津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

号鐘は残った

2012-11-10 | 東京湾汽船
今年は3回、芸予諸島に旅をした。最初はGW。「しまなみ海道」の島々を巡ってから四国北岸を歩いた。この
時、3.25に観音崎で見送った「羊蹄丸」に新居浜東港で再会した。





2回目は8月、芸予諸島西半分を目指した。自宅から9時間の走行で竹原港着。新東名の開通により体力の消耗
は軽減された。いつもの撮影ポイントに立ち、朝一番の入港船から狙い始めた。



「あさぎり」 契島運輸 32.41G/T, 1980.06, 石原造船所(高砂) 
目の前に浮かぶ契島は魅力的に映る。島旅好きの飲み友達に、契島出身の女性がいる。不思議な縁に驚いたが、
彼女は従姉妹の友人だった。契島と群馬の接点は東邦亜鉛。父親は同社社員さんと云うから、契島出身も肯ける。
大崎上島には「ないすおおさき」で渡った。2012.05.31現在人口8,342人のこの町は、瀬戸内海の架橋されない
島の内、小豆島に次ぐ人口・面積を擁する。島外との交通を船便に頼り、島の四方にカーフェリーの発着する港がある。
ここは海運・造船の島でもある。



「さざなみ」 大崎上島町 64G/T, 1987.03, 松浦鉄工造船所
時刻表を確認しつつ、各港を回って入港船を迎える。山越え道もバイクは機動力を発揮してくれた。撮影の合間
に「海と島の歴史資料館」に立ち寄った。廻船問屋を営んだ望月家のことや、ここに広島商船高等専門学校の
立地する理由等を知った。展示を見終え、文献を見ていた時「葵丸」の船名が目に飛び込んできた。この島に
「葵丸」の号鐘が残っているという。文献を執筆されたのは郷土史研究家の金原兼雄さん。何故、葵丸の号鐘
が‥?と疑問は膨らむも、船便の時間は迫り、後ろ髪引かれる思いで大崎上島を後にした。

帰宅してから思うは「葵丸」の号鐘のこと。金原さんをはじめ、島の方に情報をいただき、満を持して東名道
に乗った。大崎上島に平日を充てるため、先ずは土曜日に松山周辺、日曜日は八幡浜を歩いた。



「あいほく」 新喜峰/機構共有 57G/T, 1999.12, 藤原造船所



「あかつき2」(左)と「さくら」 宇和島運輸

松山から呉へ「石手川」に乗船した。警固屋の街はお祭りで賑わい、黒い面の鬼が氏子さんを追っていた。大
崎上島には、安芸津から「第十五やえしま」に乗船。号鐘の保存されている「西野公民館」の開館時刻を待ち、
念願の対面を果たした。



号鐘は公民館の玄関ホールに吊され、表面に「葵丸 昭和八年四月」と彫られていた。法定備品の号鐘に、必ず
しも船名は彫られているわけでないと、エントランスに歴代所有船の号鐘を飾っている会社の方から伺ったことがあ
る。小型船の場合、保存に際して彫ることもあったとか。事故で全損となったことを考えると、この銘は三菱
神戸により、新造時に彫られたと見られる。
館内には、金原氏による解説パネルも展示されていた。解説によると、鐘は2008(H20)廃校となった西野小学校
の教員室に吊られ、かつては始業の鐘として使用されたという。廃校にあたり鐘を取外したところ、彫られた
船名に気付き、同校卒業生の金原氏により由来調査が行われた。
お礼のお電話をしたところ、金原氏は面会に駆けつけて下さった。大崎上島出身の東京湾汽船乗組員もいたこ
とから、その一人が携えて来たのではないか‥とお聞かせ下さった。嬉しい出会いとなった。





「葵丸」は神戸の三菱造船所で1933(S8).04.12進水、6.08竣工した。この船の完成を以て、1928(S3)策定の「第1
期再建拡張計画」は完成した。遊歩甲板前部に大きな社交室が設けられ、社史は「船全体が家族的に楽しめる
ような設計で極めて画期的な構造」と記している。1939(S14).12.07 AM4:00頃、濃霧の中、大島泉の浜海岸に座
礁し全損に帰した。当初、離礁可能と見られた節のあることから、天候は急変したのか。



夏にも訪れた「この船」は、まだ、係留されていた。予定していなかったものの、時間を調整し、再訪してしま
った。着いたのは日没の間際。防波堤に腰掛け、しばし船影を眺める。公募で決まった船名や、青地に二引きの
煙突マークを眺めるたび、胸が痛む。小笠原航路用として建造されたにもかかわらず、父島二見港はもとより、東京
港への入港さえも叶わなかった船。このような哀しい船は、二度と生まれて欲しくない。夕暮れの海にカラスの群が
舞っていた。

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