鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

足柄峠越え 1

2013年07月29日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
上記図(googlアース)で、
足柄峠の尾根道は県道365号(水色)と足柄駅脇から入る竹之下の谷道に県道78号(赤色)がある。
この竹之下から尾根に上がる為に多数の古道跡(紫色)があり、伝説も残る。

googlアースを見ると、幾つもの道が見つかりますが、古道か?山仕事の道か?は現地で確認するべきですが、、馬一頭が荷物を振り分けて通る道幅は狭くて、古代東海道の道幅には足りません。
谷である竹之下から峰に向かう道は、小規模街道で多数ある。
現地を歩くとき、山仕事の道は踏み分け道で、街道とは一般人が迷わずに歩けるよう薬研掘状の道(掘割道)になっており区別を付けられる筈です。
これらの道から、大化の改新東海道に相当する道を選り分ける訳ですが、、、
選り分ける以前に、足柄へ向けた尾根を水色のラインで書きました。
今は「東名富士CC」と言うゴルフ場の有る場所から足柄峠迄の尾根道で県道365号です。
これは、竹の下から登る道とは、考えを異にした道と言えます。
この様な峰の道に、巨大な道路遺構が有るのか?
常識的には、そんな痕跡が無いから話題に上がらない!
非常識的には、探しもしないで語る資格はない.
尾根道は、明治の地図には記載が無い。
当時は遺構が考えられても、県道365号を作った時点で、大半は消失したであろうと考えられる。
存在すれば、、探すポイントとして、
足柄の西の峰で路造りのの困難な場所は、誓いの丘周辺です。

古代東海道駅路跡(2006-06-01)カテゴリー古代東海道
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士山中 に東海道 十里木 7

2013年07月21日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
十里木峠より赤いラインは竹之下(JR足柄駅)を通り、谷中を登り峠に向う。
赤いラインは一筋の直線道路でなく、一筋の絡み合ったロープの様な複数の痕跡が空中写真から観察できる。 絡み合った数だけ各年代で作り変えたと想像できます。
この竹之下の谷中には、絡み合ったロープが解ける様に複数の古道痕跡に分かれて足柄峠に向かう。

問題は、
竹之下の谷中は急激な坂になり易くそれを回避するには、、、
曲がりを多く取る坂道になる。それは、古代官路の望む事ではない。
歴史と、伝説、逸話に飾られた足柄峠ですが、 赤いラインは古道の痕跡や伝説が有る。しかし古代駅路の規模と直線的な道の特徴は無く、伝説逸話の大半は平安以降の話です。
この谷中に古代東海道の路面9m幅の直線的な道は物理的に造れないが、尾根道ならば、傾斜が緩く直線的な道が作れる。
 誰も語らない道でも、それが目的の道で、中路規格の巨大道の痕跡は簡単には消えない! その痕跡は何処に??
自衛隊の演習場の中を通る直線道路の延長が青いラインの尾根道と言う訳です。

赤い道の巨視的に見れば直線でも細部は曲がっている道と、、、
青い道の何が何でも直線の道の違いに作った権力の差を感じるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士山中 に東海道 十里木 6

2013年07月09日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
写真の赤いラインの路は、781年以降の溶岩活動も消え安全になった平安、鎌倉、江戸時代に作られた路と想像します。
十里木峠の一番低い場所を通り、溶岩流のギリギリをカスメテ足柄へ向かいます。
何度も同じルートで作り直した為にロープが絡み合った様に見えます。

Webのおかげで、、この目で見たことも無い路の 成り立ちや、時代考証まで考察できる時代に成ってしまいました。
この考察が正しいか否かを問題にする以前に、現地を確認できない。
調べたくても、、、鉄砲玉の飛んでくる自衛隊演習地の中!

衛星写真を信じて更なる次の段階に!

明瞭な痕跡が今回の話ですが、他にも不明瞭な痕跡が見受けられ、、
    この場所には別なルートが複数あるのです。
十里木峠から、足柄に向けそれなりの道の痕跡が浮かび上がる。
溶岩に一部埋もれた「大化の改新駅路」と考える路であったり、、、ご自分で探してみて下さい。

ここで問題は、水色ラインの「大化の駅路」と赤いラインの「平安~江戸」の道の行く先が違う事です。
その違いは、足柄峠への上り口が違う事を示す訳です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士山中 に東海道 十里木 5

2013年07月02日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
足柄路の仔細は古い文献に短文で書かれ、前回の「日本洞窟学会の図」がその古文の内容を裏付けている。
延暦21年 西暦802年5月19日▼廃相模国足柄路開筥荷途、以富士焼砕石塞道也
    焼けて砕けた石が路を塞ぐ・・・・
800年の山頂近くから噴き出た溶岩流は、富士山の南斜面を「大化の改新駅路」近くまで(焼砕石)が押し寄せている。
その様な訳で、十里木峠と蒲原の間が溶岩流の影響を受けたと考える。
年代が数年符号しない?? っという状況がありますが、、
測定法の誤差なのか、自然現象がその年数でピタッと終わるものか? または、802年に十里木峠近くで溶岩の噴出が有ったのか??等、
(炭化した時の年代測定の様で、洞窟学となれば、樹形洞窟で木が燃えて炭化した痕跡の年代を想定し、溶岩が流れた初期とも考えられますから、その後2年間溶岩が流出で問題ないでしょ?)
数字にはあいまいな要素も含まれ、年代不詳(未調査)の噴火口が多数在る事を考慮すると、、大筋で符号していると考えます。

問題は、
富士山の噴火で、知りたい事に諸説あり、大局的にマトメられ系統立てた学門で無い様子。鎌倉城で私が書いた様に、調査範囲が広すぎて調査資料が少なく纏め様が無い、、、って言う処なのでしょう。
 イヤ、、、この古代東海道も同様ですかね、、、
そんな富士の資料から、好都合な年代の溶岩流を図示したデーターに出会えて「ラッキー!」っと言う事でしょうね。

上図のピンク色を被せた場所が溶岩流ですが、これを避けた形で道は造られている。
ステレオ写真で見ると、単なる山では無く、溶岩流の典型的な形です。

火山活動前に大化の路が造られたとしたら、、、この溶岩流に埋もれた道が在り、大化の路と私が称した路は、781年の溶岩流出後に造られた路と成りますね、、、

では、781年以前の溶岩流に埋もれた「大化の改新東海道」は何処に有るか? 探せるのか???
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする