鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

大鎌倉城 3

2012年09月23日 | 大鎌倉城
鎌倉城の七口の周知事項を、、、
鎌倉城の七口を峰で結んだ道は、「大鎌倉城1」の地図に黄色ラインで書き込みました。今はハイキングコースとなり、この道を観察して、鎌倉城を云々するのは、話の根本が違います。
黄色ラインは、押し寄せる敵に対し、兵を移動する峰通しの道と考えられる。
城の実態は、このハイキングコースの足元にある切岸とその規模です。
防御壁の全体を把握する事で、何故 新田義貞が鎌倉城を正面突破出来なかったのか?の疑問の答えとなるでしょう。

部分的情報は在るが、新田義貞は鎌倉城の西側半分を攻めたのです。
そのラインは4Kmも及びますが、唯一入り込む隙間は、城壁を作れない浪打際だけでした。
それ程、強固な切岸を作ったが、、それを調べた研究が無い。
三方を山に囲まれた天然の要塞都市ではなく、
「三方の山を人為で長大な切岸を作った要塞都市」です。
防衛ラインの切岸は、実践に耐えた強固な城壁で、北側と、西側を含めると12Km以上の切岸が在る訳で、それは鎌倉城の一部です。

他には、七口から張り出した峰を使い押し寄せる敵を待ち受け攻撃する砦構造が有り防御ラインだけでなく、面としての広がりを持った防御施設である事に注目するべきです。
それが理解できれば、峰の数だけ兵を送る尾根路があり、鎌倉街道とは異質の作りで区別が付くのです。
兵を送る尾根路は道幅が狭い、曲がりが多い、アップダウンが有る等の街道に適応しない尾根道です。

街道も、新田勢来襲で七口の切通を封鎖した。
どの様に封鎖したのか??
具体的に書かれたモノは無い。
いや、このブログで既に書いてあるのですが、
「さて朝比奈切通し!」2006-06-30 |
「大仏切通しの最大の問題点!」2006-06-25
この封鎖の残骸が、峰の道と街道道の区別を混乱させた基と考えています。
この七口は、乗り越えるのに困難を極め、、、江戸時代に道路を補修した記録もある。
> (北道倶楽部<www.ktmchi.com/>より)
> 小袋坂ー1851年には鶴岡八幡宮寺の岩瀬一学が峰の
> 高さを約3m掘り下げる普請を建長寺に申し入れ許可
> 鎌倉市史(考古学編)には
> (北道倶楽部より)亀ヶ谷坂切通し----山ノ内に入った敵軍は、長寿寺手前から
> 長寿寺の脇を経て亀ケ谷坂に侵入する事が出来る。この道が尾根を切り通したも
> のが亀ケ谷切通である。現在のものは後世深く且つ広く改修したもので、
> 当時は現在の切通の上の方を狭い切通路が通っていたもの。
> これは前方に逆茂木を並べ切通上に陣を敷いて待ち構えていたら、通る事は出来
> なかったろう。
 (「鎌倉市史(考古学編)」p178 )
同じく、朝比奈の切通、大仏切通でも江戸時代に道路補修が行われた。

要は、七口総べてが封鎖された。 江戸時代に一部道路を補修した。 しかし明治の時代でも人力車を通す道は大仏切通だけで「七口封鎖のバリケード」は残骸として残り、通行の障害となっていた。

七口の封鎖は、どの様な規模で在ったのか? 想像出来ますか?
15日分配河原で負けて、18日には戦いが始まった。その数日でバリケードを作った速成バリケードは、どんな規模であったか?? 考えてみて下さい。

  写真は
洲崎古戦場の碑。この道路が無ければ、敵を迎え撃つ断崖と成っていた場所です。
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大鎌倉城 化粧坂編 3

2012年09月20日 | 切通し
化粧坂は何処に?
道幅からして、鎌倉以前より存在した道と考えられ、鎌倉期に道幅を狭めた。
その道は、太平記、梅松論の記述から「化粧坂」の実態が浮かんできます。

新田義貞が、鎌倉攻めで最重要視したのが化粧坂でその人数から重要度が理解できる。

太平記より、攻防する兵の数は、
新田勢六十万七千余騎
 十万余騎、極楽寺の切通へぞ向はれける
 十万余騎、巨福呂坂へ指向らる
 五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける
鎌倉勢二十四万騎
 三万余騎にて粧坂を堅め
 五万余騎、極楽寺の切通を堅め
 六万余騎にて、州崎の敵に被向
 十万騎を 予備軍として鎌倉中に待機。

新田軍の本隊五十万七千余騎(大半)は化粧坂を攻撃した。
本隊が最初に戦うのは、州崎で待ち構える鎌倉軍六万余騎であり、五月十八日に攻撃が始まった。
「晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。」と言う結果で、鎌倉勢六万余騎は、10倍の新田勢に一日で敗れ、新田軍は山内(山崎)に入った。
山内荘園の南端が山崎で、この山崎が攻撃に重要な武蔵大路の場所となる。
化粧坂から伸びた峰が「台峰」と呼ばれ、鎌倉城の大手道であり、北に降り口が有り堰水橋があり、ここも山内でこの谷は円覚寺、建長寺、巨福呂坂続く。
台峰の南は山内の南端で天神山があり、梅松論より武蔵大路の赤橋氏が守った場所で、更に奥は倉久保ノ谷戸で化粧坂がある。
別な見方をすれば、
新田軍は鎌倉の大手道のある台峰を北の巨福呂坂軍と南の粧坂軍で挟み撃ちに出来る陣取りです。

梅松論「武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき千代塚において合戦を致しける」
山崎は天神山の麓であり、武蔵路の守りに赤橋が天神山に陣を構えたと梅松論に書かれた場所です。
桐生六郎が報奨目当てに主人の首を持ち鎌倉に着いたが市内に入れず、武蔵路より深澤を経て、腰越に向かい、挙句の果ては、腰越で首をはねられた。
鎌倉外の武蔵路の場所を示す根拠になる文章です。
新田軍は州崎より武蔵路を守る天神山(山崎)へ=桐生六郎は深沢(州崎)より武蔵路(天神山麓山崎)へ
新田軍の逆コースを桐生六郎が歩いた訳です。

以上の文からキーワードを探し、話を展開するのです。

■新田義貞の認識は「化粧坂を、山内(山崎)から攻め込める」と考え州崎を攻撃した。
■鎌倉勢の考えは天神山に陣を置く事で武蔵路を守れる。っと考えている。
■新田勢は軍を3手に別け、18日にこの3軍が別行動したと考えれば、巨福呂坂軍(十万余騎)は、州崎ではなく、台峰の北側(現在の小袋谷)を巨福呂坂に向け別行動をしたと考えられる。
深読みをせず、言葉通りに解釈しています。(文献の書き手で言葉の意味は違う)
よって、太平記の巨福呂坂は、台峯の北側の通り、山内は天神山の麓辺りの台峯の南側山崎を考えています。
 新田軍本隊が化粧坂を攻め、敵を引き寄せている間に、極楽寺軍と巨福呂坂軍は
鎌倉軍の裏を攻める計画と考えられます。巨福呂坂軍は北鎌倉駅前(これも山内)を通り亀ヶ谷と巨福呂坂へ進軍ですが、その途中は堰水橋橋、瓜ヶ谷等の、台峰の北が在ります。

この文の真意は、新田軍は化粧坂をドノ様に考えて攻めたのか?同様に鎌倉軍の考えは?
そこから導き出されるのは、それ以前に在ったであろう、、古代の巨大道路であり、、其処が新田軍の考えた鎌倉城の攻略法と考えるのです。
実際に起きた事は、その場所には鎌倉軍が待ち構えて攻め崩すことが出来なかった。

