鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

頼朝の策略!

2006年09月26日 | 東山道~鎌倉
鎌倉から見たら武蔵大路。大和朝廷から見たら、東山道相模路。
名前が有っても、鎌倉でその実態は不明のまま!
そんな大路に対応する道の痕跡は無い?
痕跡が無いのではなく、常識に頼るから見つけられない!

武蔵大路は化粧坂がそれに相当するのでは?
そんな考えがネットに散見する見解です。
しかし化粧坂は、古代東海道の痕跡との考えは、このブログに書きました。
(その年代は、古代と言うより、平安時代から鎌倉期)

では、武蔵大路に相当する大路の痕跡が有るのでしょうか?
もし大路が在ったにせよ、、、それは鎌倉幕府が消し去った痕跡です。
大仏の細い道ですら、完璧に通れないバリケードで守る。
太い武蔵大路ならば、防御に不利となり、使えない様にせざるおえない。
問題は、「どの様にカモフラージュ(偽装)し使えなくしたか?」
私が鎌倉で相模大路を見つける根底に有る考えです。

その様なカモフラージュの一つに、クランク道があり、通る人を疑わせない様にその先に小ぶりだが、立派で直線的な切通しを作り、ビミョ-に江ノ島方向に進路を変える細工をした!っと私は推測するのです。

クランクの谷には、断ち切った様な崖があり、崖下の湧き水により谷がエグラレタ様に見えるのですが、、、、
よく考えれば、あの程度の湧き水で垂直に切り立つ程の崖が出来るハズも無い。
ココから、鎌倉幕府の武蔵大路消滅工作は始まった!と考えています。

 写真はクランク脇に有る鎌倉道の特徴を持ったヤゲン堀状の道。

水道道路(明治の地図)その3

2006年09月19日 | 東山道~鎌倉
この地図の北は、通常の上が北です。
唐糸草子という昔話があり、万寿姫が鎌倉に母の唐糸を訪ね府中方面から星谷寺(座間市)へ詣でて藤沢市の砥上河原に行く道が有る事を書いています、、、
読む人が共感を得る物語に公表できる程、一般的に使われた道と考えられます。
この間、町田と座間の間には、後世の人が奥州古道と呼んだ道が有るそうです。
座間より、藤沢への最短距離をツナグのが、この東山道武蔵路という訳です。
それを裏付ける様に、奥州征伐に先立ち義経の首実験の為、奥州より首が送られた。
しかし鎌倉に入る事を許されず、藤沢の白旗神社の近くで首を洗い、首実験をされた。
首はそのまま川に流したとされ、この場所に源義経を祭る白旗神社が建てられた。
この時点で、東山道相模路は既に鎌倉に直行せずに、江ノ島に向けて道が変えられていたと、私は考えています。
其の分岐点となるのが、疑惑のクランク道に有るのです。
江ノ島に向けて作られた道は緑のマークを付けた切通しで、白旗神社に向けて現在も存在しますが、、、一般人は入れない聖園女学院の通用口と成っています。
機会が有れば、、覗きたい!  他意はありません!
そのまま、遊行寺前を通り、地図の下の紫のマークの道を行くと、唐糸草子に書かれた砥上河原に出ます。(現在江の電石上駅の名前や、石上神社等が残っていますが、川は改修され、付近に川は有りません。)

水道道路(明治の地図)その2

2006年09月14日 | 東山道~鎌倉
水道道路(明治の地図)その1の引地川を渡った処から重複してその続きです。
注目点は、赤丸で示したクランク状に道が曲がる道です。
赤マークの道を北から南へ(画面左より右へ)行くと、赤丸印の処がクランクに折れ曲がっています。
このクランク状態を無視して直進すると、そこには「緊急事態!」の道路遺構と道幅、坂の傾斜、等が似た谷に成ります。
違う処は、1200年の経過を感じる自然に埋もれた雰囲気の景観です。
更に下ると、、、そこは湧き水で谷がエグレタ状態!
自然の湧き水でそうなったのか?
ハタマタ鎌倉幕府が仕組んだモノか?
今と成っては検証の材料がありません。

問題は緑のマークで示した谷の脇の道です。
鎌倉街道の特徴を持つ、ヤゲン掘状で直線的な、馬一頭が駆け抜けるのに都合が良い道があり、更にその先には立派な切通しが待ち受ける。
さて、この切通しですが、、
立派な割りに「鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?」より道幅が狭い!
その様な訳で、東山道相模路とは異質なモノを感じるのです。
鎌倉時代と、奈良時代が交錯している場所と思っています。
その様な訳で疑惑のクランク道です。

昭和初期の水道道路地図

2006年09月13日 | 東山道~鎌倉
詳細な年代は記録忘れです。
水道路が作られ、小田急が開通し、赤マークの直線道路が途切れた処に軍の通信基地が作られました。
座間飛行場の為の通信基地で、現在のイスズ工場です。
緑のラインが小田急線。
紫の丸マークは、海老名の国分寺と国分尼寺です。

赤丸をした処が写真の場所です。
注目して欲しいのは、いったん川を渡る為に直線を外れた道は、次の台地の水道路に再び合致するのです。
直線を意識した道は、この様に地形に影響されると言う訳です。
これが、単なる直線ではなく、「直線の程度を知る必要がある」と言うことです。

描写が荒いのですが、細かい画像のリクエストが有れば、コメントしてください。
このブログにディスプレイをはみ出す画像を載せます。

水道道路(明治の地図)その1

2006年09月13日 | 東山道~鎌倉
明治15年頃に陸軍で作られた迅速測図という地図です。
小田急も未開通、横須賀水道も無し。
目立つのは、
黄色で書いた戸塚から大山に向けた大山街道と茅ヶ崎から川崎に向けた中原街道です。
赤いマークが想定伝路水道路と言われた直線道路ですが、
赤マークが途切れ曲がって川に向かうのが私の写真に有る道です。

「古代道路は、直線で無ければ駄目!」っと考えたら見つからないでしょうね!
それが、机上の理論で終わり、想定伝路とした理由でしょう。
一応は現地調査をした様ですが、、、
実際に周囲を調べ「川に降りて次の台地に行く行くには何処を通るのが合理的か?」っと言う観点で探した差です。

鎌倉街道「上の道」と東山道相模路

2006年09月11日 | 東山道~鎌倉
鎌倉街道「上の道」と言われる道があります。
成り立ちは定かでないですが、少なくとも江戸時代に頻繁に使われたであろう事が想像できます。
現代になり、路端の石塔や伝承や文献を参考に探索した結果の「上の道」と考えるのです。
石塔は大半江戸時代の物、伝承と言っても、江戸以前は戦国時代で土着の人は移動した後の江戸時代の伝承、、、
その様な訳で、伝承から消えた鎌倉道が多数ある事を私は感じます。
さて、
そんな「上の道以前」の時代から東山道相模路は在ったと言う文献に

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5月27日のブログに「唐糸草子という昔話があり、万寿姫が鎌倉に母の唐糸を訪ね府中方面から星谷寺(座間市)へ詣でて藤沢市の砥上河原に行く道が有る事を書いています、、、
その時に通った道は、前の時代、、、奈良時代に作られた東山道武蔵路と考えています。」

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っと言う訳で、頼朝存命中の鎌倉時代初期に既に藤沢遊行寺辺りから南に向け江ノ島へ、海側を通り稲村ヶ崎に向け道を造り変えたと私は考えています。
本来の東山道相模路は、遊行寺坂上の影取辺り(横浜市東俣野)から鎌倉へ向かう訳です。
しかし、、この道は、路面が広く鎌倉の攻撃に使われたら鎌倉幕府は困る。
色々な細工をして使わせない様にしたと考えるのです。
所詮 実用で必要な道幅は、馬が一頭駆け抜ける幅が有ればよい。
「いざ鎌倉」と言う時は、小編隊の関東騎馬武者が鎌倉へこの道を疾走するのに都合が良いが、大部隊には困る道です。
現に鎌倉山中にある鎌倉街道はその様な細い道で、特例は、朝比奈切通しだけです。
あの化粧坂ですら、外部(梶原団地の方)に向けては自転車を降りて歩く様な道に改造されたのですから(水堰橋に向けては3m幅)!!
この辺りが、東山相模路が歴史から消え、上の道が残った理由です。

本家の鎌倉周辺が細い道なのに、地方に太い道痕がある矛盾!
地方の鎌倉街道に道幅6m等言うのが発見されたと散見しますが、前の時代の駅路(平安時代に道幅9mを6mや3mに改修している。)や伝路の痕跡を使いまわした道と私は考えているのです。

道の年代特定は、専門家でも定かでは無く学者が「鎌倉街道かもしれない」といえば、それを聞いた人は、「この道は鎌倉街道であると権威ある先生が言った」となる。
権威に弱く自分の考えが無いのは、、悲しい限りです。
そんな烏合の衆的な処が恐怖感を与えると、平家は戦わずして全滅した「倶利伽羅峠」の悲惨な話の根底に有ると、感じます。
富士川の合戦は飛び立つ鳥にオビエタ平家が戦わずに逃げ出したが、「倶利伽羅峠」では、戦わずに全員殺されたのです。
知識だけでなく、自分の目で確かめ実感を積み上げれば、自分の意見も沸いて出ると思うのですが、、、、
「倶利伽羅峠」と鎌倉の関係は?
これから、、徐々に書く終点にその様な計略を感じる遺構が鎌倉の武蔵大路に仕掛けられたと、、、  これも私の空想です。

武蔵大路が鎌倉に有る!

2006年09月10日 | 東山道~鎌倉
鎌倉市内に「武蔵大路」と呼ばれた道があるそうです。
御成小学校から寿福寺辺りの今小路を「武蔵大路」と呼んだ時期があるとの事。
実態は闇の中ですが、鎌倉市内にそう呼ばれた場所が有った事は事実の様です。

鎌倉市史(総説編)に
「武蔵大路が鎌倉内であることは吾妻鏡の文永二年(1265)三月五日の条の町御免の場所に、武蔵大路下とあることによって殆ど疑いがない。これよりさき建長三年(1251)十月三日の条にも町免許の場所があげてあるが、それには亀ヶ谷辻というのが見える。これは亀ヶ谷辻を武蔵大路といいかえたのではないかとすぐに思いつく」。

「吾妻鏡」の桐生六郎と梶原景時の行動では、武蔵大路は鎌倉の外にある。
(詳細は、『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条)

これらの文章から言える私の考えは!
1.「武蔵大路」の名称により、鎌倉から、武蔵に向けて路が有った事。
2.その道幅は大路である事。(律令時代の中路だが、路面幅9mは大きい)
3.武蔵大路が鎌倉内に有る事。
4.亀ヶ谷辻にも武蔵大路がある。
5.鎌倉の外にもある。

武蔵大路は、地名ではない!
道の性格上 鎌倉の中から目的地まで続いてるのです。

「鎌倉郡ガより武蔵の国府に向けて大路が幕府以前に有った!」
何の問題も無い?

問題は武蔵大路が何処を通っていたか?
鎌倉の七口が鎌倉の内外を隔てています。
しかし、、七口の様な狭い道ではなく、武蔵へ行く道は、、、
大路でナケレバならないのです。 これは、とても大きな矛盾です。
いい加減に探した程度では、そんな大きな道は無いのです。

その解決は、、、、
そう、、仮想伝路水道道路にあります。
誰が付けたか? この仮想伝路ですが、、、
その実態は、伝路レベルの細い道では無いと道路遺構から言えるのです。
東山道武蔵路の延長として、東京国分寺より、鎌倉へ向けた時に東山道相模路となり、
相模国分寺や、宮久保遺跡の脇から、水道道路を通り、鎌倉市内の武蔵大路迄が考えられる。
この道が「新編鎌倉志の桐生六郎」の記述の武蔵大路と言う私の考えです。

この先の話として、鎌倉の外から内側に入るには、、、、魔法でも有るのでしょうか?
大半の方は化粧坂から入ったと考える様ですが、、、、
化粧坂は古代東海道と考えています。

2012/9/20 訂正:『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条

古代道探しの原点

2006年09月08日 | 東山道~鎌倉
古代道探しは、明治の地図を手に入れることから始め、
現代の地図との比較をするのが定番というか、、、基本でしょうね。
現代的には、国土地理院の無料航空写真があります。
これは、ただ見ただけでは、、、本来の使いかたの20%しか使えていません。
立体視して、はじめて本来の使い方が出来るものです。

水道道路の地図の直線道路ですが、現地を確認しようとしても、、、平地は利用価値が高く、畑や、住宅、工場が立ち、、、
開発されて無くても、平地の雑木林なんて、、こちらの湘南では、気候がよくて、冬でも藪コギで、地表の状態など、判り様が無い!
目先が見えない状態で本当の「藪の中」です。
その様な訳で『神奈川の古代道』の著者達は、、、現地を確認できなかったのであろうと、想像しました。

しかし、私には古代道に対する多少の感があります。
感と云う言い方は、、、良くないですね!
鎌倉の化粧坂の西の坂や、朝比奈の切通しの体験があります。
その様な体験は、現地に行くと古道の雰囲気の共通点を感じるのです。

