goo blog サービス終了のお知らせ 

鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城は無い④ 本丸の無い城

2025年03月31日 | 鎌倉城は無い

鎌倉には城が無いという間違った結論が出て来た理由について述べましょう!

太平記より、攻防する兵の数は、
新田総勢六十万七千余騎 に対する鎌倉総勢二十四万騎
粧坂に向かう新田勢五十万七千余騎   に対する鎌倉勢三万余騎
化粧坂の周囲で戦われたのは、鎌倉勢三万余騎に対し、16倍の新田勢五十万七千余騎でした!
鎌倉城の大手道の葛原ヶ岡、台峰、堰堤橋は、16倍の新田勢が正面突破できなかった! それが城と言う事です。
稲村ヶ崎から極楽寺坂、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷、小袋坂迄4㎞ですが、、その間に切岸の城壁から鎌倉市街にはいり込む場所は無かった!
唯一稲村路の街道を塞いだ場所が切岸の無い場所でした。
その場所でも、波打ち際を通るのが「稲村路」で海より船の上から横矢を射って攻撃する手筈が、、、
潮が引き海底の岩盤が浮き上がり、船は沖に出されてしまった。
「稲村路」より100m沖に舟は流され矢が新田軍に届かない!この天変地異の異常気象が敗因と成った訳です。

以上は 古典書籍に書かれてますが、、、、 古典を無視する研究者が大半で引用は少ない。

鎌倉の学習教養セミナーで「鎌倉には城が無い!」と主張した方がいて、本も出版いて居り以下の通りです。
■中世武士の城  著者:齋藤 慎一 著  出版:2006年
「天守閣はなかった! ここまでわかった中世城館の実像 城郭ファン必読の書」
この紹介記事より、齋藤慎一氏は鎌倉幕府跡に「天守閣はなかった!」ので、鎌倉城は無かったと結論した!

「天守閣はなかった!」= 城は無い!  この思考に問題が有ります。

城の名著 「日本城郭大系 全20巻」 等を読めば、城には本丸が在り、天守に相当するものが在る!それが常識に成ります。
しかし、
「日本城郭大系」にも天守閣の無い城は書かれていますが、、余りにも少数で城=本丸が在る物! っと言う知識が脳に充満するのでしょう。
 鎌倉時代を含めそれ以前の集落は環濠を作り生活圏を守った! それが当たり前で、本丸の考えは無い。
周辺の武士の領土争いで城を作ったのは、武士の身を守る為で、平民の生活圏を守る考えは無い戦国時代の日本的な事情です。
その様な理由で鎌倉には天守閣は無く、生活圏を守る城を作った訳です。
その生活圏を守ったのは鎌倉の3方向に在る山の切岸と海です。
決して三方が山に囲まれた自然地形ではなく、三方の山に切岸と言う城壁を人工的に作った城壁に守られていたのです。

鎌倉城の七口が在る鎌倉市街を守る切岸だけでも10km以上あり、それを調べた資料は何処に有るのでしょうか?

千葉県佐倉の歴史民俗資料館に在る鎌倉城のジオラマで三方が山に囲まれた峰を兵員移動の道として作られた方が居ます。が、切岸を表示していないのが残念です。

太宰府を守る大野城には、本丸の考えは無い!鎌倉時代より古い城です。

これは、戦う為の城であり、朝鮮式山城と言われています。 これは羅城を語る基になる話です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城は無い② 城の無い戦い

2025年03月20日 | 鎌倉城は無い

 ぼ輔 2014年07月17日 14:43

想定外の城 それは、天守が無い城です。
天守は戦国時代以降の城の象徴となった建造物の名称である。ヨーロッパの城の象徴的建築のkeep towerと呼ばれる籠城する為の建物です。
それが鎌倉城には、無い。
鎌倉城は無いと、主張する人は『天守に相当する場所が無い=城が無い!』
その様な思考法と想像するのです。それ以前は環濠集落と言う形態が有りましたが、堀の深さ、壁の高さ等防御のレベルが違います。
日本城郭大系に書かれた城は、大半が天守に相当する場を持っています。
鎌倉以前の城壁の資料を私は知りませんし『日本城郭大系』にも目ぼしい物は無いでしょう。
城郭研究家の考えは、
街も含めて城壁で囲う=総構えの城 っと考える訳です。
 総構えですと、江戸城でも小田原城でも天守が有ります。ソレラとは違い、、鎌倉城は羅城と言う考えが鎌倉城です。

太平記の記述から引用すると、
5月11日■小手指原の合戦 
5月12日■久米川の合戦 
5月15日■分倍に陣を敷き、北条泰家を大将として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に退いた
5月16日■関戸の戦い
5月18日■州崎の戦い 早朝から一日一夜にして65度の合戦

以上は、城の無い戦いです、大概は一日で決着が付き、負ければ敗走します。

自然地形の川を挟んで対峙した戦いです。

■州崎の戦いとは、柏尾川を挟み新田軍に対峙するのが、鎌倉幕府軍の武蔵大路を守る十六代執権赤橋(北条)守時で、
その巨大な防御機構の壁や砦を活用していない理由は、親族に新田軍の関係者が居り武士のメンツが絡む戦いが考えられる。
太平記や梅松論で書かれている攻撃と守備の状況と鎌倉城の痕跡を比較すると、半分以上の砦が使われてない。
それが、城の無い戦いで多勢と無勢では、、、一日で決着が付く戦いとなります。

城が在ると簡単に決着しません!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城は無い① 政府代表団の稲葉信子氏の話

2025年03月18日 | 鎌倉城は無い

>◆ 世界遺産委員会日本政府代表団の稲葉信子さんに聞く ◆
>   「イコモス (ユネスコ諮問機関) 勧告について」
>  「武家の古都・鎌倉」 のユネスコへの推薦書作成委
>員であり、て筑波大学大学院世界文化遺産学専攻教
>授(元文化庁文化財調査官)の稲葉信子さんに、イコモ
>ス勧告直後の 5月2日に緊急インタビューを行い、イ
>コモス勧告について伺いました。
>要旨をお伝えします。
    ・・・・中略・・・・・・
>山稜部の導入
> 鎌倉時代というものをどうやって語るのか。イコモ
>スの結果を見ても鎌倉時代という歴史上の価値はな
>いとは言っていません。鎌倉時代を語る強い物証があ
>れば、それで押していけるはずでした。その物証とは
>迫力があるもので、点の集合体ではありません。国際
>専門家会議で航空写真を見ている中で、「物量がある
>ものは山だよね」という意見が出ました。山は一番面
>積が広いので、これで鎌倉の町を語ることにしようと
>いうことになりました。
> 推薦書では、そうやって点でバラバラになっている
>ものをつなぐため何とか面として、しっかりした物証
>があるということを山で表現しようとしましたが、イ
>コモス勧告では山の中にある点も寺と神社でしかない
>と言われてしまいました。鎌倉という町に世界遺産に
>足る歴史的価値があるとするなら、それを私たちは
>山というバスケットで表現しようとしたわけで、その
>努力は買って欲しかったと思います。
        ・・・・後略・・・・

「鎌倉時代を語る強い物証があれば、それで押していけるはずでした。」これは肯定できる文章です。
問題は「イコモス勧告では山の中にある点も寺と神社でしかないと言われてしまいました。」という文に集約されます。
世界遺産委員会には「鎌倉は城だ!」と言う考えと、城壁に相当する切岸の調査資料が無いのが明白です。何故か?調査は埋蔵文化が調べており、掘り起こす事が仕事です。堀り起こす必要の無い切岸調査はヤラナイ!
「山の中に在る物は点の寺と神社しか資料として示せなかった。」と言う言葉が切岸と言う城壁を全く調査してない証明です。
ソリャ違う!! 鎌倉城としての城壁の壁の切岸が延々と在り、兵を移動させる道があり、迎え撃つ城が現存する訳です。
 切岸は点でなくラインになり、峰の道や砦遺構を加えれば一貫した面になり、立体的な鎌倉城としての強い物証の中で鎌倉の町が守られている物証が存在する。
「それを私たちは山というバスケットで表現しようとしたわけで、その努力は買って欲しかったと思います」
これは、太平記や、梅松論を全く無視し 物証としての切岸と言う城壁を無視し、単なる山と誤解した!
  結果は、
「イコモス勧告では山の中にある点も寺と神社でしかないと言われてしまいました。」と言う文章に、反論できなかった!
切岸の資料が在れば、自然な山でなく城壁としての切岸が在り、16倍の攻め手から化粧坂に行く大手道の侵入を防いだ証明ができる!
それでも幕府の終焉を迎えたのは、自然現象で海が干上がり、切岸の外から攻められた為です。

根本的な考え違いを知るには、城の「総構え」という構造と考え方を理解する必要がある。
その上で、
新田軍は州崎を一日で打ち破った主力部隊なのに、化粧坂に向け攻撃をしたが侵入はできなかった。
文化人とは、自分の考えと世界観を持つ人ですが、知らないことでもその世界観に当てはめ物事の本質を捕らえて解決する。
世界遺産委員会では、この様な自分なりの考えを述べる場があったのでしょうか?

 「太平記 巻第十」 「梅松論 17」を読んで、、理解頂ければ「鎌倉の城」と言う明確な存在が理解できる。
読んでも、理解できなきゃ意味ないし、、、
頭で理解しても、知識だけではね、、、
鎌倉城遺構を見なければ実感のある解り方はできない!!
これは、物事を理解する為の基本ですが、、、
「実感のある解り方」をして初めて 他と比較する基準ができる。
単に本を読んで知識を増やしても、それは机上論を語る結果に行き着き、、、実感なある理解とは異質です。
これでやっと他人に自分の意見をはなせるのです。

鎌倉城遺構を知らずに 世界遺産にしようと言う机上論で鎌倉を語る人が集まったのでしょう、、、

諺に曰く 『木を見て森を見ず!』 そんな学者の集まりで有った訳です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする