鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉時代の波打ち際 4

2017年12月25日 | 鎌倉時代の波打ち際

千葉県佐倉の歴史民俗資料館に在る鎌倉城のジオラマですが、
由比ガ浜の海面が高い事を想定してして、陸地側を浸食した海岸線を作っています。


このジオラマは 日本城郭大系の城の概念から一歩も二歩も進んだ考えから作られている。
更に進歩させれば、砦遺構は、七切通の外に巨大な砦遺構が有った。
砂浜は、この様に後退はしていなかった。等が有ります。

  本論に戻します。
貝塚と貝化石から縄文時代の海岸線を復元した研究が有り、
この件についての反論です。


>有鄰 平成17年1月1日  第446号  P4
>■■広くて暖かだった縄文の海■■  松島義章
>http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_446/yurin4.html
詳細は、上記をお読みください。

この概略は、
1,5~2万年前は現在の海面より120m低い位置に在った。
以後海面が徐々に上がり始め、6,000年前の海面が一番高かった。
これを縄文海進と言い、その最盛時時の高さは現在より4m程高かった。
縄文海進とは1,5~2万年前から海面上昇が始まり、6,000年前で上昇が止った現象で、その海面は今より4m高い位置でした。
以後現在までの海面は低くなっています。


>多摩川低地は15キロ上流まで海
>   前略
>古大船湾は江ノ島の北に河口をもつ片瀬川の支流柏
>尾川沿にできた内湾で、現在の片瀬川河口からおよ
>そ16kmも上流の横浜市柏尾町付近まで、海水が侵入
>して誕生した幅が狭く細長い複雑な海岸線をもつ入
>江となっていた。

この様に書かれているが、
横浜市柏尾町の標高は14m以上ある。
これは、
「縄文海進の高さは現在より4m程」とは、整合しない。
間違いが有るのか?
未知の現象が有るのか?
  私には理解できませんし「縄文海進で海面が今より14mも高い位置で在った!」
そんな文章は見た事が無い。

一歩譲って、
大船のフラワーセンタ―内の池周囲( 鎌倉市岡本)標高:7.5m
横浜市栄区田谷町の田圃 標高:8.3m
戸塚駅脇8,8m
が在りますが、、、
現在より4mの海面水位では、届かない。

〉貝塚と貝化石から縄文時代の海岸線を復元
   の論文ですが、、
貝の化石については、
横浜市栄区飯島町(江ノ電バス貝殻坂バス停)周囲の砂岩に貝化石がある。
古大船湾の脇で海抜20m程です。
年代は、紀鮮新世後期~新生代第四紀新世中期(280万~50万年前)
既にこの年代から、延々と海面からセリ上がり続けている訳です。
 特異なのは、縄文時代に急に海面が上昇して相対的に土地が下った!!
海面が上昇し始めたのは2万年前か!らで、地球温暖化の始まりです。
縄文海進と言われた現象です。
その様な訳で貝塚の貝と、化石の貝を区別された研究なのか?? 理解に苦しみます。

 この「縄文時代の海岸線を復元」は、
研究論文の中に4m上昇の海面と書かれた個所と、図面で10m及びそれ以上の海面上昇の場所を示されており、整合が取れない矛盾がある。
縄文時代に10m以上の海面上昇が有った資料が必要です。

  私としては、
「江の島の離水波食棚」の自然界が示す明確な証拠を信頼する訳です。

現時点の資料では「日本第四紀学会」説や、「江ノ島の海蝕地形について」説を支持します。
以上により、
「6,000年間の海面変動は現段階の資料から「4m前後」である」っと結論します。
加える事の、この地特有な地震(元禄16年地震)(大正12年関東大震災)の隆起である 1m+αが加わります。

上記を根拠に 1000年間程度の変化は2~3mを考えています。

根拠は曖昧、年代設定も適当で、大昔は海面位置が10m前後と成っている記事がWebで多々見受けられる。
その様な訳で、掘り下げて考証しました。
真面目に古代を考証する時に、これ等の先人の中途半端な専門家の研究が考察の障害になる。

次回は、奈良や鎌倉時代と現在の海水面が数メートルの範囲だった根拠です。

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稲村崎成干潟事 現在でも同じ現象が起きる!!