台地の直線的な道は、台地を降り、川(引地川)を渡り、次の台地に上る地形になっています。
川に降りる時と川から次の台地に上がる坂はキット切り通して坂を作るに違いなく、、、、
それを探せば、安易に古代道痕を探し出せる!
そう考えて探し出したのが、、、
「鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?」 2006-05-27記
「緊急事態!」 2006-08-22記
の場所だったのです。

記事一覧 ★★http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/★★

想定伝路水道道路

2006年09月06日 | 東山道~鎌倉
「想定伝路水道道路」とは、
『神奈川の古代道』藤沢市教育委員会発行 に記載された古代道と思われる道です。
「高座郡家から鎌倉郡家を結ぶ律令時代の伝路跡」(木下 良氏監修)と記載。

この道の紹介として< 水道道路 >があります。
http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/1555/suidoudouro.html

神奈川県海老名市の国分寺から、藤沢市の遊行寺辺りまでの直線道路痕跡です。

伝路とは、東海道の中路規格より一段下の6mとか3m程度の道で、、、
想定したと言うことは、確たる根拠は無く、明治の地図に直線道路が記載されており、これを根拠に想像したと解釈できます。
ですから「詳しく周囲を調べた状況」と言う記事は無い。
水道局の訳知りが「当時既に道が存在した処に水道管を敷設した」という話が付記された程度で、規模や状態等、必要な情報は書いてない、、、と言う事は調べたが判らない!若しくは調べなかった!  っと解釈しました。

この情報を基に私の古代道探しをはじめた訳です。

「毘」スクラッパーさんへ

2006年09月04日 | Weblog
「毘」スクラッパーさんへ

書き込みをありがとうございます。
鎌倉は、私にとって魅力の宝庫です。
海を見ながらファミリーレストランでお茶を飲むなんて、、普通のファミレスでは味わえません!
町の小さな喫茶店も魅力です。
問題は、街中を歩き回るのに駐車場が無いに等しい。観光値段の駐車場は有りますがね。
山は、緑の中のハイキングコースを歩けますし、歴史なんて知らなくても見所は幾らもあります。
仕事場として、何年も入り浸り、未だに見切れた思いがしません。

> その中で「日本古代道路を探す」(中村太一氏、平凡社新書)を読み、
   この本も買いました。
   全体的に古代道の概要を知るには良い本です。
   でも、学問として創成期です。事実を基に書かれた処と憶測で書かれた処を
   区別する必要があります。

> 「旧鎌倉街道探索の旅=中道編」(芳賀善次郎氏、さきたま双書)も読みました。
   この著者は亡くなられましたか、、、
   当時は列島改造以前で、とても良い条件で調べる事が出来たと思います。
   何も無い状態から系統だててココまで調べた事に頭が下がります。
   当時これ以上の良い本は私も知りません。

私もこの本に影響され過ぎた処が有りましたが、、、
ある時に、鎌倉街道は、これだけでは無い!
もっと鎌倉街道らしい他の路がある!!  っと気がつきました。
芳賀善次郎氏の書かれた路よりもっと鎌倉街道らしい直線で、山の峰を行く
街道が有る事を、、、、
それも、幾つもある事を知ったのです。
しかし、、、それを証明する手段が無い!!

> なぜ中道編かと申しますと、練馬区に引っかかっている可能性が

   私も、単に鎌倉の近くで生まれ育った!とか、、
   今住んでいる所の近くに鎌倉街道と思われる路の痕跡があり、
   芳賀善次郎氏の地図を参考に何日も掛けて鎌倉まで歩いたことがあります。
   こうなると、コンピュータゲームより面白い!! 
   リアルタイムの路探しというゲームに成ります。

結局、芳賀善次郎氏の書かれた街道は、間違えと言うことではなく、数ある鎌倉街道の中の一部であると、私は認識しています。

> 隣の板橋区には東京大仏で有名な赤塚城跡があり、一説にはこの脇道が
 鎌倉街道の一つで、私の好きな上杉謙信(武田も好きです。笑)

   一時期、山城(石垣作りでない)に凝りまして、小田原から、三増峠、
   城山(相模川脇)から甲斐までの
   信玄道と狼煙台(これも砦として)を調べまくった時期もあります。
   古代路と、山城の関係は密な処があります。

> 古代道路にも地方道があるわけで、鎌倉街道との関係性があるはずです。
   私もそう思っています。
   考えさせられるコメントを頂き、返事が遅れました!
   面白く見させて貰いました。