鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城の範囲  コメントより 2

2020年08月03日 | 大鎌倉城
 (うにゅー)サン
> 一方で同じNHKの「日本の城(最強の城?)」では、昇太師匠だったか
> 千田先生だったかが、地質による城の形態の違い(関東ローム層とシラ
> ス台地の違い)の様なことを語られていました。

  鎌倉の場合は、通常の土の山とは違い、岩山ですから、掘れば崩れず、、壁となる。
その壁は、石垣の明確な人工物とは違う、何処も彼処も鎌倉山は人が
登れない岩崖!
当然、、鎌倉はその様な地形で、自然に切り立った地質! なんて考える。
山奥の霊山幽谷の切り立った崖の様な地質?? 何処にそんな切り立った崖を作る水量の川が有るか? それは無い!!
人手で切岸は作られた訳で、自然の要害!なんて、現地を調べて無い証拠です。
ついでに丹沢の沢登りをやられると、何が人工的な壁で何が自然の崖かの区別も付くようになります。
丹沢は、造山活動の活発な若い山で、急激に高くなっているので崖崩れの多い不安定な若い山です。
自然の急激な壁、、、例えば滝の直登でも手掛かり足掛かりを見つけて登ります。
直登が怖ければ、巻いて登る道を見つけられます。
鎌倉の切岸は、草木が無ければ登れない! 一般人的な感覚の話です。
訓練すればオーバーハングでも登るのが人間です。
実際に稲村で「新田軍の三木俊連が霊山寺の峯 を襲った」訳ですから!

> (中世の初期と後期とは築城のコンセプトなども違うかと思いますが)
  このコンセプトは、国内の戦いを想定した話だと思います。

世界一強大な軍隊と戦う視野が、この解説をした方には無かったハズです。
城の威容等無関係で、戦いに勝つ為の要塞が鎌倉城であり、その後鎌倉城を造らされた関東武士が築城方法を転用し自分の領地に城を作ったのが戦国時代の山城。
時系列として、その様に考えて居ます。
それ以前は、大和朝廷主体の 互いを攻める事の無い時代で、城は不要!
源平合戦以降に政治力以上に武力が力を持つ時代に成り、城の必要性が出来た。
戦国時代は、隣の領主が攻めて来る時代に成り、自衛の城が必要に成った。
その後 城の威容を誇示した石垣造りの城に変化したと考えます。
それが、城に対する歴史と言う訳です。 
現状の石垣の城を見て鎌倉に城は無い等、、歴史を無視(考えた事が無かった?)した話と成ります。

> もしこの葉山町域も鎌倉城域であるとすれば、その地形を当時
> の鎌倉幕府がどのように料理したのか、元が海上から襲来した
> としてどの様な軍略を取るつもりであったのか、その辺の今後
> の記事展開を楽しみにしております。
  その築城の戦略は縄張りから見える訳ですが、、、
もう、、気付かれて居るようですね、、
私も5年前は、七口のラインが鎌倉城の範囲かな? っと考えて居たわけですが、
余りにも広範囲な切岸の状態は、国土地理院の地図表現が無ければ、その全容は掴めなかったでしょうね!
この広範囲は私が考えた事ではありません!
国土地理院の地図が示した訳です。
それに尾ひれを付けて居るのは、、此の私には違いないのですが(-_-;)

> 逗子葉山市町界の相模湾を見渡せる峰に、あの有名な古墳群
> があった、というのも気になりますね〜。(記憶違いかもし
> れませんが、後の三浦(氏)水軍絡みだとか何とか。。。)

  桜山の古墳群だと思いますが、、
40年程前から、一度は見ようと思っていましたが、未だ叶わず!
古墳群の時代、鎌倉幕府の時代、三浦水軍の時代、各々の時空が噛み合わないと思います。
鎌倉幕府の時代に、東側の守りは「対三浦一族に対しての守り!」で東側より強固にしてある!
等と書かれた文献が在りますが、三浦に問題が有れば即攻め(宝治合戦)滅ぼされる。
西側の守りが強固であるならば、元寇の船団は横須賀、六浦から攻めると考えた根拠になる。
新田義貞が鎌倉城の西側を攻めたのも、偶然では無い、、、 ナンて文献は無いんですがね、
逗子市内の小学校は、定番の社会見学の場所と聞いています。
それ以前に、この辺りに行くと「つばさ模型」に足が向く!
視点が違う意見は、、
トテモ参考に成ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城の範囲のコメントより

2020年08月01日 | 大鎌倉城
   (うにゅー)サン     2020-07-31 12:05:06
> 地質に関しては私はまったくの素人なんですが、先日の「ブラタモリ」においては、
> 葉山町域は葉山層群という独特の地質なのだそうで、紫のラインを境とした地形の見
> た目の違いの要因の一つはそれなのかもしれません。


三浦半島や千葉半島は、2,300万年前以降の地層ですが、特異な例で更に古い時代の地層が「葉山-嶺岡帯」です。
葉山-嶺岡帯は、5,000万~4,000万年前に出来た地層。

更に詳細に地図を見ると、紫ラインの北と南の山際は同じ地質の葉山-嶺岡帯!!

縦縞の間に挟まれた灰色の部位が葉山-嶺岡帯です。
依って、地質の違いではなく、、人工的なモノと考えます。
三浦の山は、地質が一様ではなく、断層も多々在るのは解っていますが、、、
本気で調べた訳じゃ無い!  気になっていた盲点を突かれた感じです。
(うにゅー) サンの突っ込みは、、心臓に悪い!
辛うじて 逃げ切れた感じです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする