マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

元と源は同源?

2009-01-29 09:02:28 | 古代史

私の研究テーマは多い。ひとつに絞らず、いろいろな方面から仮説を証明してゆくことが求められている。そのなかでも、ジンギスカンが義経であるという証明は非常に困難である。

なぜなら、関係するすべての人たち、つまり、ジンギスカン本人ですら、その出自を隠そうとしていたからだ。しかし、日本人の武将がたまたま満州へ渡り、偶然大活躍をして、大モンゴル帝国を築いたと考えるのは漫画でしかあり得ない。それには奥州藤原三代が、なぜあれほど繁栄していたのか。そして、なぜ金を多く保有していたのか。どうして藤原の姓を名乗る事ができたのか、などを検討しなければならない。

昨日述べた中に、藤原氏は鮮卑族ではないだろうかという仮説を提示した。鮮卑だとすれば、北魏、渤海などのころ、アムール河を下り、ハバロフスクからサハリン経由で青森までたどり着くことは、韓半島から対馬を経由するより、はるかに安全で早く到着できたであろう。

つまり、古代において、大陸と列島のメインルートはこちらであった。これは栗本氏の特に強調しているところである。

北魏の王家、拓跋氏は自分の身内を貴族とし、他の鮮卑族と区別するため元氏を名乗った。これは拓跋氏が中華思想に染まってきた証拠に他ならない。ここで重要な事がわかった。その拓跋氏の所へ、禿髪(とくはつ)氏が河西王国がつぶれたために逃げ込んできた。もともと同族であった北魏の王は彼等を歓迎し、「源」と名乗ることを許した。王、大武帝は彼に「そちたちは、朕と源を同じくする。事に因りて姓を分かつ。今は源氏と為すべし。」と述べたという。つまり、元と源は同族としたのだ。

源頼朝は伊豆に流され、平家に監視されていた時、北条家は彼を貴種だと認めたからこそ危険を顧みず、自分の娘、北条正子を嫁にやったのだ。つまり、源頼朝は坂東武者達には貴種中の貴種だったのである。彼の父親は八幡太郎義家、その兄弟には高麗次郎義網、三男に新羅太郎義光というのがいる。その名前で出身地が判明するはずもない。つまり、韓半島を代表する家系なのである。

義経が頼朝の兄弟という証拠はどこにもない。頼朝がそれを認めただけの事である。歴史小説と歴史とは違う。ただ、頼朝は奥州から下ってきた義経を利用しようとしたに違いない。

ちょっと話がそれるが、義経がは鞍馬寺に預けられ、修行を積んだことはおそらく事実だろう。この鞍馬寺は天狗で有名だが、この天狗はいうまでもなく突厥の王、テングリ・カカンから来ている。つまり、鞍馬寺は突厥の在日大使館だったのだ。なぜ清盛がそこへ預けたのかは謎である。

北魏王家の血を引く若武者を、突厥のエージェントたる鞍馬天狗が教育し、日本を去るときに、突厥の身元保証書を発行し、さらに大金持ちの鮮卑王の家系、藤原氏がそれを裏書すれば、蒙古の地においてもそれは貴種であったはずだ。彼、義経は大陸の支配者に気に入られ、大モンゴル帝国の表の顔として指名され、君臨したのである。彼も大きな組織の傀儡だったのではないか、と言うのが私の解釈である。

以前にも述べたが、彼は日本において北条氏が源家を絶滅させたことを知っていた。きっとすぐにでも日本へ攻め入り、北条氏を亡ぼしたかったに違いない。その遺志を継いだのがフビライで、彼はおそらく北条氏の首を差し出せと要求したはずだ。びびった北条氏は、思わず使者を切り捨ててしまった。いくらなんでもこれでは戦争は避けられまい。困った北条氏は、傀儡である天皇家に泣きついた。元寇は神風が吹いたといわれるが、そうではあるまい。

元に命令された高麗には、同族の日本と戦う気がなかったのだろう。彼等、高麗軍は日本へ上陸すると全員が逃亡したと言われている。真実はいかに?

さて、義経の姓は源氏であり、見事大帝国を築いた時、その国の名を元とすることは、まことに当を得た事だったと言えまいか。どうです、姫?