注目は、鎌倉の街を継ぎ目なく囲った切岸です。自然の山を利用して、人工的な切岸を切れ目なく造り城壁にした。
鎌倉の市中には 古来からの巨大道路の東海道と東山道相模路が通っていたが、防衛上の理由で封鎖した痕跡もあり、ここで紹介した状態です。
下の図は、鎌倉の都を囲む城壁(青線)と長窪砦より馬を降りて鎌倉の都に入る(緑線)ルートに成ります。
この長窪の砦自体ででも、大きな城の規模です。
因みに江戸城の大手門より半蔵門迄1.4kmで 長窪砦は1.2kmと言う比較で如何に鎌倉城の規模が大きいかを考えて戴きたい。
緑の樹木に隠された鎌倉城ですが、上の赤色地図が土壌の形状を示した図で 現地を見た時の理解に成ります。
鎌倉と言えば「イザ 鎌倉」と言う言葉が示す様に、、、、
鎌倉に事が起きたなら、日本国中の武士が先を争って鎌倉を目指して終結する!巨大な城は、兵員が無いと守れない訳です。
そのシステムは
馬を使って鎌倉に向かわないと取り残される。
その馬の数は、集まった兵の数に近いと考えられます。
馬を繋ぐ場所は、鎌倉城の大手道に在る台の馬場と長窪だけでは、不足で当然他にもある訳です。
『太平記』では新田義貞の討幕軍60万騎、鎌倉幕府軍14万騎で、話し半分で新田軍30万騎 鎌倉軍7万騎程度と考えると、新田軍30万騎+鎌倉軍7万騎=37万騎が当時の日本の総兵力であり、、、蒙古が押し寄せた時の鎌倉城を守る兵力と考える訳です。
その鎌倉城には騎馬37万頭を繋ぐ空き地が必要と成り、蒙古軍を攻撃する為の出撃基地と成ります。単なる身を守る為の城では無く攻撃基地と言う側面が有り。通常考える天守を守る城郭とは別のモノです。
その様な訳で、、後世の石垣が有り 天守の有る城の守りが主体と成る城とは異質な元寇を返り討ちにする攻撃的な城造りと成り、、、結果は城の外に馬場が有り、城を攻める元寇を背後から騎馬にて襲え、上陸した元寇に騎馬にて駆け付ける機動性を持っていたと考えて居る。
後年の戦国時代の城は、鎌倉の城造りが契機となり急に地方の士族が城を作り出したと解釈しています。