鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉時代の波打ち際 14

2021年09月30日 | 鎌倉時代の波打ち際

下図は、大正十年の地図です。

渚は、破線と実線で描かれて、破線は引き潮、実践は満潮時の潮位を示しますが、、
問題は実践の他に、太線、破線、崖の線等、、色々な線が 渚を取り囲んで一つのラインと成っているのですが、、数百年の間人工的な構造物が渚を囲っていたです。
 何故 数百年の間なのか?
鎌倉終焉の後、経済活動もママならない地方の寒村となった鎌倉です。
戦国時代は、各領主が武力を競い合う時代で、公共事業をやる余裕は無い時代!
江戸時代は地方の寒村の鎌倉は、水戸黄門の鎌倉紹介で物見遊山のマイナーな観光地と成った訳です。
ほゞ、、 鎌倉終焉の後は政治から離れ放置された状況です。
交通は、徒歩で鎌倉に入り込む状況で道路もマトモに補修できない指導者に「何の利益にもならない渚の土塁」を作るハズが無い。
上図は未だ海岸道路ができない前の大正4年に作図された地図の情報です。
この時の鎌倉は、七口の街道は新田義貞の鎌倉攻めで七口は高さ3m以上の土塁で塞がれ、その土砂を多少は排除しても通行困難で西は大仏トンネル東は名越のトンネルで車が通れる様に成った状態です。
これが、状況証拠だけで想像した鎌倉の元寇防塁の概要です。

妄想の結果は、国土地理院の地図から由比ガ浜の砂浜で一段高い崖が検出され、更に大正時代の地図にも書き込まれている!
  大正時代の地図に示された段差は、、地図以外に存在するかも!

上の写真は「鎌倉時代の波打ち際 7」で載せたモノで関東大震災で津波が襲った坂の下や稲瀬川の状況を写したものです。
目的は、奥の微妙に高い場所が砂丘の説明だったのですが、、
稲瀬川より奥の滑川に向けた浜に沿って黒いラインが!!
これは、、妨塁の痕跡では無いのか?

同じ写真だが、「そんなモノが在るハズ!」と言う確信が有ると、見えるモノがあるわけです。
更に、
これは、大正12年の震災で津波が押し寄せた後の惨状です。震災前ならモット面白い映像が存在するかも??

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鎌倉時代の波打ち際 13

2021年09月27日 | 鎌倉時代の波打ち際

傾斜が強い処は黒く強調した国土地理院の地図です。

砂浜に沿って黒いラインがあり、一段高い崖が現在の国土地理院の地図から読み取れます。これが現今の由比ガ浜の段差です。

元寇対策の土塁が存在すれば、この様な段差が地図より読み取れるで有ろう!
その思惑道理に段差が存在した訳です。
由比ヶ浜南遺跡、材木座防塁の黒いラインは、現在は道路絡みですが、1940年代の空撮では、国道134号が無い時代でも段差は確認でき、道路の為の段差だけでは無い事が確認できます。
鎌倉時代から在ったと思われる段差は、国道134号で隠れてしまいました。
 では、
今では元寇土塁と思われる段差は、道路で消滅したのでしょうか??
元寇土塁は、消えたのでは無くて道路に隠されてと考えるのです。

戦前の状態はどの様だったのか??
問題は、由比ヶ浜の歴史と時代の経過の変化です。

明治の迅速図に描かれた段差は、
坂の下の町の境界の段差、由比ヶ浜南遺跡の砂丘、材木座の砂丘が描かれています。
もう少し詳細に段差が描かれた地図は無いのでしょうか??

地図は古ければ、より昔の地形を描かれている?? そう思ったら大間違えでした。

次回は より詳細な地図です!

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鎌倉時代の波打ち際 12

2021年09月25日 | 鎌倉時代の波打ち際

> 有鄰  第 430 号 H15/9/10発行
>    以下は 記事の抜粋です。 
> [座談会]中世鎌倉の発掘 仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
>   前略
> 屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。
> この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかって
> いる屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。

由比ヶ浜南遺跡の 東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地の遺構が発掘された。
この土塁か築地は、屋敷の東西(海岸線に沿っている)にある。
この海岸線に沿った防禦土塁が有るとなれば、海から侵入する敵に対応した土塁と考えられる。
海からくる敵を想定したならば、由比ガ浜全域に土塁が在ったと想定でき、「由比ヶ浜南遺跡」はその一部と考えられます。

由比ガ浜全域に在った土塁は、由比ヶ浜南遺跡の他は何の資料もありません。
私自身が「由比ヶ浜南遺跡」の資料を見るまでは、元寇防塁が由比ヶ浜に在ったとは考えは無かったのです。
私の見たモノは、砂浜より、一段高い場所に道路が通っており、その理由は、高潮の時に道路に海水が被らない様に!
そんな考えでした。

それが理由なら、稲瀬川の周囲の道路の低さは説明が出来ません。
結構 地形に左右された道路の高さだった様ですね、、
前回の図面では、高低の表示で、、土塁の崖の表示は出来ていません。
下の図は、傾斜が強い処は黒ッポク表示して在ります。

要は、海岸より一段高い崖が存在すると言う訳です。
由比ヶ浜南遺跡、材木座防塁の黒ッポイラインは、道路絡みですが、
坂の下は、道路の崖と古くから在る町の崖の区別がつきます。

問題は、この崖は古くから在る物なのか❔ っと言う事です。

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鎌倉時代の波打ち際 11

2021年09月09日 | 鎌倉時代の波打ち際

「鎌倉時代の波打ち際10」の立体写真で写しだされた崖ですが、、

未だ海岸際の国道134号が出来る以前の写真ですから、古来より崖の存在が有った訳です。
滑川河口の西には、由比ヶ浜南遺跡の崖の防塁と考えられる遺構が在り、
滑川河口東の材木座にも崖が存在し、この防塁の延長と考えられる。
元寇対策の防塁となれば、由比ヶ浜を囲むように防塁が存在するはずです。

青い色の4mと水色の6mの境界が極楽寺坂の下の坂の下から稲瀬川河口、滑川河口、材木座迄の由比ガ浜を囲う様なラインが検出できます。

下の坂のラインは、道路の為の段差では無く、坂の下の町の段差で有る訳です。

稲瀬川の周囲は、津波の為にこの段差が流されたと、考えられます。

博多湾の防塁の場合、
長垂海岸から小戸海岸にかけての約2.5kmの間、海への傾斜面に幅1~1.5m、残高1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補強していることが判明した。
写真はご覧の通りで、風雨による崩壊した状態です。(福岡市の文化財より)

津波が無くても、この様に風雨で崩壊します。津波で流されても、、仕方が無いのかもしれません。

問題は、稲瀬川より稲村ヶ崎に向けての砂浜は、数度の津波に襲われた場所ですが、高低差とし2m〜6mの範囲で残存するのが確認できます。

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