真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

W3  手塚先生の校閲

2006年07月31日 17時07分50秒 | 虫プロW3
アニメ関係者が手塚先生との打ち合わせで、母屋の仕事場へ先生に行くのは、何日も泊りがけで待機している雑誌編集者が殺気がった目でにらみつけるので、大袈裟に言えば、命がけであった、会う約束をしていて、その時間に行っても、会うのは不可能で、必ず何時間も待たなければならなかった。  母屋の仕事部屋は、玄関を入ると大きな下駄箱があり、そこでスリッパに履き替える。左のドアが漫画部の仕事場であるが、秘書に来ている事を伝え、直接入るのは控えていた。左のドアに部屋があり、雑誌の編集者の待合室になっていた。部屋は8畳ぐらいの部屋で、押入れがあり,そこには、寝具が備えついていた。各社の編集者の「手塚番」と言われる、猛者たちが、すきさえあれば先に自分の原稿を入れようと、お互いの動向に鎬(しにぎ)を削っていた。秘書に来ていることを伝えても、必ず「少し待っていて」と言う答えが返ってきた。そこで待合部屋で待つわけだがなにより、殺気立った編集者たちの目線に耐えなければならなかった事がつらかった。朝から待っても夜遅くになるのは毎回のことであった。うっかり食事などで席をはずしたりすれば、順番がとばされるので、待っている間は、飲まず食わずになってしまう。そう言う意味で「命がけ」であった。やっと時間がとれて、シナリオライターとの打ち合わせとなるが、次から次へとストーリーが口から出てくる。時には細かい演技のことまで矢継ぎ早に話す。そして待っていた時間に比べると、打ち合わせはあっという間に終了。 そこから初めてシナリオライターの仕事が始まった、約25分の話にまとめるのが大変で、なれると、原稿用紙の枚数で、その分数にまとめることが出来た。  シナリオが上がると、こんどは手塚先生の校閲がありました、こんどもまたまた何時間も待たなければならず、雑誌の締切日になど重なると、何日にも及ぶことも多々ありました。やっと校閲にありついても、書き直しが出て、また校閲を受けるために待たなくてはならず、スケジュールを取られてしまいました。  シナリオが校閲が済むと演出家が絵コンテを書きましたが、この頃は絵コンテ専門の人がいるシステムがまだ無く、進行から演出家になった、絵がかけない人がどんな苦労をしたか、仕事の合間に絵の勉強をどんなにしていたか、想像してほしいがわからないでしょうね。 絵コンテも手塚先生の校閲がありました。というより絵コンテのほうが熱が入っておりました。リテークと言いますが、やり直しが、何べんもでます。1回でOKになることはほとんど無かったです。 予断ですが高校のときにそろばんと簿記の試験が受からないと卒業させないという噂が立ちました。そろばん塾へ通い、簿記も必死に勉強してなんとか3級を取りました。進行でそのことが役に立ったのでした24コマで1秒右の桁を、24進にして。60秒が1分だから、次の位を60進にして計算する。 今まで進行さんは暗算でメモしながら秒数計算をして何時間もかっていた。アオサンが暎一さんとの時に計算を間違えて、余分に作画をさせてしまったという伝説が残っている。わたしはそろばんを使って、数分で計算を終わらせることができた、間違えは無かったが念のため3度やっていた、必ずあっていたので、演出家たちに信頼された。その計算方法を制作事務の女性に教え、みんなが苦痛におもっていた秒数計算が改善されました。  絵コンテが上がると 演出家が各パートと打ち合わせをするのでありますが、ワンダースリーでは、打ち合わせ時間を手塚先生に連絡しておかなければなりませんでした。 忍者のように抜け出してきた手塚先生が、打ち合わせに立会うと、「ぼくがやります」といって、何カット分かの、作画を持って行きますと、悲劇が始まり、スケジュールを守って上がるわけが無く、進行やスタッフが死ぬ思いをすることになってしまいます。  それでも、手塚先生のうれしそうな、その姿を見ると、誰も文句を言えず、やっと上がってきた動画は、見せて、見せて、と作画班のものたちの取り合いになりました。手塚先生が上げる動画はそれほど素晴らしかったからでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする