千葉県佐倉の歴史民俗資料館に在る鎌倉城のジオラマですが、
由比ガ浜の海面が高い事を想定してして、陸地側を浸食した海岸線を作っています。
このジオラマは 日本城郭大系の城の概念から一歩も二歩も進んだ考えから作られている。
更に進歩させれば、砦遺構は、七切通の外に巨大な砦遺構が有った。
砂浜は、この様に後退はしていなかった。等が有ります。
本論に戻します。
貝塚と貝化石から縄文時代の海岸線を復元した研究が有り、
この件についての反論です。
>有鄰 平成17年1月1日 第446号 P4
>■■広くて暖かだった縄文の海■■ 松島義章
>http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_446/yurin4.html
詳細は、上記をお読みください。
この概略は、
1,5~2万年前は現在の海面より120m低い位置に在った。
以後海面が徐々に上がり始め、6,000年前の海面が一番高かった。
これを縄文海進と言い、その最盛時時の高さは現在より4m程高かった。
縄文海進とは1,5~2万年前から海面上昇が始まり、6,000年前で上昇が止った現象で、その海面は今より4m高い位置でした。
以後現在までの海面は低くなっています。
>多摩川低地は15キロ上流まで海
> 前略
>古大船湾は江ノ島の北に河口をもつ片瀬川の支流柏
>尾川沿にできた内湾で、現在の片瀬川河口からおよ
>そ16kmも上流の横浜市柏尾町付近まで、海水が侵入
>して誕生した幅が狭く細長い複雑な海岸線をもつ入
>江となっていた。
この様に書かれているが、
横浜市柏尾町の標高は14m以上ある。
これは、
「縄文海進の高さは現在より4m程」とは、整合しない。
間違いが有るのか?
未知の現象が有るのか?
私には理解できませんし「縄文海進で海面が今より14mも高い位置で在った!」
そんな文章は見た事が無い。
一歩譲って、
大船のフラワーセンタ―内の池周囲( 鎌倉市岡本)標高:7.5m
横浜市栄区田谷町の田圃 標高:8.3m
戸塚駅脇8,8m
が在りますが、、、
現在より4mの海面水位では、届かない。
〉貝塚と貝化石から縄文時代の海岸線を復元
の論文ですが、、
貝の化石については、
横浜市栄区飯島町(江ノ電バス貝殻坂バス停)周囲の砂岩に貝化石がある。
古大船湾の脇で海抜20m程です。
年代は、紀鮮新世後期~新生代第四紀新世中期(280万~50万年前)
既にこの年代から、延々と海面からセリ上がり続けている訳です。
特異なのは、縄文時代に急に海面が上昇して相対的に土地が下った!!
海面が上昇し始めたのは2万年前か!らで、地球温暖化の始まりです。
縄文海進と言われた現象です。
その様な訳で貝塚の貝と、化石の貝を区別された研究なのか?? 理解に苦しみます。
この「縄文時代の海岸線を復元」は、
研究論文の中に4m上昇の海面と書かれた個所と、図面で10m及びそれ以上の海面上昇の場所を示されており、整合が取れない矛盾がある。
縄文時代に10m以上の海面上昇が有った資料が必要です。
私としては、
「江の島の離水波食棚」の自然界が示す明確な証拠を信頼する訳です。
現時点の資料では「日本第四紀学会」説や、「江ノ島の海蝕地形について」説を支持します。
以上により、
「6,000年間の海面変動は現段階の資料から「4m前後」である」っと結論します。
加える事の、この地特有な地震(元禄16年地震)(大正12年関東大震災)の隆起である 1m+αが加わります。
上記を根拠に 1000年間程度の変化は2~3mを考えています。
根拠は曖昧、年代設定も適当で、大昔は海面位置が10m前後と成っている記事がWebで多々見受けられる。
その様な訳で、掘り下げて考証しました。
真面目に古代を考証する時に、これ等の先人の中途半端な専門家の研究が考察の障害になる。
次回は、奈良や鎌倉時代と現在の海水面が数メートルの範囲だった根拠です。
「稲村崎成干潟事」の新田義貞が攻め込んだ時に起きた、、、
潮が引き陸地が現れた現象です。
似た様な現象に旧約聖書の『出エジプト記』に
海が割れて海底を対岸に渡る話が有るが、
「稲村崎成干潟事」は 検証不能な話ではありません。
その現象が現れた場所は、現在の鎌倉の市営プールやホテルが有る埋め立て地となります。
同じ現象が逗子の浪子不動前の海で起きます!!
