鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

手広切通し編の工事後。

2016年05月07日 | 忘れ去られた鎌倉

上の写真は、2016年の冬です。
工事でも、取り敢えず残された訳です。
情緒も、そこに切通が有る必然性も消え、単なるモニュメントとなりました。
残しただけでも、幸いだったのでしょう。
バイクの後ろの黄色い金網の後ろが切通です。
青蓮寺へ抜けたトンネルは、更に塞がれ上部が残ります。
左の岩肌は、道を広げた為で、右の岩肌は、切通に代替えの新しく切り開いた道です。

忘れ去られた鎌倉手広切通し編10 2009年10月13日

   に使った写真で撮る角度は90度の差があります。
真ん中の電柱の有る後ろが切通です。
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七里ヶ浜は、何故七里?

2015年11月06日 | 忘れ去られた鎌倉

ウィキペディアより
> 地名の由来は、「稲村ヶ崎と小動岬の間が7里(鎌倉時代、関東地方では6町
> を1里としていた。)あるからである」というのがこれまでの一般的な説で
> あったが、この「関東里」を用いても、稲村ヶ崎と小動岬との間は7里に満た
> ない。近年、「これは鶴岡八幡宮と腰越の間の距離であり、『浜七里』と
> 呼んだ」という説が出された。密教の「七里結界」に基づくもので、裏鬼門
> (南西)方向に7里の腰越までが浜七里だという。
> そして、鶴岡八幡宮の鬼門(北東)方向に野七里という地名が現存する
> (横浜市栄区)。八幡宮からこの野七里ま
> での直線距離は、関東里の7里に満たない。


この文章の問題として、、
「鶴岡八幡宮と腰越の間の距離」とされると、時系列に問題が起きる。
鶴岡八幡宮が基準ならば、「七里ヶ浜」の名称は八幡様造営後に作られた事に成る。
それ以前の名称は? なんて突っ込みたくなる話です。
古代の鎌倉は製鉄で栄えて郡衙があり、由井の長者の名が有る程の場所が 七里ヶ浜の名は八幡様の出来る前に名前が無かったと思えない。

 一里は何キロでしょうか?
その辺りから考える話ですが、豊臣秀吉の太閤検地で使われた一里は3,927kmで 現代の尺貫法まで続いている。
七里ヶ浜の稲村ヶ崎から腰越の小動岬までの距離は2.7kmで一里未満です。

 太閤検地より前は、
大化の改新を経て、日本に律令制が施かれ、天平十四(七四二)年の制定と言われている「条里」で使われた一里は654mで7倍は4.578Kmです。

 厩牧令には30里(約16Km)ごとに駅家が設置された状況から、
16Km÷30里=0.53Km が一里とすれば、7倍は3.7Kmです。
稲村ヶ崎から腰越の小動岬まで2.7kmは5里となり、浜の長さでは無い様です。
そこで、鎌倉群衙(御成小学校)から7里の場所を探ると、3.975Kmで七里ヶ浜の真ん中になる!
天平「条里」や駅路でも、、鎌倉群衙より七里は七里ヶ浜の中心に当る。
太閤検地の七里では無い様です。

 「八幡様!」の発想はそれ以前の時代が無い前提の考え方です。
その昔古代東海道が有った時代には、御成小学校(鎌倉駅脇)が有る場所に鎌倉郡衙が在った。 そこより距離3.975Kmの7里の場所に在る浜を「七里ヶ浜」と名付けたと考えるのです。

証菩提寺 野七里と呼ばれる延長の先にあり、鎌倉の鬼門になる。鎌倉郡衙より8里の処です。 に石橋山の戦いで源頼朝を逃がす為に戦死した佐那田与一忠の供養のため建立したとある。
基本的には、不浄、厄害などは、結界の外で行い中に入らせないのが建前ですので、鬼門除けは7里の外と考えるのです。義経は七里の結界の外にある腰越で待機させられ、元からの使者、日蓮や、まだ10歳の北条時行の鎌倉幕府再興と敗北での処刑。などは、同様に龍ノ口で処刑された。日蓮の顛末は法難という話で、処刑は免れた。
っとここまで書いたら、「北道倶楽部」「水石の美を求めて」に詳細が載っていました。きっと過去に私も見たはずで、、頭の奥に残っていたのでしょう。
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コメントより (忘れ去られた鎌倉今泉編6)

2010年02月06日 | 忘れ去られた鎌倉
写真抜きの話です。

コメントより (忘れ去られた鎌倉今泉編6)
> 切岸 (三品)
> 2010-01-23 15:07:57
>  今泉の辺りには、古くからある神社とかお寺があるので、鎌倉時代には、”何か
> 重要な拠点があったのでしょうか?今泉から一山越えた先には、証菩提寺があります。
 
今泉の辺り (ぼ輔)
2010-02-05 11:20:27
証菩提寺は石橋山の戦いで源頼朝を逃がす為に戦死した佐那田与一忠の供養のため頼朝
が建立したそうですが、鎌倉の鬼門にあたる方向でもある。
七里ガ浜に対する野七里の終わる場所です。
頼朝時代の精神世界の結界ですね。

それ以前の奈良平安時代の鎌倉を考えるのです。当時のお宝の鉄や漆!
具体的にはイタチ川の砂鉄です。
鎌倉の豪族・染谷太郎太夫時忠もこの鎌倉の北側山中に関わる様です。

道については、あまり語られる事の無い鎌倉北部は太平山から円海山の直線的な尾根道の
存在や、野七里の道、荒井沢市民の森へ抜ける道(現ゴルフ場の為に通れません)等、古
来より有ったと考えられる道が在ります。
その辺りに、お地蔵さんや道標も眠っています。
上、中、下の有名処の道ばかり注目されていますが、文献に残るのはホンの一部の事です。

 染谷太郎太夫時忠の話ですが、
横浜霊園脇に環境事業局榮工場があります。
そのわきは、長者窪と呼ばれている。
イタチ川の水源にあたります。
長者と言う名前から染谷太郎が係わった場所と想像するのですが、
奈良時代、この様な辺ぴな場所で、経済的な成功を裏付ける「長者」の名前。
私は当時の先端産業の鉄を思い起こすのです。
そして、東海道と東山道武蔵路の交わる重要地点の鎌倉、、、
当時の状況を重ね合すと、鎌倉の北側は重要な場所であったのではないか?
そんな憶測をするのです。
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忘れ去られた鎌倉 今泉編 6

2009年12月17日 | 忘れ去られた鎌倉

今回の写真は、特大です!画面に収まらない! 画面下のスクロールバーを使って下さい。
規格にコダワルのが嫌いな ぼ輔の性格の結果です。
鎌倉湖のダムの下が問題のある崖です。
切岸の存在です。
この様な山奥まで細工をした跡があるのです。
鎌倉城の城壁と「ぼ輔」が考える切岸です。
水の流れで断崖が出来た?、、、そんな水量はありません。
周囲の状況から道路を作る為とか、畑を作る為でもありません。
石切り場の痕跡でもありません。
住宅化の波が及ばない場所では、この様に切岸が残っている。
此処で「今泉編1」の写真を見直して下さい。滝ではなく切岸として見ると、、
その構造ですが、、、、
切岸の高さや垂直の状態そして、平地から山に登る取っ付きに切岸があります。
私には、共通の物を感じます。
一つの考えに基づいた工作物=外部からの攻撃を抑える城壁=切岸という事です。

切岸の状態を見たければ、今泉を起点に六国見山に登り獅子舞谷→鎌倉宮→報国寺→お猿畠の切通し→名越え→小坪へと切岸巡りができます。
一貫した切岸の痕跡を見れば、、近年流行の鎌倉城など無いとか、防衛施設など無いとノタマウ輩は参考文献を調べても、、、鎌倉の地理や構造を自分で見て無い非科学的ない似非研究者である!  ぼ輔はそう考えるのです。

■切岸と石切り場の違いは何か??
人工的に作られた岩壁という意味では、、違いは無い。
しかし、
商業的に石を必要とすれば、採掘しやすい場所から可能な限り石を採り続け、崖の高さは防御に必要な高さ以上に、、無意味に高くなる。それが石切り場です。
切岸は、
人を侵入させない為の高さで良い。その幅は守る為の場所を囲み作られる。結果は長い距離を必要とします。手間をかけて過剰な高さは作れない。
そこには、一貫した高さの基準がある訳です。

非科学的な学者が発信した権威を持つ胡散臭い情報と、実際に見て感じる落差は自身で判断して下さい。それが大人のお遊びと言うものです。

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忘れ去られた鎌倉 今泉編 5

2009年12月14日 | 忘れ去られた鎌倉

この鎌倉湖の正体は、明治の初め作られた農業用水の池が始めです。
でも、、この周辺に似合わない大きな規模です。
「これを見たいから直ぐに行こう!!」等と思わないで下さい。
もう少し系統立てて見るべきものがあります。
鎌倉城としての城壁跡と考えられる切岸が小坪まで断続的にあるのです。
次回は、今泉にある切岸です。

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忘れ去られた鎌倉 今泉編 4

2009年12月11日 | 忘れ去られた鎌倉
これは、湖?池?  これも鎌倉です。
今泉不動に行く途中であり、八幡様の裏山を越えた処にあります。
問題は、
どの様にしたら此処へタドリ付けるのか?
検索ワードは「散在ガ池森林公園」で大船駅からバスです。
帰りは六国見山に登り、天園ハイキングコースから、
穏やかな人は半僧坊→建長寺や、瑞泉寺→鎌倉宮へ、過激な人は、八幡宮裏の百八ヤグラの道無き道を八幡宮裏山に行き、建長寺に降りる手もあります。
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忘れ去られた鎌倉 今泉編 3

2009年12月07日 | 忘れ去られた鎌倉
階段の上もこの様な苔むした状態です。
社寺の魅力としては、、、観光地では味わえないシットリとした物があります。
良い処を全て写真にしないのが、、このブログの特徴です。

行ってみたら
「思っている以上に良かった!!」その様に感じるのが旅の醍醐味ですから、、
そんな意外性やハプニングが旅の面白さ!
「懇切丁寧に紹介すりゃ良い、、、」ものではない。、、
一般観光客が浮かれ気分で見る今時の鎌倉とは別な、歴史の鎌倉の紹介です。
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忘れ去られた鎌倉 今泉編 2

2009年12月04日 | 忘れ去られた鎌倉
今泉不動の階段です!
階段が苔で緑色に成っているのが判りますか?
鎌倉に苔寺と称するお寺がに幾つかあるんですが、、
回り道を作って、階段を歩行禁止にしてある!
この場所は、その様な細工は皆無です。
さて、
「今泉編1」の写真を見て、、違和感を感じた方は居りませんか?
滝の水量と崖の関係ですが、、、
この様な崖を作るには、、水量が非常に少なすぎる!
そう、、、自然に出来た崖では無いと考えるのです。

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忘れ去られた鎌倉 今泉編 1

2009年12月01日 | 忘れ去られた鎌倉
鎌倉市街から北の山を越えた場所に今泉はある。
円覚寺、建長寺、八幡宮等の裏山の北裾野に当たる場所です。
其処には、
江戸時代に栄えた修験場として今泉不動がある。
修験者が滝に打たれて修行する場所です。
これも、鎌倉城の前振りの話ですが、、、
鎌倉には一般観光客が来ない場所にも、本来の鎌倉の顔があるのです。
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忘れ去られた鎌倉 山崎切通編

2009年10月16日 | 忘れ去られた鎌倉
写真は、北から南へ腰越に向け1~4まで山崎の切通しです。
私がバイクで通った時は、暗くて両側は岩壁のトンネルと勘違いした切通しです。
現在は、見てのとおりに広くて、何の感慨も湧かない道となりました。
右手は、切通し岩壁を残してありますが、、、それも、峠以南は上の老人施設を作る際オリジナルから平面的に削った様な工作をしてあります。
写真1は、右手に喫茶店があり、、崖と調和して一休みしたくなる雰囲気で、、、店主はこの地に長く住んでいる方です。それなりの疑問を投げかけると、、面白い話を返して貰える人です。
写真2は、喫茶店脇で昔の状態を維持していると思われる場所。
写真3は、上に老人施設があり、崖を削ってある峠の一番上。
写真4は、峠から下る状態です。

手広の切通しの様な時代を超えた雰囲気を、山崎切通から感じたのですが、、今は写真の状態で何も感じる事ができません。

この切通しを道とすれば、、道でしょうが、軍事目的とすれば、とても有効な堀切と考えられます。
山崎切通を堀切とすれば、、、
海蔵寺裏の大堀切は、、鎌倉市内に容易に入り込める道路!  それを塞ぐのは、
「土の橋」となる訳で、、、土の橋上からは理解できなくても、海蔵寺の裏から大堀切を眺めれば、、、土橋で塞いだ状況が観察できます。
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忘れ去られた鎌倉手広切通し編 10

2009年10月13日 | 忘れ去られた鎌倉
写真の手前は腰越方面に行く。
写真中央の電柱の後ろにある暗がりは、手広の切通し。
更にその先には女坂の登り口があり、坂を上った分女坂の峠は高い位置にある訳です。
道路際は、写真で見る様に崖です。鎌倉では当たり前に在る崖です。
当たり前に在るので、、この場所の様に土地の有効利用と気にしなかったのですが、、、
視点を変えて、
「軍事目的の城壁としての崖であった!!」そんな目で鎌倉周囲を見直すと
七口の切通しは防衛施設の一部であり、万策尽きた最終的な防御施設で言わば本丸で防衛している様なモノと考えられる。
本格的な防衛設備は、七口の外にあり、、二の丸、三の丸に相当する砦の存在が浮かんでくる。
鎌倉の周囲を徘徊し、この様な崖を散見する内に、鎌倉城は現在考えられているより「広がりを持った大規模の防御施設であった」と私は考え始めたのです。
内堀、外堀に相当するのは、多摩川での合戦が実際に有った、分配・関戸河原や、
州崎の合戦の柏尾川です。
こう考えると、、、トンデモナい広がりを持った防衛システムであったと考えるのは、、ぼ輔だけでしょうか??

思い返すに、、、山崎の切通しと言うのが有ります。江ノ島道の一部で、その先が手広の切通しとなります。
その切通しは、現在歩くと舗装され車がすれ違える幅があり、周囲は小学校や老人施設があります。
その際にカフェがあり、コーヒーを飲みながら店の人と話をすると、この道は昔荷車が一台やっと通れる道であったそうな!!
鎌倉の行政で、この切通しの片側を切り崩し道幅を広げたそうです。
話を聞き、私はとても残念に思いました。
でも、
良く考えると、、、一度通った事に気付きました。
30年以上前にバイクでネズミ捕りに出会い、停止の指示をしている警官の脇をすり抜け小袋谷山ノ内川の水堰橋(源頼朝の軍が、鎌倉に出入りする時は、ここで隊列を整え市内に入った)から脇道に入り、. トンネルの様な場所を通り異次元の世界にタイムスリップした感じを味わい深沢に出た。数年後その道を確認したいと試みたがあのトンネルの様な場所が無い!! あれは、夢であったのか???
それから数十年経ち、この時期が、行政で道幅を広げた後であったのか~!と解決できた。
道を知らずに、江ノ島道を走っていた訳です。
それにしても、、歴史があり、時代を感じ、情緒がある道を切り崩して、、なんと言う行政か???
切通し際のカフェには、文化的価値のある場所であるから「喫茶店は建てるな!」
と言ったとか、、行政で景観を壊しておきながら、市民は不許可?結局は許可になった訳ですが、、
北大路魯山人はこの切通しが気に入り、李香蘭やイサム・ノグチがほれ込んでこの地に住んだ切通しだそうです。
世界文化遺産に登録しようなんて、片腹痛い! とぼ輔は思うのです。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 9

2009年10月06日 | 忘れ去られた鎌倉
「手広切通し編8」の場所から、振り返った写真です。
私道ではなく、これでも昔は江ノ島道と呼ばれた道です。
雪でも降ったら、路面が斜めで、、、キット下に転げ落ちる!

とても自然を感じると思いますが、、、、
決して、放置された自然ではなく住民が小まめに手入れした自然です。
放置された自然は、人の侵入を拒みます。
日帰りの山行き程度の装備では、茨が絡み、藪漕ぎでダニのお土産が付いてくる。
ハイキング気分では、先ずは入り込む気にはなれないでしょう。
この様に人を受け入れる自然は人の手が加わった場所です。
現在の鎌倉は、自然保護の名の下に木は生え放題!
それも、自然に生えた樹木ではなく、戦後植林によって植えられた樹木が半数を占める。
最悪の例は、
40年前の源氏山は見晴らしの良い鎌倉の町を見渡せる山で、その景観が源氏山公園の価値でもありました。
現在は、樹木が生え過ぎて、、、公園は緑の壁となり景観見る事はできない。
大きくなった樹木は根を張り鎌倉の砂岩に食い込み破壊が始まっている。
古来より鎌倉の様な里山の樹木は、住民の燃料として使われ、適度に伐採され、
人の生活と自然が調和していたのですが、、、
歪んだ自然の過保護の結果です。
政治が悪いのか?住民の自然保護団体が悪いのか??
部外者には判りません!
住民にも政治にもポリシー(歴史遺産を守る為の長期戦略)があるとも思えない。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 8

2009年10月02日 | 忘れ去られた鎌倉
本当にノドカナ、、、田舎の風景です。
田舎にだって、こんな踏み跡みたいな道は、、ザラニあるもんではない。
その後ろには、歴史に裏付けされた古道があります。(画面中央の踏み跡道も街道ですが、、)
鎌倉の奥の深さですね。
あの、、桐生六郎が武蔵大路より、梶原氏の案内で腰越に向かいこの道を通ったであろう、、800年前から在ったと考えられる道です。
地形から言って、大船から腰越に抜けるにはこの場所以外に良い抜け道はないのです。
大仏から鎌倉に行けば、洒落たカフェがあるし、腰越に行けば、海を見ながらフライドチキンや、イタ飯がある!金を掛けなくても、上質な楽しみ方ができます。


2012/9/20 追記
注:『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条
養和元年(1181)九月十六日:桐生の六郎俊綱が首を持参す。先ず武蔵大路より、使者を梶原平三が許に立て、案内を申す。而るに鎌倉中に入れられず。直に深澤を経て、腰越に向かうべきの旨これを仰せらる。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 7

2009年09月29日 | 忘れ去られた鎌倉
緑のトンネルを抜けると、そこは日溜まりの農村!!
これでも、一応鎌倉の紹介です。
女坂とは名ばかりの急で長い坂です。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 6

2009年09月26日 | 忘れ去られた鎌倉
写真は、女坂中程(写真左)から峠(同右)までの状況です。
特異なのは大半の切通しが 峠の最高部を切通しにしていますが、、
この女坂は、麓である下部が切通しで峠は普通の山道的で手を加えてない。
麓の通過しにくい場所を切通したと考えられる。

 女坂の手広側を陰とすれば、次回は峠を越えると陽の感覚を味わえる腰越側です。
鎌倉の谷戸が面白い! 
次回の場所の様に時代から隔離された別天地であったり、個人の趣向が色濃く反映された以前は武家屋敷跡と考えられる著名人の住む谷戸とか、、
通常の都会の整備され区画された街とは異質な 画一的ではない世界が見られる魅力です。
観光客の目に触れない生活を守れる構造が谷戸にある。
さて、
谷戸の話のついでに、、、谷戸の奥に決まってあるのが崖です。
其処に家を建てた住民が作った崖でしょうか?
そんな事もありますが、、、大半は昔から有った崖!!
何の為の崖でしょうか??
鎌倉市外に向けては、鎌倉城としての、城壁に相当する崖と考えるのです。
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