選抜出場32校に懐かしい顔ぶれが揃った。
彦根東の56年ぶり、大分上野丘の60年ぶりは懐かしさを通り越して「その事実を知らない世界」。小生がその戦いぶりを見たことがある懐かしき高校を紹介。
習志野高校(千葉)33年ぶり3回目
昭和42年(taira小5)夏の甲子園、石井投手を擁した習志野は決勝で好投手・宇根の広陵を7-1で下し、初優勝。準決勝の中京戦、4つの牽制アウトを奪った石井の冷静なプレーに痺れた!
その石井は監督として母校を率い、昭和50年夏2度目の優勝を果たす!当時のエース・小川淳司(後ヤクルト)は中央大に進学後4番打者に転向し、taira大学4年の時、岡田彰布(阪神)の早大を下して大学日本一に輝く。チームメイトには高木豊(大洋)、後に巨人に入団したエースの香坂がいた。
石井投手のことを姉が「かっわいい」って言っていたのを思い出しました(笑)。
箕島高校(和歌山)18年ぶり9回目
なんたって昭和43年(taira小6)の選抜ベスト4投手・東尾修がいた頃から知っている箕島高校。あの肩や足の部分にラインが入ったユニフォームが懐かしい(変わっていなければ良いが・・・)。
昭和54年夏:箕島vs星稜の延長18回の死闘はあまりにも有名 ⇒ 熱球スタジアム 石井・嶋田のバッテリーの名前が懐かしい。
昭和61年には招待試合(岩手県営球場)で盛岡一高が対戦している ⇒ 白堊野球:白堊球史
倉敷工(岡山)34年ぶり10回目
「逆転の報徳」の由来は、昭和36年夏(taira5才)1回戦:倉敷工vs報徳学園が源。0―0で迎えた延長11回表倉敷工が一挙6点を挙げると、その裏報徳学園が2点を返し、万事休すと思われた二死からさらに4点をもぎ取り同点!そして、12回裏報徳学園が奇跡のサヨナラ勝利!! ⇒ 名勝負を振り返る
実は 「実際テレビで見た」 と思っていたのだが、5才ということは見てはいないんだろう・・・きっと。親父から何度も何度もこの試合のことは聞かされた記憶があるので、自分の体験と勘違いした模様。いずれ、勘違いでもそうでなくても倉敷工業は好きなチームには間違いない。
興南高校(沖縄)26年ぶり3回目
26年ぶりということは、「あの時」以来ではなさそうだ(笑)。
「あの時」 とは、盛岡一高関係者なら誰でも知っている我校が8回目の甲子園に出場した 昭和43年(taira小6)夏準々決勝:盛岡一vs興南。
わが校4-10で敗退 ⇒ 昭和43年白堊野球物語
あの夏があったから俺は一高に入った
高校野球、白堊バガに歴史あり
彦根東の56年ぶり、大分上野丘の60年ぶりは懐かしさを通り越して「その事実を知らない世界」。小生がその戦いぶりを見たことがある懐かしき高校を紹介。
習志野高校(千葉)33年ぶり3回目
昭和42年(taira小5)夏の甲子園、石井投手を擁した習志野は決勝で好投手・宇根の広陵を7-1で下し、初優勝。準決勝の中京戦、4つの牽制アウトを奪った石井の冷静なプレーに痺れた!
