鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉時代の波打ち際 20

2021年10月29日 | 鎌倉時代の波打ち際

こんな写真が在ったとは!
写真の題は「坂ノ下海岸海嘯跡」(関東大震災直後の写真 )鎌倉市中央図書館蔵 。
写した場所の想定は、国道134号線坂ノ下信号したの砂浜。
山の形と極楽寺坂の切れ込み及び、V字に切れ込んだ切通から見える陣鐘峰より、、この場所が特定される。

問題は、
砂浜から急に四角い石が散乱する土塁の光景が見える。
四角く切り出した鎌倉石で作られた元寇防塁が地震で崩壊した状態と考えられる。

一部地震に耐えた石組の防塁も見えます。
更に現状の同じ場所(google地図)です。

新田義貞は、極楽寺坂攻めで陣鐘峰に陣を置いた意味が理解できるでしょうか?
七口の峰の外から 唯一鎌倉の中を見れる場所がこの陣鐘峰で有り、浜に雪崩れ込む新田軍を鐘で指揮できる場所で有った訳です。
私は、鎌倉の花火をこの場所で「高見の見物」の予定でしたが、、今では木が生い茂り安易には見えない。

マサカ、、、 崩壊した元寇防塁の写真が在ったとは、、思いもしませんでした。

元寇防塁の際迄家が立ち並ぶ状態となり、、地震や津波の怖さも知り同じ場所に家屋を守る為の土塁を作り直したのが現在残る土塁と考えられ、使われた石も風化に弱い鎌倉特有な砂岩では無いが、脇の路地には鎌倉石が使われている場所もある。

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鎌倉時代の波打ち際 19

2021年10月25日 | 鎌倉時代の波打ち際

鎌倉の元寇妨塁は 現状ではどの様なのか?

下図は、google地図です。

ピンクのマークが元寇妨提と想定する場所で、石垣の有るが場所は黒ずんで写っています。ピンクマークは土塁の切れている場所です。

道路から車で出入りするには邪魔な土塁ですから、当然撤去の場所が在る訳です。その様な場所をピンクの丸で示しています。

アップするとこの様です。

更にその先は、

基本的には、元寇防塁と思われる石垣は統一したラインとなり、個人の力でやった個々の都合で凸凹したラインとは異質です。

更に防塁の高さも ほゞ同じ高さです。

以上はgoogle地図からの情報です。

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鎌倉時代の波打ち際 18

2021年10月14日 | 鎌倉時代の波打ち際

大正12年の関東大震災の坂下の惨状です。

震災の津波に洗われても、それなりに土塁のラインが黒く写っています。

浜辺は1m程浮き上がり砂浜は広くなり、新田義貞の攻め込んだ岩礁も浮き上がり埋め立てられ 戦後には稲村ケ崎を切通し国道134号線が開通した。

震災前とは違い、土塁の際迄民家が造られています。

その土塁の段差は、段差を強調した下図と見比べれば理解できると思います。

桃色の矢印の間の点線が国道に侵食されて無い、、、元寇防塁の想定部位です。
A点は国道と別れた場所で、B点は元寇防塁の終わる場所です。
次回は、稲瀬川とA、B点の現状を見てみましょう。

 由比ヶ浜に「元寇防塁」が存在する事は、、2017年では考えもしなかった。
その状況は「コメントより、」2017年02月記載
その様な訳で、このブログの主張は決して「正しい史実を記載した。」訳では無く、思考していく経過を書いて居る訳です。
更なる情報を入手したらば、、結論は違ってきます。歴史に真実を求めること自体無理が有ります。  しかし、根拠の無い憶測は排除すべきと考えて居ます。

例え反対意見でも、、「他人の見方や考え方は、刺激に成ります。」そんな訳で、、
(素朴な疑問)さん に謝意を表します。

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鎌倉時代の波打ち際 17

2021年10月12日 | 鎌倉時代の波打ち際

先ずは、明治15年作図の迅速図です。

トテモ 農地が多いのが目立ち、寂れた観光地の雰囲気です。
更に鎌倉に入り込むには道路が貧弱で、街並みの様子から出入りには極楽寺坂経由が定番で在った様です。

下図は大正10年の地図で、地図の作図は丁重で土塁も記録されています。

3,40年で、観光地として街並みが出来上がったのを感じます。

坂の下の土塁の状況を写した画像が有ります。成就院の高みから写した写真です。

山の上からの写真なので真っ白い砂浜に対して、土塁は黒いラインとして写っています。
土塁と家屋の間は広い空き地とななり、人が点のように写っています。
よって、家屋を保護する土塁では無いと考えられます。
 稲瀬川の先には 家屋が少ないのに土塁が在る。
住居民には、、意味の無い土塁と言う事から存在理由は「元寇妨塁」と考える訳です。