この写真は、逗子の浪子不動前の海です。
海中に見えるのは不如帰の碑です。
この場所と稲村ヶ崎から長谷の坂ノ下迄の状態は良く似ています。
そして、干潮になると、、、
ご覧の様な平らな岩場に成ります。
これならば、新田義貞の軍勢は、この波蝕棚上を鎌倉市内に攻め込めた訳で、単なる伝説では無い。
江ノ島の波蝕棚と共通の、稲村路前(現鎌倉市営プール)、浪子不動前(不如帰碑)は6000年前から始まったと考えられる波蝕棚です。
明治の学者が、太平記や梅松論等の古典を解釈出来ず、、、
その為、
稲村路の存在場所を知らないママ、強引に現在の稲村ヶ崎の脇を渡渉した。
間違いは、現在の「稲村ヶ崎」を渡渉したのではなく、市営プール脇「稲村路」から潮が引いた波蝕棚上を通り攻め込んだ訳です。
その明治の学者の記念碑が、、、今、稲村ヶ崎に在る 新田義貞古戦場の碑です。
立派な碑が在れば、、、一般人は無条件に信じます。 これが一般常識です。
学者の功名に焦る研究がそんな行動をさせたのかも、、、
〉過去に4回の地震が起きたことが推測できる。
〉地震学者の今村明恒によると過去3回までの地震は、それ
〉ぞれ大正12年(1923年)の関東大震災、元禄16年(1703年)の
〉大地震、弘仁9年(818年)の大地震であることが判明した。
その件を述べる以前に、 標高4.8m地点に在る事の釈明が必要でです。
何故なら、、、「関東大震災」の調査結果は、この処の隆起は 1.50mとされているのです。
依って、「諸磯の隆起海岸」論文の記述に重大な誤りがあると考えます。
2017-12-19 15:27:56
これは、関東大震災前の写真です。場所は由比ヶ浜の稲瀬川辺りで撮影し、仏法寺の有る霊仙山を写し出している。
これは、関東大震災後で岩壁が崩れた状態です。
注目点は岩壁が崩れた岸の状態です 満潮で上げ潮!ですので水面が上がっている。
関東大震災後で岸の状態が見どころです。
干潮で水面が下がり、岸の在るべき処に浮かび上がった岩礁が写っています。
新田義貞が鎌倉攻めで黄金の太刀を海に投げたら浮かび上がった岩礁です!!
この岩礁の上を新田軍は鎌倉に攻め込んだ!
鎌倉軍は船上から新田軍を横矢で攻める戦法でしたが、岩礁の為に船を沖に出したので遠くなり、新田軍を有効に矢を当てられなかった。
更に、埋め立て途中の山の切り崩している状態です。
現在の状況で埋め立て地には色々建築物が在ります。
問題意識を持って探せば、、上記の様な証拠は出てくるものです。
現代の鎌倉研究本は根底に、
鎌倉を本気で調べる気持ちが無い。
古文献を理解せず、現地遺構も調べずに書かれた近世の研究本を机上で調べて、
新しい鎌倉紹介の本ををマトメタ研究者が大半です。
研究なら、机上論だけでなく、自前で調査した資料も使って語って欲しいモノです。
江の島、鎌倉稲村ヶ崎脇、逗子浪子不動前の波食棚痕跡を根拠に
6,000年間の海面変動は「2~3m」である。 っと考えます。
これは、関東大震災の1m隆起を含む。 っと 私は考えます。
海進最盛期=6000年前は、
文章の前半で説明された海面は10m以上ある海岸線であり、
図示された海面は10mの上に在る。
後半の文では海面は4m高くと書かれており、
同一人物の研究論文の中に、矛盾した記載が有る。