その石井は監督として母校を率い、昭和50年夏2度目の優勝を果たす!当時のエース・小川淳司(後ヤクルト)は中央大に進学後4番打者に転向し、taira大学4年の時、岡田彰布(阪神)の早大を下して大学日本一に輝く。チームメイトには高木豊(大洋)、後に巨人に入団したエースの香坂がいた。
石井投手のことを姉が「かっわいい」って言っていたのを思い出しました(笑)。
箕島高校(和歌山)18年ぶり9回目
なんたって昭和43年(taira小6)の選抜ベスト4投手・東尾修がいた頃から知っている箕島高校。あの肩や足の部分にラインが入ったユニフォームが懐かしい(変わっていなければ良いが・・・)。
昭和54年夏:箕島vs星稜の延長18回の死闘はあまりにも有名 ⇒ 熱球スタジアム 石井・嶋田のバッテリーの名前が懐かしい。
昭和61年には招待試合(岩手県営球場)で盛岡一高が対戦している ⇒ 白堊野球:白堊球史
倉敷工(岡山)34年ぶり10回目
「逆転の報徳」の由来は、昭和36年夏(taira5才)1回戦:倉敷工vs報徳学園が源。0―0で迎えた延長11回表倉敷工が一挙6点を挙げると、その裏報徳学園が2点を返し、万事休すと思われた二死からさらに4点をもぎ取り同点!そして、12回裏報徳学園が奇跡のサヨナラ勝利!! ⇒ 名勝負を振り返る
実は 「実際テレビで見た」 と思っていたのだが、5才ということは見てはいないんだろう・・・きっと。親父から何度も何度もこの試合のことは聞かされた記憶があるので、自分の体験と勘違いした模様。いずれ、勘違いでもそうでなくても倉敷工業は好きなチームには間違いない。
興南高校(沖縄)26年ぶり3回目
26年ぶりということは、「あの時」以来ではなさそうだ(笑)。
「あの時」 とは、盛岡一高関係者なら誰でも知っている我校が8回目の甲子園に出場した 昭和43年(taira小6)夏準々決勝:盛岡一vs興南。
わが校4-10で敗退 ⇒ 昭和43年白堊野球物語
あの夏があったから俺は一高に入った
高校野球、白堊バガに歴史あり
選抜の代表校が決まり、岡山県代表に34年ぶりに倉敷工が選ばれました。34年前の選抜は、高知が決勝で延長の末、東海大相模を下して優勝した大会でした。高知の主砲は杉村(元ヤクルト)、東海大相模は3番原(現巨人監督)、4番津末(元日ハム-巨人)のスター軍団でした。
その東海大相模と2回戦を戦い「0-1」で敗れたのが、倉敷工でした。相模は、準々決勝でも、豊見城の赤嶺(元巨人)に9回2死まで抑え込まれ、万事休すと思われましたが、そこからひっくり返しました。印象に残る試合の多い大会だったのです。
豊見城に初戦で完敗したのが、夏を制した習志野だったのも、運命的だったと思います。
でも、私が最も記憶に残っているのは、開幕戦の『倉敷工-中京(現中京大中京)』の試合と2回戦の『倉敷工-東海大相模』の試合です。開幕戦のスコアは「16-15」。確か倉敷工が途中まで「13-2」と大量リードを奪っていたのに、8回裏を終わった時には「15-15」。9回表に1点勝ち越した倉敷工が逃げ切りましたが、球史に残るノーガードの撃ち合いでした。倉敷工のエースは、兼光(元近鉄)、右スリークオーター(と言うより、ほぼサイドハンド)の剛球投手でしたが、中京戦は高熱をおしての登板で精細を欠きました。
その兼光は、2回戦の相模戦では、まるで別人の快投を演じます。原,津末ら中軸を完璧に抑え込みましたが、8番の投手・村中に決勝点を奪われます。最終回、2アウトランナーなしの場面で打席は、4番兼光。右中間を破る三塁打を放ちます。5番大本死球で一三塁、打席に主将大倉が入ります。しかし、大倉は、村中の変幻自在の変化球に敢えなく三振。打席で項垂れる主将の肩を笑顔で抱き抱える兼光の姿が印象的な幕切れでした。
あっ、すみません。つい懐かしくて、何の脈絡もなく、書き綴ってしまいました。でも、倉敷工は、私の本当に好きなチームなのです。甲子園に出る度に何かやらかしてしまう、憎めないところも魅力の一つです。
