由比ヶ浜に元寇坊提に相応する崖が存在した!
逗子の海岸にも同様な元寇坊提に相応する崖が在り、
更に七里ヶ浜にも元寇坊提に相応する崖が存在し、明治の時代まで残り、写真に捕らえられている。
では、鎌倉城を外れた海岸はどの様でしょうか? 江の島の砂州は片瀬川ですが、片瀬山迄切岸が存在する事から、片瀬川までが鎌倉城の範囲と考えられ、片瀬川西側の鎌倉城から外れた砂浜(鵠沼海岸)はどの様か?
ご覧のように片瀬川一つ隔てると、普通の砂浜と成ります。
結果は鎌倉城の範囲に防塁は造られたと考えられる。
由比ヶ浜に元寇坊提に相応する崖が存在した!
逗子の海岸にも同様な元寇坊提に相応する崖が在り、
更に七里ヶ浜にも元寇坊提に相応する崖が存在し、明治の時代まで残り、写真に捕らえられている。
では、鎌倉城を外れた海岸はどの様でしょうか? 江の島の砂州は片瀬川ですが、片瀬山迄切岸が存在する事から、片瀬川までが鎌倉城の範囲と考えられ、片瀬川西側の鎌倉城から外れた砂浜(鵠沼海岸)はどの様か?
ご覧のように片瀬川一つ隔てると、普通の砂浜と成ります。
結果は鎌倉城の範囲に防塁は造られたと考えられる。
由比ヶ浜の元寇坊提に相応する遺構は鎌倉考古学研究所に依ると 由比ヶ浜南遺跡は「東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。」っと発掘状態を語っている。 四角い鎌倉石で積み上げられたモノと考えられる。
その土塁を西へ延長させると坂ノ下で、関東大震災で崩れた状態が下の写真です。
四角い石材が散乱しているのが確認できる。
同様に関東大震災で崩壊した七里ガ浜の道路と崖の状況は? 下図の状態です!
小動岬が写る崖が崩壊した写真です。
如何でしょうか?
四角い鎌倉石が散乱した状態は、由比ヶ浜(坂ノ下)の画面と同じ状態です。
由比ヶ浜南遺跡と同様に「鎌倉石を使った大規模な土塁」と考える根拠の写真です。
鎌倉時代に造られた道路は総て細い道です。広かった化粧坂の道も狭く作り直した痕跡が在り、朝比奈の切通も同様に狭く作り直した。
七里ヶ浜の道と考えれば広すぎる道ですが、元寇防塁の平場の広さと考えれば矛盾しない訳です。後世に鎌倉と江の島を結ぶ観光道路となったと考えます。
江之島には灯台(昭和20年代に建設)がありません。江ノ電は1910年(明治43年)開業。依って、この画像は明治43年から大正12年の間と考えられる。
下の写真は、道路脇の崖の状態です。
下の写真は 江ノ電が無い時代ですが、注目は道の広さに有ります。
・ 化粧坂より葛原ヶ岡神社に向かう旧道、
・ 大仏切通より手広に下る道、
・ 銭洗弁天から葛原ヶ岡神社に向かう山道(山崩れで通行禁止)、
・ 名越の切通の道、
これ等は、皆細い道です。
例外は、化粧坂の道や朝比奈の道が広いのですが、、、鎌倉時代より以前の道と考えられます。
これ等の道と崖の作られた時代は、、、
これ等の重機の無い時代の道路整備は、鎌倉時代以外は考えられない訳です。
更に、鎌倉時代には、広い道路を狭めて使う時代でこの広さは矛盾です。
これは、道路として考えると矛盾しますが、、元寇防塁としたら、
元寇の攻撃をこの平場で武士が弓を持って待ち構える。
更に、その後ろを敵が多い場所に向けて騎馬が疾走する!
その様な戦う為の平場と考えれば矛盾しない。
この山の裏には、騎馬を置ける場所として、鎌倉広町緑地が有ります。
長窪の砦、水堰橋上の台村の平場、更に広町緑地等、通常の守り主体の城とは異質。
攻撃が前提の城と感じます。
問題は、砂浜と道路の間の崖はどの様な、構造なのか?本来なら掘り返さないと判らない話がテーマです。
七里ヶ浜の話です。
鎌倉の由比ヶ浜には元寇防塁と考えられる遺構が在った。
鎌倉城の切岸は、片瀬山にも在り、江の島の際迄鎌倉城が存在すると考えられる。
依って七里ガ浜にも元寇防塁が有るのでは、、っと考える訳です。
下の写真は江の島から見た七里ヶ浜で、国道134号線の崖に成っています。
写真左は小動岬で、右端は稲村ヶ崎になります。
ご覧のように国道134号線の崖が、元寇防塁状態です。下の写真は、その一部を拡大しました。
写真に写るのは、国道のコンクリートの壁ですが、、国道が出来る前は、この崖の場所はどの様で在ったのでしょうか?
下は「今昔マップ」と言うアプリケーションです。
明治の地図ですが、既に江の島電気鉄道の文字が在り、七里ガ浜に道が在るだけでは無く鉄道が脇に在ったのです。
この道路の記号は、
一、道路の記号
二、鉄道の記号 緑色の枠内
三、崖の記号 赤色の枠内
の三要素で依り成り立っている。
結果は明治の頃より道の砂浜寄りは、土塁の崖が存在したと考えられる。
問題は、この道と崖の詳細です。