マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

パルティア日本法人

2009-01-30 09:51:54 | 古代史

昨日は鮮卑、拓跋族の研究成果を発表しました。本日は現在のイラン近辺にあり、その後消滅したパルティアのことについて少し発表します。

このパルティアは中国表記では安息国と呼ばれ、漢時代には遼東方面に移住したといわれている。さて、この安息氏と思われる人物が登場するのは好太王のときである。

『梁書』高句麗伝

 396年、慕容垂が死に、子の宝が立つ。句驪王の安を平州牧に任じ、遼東と帯方の二國王に封じた。安は、司馬、参軍官を置いた。その後、遼東郡を略取した

詳しくは略すが、このとき高句麗は鮮卑、慕容氏の傀儡であった。この安氏こそスキタイ王なのである。中国史にも登場する安羅国とは、この安息氏の国に違いない。慕容氏は高句麗王に安羅王を指名し、広開土王とも言われるが、倭、百済、新羅の攻撃を防ぎ、高句麗最盛期を築き上げた。私の想像では、彼は応神天皇として九州へ攻め入り、宇佐で秦氏と同盟する。その後、近畿地方まで攻め入り、飛鳥に本拠を構えた。そのとき移住した王族が後の王仁(わに)一族であろう。飛鳥は安氏の住むところで「あすか」である。彼等の東征が神武東征の実態と考えている。

その当時、近畿地方を占有していたのが海部一族、即ち敦賀から上陸し、伊勢王国を作っていた一族で、やはり安羅国から来た古代イスラエル部族であった。彼等は応神天皇と同族だ、つまり、ニギハヤヒなのである。応神天皇は奈良に入り、ニギハヤヒの末裔、ウマシマジと対面する。ウマシマジは屈服し政権を譲る。ウマシマジは伊勢の斎宮に王朝を構え、応神と協調路線をとる。このとき逃亡したナガスネヒコが青森に逃げたという説もある。私見では、猿田彦はナガスネ彦ではないだろうかと思っている。

彼等は旧支配者の一員として、天武朝後も生き残り、その姫が安宿姫、藤原光明子である。つまり、藤原仲麻呂家は鮮卑、慕容氏系のスキタイ族であった。

唐の時代、やはり安息氏系の一族が唐に反乱を起こす。これが安禄山の乱という。これに呼応する形で、渤海は日本と示しあい、新羅を挟み撃ちにしようと試みる。このときすでに光明子は亡く、吉備氏、弓削氏らにより仲麻呂は亡ぼされ、鮮卑、慕容氏は日本での地位を失ったと考えられる。これ以後、日本と渤海の関係は文化的な方面に限定され、軍事的な同盟関係は失われた。つまり、これから推察するに、渤海の支配層は鮮卑、慕容氏と考えてもよいのではないだろうか。もちろんまだまだ確定するべきではないが。

このように、安羅国は相当大きな勢力を持っていたと考えられるが、韓国の歴史書では相当矮小化されており、到底納得できない。おそらく通常の歴史解説書における百済国がそれに相当すると考えても間違いはないと思っている。なぜなら百済王といわれる武寧王の古墳はスキタイ形式であるし、南部方面には前方後円墳が多く見られる。いずれこのあたりも解明しなければならない。