ところで、私は最近岡山スポーツを勝手に応援するブログをやはり勝手に立ち上げました。お邪魔でなければ、お立ち寄り下さい。
長々と失礼致しました。ご容赦下さい。
他にも、慶応、高崎商、前橋商、早実、富山商、中京大中京、掛川西、天理、PL、報徳、南陽工、西条、今治西など往年の伝統校が揃いました。昔に帰った感じがする選抜です。
初めまして。
ブログ「おじさんのスポーツおたく奮戦記?」拝見しました。小生と共通する空気を感じ、楽しく、感心しつつ、情報を仕入れつつ、ウキウキしながら拝読させていただきました。岡山スポーツに掛ける情熱に乾杯!(笑)
さて、岡山と言えば、小生が高校野球を見始めた時(小3)の昭和40年選抜優勝校が剃刀シュートの大エース平松を擁する岡山東商業でした。鮮明に覚えています。ちなみに夏は、巨人・原辰徳監督の親父さん(原貢氏)が監督の三池工が初出場初優勝!準優勝はロッテで活躍した木樽がエースだった銚子商業でした。
また、2007年、グルージャ盛岡が全国地域サッカー全国決勝大会で対戦したのがファジアーノ岡山でした。
そして、今年の都道府県男子対抗駅伝で岡山の次に44位でゴールしたのが岩手でした(涙)。
いろいろ因縁のある岡山、岩手の両県です。これからもお互いに応援がんばりばしょう!これからもよろしくお願いいたします。
あの時の監督だった向井正剛さん(前仙台大学長)は、家も近いので時々お見かけします。
そうそう、岩手と言えば、一昨年の高校サッカーの決勝でしたね。お互い県勢初の全国制覇を争いましたが、作陽は盛岡商に逆転で敗れました。
その作陽の野村監督は現在、別府でキャンプ中のファジアーノ岡山の臨時コーチに招聘されています。
これからも、色々なスポーツの場面でお会いするでしょうね。
よろしくお願い致します。
33年前は、0-7と大社にリードされた試合をひっくり返して勝利した時ですね。前年夏の全国優勝時に続く連続出場でした。
箕島:
18年前の春出場以来の甲子園出場です。懐かしいですね。
倉敷工:
春は久しぶりですが、夏は平成になっても2度出場。昨夏は倉敷商も出場しており、伝統校復活の岡山の印象です。
興南:
26年前は、あの仲田幸-仲田秀バッテリーを中心とした強力チーム。甲子園でわが校に勝って「興南旋風」を巻き起こしたあとの沖縄における興南時代の頃ですね。
興南といい、報徳といい、我が校が今年の選抜に出場したら借りを返す絶好のチャンスでした。
夏こそ再戦!
>だいちゃんさん、
S54生まれですかぁ。私はあの年は2年連続の甲子園出場ならず、来年こそはと思って試合を見てたのです。県の優勝候補最右翼は西武に進んだ左腕田鎖投手を擁する盛岡工でしたが、対照的な超スローボールの北田投手の久慈高校が甲子園初出場しました。
>issanさん、
管理人・平舘さんとともに母校を応援している根子(ねこ)と申します。
ものすごい記憶力。恐れ入ります。見ていない試合も思い出すかのような感覚になりました。やっぱり、記憶に残る試合はあらためて素晴らしいものだったと思います。
こんばんはうちの父は盛岡工業出身です。(父親自慢になるかもしれませんが・・ラグビー部OBです)なので田鎖投手の話も聞いた事あります。大成はしなかったものの、凄い期待をされて西武に入団したそうですね。今は岩手に帰ってクラブチームで野球をやっているとか・・。 その数年後同校OBで後に盛岡中央も率いて甲子園初出場させ、「赤べこ」の創設に参加した村松監督で盛岡工業が甲子園に出場した時は父や同じ高校出身の伯父さんで応援に繰り出したそうですが・・その時の事もあり未だに父は報徳が気になるみたいです。(今年度はそれこそラグビー部が報徳に敗れてしまいましたが・・)
はじめまして。何故か遥かな岡山からお邪魔しております。
そう言えば、大変失礼致しました。盛岡一高は、岩手県の21世紀枠推薦校ではなかったですかねぇ?。県下屈指の進学校で、野球でも伝統校、まさに文武両道の模範ともなるべき名門校ですよね。