写真は、
新田義貞が鎌倉に向け攻撃を開始した柏尾川西岸にある兜岩(神戸製鋼敷地内、同敷地内より、鎌倉攻撃の際作られたと思われる橋脚遺構が見つかる)
ココから川を越え州崎を攻める。
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大鎌倉城 化粧坂編 2

2012年09月18日 | 切通し
wikipediaより=化粧坂
> その外側の道も不明であり、明治15年の帝国陸軍のフランス式1/20000
> 地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿
> いの道、また北鎌倉方面への数本の道、また北条常盤亭方面への尾根
> 道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっている。

上記には、化粧坂を登った処から次の方面に行く道が書かれています。
■梶原方面
■洲埼方面
■北条常盤亭方面
■北鎌倉方面

(北鎌倉方面)
山ノ内配水池の脇から、北鎌女子グランドの土橋、水堰橋へ向かう道が明治の地図に在り桃色破線で記しました。
北鎌女子グランド周辺で掘り返すと3m余の道が現れたそうです。
水堰橋⇒北鎌女子グランド⇒化粧坂を結ぶ最短距離の道です。化粧坂に対応した道であり、伝承にも有る水堰橋から鎌倉市内に入る化粧坂に対応した道幅で、鎌倉城の大手道、中の道などと呼ばれた道と考えるのです。

 その他の道は無いか?
尾根上は総てに道が在り、兵を配置する為に使ったと考えています。
それらの路は水色で記しました。
(洲埼方面)
山ノ内配水池の脇から、梶原や山崎に向かう尾根道は団地となり消滅したが「かまくら子供風土記」鎌倉市教育研究所発行 によると、この道幅は1~1m半であると書かれている。道幅は狭く街道とは考えられない。兵を配置する為の道と考えています。
(大船方面)
北鎌女子グランドから、台峰を西の天神山方面へ道が在るが、道幅は狭く屈曲とアップダウンがあり、兵を送る道と考えられ山崎切通し(魯山人の愛した臥龍峡)にて断ち切られている。(現在は峰から下りる道は有ります。)
大仏に向かう道はハイキングコースでもあり赤い破線で記しました(北条常盤亭方面)。街道としての道の格はなく、峰通しの兵の移動に使う道ですね、、、
(梶原方面)
唯一梶原方面の道は尾根道ではなく谷の道であり、平安若しくは奈良時代の駅路を想定できる路ですが、、、
その様な路は鎌倉時代に意識して消し去った訳です。
目立たぬ様に消し去った訳ですから、その痕跡を目の前に見せても巨大すぎて道跡とは思わない処が凄いところです。
問題はどの様に消滅させたか??
それを考察する為に大鎌倉城の構造を知る必要に迫られた。

地図は、明治15年迅速図に桃色の線で化粧坂から、中の路と考えられる路を水堰橋まで、加筆した。
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大鎌倉城 化粧坂編 1

2012年09月10日 | 切通し
化粧坂は何処に?
誰でも知っている海蔵寺脇から源氏山へ登る化粧坂ですが、、
峠から外へ出る道は何処に在るのでしょうか?
化粧坂だけ、鎌倉の外に出る道が無い!
鎌倉で最も重要な大手の道と思われる化粧坂なんですが、、、

化粧坂の話の前に予備知識を、、、
化粧坂の道幅は広いですね!
4~5mは在るでしょうか?
鎌倉の山道では、朝比奈と同等な幅でそれ以外の山道で広い道は在っても、近世の物でしょう。
化粧坂上の頼朝像周辺の道は、舗装の上広かったのを思い出しました。
化粧坂は、頼朝以前から在る道と私は考え、平安時代の管路に相当する道と思います。
この道は鎌倉時代に整備し直し3m程の幅に修正したのがこの岩の削った痕跡とされています。
それなら、外部に対応する道幅の道は在ります。

基本的鎌倉の山中は砦であり、守る兵は峰の上で登ってくる敵を攻撃する。
その様な訳で、総ての峰に兵を配置する為の道は存在する訳です。
道が峰の数だけ在って、どれが街道か不明と言うのは、あまりにも現物を見な過ぎです。
その様な戦略の道と街道筋(七口から出る一般人が使う道)を区別する目が必要です。
その違いは道幅に大きく現れる。
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大鎌倉城2

