鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

相模の古代東海道 15下大槻峰

2016年03月24日 | 古代東海道

朝比奈切通脇の一番高い場所から富士山周辺の目立つ山をピックアップしてみると、、、
赤の二重丸で示した
矢倉岳
富士山北裾野の丸山
三国山
が目標に成る。
最も有力なのは、、、三国山と考えます。

オオヨソノの古代道が作られたラインが想定できれば、痕跡も見つけ易いという訳です。
しかし、この秦野の周辺は、関東大震災で大崩れを起こし、
挙句は、その通り道の想定場所は崩れた挙句に湖が出来て「震生湖」と言う名が付いている。
チョット絶望を感じる状態です。
その他に痕跡は、、、藤沢に一つ有ります。
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鎌倉に城は無い!大宰府 1

2016年03月18日 | 鎌倉に城は無い!

コメントより
> とうとう元寇説に至ったか (怒れる鎌倉市民)
> 久しぶりに貴ブログを拝見した。
> (1)鎌倉城説を撤回するようなことが書いてあり、ようやく愚かな
> 奇論を卒業する気になったかとよろこんだところ、今度は元寇
> を持ち出してきた。
> その説は古いのだよ。(2)すでに論破され過去のものだ。
> (3)博多湾の元寇防塁をご存じだろう。
> なぜあれほどの大工事を(4)幕府は突貫工事で作らせたのだ?
> だいたい、(5)そんなに元寇が怖いなら、内陸に拠点を移すべきだろう。
> 貴殿のブログの荒唐無稽ぶりには頭が下がる。
> また反論ある人は現地を歩け、とか高説を垂れるのだろうか。
> (6)このコメントをきちんと載せたら褒めてあげよう。


(1)の問題点:「鎌倉に城は無かった!なんてね13」を読んだのでしょうか?
      鎌倉城説を撤回する文は無い! 何を勘違いしているのでしょうか?

文献は必要とした時にのみ調べるので詳細は解りません!
是非、、ご教授下さい。
(2)の問題点:誰が、鎌倉城は元寇対策の城と説を唱えたのですか?誰が論破したのですか?
      その論議は何時の時期に在ったのですか?
(3)の問題点:元寇防塁の規模を教えてください。
(4)の問題点:幕府は誰に作らせたのか?
      その様な大工事、、、これは元寇が『怖いから』の証拠でしょ?』
      怖くなければ、、元寇防塁など造る必要は無い。
(5)の問題点:内陸に拠点を移せば、元寇に勝てるのですか??
(6)の問題点:コメント自体が、矛盾を起こしています。
      もう少し書きたい事を貴方の頭の中で整理して文章を書いてください。

3月末まで ご返事をお待ちします。
ご返事無き時は、中身の無い文章なので削除します。

などと 考えましたが、このコメントに尾ヒレを付けて面白くすれば削除をする必要が無くなる!
工夫してみましょう!

新しくこのブログを御覧になられた方が多い様です。
判りにくい記事には一言「意味不明」とか「判り辛い」とコメントを入れてください。

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相模の古代東海道 14下大槻峰

2016年03月13日 | 古代東海道

上の写真は、平塚に近い青丸の場所で、白い建物は東海大学です。
この切通の西は、東海大学に売り払われたのです。
問題は、見た通りの道の太さに在ります。
この山間僻地に不釣り合いな直線で、太くて傾斜のナダラカな上に、人手を要する大掛かりの切通した道!
更に不自然なのは、この切通の前も後ろも細い道で、この道だけが太い理由は??
山間でこの様な立派な道がこの場所だけにあり、周囲と調和がとれない!!
この不自然さが、古代官路と考える根拠です。
もし、この場所を古代東海道跡では無いと否定するなら、、、
自然に作られた踏み分け路と質が違う この切通の歴史を調べて下さい。
立派な切通を何時の時代に何処の権力者が作ったのか?近世の物ならその謂れが残っているはずです。
近くにお寺も有りますから、伝承が在るなら調べるのは簡単でしょう。
この東光寺は、古代東海道の路上に立っている寺と考えています。
ならば、寺の歴史はこの駅路の廃絶した後に建てられた寺と言う事です。
鎌倉時代の戦乱、戦国時代の戦乱で それ以前の伝承や文献は途絶えたのが現状と想像します。
そんな訳で、現状の地形に語らせる!!
それが、このブログのポリシーです。


上の写真は、秦野に近い青丸の場所で東光寺薬師堂と呼ばれる脇の切通です。
道幅も狭く、民家が立て込んでいます。
オリジナルの切通構造は消えてしまい。現状はこの場所が掘り切り状の坂で有る事しか確認できません。
昭和20年代のUSA空中写真も有りますが、、決定的ではありません。

それにしても、、、六浦から秦野まで一貫して、直線ですが、その西向きは矢倉岳では無い!
「矢倉岳が基準で造られた道では無い!依って 当初の想定は間違えであった訳です。
では、基準は何処でしょうか??
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相模の古代東海道 13下大槻峰

2016年03月03日 | 古代東海道

上は、明治の地図で青丸が切通の有る場所。
古代東海道の痕跡探し! ですが、
絶対的な痕跡の根拠は、目的地へ向けた直線的道路と、道路勾配と、道路幅に在ります。
文献や伝承がホトンド無いために現状の地形や上記の痕跡が頼りに成ります。
足柄路が富士噴火で不通になり、箱根路を急造したと路と思われる石垣城経由の道は細かったが、
峰を通る直線的でナダラカな状態はサスガに官道とおもえます。
地図の切通道は、足柄を越える正規な東海道と考えられる路です。
臨時に造られた「箱根路」とその延長に小田原、国府津、大磯周りで平塚へ造られたで有ろう道が混乱している様子です。
時代による変遷、ルートによる変遷、国府や国分寺に関わる変遷等、、
詳細や根拠が曖昧なママに、憶測ばかりが先行し、学説として発表したとなれば、メンツまで絡む。
これらが、重要な道路遺構が存在しても無視する失態を犯したのでしょう。

古代史最大の興味は 邪馬台国の比定地探しが定番ですが、詳細や根拠が曖昧な説が乱立しています。
それとは別に、古代東海道は道路遺構が在る訳で、安易な学説を唱えるべきではない。
半端な学説は道路遺構の発掘で可否が明確に
される運命に在る。
あくまでも、科学的な態度で研究して欲しいのです。
どんな研究も批判されて当たり前!
批判に耐えられる研究か?否か?? 
そんな事と思います。

現地はどの様な状況ででしょうか、、、


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相模の古代東海道 12下大槻峰

2016年03月01日 | 古代東海道

古代道が、
東中原E遺跡より、川の土砂で堆積サレタ平地より、下大槻道路遺構へ向かう山道へ登る取っ付きに在る切通し!

確認できました?
青丸印の場所です。
明治の地図にも載る道路ですが、、、
一般道とは違う特徴が有り区別が付きます。
地元の伝承? そんな言い伝えは無くて当たり前! 敢えて調べる気もありません。
それこそ、鎌倉街道伝説辺りが古い処でそれがこの「ブログ」の名の由来です。
大道の地名や、立石等の地名に残る事は有っても、古代駅路の跡なんて言う伝承は聞いた事が有りません。
この切通が古代駅路である根拠は、、、何か?
先ずは、下大槻道路遺構と、東中原E遺跡道路遺構のライン上にある事。
そして、、、
ラインに平行な切通である事!
他に???

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