鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

六浦道 5

2007年06月29日 | 切通し
青ラインの道のD点ですが、寿福寺門前に相当します。
青いラインの「窟小路」の載った地図の脇にD点周囲の詳細な地図を載せました。
岩屋不動のあるのが、不動茶屋の場所で、、、「窟小路」のイワレだと考えるのですが、
この場所の崖が、、注目に値する場所ですが、話題は別で、
問題は、赤い線で挟んだ場所ですが、変に思いませんか?
道幅がほかの部分より太い!
昭和58年の写真には、道がはっきりと明るく写し出されています。
おまけに、途中で太い道を断ち切った様な形をしていますね!
私は、「窟小路」の作られた経緯と、 この場所は歴史が違うのではないか?
 と推測をするのです。

この様な謎に誰が解答を出来るでしょうか?
自分で考え 謎解きをするのが、このブログの「古代道を探すゲーム」ですから、、、
せっかくの楽しみを、本探しをして 調べて等 、、 という発想はありません。
っというか、、、それに答えてくれる本も無いのでは??
そんな事よりも、自分で推理する楽しさ!
これが、古代道を探す醍醐味ですね!ですから、モット事情通の方が本を出しているかも知れません!
コンピューターゲームの様に作者が必ず通り道を作ってありクリアーできるバーチャルな世界では有りません。
現実の世界の 考える人次第で何が起きるか判らないお遊びですね!

道は始点から終点まで一貫して作るものですが、、、
一貫していない場所は道を作る時、前時代の束縛と歴史的経緯があると考えます。
「窟小路」と言われる道も、赤い線で挟んだ場所は、他の青いラインの場所とは異質の道と考えられる。
その異質の意味と歴史を、、あなたの目で確認して欲しいのです!
空中写真から、何か探し出せましたか?
ラインが見つかった人は、、、、
D点の太い道の意味が理解できた、、、デショ?
理屈抜きで理解して貰えるのです。

ラインが見つかから無い人は、、更に古い写真を載せます。

六浦道 4

2007年06月24日 | 切通し
ソイルマークと言うのがあります。
例えば、
学校建設の為、建設用地を整地したところ、雨が降ると黒いシミができる現象がおきた。黒いシミの形が遺跡の形であった!このシミが群馬県入野遺跡の発見になりました。
この地面のシミをソイルマークと言います。
群馬県新田町の大東遺跡の道路遺構も、畑の中に道路の溝と思われるシミが2本(ソイルマーク)現れた事がきっかけです。

さて、問題は、鎌倉の古代道路遺構ですが、これだけ家が立ち並んだ状態の空中写真で、地表のシミなど写る訳がない。
 航空写真を見るときに私はソイルマークに相当する何かが写真に現れるかも、、、
そんな想定で写真を見ます。

この鎌倉の写真でも、家を通してソイルマークに相当するラインが見えるのです。
「木を見て 森を見ず!」そんな諺がありますが、
細かい処を見ても判りません。 写っているのは、現代鎌倉の街並みです。
全体をシッカリ見る事と 先入観を持たずに見る事で、、、
感じて欲しいのです。
ヒントは赤い点線の矢印です。

感じて欲しいのは、その奥に在る古代の道のラインです。
見えたラインに対して、細かく分析すれば、ラインの部分が暗く見えたり、緑が多かったり、家の並びに法則性が有ったり! 周囲と何かが違うのです。
色々な現象が重なり合った物ですから、、、
頭で考えて見れば、色々な現象の一部しか見ず、結局判らない!
必要なのは、全体を見て感じて欲しいのです。

写真は国土地理院空中写真C18B(49)より引用。

六浦道 3

2007年06月18日 | 切通し
何故、赤い点線の道は消え、青い道があるのでしょうか?
そんな資料は無いので、、、憶測するのですが、
憶測とするのは、言い過ぎで、多少の根拠を踏まえて考えるのですから推測ですね。
頼朝以前は、古代東海道として、赤い点線まで直線道が有ったとして、
八幡宮造営に伴い一の鳥居に平行に立派な道を作った!(段カズラに直角な道)
横大路と呼ばれ、東端は、寶戒寺前、西は「鉄の井」があります。
そうなれば、無駄に広い古代東海道は必要なく、家を建てたか農地へ転用。
筋違い橋C点から、D点には、立派に作った横大路を使わせ、
「鉄の井」の先からは、利用価値の低い山側に道を移し化粧坂へ向かわせた!
お陰で、、、取って付けた様な窟小路と呼ばれる青ラインの道が出来上がった!
そんな推測をしたのでした。
推測が正しければ、青いラインの窟小路は、鎌倉時代に作られた歴史のある古い道!

赤い点線の道の行方は??
この写真の赤矢印から入る想定ですが!
貴方には、、、目で追えますか????
写真:国土地理院空中写真C13(22)昭和63年より引用

六浦道 2

2007年06月11日 | 切通し
この青マークの道は、
「とても古くから有る道です。」  っとされています。
具体的にどの程度古いのか?
きっとそれに答えるとすれば、
「明治の地図に載っています」 っと言う事になるでしょう。
明治の初期に作られた地図ですから、江戸時代にも使われていた筈です。
それ以前は?
鎌倉時代に使われたかも? でも、資料は、、、
平安時代は???
平安時代の鎌倉に関して資料は限られる。まして、奈良時代の道の資料は無い。
そんな曖昧な話になるでしょうね。

頼朝以前に赤と青のマークの道は繋がっていたと考えられています。
が、、、しかし、
赤と青の道は性質が違います。
青の道はユルヤカに曲がっている事を根拠に、古代東海道の痕跡と考えるのは否定されるべきでしょう。
もう一つの否定する根拠は、地図の赤い点線ですが、六浦道の延長直線は、青いマークの道から外れる。
AとB の道の目的点がDであったとすれば、、、青ラインのC点は北に寄り過ぎる。
極端な障害物の無い限り、古代道は直線的に作るのがセオリーです。
江戸モシクハ鎌倉時代の六浦道延長とすれば、青い道も肯定される話でしょうね。

何故、赤い点線の道は消え、青い道になのでしょうか?
そんな資料は無いので、、、憶測で考える訳です。

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六浦道 1

2007年06月06日 | 切通し
明治の地図に赤マークを付けたA~Bの道は、六浦道と呼た特に直線的な場所です。
それに対応する西側の道は、青でマークしたC~Dです。
さて、、
この道の直線性は八幡宮に分断されていますね!
赤マークを付けた道のBには、筋違い橋という名があります。
道筋を違えたと言う訳でしょうね。
何時道筋を変えたのか?
鎌倉に最初に建てた鎌倉八幡宮は材木座海岸よりにあり、今は元八幡と呼ばれます。
頼朝が存命中に、現在の八幡宮へ移したのですが、
その時にこの直線的な六浦道は、分断された。 っと考えられています。
一般的には、頼朝以前は、赤と青のマークの道は繋がっていたと考えられています。
モットモな話に、、、思えます????

私も、、、この話で納得していたのですが、
この道が古代東海道の痕跡と考えた時「この青いマークの道は変だ!」と考えるのです。
駅路、官路にふさわしくない!!
その理由は、、、
次回は、青マークの道がテーマ!

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