2012年09月04日 | 大鎌倉城
鎌倉城は巨大な構造と高度な工作をされた事を感じます。
巨大すぎて全容を語れる人は無く、語られた事は断片的です。組織だって全容を調べた事も無い様です。
有るのはピンポイントの発掘のみで、調べる人も無く、その実態は不明のまま都市開発されるのが現状です。
俗に言われる七口を巡る峰が防衛ラインとして作られた。っと大半の語り手は、それで鎌倉城の解説は終わりです。
そんな薄っぺらい防衛ラインなら、簡単に新田義貞は正面突破出来たでしょう。
七口の防衛ラインは、、城の本丸部分です。
実態は、防衛ラインから外部に張り出した峰の総てに戦う為の仕掛けが作られた面と幅のある城と私の目に見えるのです。
新田義貞を食い止めたのは、この峰の部分と考えています。
その城壁としての切岸を系統立てて調べないと、城の概要は浮かんでこないのですが、、
残念ながら、切通しや平場、堀切御猿畑の派手な切岸等が話題になり、城構造の全容を語る人は居ない。
、、そこらの山城の工作より質は高く、決して自然の要害ではなく、自然を高度に工作して要塞化した場所です。
問題は、その自然に手を加えた工作が半端でない事です。

写真は、小坪より名越切通しに向かう道の切岸(鎌倉城東の守り)。
昔は、報国寺までこの切岸は続いて居たと云われている。
その途中に御猿畑の大石切り場がありますが、、必要以上の高さの分が石切り場の跡なのでしょうね。
これは、石切り場で切岸ではない!なんて否定するお方も居られますが、、、
鎌倉では、切岸も石を切り出し作る場所が多々あります。
朝比奈切通も採石の跡がありますが、採石の痕跡がある=採石場と言う理屈は一面正しくても、全体には不合理です。


「大鎌倉城2」は、話の内容が脱線した為に「稲村崎成干潟事序」に変更し、代わりにこの大鎌倉城3を「2」に変更します。
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大鎌倉城 1

2012年09月04日 | 大鎌倉城
鎌倉時代に行なわれた鎌倉城を造る大掛かりな地形改造の話です。

防衛上、巨大駅路は敵の侵入を楽にするばかり!
故意に巨大駅路を消滅する工作がなされたと考えられる。
その根拠として幕府成立後に作られた大仏の切通し、名越えの切通しを見学して下さい。
その上で、
幕府成立以前より在ったと考えられる朝比奈の切通しを見て頂きたい。
単に見るだけでなく、この「鎌倉街道を探そう!」2006-06  ☆朝比奈切通し!2006-07 大嘘つき ☆鎌倉に駅路 ☆朝比奈 ☆朝比奈図 ☆駅路の証☆朝比奈1~4 ☆武蔵路☆六浦へ!を参照し、巨大駅路を如何に押し寄せる敵を攻撃しやすく作り変えたか!
実感で感じて頂けると思うのですが、、
不明、疑問などありましたら書き込みをして下さい。

そして、鎌倉城の実体を考察してみましょう。
今回の航空写真は、俗に言われる 七口を峰で結んだ防衛ラインです。
鎌倉城の縄張りと考えられている様で金色ラインで書き込みました。
実体は、押し寄せる敵に対し、兵を移動する峰通しの道と考えています。
ですから、このラインは敵と戦うラインでは無く、敵を寄せ付けないラインと「ぼ輔」は考えるのです。
そして、敵と戦う場が存在する訳です。
寄せる敵を追い散らす戦う場を含めて城を構成するのですが、、
問題は、大半の方が黄色ラインを鎌倉城と考え、この程度の認識で終らせている事です。
もう少し掘り下げて考える人がいても良さそうなものですが、、、

写真は、国土交通省の写真を合成。

  2010年6月 記載
  2012年9月 一部修正
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