。
この時に、登り易そうに思える北鎌倉女子高校グラウンドの場所が、攻防の砦として働いたと考えるのです。
今は、登れる小道が数箇所作られています。

■平城京(奈良)や平安京(京都)は中国の囲郭都市長安城を模倣したが、防衛する城壁は造られなかった。
中国の様な他民族が攻めぎ合う関係が日本には無かった訳です。
それを攻撃したのは、平安京の中の木曽義仲や、平家を武力で追い出した源氏でした。
攻撃したのは、他民族ではなく、身内に敵は居たのでした。
次に攻撃されるのは鎌倉の都と頼朝は考えるでしょう。長安城を知れば、都を城壁で囲む知識は当然のごとく在った訳です。
それが「鎌倉城」

中国での「城」の意味は都市を囲む壁を指していたが、後に壁で囲まれた内部も含み、壁の内側を「城」、壁の外側は「郭」と区別した。
「城」という言葉,漢字,意味は当然ながら中国から伝わったモノです。
更に、日本では、、、
長安の囲郭都市を真似て日本の平城京や平安京は造られた。しかし城壁の無い都市なので、敢えて「平安京城」とは言わない。
城の解釈に忠実な「平安京」の名前ですね。
これは、日本の奈良時代、平安時代、鎌倉時代の「城」の意味と解釈です。
歴史を調べるというのは、この様な移り変わりの事です。

■中国の長安城、日本の平城京、平安京、そして、鎌倉城!
 この順序は長安の囲郭都市を模倣した都の変遷です。
 奈良、平安の朝廷は、同一民族で対外の敵が無いと思って城郭は作らなかった。
 平氏は融和政策で朝廷に取り入り、結果は朝廷内部で抗争を起こし、源氏に滅ぼされた。
 朝廷に弓引く敵は身内に居り、三種の神器を持つ安徳天皇は源氏の手で壇ノ浦に沈んだ。
 源氏は、武力で政治力を手に入れ 朝廷を押さえ鎌倉幕府をひらいた。武力の国家は、更に強い武力で潰される。武力のある義経を鎌倉から避けた理由も自分の座を奪われる恐怖でしょう。
この対策は、長安城を参考にして、鎌倉に囲郭を造れば良い訳です。

■鎌倉と長安の違いは、、
都市を囲む城壁の考えは共通ですが、、、
長安の場合は城壁や出入り口が戦闘拠点です。
しかし、鎌倉城では七口を封鎖して戦いますが、七口に敵を近づけない様に遠くに戦闘拠点の城砦(日本では砦)が在ることです。
鎌倉城には「都市を囲む城壁」の他に戦闘拠点の城砦という「砦」が在ったのです。
もう、、、ご推察されたでしょうが、、、
この城砦「砦」が、後の戦国時代や江戸時代迄造られた「40m四方を守る」主郭や天守閣のある一般的な城の原型と考えています。
鎌倉の城と、一般的な弱小氏族の城(トリデ)の「守るべき場所」広さの違いは、本丸江戸城で面積1600㎡、鎌倉は七口内側の面積13,721,416㎡で、比較するのもハバカル格差です。

■鎌倉城が一般的な城郭研究者に理解できなかった理由は、
「鎌倉城が無い派」の方が反論して頂ければ、その言葉を根拠に理由を書けるのですが、、
反論が無いため、憶測で語る事になります。

延々20Kmに及ぶ常識外の巨大な切岸を単なる自然な丘陵であろうと思ったのでしょう。
城ならば、土嚢、掘割、虎口、搦め手、等の痕跡が有るはず!等の常識的考えで探したと考えられる、、それは城砦が備える物であり、七口を結ぶ切岸は囲郭都市の単なる壁です。
都市を囲む城壁と城砦の区別が理解できないで鎌倉城探査をしたと憶測するのです。
城砦の備える痕跡を探すなら、七口の周辺には城砦はありません。在るのは峰に上がらせない為の「切岸」です。
化粧坂を守る砦ならその道の延長の台峰が攻防の場所です。臥龍峡から西の峰や質の違う砦の北鎌倉女子学園のグランド下から上の土橋迄に砦の痕跡はあります。

鎌倉城は、城砦を備えた囲郭都市であり、後年造られた総構えの城とは、全く別物です。構造も違うし、守るモノも違い、日本の城郭に詳しくなれば鎌倉城は本当に城か?と疑問を持つ構造と規模です。
既存の城の概念を根本から変え、視点を変えて観る必要があるのが鎌倉城です。
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武家屋敷跡

2014年10月10日 | 鎌倉に城は無い!
■■ 記 2011年12月15日 ■■ 武家屋敷跡 序
鎌倉の谷戸は総て人手で改造され、自然地形は稲村ヶ崎の岩クエ位と考えます。
ナダラカであった谷戸の自然斜面は人が通れない様に、急斜面に切り取られ、残土は谷を埋め平場にします。
大半は、鎌倉時代に工作されたモノと考えています。
そんな訳で、現状は平場に民家が建ち、裏庭は観察に価する切岸となります。
谷戸の平場は、武家屋敷跡と考えられ、三方切り崩した垂直な崖で、切り崩した土砂は谷を埋め、残りの一方を土手とした平場となり、武家屋敷が建てられる。 更に大きくは、鎌倉市街の三方は山で、もう一方は、土手ではなく海としている。
結果屋敷は三方を山に囲まれ、一方は土手となり、登ってくる敵を防ぐ構造となる。
何処から出入りするか?
手の込んだ屋敷は、隣の谷までトンネルを掘り、其処から出入りし、谷戸の奥の一つ一つが要塞構造です。
追い詰められたら、尾根伝いに逃げる訳です。
誰でも見られる場所は、鎌倉文学館!
佐助稲荷トンネル脇の私有地へ抜けるトンネル。
トンネルでは無く、脇に細い道を作って出入りしたのが、鎌倉駅近くの「古我邸」が有ります。
銭洗い弁天の場所は、三方山で、一方は土手の構造です。
 
この様な地形は、一万分の一地図で見ても50以上確認できます。
鎌倉観光の表面からは想像できない中世を偲ぶマニアックな見方ですね!
市内を見たって、鎌倉時代からの建物は皆無、、、話によると、舎利殿が唯一当時の建物!
荏柄天神も当時モノで有ったそうですが、今では外観からして別物です。
 
写真は、鎌倉文学館で、加賀百万石の別邸。
目に付くモノは、昭和初期の洋館とその庭ですが、歴史を観れば三方は山に囲まれ、一方は進入を拒む土手の痕跡で中世武士の居住跡です。
この様な平場に立派な家が建っていると「これは家を建てる為に造成した土地」で鎌倉には城が無い!等と主張する人も居る。この構造は鎌倉の城としての定番ですから、谷の程在る訳です。
 
■■ 記 2011年12月17日 ■■ 武家屋敷跡 1
鎌倉文学館の入り口。
それは、トンネルになっています。
(トンネルを裏から見たところです。)
敷地の一方は土塁として海に向け開けており、
他の三方は山に囲まれて、、、、
門外人の出入りは、困難です。
自然地形ではなく、人工的に人の出入りを遮断する工作をしたのです。
 
トンネルの在る峰は、地図の等高線に描くほどの高さが無いようですね。
同様に、
建物と下界を分ける土手も等高線に出るほどの高さは無い。
地図を見てもこの地形は解らないと言う訳です。
 
■■ 記 2011年12月19日 ■■ 武家屋敷跡 2
写真は、三方山に囲まれた洋館です、
開けた方向には、土手があり、、鎌倉文学館と同じ構造です。
違うのは、トンネルがありません。
門から、家の玄関まで、、、見ての通りの距離があります。
国土地理院の一万分の一でみると、、、
土手が等高線で見えますね!
これが、、鎌倉の谷戸(谷の奥)のパターンです。
大半の谷の奥は、、この様に成っていた!
きっと、、例外も有るのでしょうが、思い浮かぶ例外を知らない!
特に目立たせる事はしていませんが、、地図中央に有るお屋敷です。
地図の様に、山際に館へ向かう道があります。
場所は、個人宅ですので、、公表はしませんが、「Google地図より1」の近くです。
さて、
一方は開けていて、他の三方は山に囲まれた地形!!
これは、鎌倉城とも言え、、公で鎌倉の特徴を語る言葉でもあり鎌倉の都市を守る構造でも在った訳です。
外的から身を守る中世鎌倉の考えと、個人レベルまで浸透した思想では、、、
この様な武士の個人的な住居跡を見て、その様に感じるのです。
 
 
■■ 記 2011年12月15日 ■■ 武家屋敷跡 3
佐助トンネルの西に有る道路際のトンネルです。
トンネルの向こうには屋敷を構えられる平場があり、現在は個人住宅です。
今回の記事は、自分で書きながら、、
「何故,,,,こんな記事を書くのか??」と考えてしまいました。
「武家の都鎌倉」を世界遺産にというアピールの割りに、文化遺産の質を考慮しない行政を感じるのです、、
文化を語るなら、当時の生活が係わる。
歴史を語るなら、古代から中世そして現代までの時の流れを考える必要が有る。
鎌倉市内で目に映るモノは中世に係わるモノが極く少ない。
伝統も文化も建築物も鎌倉滅亡と伴に消え去り、引き継いだ伝統や文化はドレだけ有るのか?
何が「武家の鎌倉なのか?」そんな気持ちになるのです。
 
例えば、
 このトンネルも、鎌倉時代の武家屋敷出入り口として、素掘りの狭いトンネルだったのでしょうが、、今の様相は近代のトンネルです。表面は近代ですが、その構造は鎌倉時代まで遡るもの、、、、
私としては鎌倉らしくて、とても大好きな空間です。
 源氏山にしても、昔は柴刈りの薪として、山の木は管理されていた。
今は、自然保護の名のモトに生え放題で、鎌倉の市街地を見渡せた景観は、、、
緑のブラインドと成り、景観は望めず、木の根は、岩肌を破壊し始めている。鎌倉時代の源氏山の景観とは違うでしょ??
高みに上れば、、それなりの景色を期待する訳ですが、この場所には落胆します。 
自然の過保護は、行政が問題を感じて欲しい。
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