何とも羨ましい。私なんぞ、勉強出来ない、野球は弱い、運動部で目立つのは、剣道部とフェンシング部だけという地味~な学校だったもので…!。
今は、野球のシーズンオフなので、私のブログは、サッカー(これも代表以外はオフだろうが?)やバレーボール(Vリーグ真っ最中)、駅伝(実は私は、某女子陸上部を持っている百貨店の関連会社に勤めてます。そう3大会連続でオリンピックマラソン代表を輩出したピンクのユニフォームのチームです)などが中心なのですが、選抜代表も決まりましたから、ぼつぼつ野球ネタを入れようと思っています。
今後ともよろしくお願い致します。
そうなんです。野球は報徳にはS53.56と連敗中です。私は今でも報徳の勝利の校歌は聞きたくないのでチャンネルかえます(昨夏の在住経験のある新潟の県央工の応援していたのに底力を見せられました)でも嫌いではないんですよ。一高甲子園出場時4番塚原さんは法大で報徳のエース手嶋投手と同期になったり、縁ってあるんですよ。西武にかつてのライバル同士が集ったのも。
今期の盛岡工のラグビーは対報徳史上初の敗戦でした。名門も復活を願っています。私の中学の同級生は主将やってあのV7の新日鐵釜石でフッカーやって国際マッチにも出場しました。
野球もラグビーも報徳に雪辱しましょう。
>issanさん、
ご丁寧なる返信ありがとうございます。
管理人の平舘さん同様、野球の応援がしたくて高校に入ったような者です。当時は今以上に野球部員も生徒も全員が甲子園を目指していました。そんな学校でした。
岩手のサッカーは岡山と相性がいいのか、遠野も水島工、作陽にも勝利してました。サッカーはよく勝つのに野球は厳しいのです。なお会社の後輩の自宅が岡山にあり、情報は入りますよ。ちなみに私は現在仙台在住ですので、宮城情報もOKです。issanさんのブログも拝読しています。こちらこそよろしくお願いします。
ちょっと、話が地元贔屓になりますがお許し下さい。
あの『報徳vs倉工』の逆転の裏にあった友情物語を元監督の小澤さんが語っていたのをテレビで見たことがあります。
小澤さん曰く、
『あのチームは森脇のチームだった。良くも悪くも森脇が運命を握っていた。あの試合、甘いと言われるだろうが、最後を森脇に託したかったのだ。』
11回表、先制の2ベースを放った松本は、ベンチの小澤監督を見て、両手を合わせて拝むようなポーズをとったそうです。「森脇を投げさせて下さい」とすぐに分かった小澤監督は頷くしかなかったと語っています。森脇に怪我を負わせたのは松本でしたから。そして誰よりも責任を感じていたのも松本でした。「森脇を甲子園で投げさせるんだ」とナインがまとまり、苦境を跳ね返して掴んだ甲子園でした。それは、松本の為でもあったのです。
11回の裏、2点を返されたとは言え、既に2アウト。この場面で、小澤監督に『親心』が出たのです。松本と森脇の友情に応えたい。
しかし、40日以上も病院のベッドの上にいた森脇に1アウトをとる力はありませんでした。ピンチを招いて再びマウンドに上がった2年生永山に相手に傾いてしまった流れを止めることはできませんでした。
これが、あの『逆転の報徳』の裏にあった物語です。かいつまんでますので、よく分からないかも知れません。ご容赦下さい。
尚、あの試合を観た飛田穂洲氏は『血を吐くような試合』と評しました。
また、後に報徳を率いて49年選抜を制した福島敦彦氏は『神様が囁いた試合やねぇ』と表現しました。
小澤さんの親心も森脇と松本の友情も超越した、希有な偶然の重なった試合でもありました。
※資料提供「高校野球事件史」(ベースボールマガジン社)より、一部引用しました。小澤監督談話は私の記憶によりますので、正確さの保証はありません。
岡山県勢はその後も甲子園で兵庫県勢と数多く戦いましたが、勝ったり負けたりを繰り返していた中で、不思議に報徳学園には殆んど負けていないのです。ただの偶然でしょうけれど…。
すみません。大変失礼致しました。