津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

荻浜にて

2012-11-07 | 旅行
「荻浜にこんな風景はないでしょうか。」
先掲の「高砂丸」と思しき写真を、山田迪生氏のお目にかけた折、氏はこう質問された。正直なところ、船
名特定にばかり思いは集中していた。左手に見える島の姿は満珠に似ているな‥と考えはしたものの、
撮影地特定は困難と、最初から諦めていた。





写真には、船以外の人工物は見えない。詳細に確認すると、本船タラップは下り、和船が接舷し、舷門荷
役をしているように見える。荒天時の避泊ではないようだ。船影を「高砂丸」とした場合、このような風景の
入江において、錨泊したした可能性のある所は何処なのか。
日本郵船による神戸~函館航路の、東北地方唯一の寄港地は「荻浜」だった。彼の地を訪れた際、ここ
に物資集散の賑わいがあったとは、とても見えない‥と考えながら撮影したことを思い出した。



帰宅して、2009(H21).06.27に撮影した写真を確認したところ、古写真と同じ風景が写っていた。船影を
捉えた古写真は、110年以上も前、荻浜で撮られたに相違ない。山田氏の洞察の鋭さに驚かされた。
船名(漢字やアルファベット)の輪郭や文字数、『郵船50年史』の絵画に一致する特徴、寄港地としての荻浜
から、船影は「高砂丸」と特定して良かろう。
地図を見たところ、左手の島は「柱島」とあった。私が撮影した足場は、少し西にずれている。同一撮影
地点に立つと、細長い柱島はどう見えるのか。
「荻浜」は、河口港「石巻」の外港として使用された。しかし、ここにも陸上設備はあったのではなかろうか。
推測に過ぎないものの、撮影場所の周辺に、船着場や事務所・倉庫等はあったように思えてならない。こ
れは出掛けるしかない。
現地でのフットワークを考えると、やはりバイクになる。晩秋の東北道を夜行するのは無謀過ぎ、昼行日帰りとし
た。しかし、決行当日は冷え込み、革で固めても早朝の走行は厳しかった。約5時間で石巻入りし、渡波か
ら「金華山道路」を荻浜へ向かった。
東日本大震災以降、荻浜へは来ていなかった。2009(H21)に撮影した場所は、漁港の中心部あたりだった
ように思うが、何も無くなっている。何度か行きつ戻りつし、古写真の撮られた場所に降り立った。柱島の
姿から特定したその場所は、山の迫り出した小さな岬の先端にあたり、手前に空地が広がっていた。細長
い柱島は、ここから見ると断面?を見ることになり、往時と変わらぬ姿になった。



「高砂丸」は、予想以上、湾奥に錨泊していたと判った。撮影場所手前の埋立地(空地)は、震災前は漁
業関連施設のようだ。空中写真からは、斜路跡のようにも見える。いずれ、地形図から海岸線の変遷を探っ
てみたい。
『近代日本海運生成史料』P100に記載の「荻ノ浜埋立の件」はここなのか。同書によると、1884(M17)に
「高砂丸」は上海航路2航海、神戸~函館航路19航海、就航している。
撮影当時の様子をありのまま伝え、視覚に訴える写真史料は、何物にも代え難い。これまでにも、数点の
史料を博物館等にお贈りし、喜んでいただいている。この「高砂丸」の写真史料も、個人死蔵するのでは
なく、我が国海運史を概観する際に、活用される史料となれば嬉しい。震災など無かったかのように、午
後の陽を受けて輝く穏やかな荻浜の入江を前にして、そんなことを考えた。

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