2017年12月15日 | 稲村ヶ崎伝説

「稲村崎成干潟事」の新田義貞が攻め込んだ時に起きた、、、
潮が引き陸地が現れた現象です。

 似た様な現象に旧約聖書の『出エジプト記』に
 海が割れて海底を対岸に渡る話が有るが、
 「稲村崎成干潟事」は 検証不能な話ではありません。 
その現象が現れた場所は、現在の鎌倉の市営プールやホテルが有る埋め立て地となります。
同じ現象が逗子の浪子不動前の海で起きます!!

この写真は、逗子の浪子不動前の海です。
海中に見えるのは不如帰の碑です。
この場所と稲村ヶ崎から長谷の坂ノ下迄の状態は良く似ています。


そして、干潮になると、、、
ご覧の様な平らな岩場に成ります。
これならば、新田義貞の軍勢は、この波蝕棚上を鎌倉市内に攻め込めた訳で、単なる伝説では無い。

江ノ島の波蝕棚と共通の、稲村路前(現鎌倉市営プール)、浪子不動前(不如帰碑)は6000年前から始まったと考えられる波蝕棚です。

明治の学者が、太平記や梅松論等の古典を解釈出来ず、、、
その為、
稲村路の存在場所を知らないママ、強引に現在の稲村ヶ崎の脇を渡渉した。
間違いは、現在の「稲村ヶ崎」を渡渉したのではなく、市営プール脇「稲村路」から潮が引いた波蝕棚上を通り攻め込んだ訳です。
その明治の学者の記念碑が、、、今、稲村ヶ崎に在る 新田義貞古戦場の碑です。
立派な碑が在れば、、、一般人は無条件に信じます。 これが一般常識です。
学者の功名に焦る研究がそんな行動をさせたのかも、、、

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鎌倉時代の波打ち際 3

2017年12月14日 | 鎌倉時代の波打ち際
江の島の波蝕棚写真。
「日本第四紀学会」や「江 ノ 島 の海蝕地形につい て」の記述では、
現代より6,000年間の海面変化は、、数mの海面変化であると書かれています。
 
その反論をWebより探すと、、
◆諸磯の隆起海岸(神奈川県三浦市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E7%A3%AF%E3%81%AE%E9%9A%86%E8%B5%B7%E6%B5%B7%E5%B2%B8
〉三浦半島の地層は上位から相模層群・三浦層群・葉山層
〉群で構成されている。三浦層群は岩相の違いから地域ごと
〉に三崎層・初声層・逗子層・池子層と呼ばれており、諸磯
〉の隆起海岸周辺は三崎層が多く分布している。三崎層は約
〉1200万年前から450万年前までの間に、水深2000メートル
〉から3000メートルの深海に堆積した地層のことである。こ
〉の層は主に泥岩層と凝灰質砂岩層、凝灰岩層からなる。
〉地震の証拠[編集]
〉諸磯の隆起海岸に存在する地震の証拠として、穿孔貝(せ
〉んこうがい)による無数の小穴が挙げられる。穿孔貝は波
〉打ち際の地面や岩石に穴をあけて生息する二枚貝で、
〉諸磯の隆起海岸にはこの小穴により4段の層が形成され、
〉過去に4回の地震が起きたことが推測できる。
〉地震学者の今村明恒によると過去3回までの地震は、それ
〉ぞれ大正12年(1923年)の関東大震災、元禄16年(1703年)の
 〉大地震、弘仁9年(818年)の大地震であることが判明した。
〉隆起の原因となった最古の地震を今村は西暦33年に起きた
〉と解釈しているが、日本地震学会が確認している日本最古
〉の地震は允恭天皇5年7月14日[1](416年8月23日)に遠飛鳥
〉宮付近で起きたものである。
〉現在確認されている、諸磯の隆起海岸を形成したとされる
〉地震は以下の通りである。
〉年月日 元号 震央 M
〉818年  弘仁9年関東諸国7.5
〉1703/12元禄16年伊豆東方沖7.9-8.2
〉1923/9大正12年関東大震災7.9
 
以上の様な記述ですが、、
>隆起海岸にはこの小穴により4段の層が形成され、
>過去に4回の地震が起きたことが推測できる。
この記述で「関東大震災」が4段の層の一つに含まれている箇所に問題があります。
諸磯の隆起海岸の岩壁の基部は標高4.8m地点にの場所に在る。
更にその上に穿孔貝による4段の層が有る訳です。
相模湾の6,000年間安定した海面とは違う天変地異が存在したのか???
その件を述べる以前に、 標高4.8m地点に在る事の釈明が必要でです。
何故なら、、、「関東大震災」の調査結果は、この処の隆起は 1.50mとされているのです。
 依って、「諸磯の隆起海岸」論文の記述に重大な誤りがあると考えます。
「関東大震災」の調査結果は推測ではなく、科学的に計測されたモノで信頼できます。
 
◆参考文献◆
大正関東地震の際の海底地殻変動
http://www.onken.odawara.kanagawa.jp/files/PDF/houkoku/44/houkoku44-p17-28.pdf
〉三浦半島に入ると隆起量は再び増加し、南に
〉いくにつれて大きくなった。すなわち葉山から
〉小田和湾までの間は 99cm、長井 1.38m、小
〉網代及び三崎は 1.50m
 
  上記の研究資料から導き出した反論です。
 
その他にも、反論が存在します。
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続 稲村崎成干潟事 現在でも同じ、、

2017年12月13日 | 稲村ヶ崎伝説

            2017-12-19 15:27:56

これは、関東大震災前の写真です。場所は由比ヶ浜の稲瀬川辺りで撮影し、仏法寺の有る霊仙山を写し出している。


これは、関東大震災後で岩壁が崩れた状態です。
注目点は岩壁が崩れた岸の状態です 満潮で上げ潮!ですので水面が上がっている。


関東大震災後で岸の状態が見どころです。
干潮で水面が下がり、岸の在るべき処に浮かび上がった岩礁が写っています。
新田義貞が鎌倉攻めで黄金の太刀を海に投げたら浮かび上がった岩礁です!!
この岩礁の上を新田軍は鎌倉に攻め込んだ!
鎌倉軍は船上から新田軍を横矢で攻める戦法でしたが、岩礁の為に船を沖に出したので遠くなり、新田軍を有効に矢を当てられなかった。


更に、埋め立て途中の山の切り崩している状態です。


現在の状況で埋め立て地には色々建築物が在ります。


問題意識を持って探せば、、上記の様な証拠は出てくるものです。
現代の鎌倉研究本は根底に、
鎌倉を本気で調べる気持ちが無い。
古文献を理解せず、現地遺構も調べずに書かれた近世の研究本を机上で調べて、
新しい鎌倉紹介の本ををマトメタ研究者が大半です。

研究なら、机上論だけでなく、自前で調査した資料も使って語って欲しいモノです。

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鎌倉時代の波打ち際 2

2017年12月07日 | 鎌倉時代の波打ち際
取りあえず、結論を出しましょう。
 
◆資料2◆の日本第四紀学会 より、
6,000年間の海面変動は「2~3m」である。
  それを裏付ける資料は、
◆資料3◆江 ノ 島 の海蝕地形について が有る。
江の島の海蝕棚

 江の島、鎌倉稲村ヶ崎脇、逗子浪子不動前の波食棚痕跡を根拠に
 6,000年間の海面変動は「2~3m」である。
 っと考えます。
これは、関東大震災の1m隆起を含む。  っと 私は考えます。
 
  しかし、
それに反する記述もWebには有ります。
次回は、この反論です。
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鎌倉時代の波打ち際 1

2017年12月07日 | 鎌倉時代の波打ち際
神奈川県立生命の星・地球博物館 より
 
 
ぼ輔記載 4m高い海岸線を青色で示した。(カシミールで作図)
このブログでも、鎌倉時代の波打ち際は不明でした。
 
 
◆資料1◆
〉有鄰 平成17年1月1日  第446号 
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_446/yurin4.html#kaigansen 
〉貝塚と貝化石から縄文時代の海岸線を復元
〉縄文海進最盛期には海面が高いだけではなく海水の温度も現在
〉より高かったことが,貝化石やサンゴ化石が示している。 貝塚から
〉出土するハイガイやシオヤガイは現在の南関東沿岸では生息して
〉いない絶滅種である。
〉これらの貝を含めて,相模湾沿岸に形成された古鎌倉湾や古逗
〉子湾、古大船湾、古小田和湾、古諸磯[こもろいそ]湾
〉などには,タイワンシラトリやカモノアシガキ,チリメンユキガイ,
〉コゲツノブエ,ヒメカニモリなど,現在の紀伊半島以南の暖かい海
〉に生息する貝が分布していた。
 
