鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

世界一大きな城は何処?5

2023年11月24日 | 巨城対モンゴル

一般的な城の例外は、権力者を守る天守閣を持つ城の他に、防塁の中に町があり 総構えと呼ばれる。
初期は小田原城3.6㎢ (東西2.7㎞南北2㎞)で、その当時は日本一で在ったと考えられる。
小田原城が、ドレだけ凄かったのか? 正面から戦うには強固過ぎ城壁で、秀吉は兵糧攻めの持久戦で開城させたのです。江戸城総構え 16.6㎢(南北4.7㎞ 東西5.6㎞)
京都御土居堀は21㎢ (南北8.2㎞  東西3.5㎞)
鎌倉城は、  91.9㎢(東西16km 南北10km)
大宰府羅城  96㎢ (南北14㎞  東西10㎞)
現時点では、鎌倉城よりも大きい。そのわけは、鎌倉北の横浜山手迄、
南は横須賀の浦賀迄を考慮に入れると、鎌倉城は更に大きく成ります。

城の概念を根底から覆した鎌倉城の記事を見て、出鱈目記事だ! ナンてね、、、
地方の争いの小さな城では無く、海外国と戦えば 広大な城が必要と幕府や大和朝廷は考えた訳です。
日本城郭大系の城と 考えが根本的に違う訳です!!
そんな羅城の前例が大宰府に有り、2015年に峰の土塁を発見した事で、初めて羅城を認識した。

海外に目を向ければ、、巨大な城は
フランスパリのティエールの城は、パリ全域約80㎢を取り囲む城壁がある。
1841年から1844年にかけて造られた。

現北京城は二環の内が旧城内で、以降拡大されて三環、四環、五環が造られ、五環を出れば城外となる。
旧北京城内の二環は62.5平㎢の面積で、三環の面積は159㎞、四環の面積は302㎞、五環の面積は667㎢です。
金時代    16㎢ 城壁16㎞ 
元時代北京  56㎢ 城壁30㎞
現在の北京城は667㎢  と言う時代と伴に広がった様ですが、、、
元寇の蒙古襲来時には、元時代北京は56㎢であり、より数段大きいのが鎌倉城であった訳です。

結果は、鎌倉時代の鎌倉城は、、、同じ元時代の北京よりも大きく 世界一大きい城とも考えられます。

モットも、万里の長城が城で在るとしたら、、、二番目ですがね、、

右の地図の紫色のラインは、蒙古襲来の時に船を安全に止めやすい東京湾から攻めてくると予想し、七里ガ浜や由比ヶ浜よりも 更に強固な防備をしたと考えられるし、その範囲は浦賀より横須賀港、六浦、横浜の山手までに、切岸に相当する崖が確認できる。

そうなれば、、、鎌倉時代には 世界一の城であったと成ります。  そんな「武士の都鎌倉」を世界遺産にしようとして失敗した話が有る。

何故 世界遺産の申請に失敗したのか??  ぞれが問題です。

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世界一大きな城は何処?4

2023年11月20日 | 巨城対モンゴル

「日本城郭大系」には、多数の天守閣(本丸)を持つ城が紹介されている。
当然天守閣の無い山城も載っているのだが、城の象徴的な天守閣に目が行くと思います。
しかし天守閣は城と言う防衛施設の付属物で、本質は別です。
漢字の「城」の意味は[壁]が主体です。
「城」は土偏に成(=戊)を組み合わせた会意文字です。
「戊」は「人」と「戈」との会意で、戈は「武器としてのホコ」又は戦争の意味で防衛活動を指す。
結果は「城」の意味は、土塁を作り人が武器を持って戦う状況を示します。

一般常識の「天守閣がある城!」 と言う概念は城の本質では無い訳です。そうでないと、大宰府羅城や鎌倉城は理解できないし、、「鎌倉には城が無い!」と言う説を鎌倉市の生涯教育講座での講演を非難できないですね!