大正10年の地図の家屋と土塁の間は 写真からも確認できる訳です。

これが震災前の状況です。

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鎌倉時代の波打ち際 16

2021年10月09日 | 鎌倉時代の波打ち際

由比ガ浜を滑川、稲瀬川で区切ると、、、
東より材木座、滑川、由比ヶ浜南遺跡、稲瀬川、坂ノ下に分けられる。
材木座、由比ヶ浜南遺跡の土塁は、国道134号線に埋もれた状態です。

国道134号線に埋もれず、、土塁が残って居る場所は、、、、
稲瀬川より極楽寺坂間の 坂ノ下が在ります。

坂ノ下では、海際に国道134号線が在り、その山側に傾斜地を示す黒い線が在る。これは国道が出来る前から存在する段差と考えられるます。

上図で国道134号線が急に南に向け曲がる場所は、震災で浮き上がった岩礁を埋め立てた場所で、新田軍がこの岩礁の上を攻め込んだ場所です。

埋め立て前の関東大震災以前は海で在った場所で、本来の砂浜は元土塁の段に沿って浜が在った訳です。

その当時はヘリコプターも無く、民間人が乗る様な飛行機も無い時代で、鳥観図は、想像で描く時代です。坂ノ下の街並みと土塁が描かれています。

想像力で、此れだけの再現力は素晴らしいモノと考えて居ます。
これは、人が描いた絵ですが、、、
実体はどの様であったのか??

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鎌倉時代の波打ち際 15

2021年10月05日 | 鎌倉時代の波打ち際

明治29年作図の鳥観図で、由比ガ浜が描かれています。

由比ガ浜には砂浜を囲む土塁が描かれています。
「相模国鎌倉名所及江之嶋全図 」とあり「早稲田大学」で検索できます。この図を「検索」して貰うと、拡大した部分図を見る事が出来ます。

拡大して見ると、単なる崖では無く、ある部分は石組みらしき処も有り人工的な土塁が由比ガ浜を囲む様に描かれており、人家の無い場所にも在る事から 個人的資産で造られた土塁とは考えられません。

図面は他にも有ります。

この図は、大正4年の作図で、江ノ電が記入されています。
砂浜を囲う土塁が描かれ 大正12年震災以前の作図です。
大正12年震災後の写真は 津波でも土塁は残った訳です。
上記の図版にも 土塁が描かれています。

一般民衆には、土塁を作る財政や労力は無いし 自分の土地なら財力が在れば土塁を作るでしょうが、浜全体を囲む土塁は政治力を使わないとできない話です。 

図面左端の坂ノ下の土塁の段差は、時系列を追える場所で 焦点をこの場所に絞り一段深く掘り下げましょう!

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富士山中 に東海道 十里木 2021

2021年10月03日 | 古東海道 足柄、箱根、富士

「富士山中 に東海道 十里木」
2021/10 のgoogle map 3D画像です。
誰でもこれを再現できるし、 更に詳細に拡大もできる!

画像下部のGoogleロゴから真上に向けて 直線的な痕跡が在ります。
その方向は、箱根の外輪山「長尾峠」方向であり、画像ではゴルフ場が写っています。

下図は途中から折れ曲がり「足柄の尾根」根元に向かいます。

判り易い様に、画面下のGoogle の場所に池を入れました。
道はやはり真上に向けて在りますが、足柄向けは痕跡が薄く、、判りにくい。
現地での確認は視認するのはトテモ困難と思いますし、私も確認していません。
上空から大きな視野でならば、、、確認できますよ!っと言う事です。
足柄向けは痕跡が薄い上に 季節、下草の野焼き、日照時間に依る影の変化、等の条件で確認のし易さが変化します。
数年前のスマホのGPS性能では、現在地の確認ができずに私は失敗しています。
GPSの性能が良く、荒野でも位置が確定できれば、可能が広がる。

何方かチャレンジして欲しいと思いますが、、、
やる方が居られたら、、是非レポートしてください!!

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