下図は、大正十年の地図です。
渚は、破線と実線で描かれて、破線は引き潮、実践は満潮時の潮位を示しますが、、
問題は実践の他に、太線、破線、崖の線等、、色々な線が 渚を取り囲んで一つのラインと成っているのですが、、数百年の間人工的な構造物が渚を囲っていたです。
何故 数百年の間なのか?
鎌倉終焉の後、経済活動もママならない地方の寒村となった鎌倉です。
戦国時代は、各領主が武力を競い合う時代で、公共事業をやる余裕は無い時代!
江戸時代は地方の寒村の鎌倉は、水戸黄門の鎌倉紹介で物見遊山のマイナーな観光地と成った訳です。
ほゞ、、 鎌倉終焉の後は政治から離れ放置された状況です。
交通は、徒歩で鎌倉に入り込む状況で道路もマトモに補修できない指導者に「何の利益にもならない渚の土塁」を作るハズが無い。
上図は未だ海岸道路ができない前の大正4年に作図された地図の情報です。
この時の鎌倉は、七口の街道は新田義貞の鎌倉攻めで七口は高さ3m以上の土塁で塞がれ、その土砂を多少は排除しても通行困難で西は大仏トンネル東は名越のトンネルで車が通れる様に成った状態です。
これが、状況証拠だけで想像した鎌倉の元寇防塁の概要です。
妄想の結果は、国土地理院の地図から由比ガ浜の砂浜で一段高い崖が検出され、更に大正時代の地図にも書き込まれている!
大正時代の地図に示された段差は、、地図以外に存在するかも!
上の写真は「鎌倉時代の波打ち際 7」で載せたモノで関東大震災で津波が襲った坂の下や稲瀬川の状況を写したものです。
目的は、奥の微妙に高い場所が砂丘の説明だったのですが、、
稲瀬川より奥の滑川に向けた浜に沿って黒いラインが!!
これは、、妨塁の痕跡では無いのか?
同じ写真だが、「そんなモノが在るハズ!」と言う確信が有ると、見えるモノがあるわけです。
更に、
これは、大正12年の震災で津波が押し寄せた後の惨状です。震災前ならモット面白い映像が存在するかも??