  神奈川県立生命の星・地球博物館の説明図と上記の文より、
  縄文海進最盛期は、古鎌倉湾や古逗子湾、古大船湾が存在
  し、10m以上高い海水面(古大船湾の標高や八幡宮石段の標高
  より想定)と考えられる。
  更に 同じ文の後半に書かれた事は、
〉海進最盛期の海面は4m高く、水温は2℃高温
〉神奈川県内各地で明らかになった沖積層の貝化石産出高度は、
〉大磯丘陵南部と三浦半島南部を除くほとんどの地点で、海抜4m
〉前後の高さとなっている。 つまり、6500〜5500年前の海面は、
〉現在より4m前後も高い位置に達していたことを示し、この時代
〉に海水が陸地へ最も深く侵入して内湾を形成した。
  
   海進最盛期=6000年前は、
  文章の前半で説明された海面は10m以上ある海岸線であり、
  図示された海面は10mの上に在る。
  後半の文では海面は4m高くと書かれており、
   同一人物の研究論文の中に、矛盾した記載が有る。
  研究論文として未熟と言うか、破綻しています。
 
◆資料2◆
〉日本第四紀学会〈http://quaternary.jp/QA/answer/ans010.html〉
〉「縄文海進」とは、約7000年前ころ(縄文時代に含まれる)に、
〉現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、 日本列島の各地で
〉海水が陸地奥深くへ浸入した現象をさします。 この時代には日
〉本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。
〉その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物
〉で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な
〉沖積平野を作りました。
 
 この資料1で10m以上の海面と、資料2の「日本第四紀学会」海面が2~3mの差ですが、
この違いは大きすぎる どちらが正論か?
 
資料1では「貝塚」と「貝化石」と、同じ年代と考えている節が在ります。
貝塚は人が生活した証。 貝化石は人が生活痕を残す以前の話と考えます。
新人類が出現したのは、20万年前。 長沼層が出来たのは60万年前。「神奈川県立生命の星・地球博物館」提示の資料は稚拙です。
 
2019.10記
上記文章を更に突っ込むと「貝塚と貝化石から縄文時代の」ってこの文章は研究者として失格です。
貝塚の貝は、化石に成って出土するモノなのか??
この大船湾に相当する地層には長沼層という「貝化石」が出土する場所です。
長沼層とは、
「長沼不整合が約60~65万年前のステージ16の顕著な寒冷化による海水面低下で形成され、長沼層を堆積させた海進は、その直後のステージ15の温暖期の海水面上昇に相当すると推定されている。」出処(ニッポニカ)
 
海進の6000年前の話と新人類誕生20万年前 更に長沼層形成の60万年前の話が同等に記される事の時間軸に間違いが有る。
科学的な思考法を無視しています。
 
◆資料3◆
〉江 ノ 島 の海蝕地形につい て
http://nh.kanagawa-museum.jp/files/data/pdf/bulletin/8/bull8_79-90_imanaga.pdf
〉杉村.(1974)によれば, 最近7000年間の世界各地の海水面変動
〉量は,たいてい 2~3mであ るとし寸。 そして一般に海食地形は,
〉その形成時代,海水面が一定の高 さに停滞すれば, 海食地形
〉が より 発達し,海水面が急激に上昇 したり下降したりしている時
〉期には,海食地形は,あまり発達しない と考えられている。
〉すなわち,海食地形は海面変動の停滞期に対応して形成される
〉のであろうから ,江ノ島の海食洞の形成には,地殻の隆起速度と
〉海水面の変動速度 とが相対的に一致し ,海水面が停滞した
〉約6000年前及びその後の一時期とに形成されたものと考えられる
 
以上の資料から結論を導き出す事になります。
 
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