■■ 広大な羅城 空から実感 大宰府政庁をぐるり防御 ■■ 筑紫野市の市民団体
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/553104/
(2019/10/22 )筑紫野市で3年前に発見された前畑遺跡は現在、ブルーシートが
掛けられるなどしており、上空からでもその場所がはっきりと分かった。 
同遺跡は7世紀後半に築かれた水城や大野城と同じ「版築」という工法で作られた土塁。
東側を蛇行する宝満川に沿うように作られたとみられ、未解明だった羅城の「空白地」
を埋める大きな手掛かりとなった。

■■ 未だ謎の古代大宰府「防衛ライン」■■ 
https://www.sankei.com/article/20200913-FMS7MZRD7VLVXBB6MWGMHNXZCM/
(前略)前畑遺跡での土塁発見から5年。外郭線はあったのか-。 (永尾和夫)
(中略)平成27年10月、筑紫野市筑紫・若江地区にある前畑遺跡の発掘作業を続けていた
同市教委文化財課の小鹿野亮係長らは、丘陵地の尾根に沿って伸びる土塁状遺構の出土に驚いた。
「想像もしていなかった」という。
(後略)
以上のニュースより、大宰府羅城を認識したのは2015年で有った訳です。

日本に羅城が有ったと認識したのは、、、8年前だったのですね!!

 

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世界一大きな城は何処? 3

2023年11月17日 | 巨城対モンゴル

九州には大宰府と言う場所があり、元寇で博多湾に元の船が押し寄せた。
一回目の元寇で中国軍船が博多湾に押し寄せた時ですが 妨塁は無く武士は中国軍に押され水城に逃げ込んだと有る。

大宰府には、、城が在るか?
その疑問に「日本城郭大系」にどの様に答えて居るでしょうか??
水城をはじめ、大野城、基肄(きい)城 等の紹介が有ります。
しかし、太宰府羅城の話は無いと思いますが、如何??

鎌倉城でも、、、それが羅城である! なんて言う発想は皆無で、、、
藤沢、鎌倉、横浜、逗子、横須賀等の広域に切岸が在るのに、、、
鎌倉市内ですら目立つ お猿畑を調べて名越切通を城だと紹介した。その無駄に切り立つ切岸に思えるのは、近世の鎌倉石を切り出した場所と判明。
挙句は、
日本城郭大系の「お猿畑の名越切通」が単なる石切り場と証明されたら、
反動で「鎌倉には城が無い!」説を唱え 鎌倉の生涯教育講座で拡散した! 浅慮な話です。
発掘しなければ判らなかった大宰府羅城の城壁とは違い、、、
鎌倉羅城の城壁は切岸であり、調べれば発掘などせずに、、素人でも見て解ります。
切岸は樹々で隠されて判別し難いが、直下で見上げれば十分確認できます。 
調べる事もせず城は無い!なんて、、研究解明の思考が 単なる思い付き程度の考えです。
反論を期待する処ですが、、

筑紫文化財研究所
https://blog.goo.ne.jp/yuukodou/e/2755ecf1e35b9c6035a228690581c4a3

下の図は、筑紫文化財研究所掲載の大宰府羅城です。


鎌倉時代以前にレッキトシタ城が存在した訳です。
「日本城郭大系」は誤解し大宰府羅城を認識できず、、水城、大野城、基肄(きい)城を別々な城と解釈した訳です。
更に、 鎌倉城の場合は、広大な羅城の存在は 常識には無かったと解釈できます。
対外国的な戦争の城では、この様に広大な城を必要と考えたのが当時の支配者の考えた事です。

発表されたのは、2017年に第9回西海道古代官衙研究会にて「大宰府羅城と通行施設としての古代土塁について」という演題で在ったそうです。

鎌倉に城が無い! っと主張た人は、白村江の戦いを考えず、大宰府の羅城を無視し、万葉集の防人の事を調べない失態の上で、、、切岸で防御した鎌倉の城を『戦の構造物は無く、単なる鎌倉幕府の住居である! なんて言う考え方を披露した訳です。判断を誤りと言うより、事前調査をしない研究者としての手抜きと、古文書を熟読しない歴史的な考察の欠如等、、要は現代の鎌倉研究本の良いトコ取りをした机上論です。

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