鎌倉には城が無いという間違った結論が出て来た理由について述べましょう!
太平記より、攻防する兵の数は、
新田総勢六十万七千余騎 に対する鎌倉総勢二十四万騎
粧坂に向かう新田勢五十万七千余騎 に対する鎌倉勢三万余騎
化粧坂の周囲で戦われたのは、鎌倉勢三万余騎に対し、16倍の新田勢五十万七千余騎でした!
鎌倉城の大手道の葛原ヶ岡、台峰、堰堤橋は、16倍の新田勢が正面突破できなかった! それが城と言う事です。
稲村ヶ崎から極楽寺坂、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷、小袋坂迄4㎞ですが、、その間に切岸の城壁から鎌倉市街にはいり込む場所は無かった!
唯一稲村路の街道を塞いだ場所が切岸の無い場所でした。
その場所でも、波打ち際を通るのが「稲村路」で海より船の上から横矢を射って攻撃する手筈が、、、
潮が引き海底の岩盤が浮き上がり、船は沖に出されてしまった。
「稲村路」より100m沖に舟は流され矢が新田軍に届かない!この天変地異の異常気象が敗因と成った訳です。
以上は 古典書籍に書かれてますが、、、、 古典を無視する研究者が大半で引用は少ない。
鎌倉の学習教養セミナーで「鎌倉には城が無い!」と主張した方がいて、本も出版いて居り以下の通りです。
■中世武士の城 著者:齋藤 慎一 著 出版:2006年
「天守閣はなかった! ここまでわかった中世城館の実像 城郭ファン必読の書」
この紹介記事より、齋藤慎一氏は鎌倉幕府跡に「天守閣はなかった!」ので、鎌倉城は無かったと結論した!
「天守閣はなかった!」= 城は無い! この思考に問題が有ります。
城の名著 「日本城郭大系 全20巻」 等を読めば、城には本丸が在り、天守に相当するものが在る!それが常識に成ります。
しかし、
「日本城郭大系」にも天守閣の無い城は書かれていますが、、余りにも少数で城=本丸が在る物! っと言う知識が脳に充満するのでしょう。
鎌倉時代を含めそれ以前の集落は環濠を作り生活圏を守った! それが当たり前で、本丸の考えは無い。
周辺の武士の領土争いで城を作ったのは、武士の身を守る為で、平民の生活圏を守る考えは無い戦国時代の日本的な事情です。
その様な理由で鎌倉には天守閣は無く、生活圏を守る城を作った訳です。
その生活圏を守ったのは鎌倉の3方向に在る山の切岸と海です。
決して三方が山に囲まれた自然地形ではなく、三方の山に切岸と言う城壁を人工的に作った城壁に守られていたのです。
鎌倉城の七口が在る鎌倉市街を守る切岸だけでも10km以上あり、それを調べた資料は何処に有るのでしょうか?
千葉県佐倉の歴史民俗資料館に在る鎌倉城のジオラマで三方が山に囲まれた峰を兵員移動の道として作られた方が居ます。が、切岸を表示していないのが残念です。
太宰府を守る大野城には、本丸の考えは無い!鎌倉時代より古い城です。
これは、戦う為の城であり、朝鮮式山城と言われています。 これは羅城を語る基になる話です。